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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第12回)

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巡礼の終わりに

○巡礼の終わりに

中国観音霊場の歴史は新しい。昭和56年(1981)7月開創。30年にも満たない。札所に指定されている寺も必ずしもその地方の最も有名とされる場所ではなかったりする。

しかし、中国5県の有名な観音霊場の多くを含んでいることは確かで、しかも中国地方の全域に広がっているので、ちょっと寄り道をしながら札所めぐりをすると、それだけで山陽山陰の観光旅行を兼ねられる。

順路はかなり長く西国観音霊場に匹敵する。日本で最も長い巡礼の部類に入るだろう。開設が新しいからどうか、そのため廻るには徒歩というより車を使うことを前提としているように思われる。

そんな札所を4年かけて廻った。意図的に少々の寄り道や道草をするようにしたが、主要観光地にはほとんど寄っていない。観光が主体ではないからだ。
観光地以外でも、札所の近くに興味のある場所がまだまだ沢山あったのだが、時間的な問題などで立ち寄ることが出来なかったのは少し心残りで残念だ。

見所も多く、それぞれに気の向いた場所で休憩がてら観光しながらの巡礼が可能だ。もっともっと廻る人がいてもいいように思われる。

また廻る機会があれば幸だ。

下山観音堂

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○下山観音堂 (平成19年7月8日)

大山寺本堂(だいせんじ)から石段を下って観音堂へ向かう。いよいよこの中国観音霊場めぐりの打ち止めというかお礼参りというか締めくくりとして廻っている大山寺探訪も終わる。
そして、それは本当に観音霊場巡礼の最後でもある。

観音堂は狐の狛犬が迎えてくれる。狛犬が置かれているのが神仏習合の名残をとどめている。狐だがお稲荷さんが併せて祀られていたわけではない。

大山寺観音堂、正確には下山観音堂(ともやま)と呼ぶ。
先に廻ってきた大神山神社(おおがみやま)の隣にあった下山神社と関係の深い観音堂で、下山神社が白狐を祀っていることから狐の狛犬がいると思われる。

下山神社の縁起のところにあったように、白狐が自分を祀るように告げた場所の土中から掘り出された観音菩薩を安置したのがこの観音堂の起こりとされる。それで下山観音堂とも呼ばれるのだ。
土中から出た観音菩薩が最初は下山神社に安置されていたのか、観音堂が初めからここにあったのかは確認できなかった。

ゆっくりと最後の般若心経をあげる。

既に御朱印は頂いているので、お勤めの後は参道石段を下って帰路につく。
順路からいえば逆になるが山門で志納金300円を納める。実は、入山料は登ってくる人から取るのが基本なので裏から大山寺本堂へ入って降りてくる場合、払わなくても通過できてしまう。
大山寺は往時は自治で独立していたし、明治以後はしばらく寺が途絶えたこともあって檀家というものを持たない。基本的には全てを寄付金でまかなわなければならないのだ。現在は伽藍がほとんどないと言っても、維持するにはそれなりの費用は必要なはずだ。それを考えると素通りする気になれなかった。それに観音様にも怒られそうだ。

しばらく前に上ってきた参道に戻ってきた。山門を後に少し降ると左手に霊宝閣(れいほうかく)という収蔵庫が見える。実は山門での入山料が入館料を兼ねている。見方を変えれば山門の入山料納志は宝物館の押し売りといえないこともない。
正直言って、今の大山寺本堂に入山料を払ってまで見るべきものはないし、この宝物館も観光客に訴えるようなものはほとんどないので、寄付金と考えないと入山料が高いと感じられてしまうだろう。

宝物館は単なるコンクリートの収蔵庫のような建物で霊宝閣というのは名前負けしている。それはともかく今回はここに絶対に入らなければならない。観音霊場としての大山寺のお礼参りに是非とも必要な場所なのだ。

中は一部屋で広くはない。じっくりと見てまわっている人は少なく、ほとんどさっさと一回りして出てゆく。期待はずれという顔つきの人が多い。展示物の中身を考えるとしょうがないだろう。
大山寺縁起絵巻でも残っていれば違うのだろうが。

それでも腰を据えて見学するとそれなりに興味深い展示もある。
まず、大山寺の本尊とされた大智明権現像(だいちみょうごんげん)。坐像と御影の画像。右手に数珠、左手に宝珠の僧形で現してある。
右手の数珠を錫杖に持ち変えると地蔵菩薩像だ。大智明権現の本地が地蔵菩薩であったことと関係しているのかもしれない。

大山寺を統治した西楽院本尊(さいらくいん)の薬師如来坐像。1m足らずのそれ程大きくない像だが良く整っている。大山寺は大智明権現、つまり地蔵菩薩の霊地とされていたが西楽院は薬師如来を安置していたことがわかる。これは天台宗の影響下にあったことと無縁ではなさそうだ。

30cmくらいの小さな千手観音像は、右脇侍に毘沙門天(びしゃもんてん)、左脇侍に地蔵菩薩という変わった組み合わせの三尊形式だ。大山寺を代表する地蔵菩薩はどうしても必要だったのだろう。脇侍の相手に毘沙門天が選ばれた理由は見当がつかない。

そして、部屋の一番奥に20cm足らずの金銅仏が4体。白鳳時代の観音菩薩立像。これが今回どうしても見ておきたかった仏像だ。
下山神社建立の地から出土したとされる観音菩薩像とされるものだ。つまり、これが下山観音堂の本尊だったはずなのだ。現在はこうしてここに保管されていて、今の観音堂の本尊は新しく造られたものが安置されている。

4体の全てが安置されていたのかどれか1体が御本尊だったのか説明がないため知ることができない。大体、観音堂の本尊だったことの説明すらもない。多分、この観音像をそういう目で見る人はほぼ皆無ではないだろうか。ひっそりと展示してある小さな像にはそれも似合うかもしれない。
手を合わせて経をあげる。

観音像はいかにも異国的中国的な作風だ。東京国立博物館の平成館に展示してある四十八体仏と呼ばれる法隆寺献納宝物が白鳳時代の小金銅仏の代表とすると、細かい違いはわからないが全体の印象は良く似ている。
この観音像は地中から掘り出された伝承があるが、多分それは本当の事なのだろう。

小金銅仏は埋納によく使用された。特に修験道の聖地で多い。日本の最大修験道場である吉野の大峰山(おおみね)からも出土するし、熊野三山の那智(なち)山中からのものも有名だ。そしてそれらの金銅仏はやはり法隆寺献納の金銅仏に素人目には良く似ているのだ。

大山寺は地蔵菩薩の寺だが修験道(しゅげんどう)の寺でもある。中国霊場の三十一番札所、三徳山とも関係している。当然、宝物館には修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)像もある。大山寺は中世修験道の聖地だった
大山寺縁起によれば兜率天(とそつてん)の第三院の巽(たつみ)の角から落ちた磐石が三つに分かれて熊野山、金峰山、大山が出来たとされる。もちろん熊野山といのは熊野三山の那智で金峰山は吉野大峰山系の山だ。縁起からも大山寺が修験道の道場として発達していたことがわかる。

しかも、大山が修験道の有名な聖地とみなされていたのは地元だけではない。都でもそのように信じられていた。
修験道の守護神である蔵王権現(ざおうごんげん)の出現に関する説話でそれがわかる。

多武峯神社(とうのみね)に伝わる役行者絵巻では、役行者が守護神を感得しようと祈った時、まず柔和な相で神が現れたが、このような姿では悪行の広がるこの世を感化するには心もとないと思ったところ、出現した神は西へ飛び、今の伯耆の大山の権現になり、さらに役行者が守護神を求めたところ遂に憤怒の蔵王権現が出現したとされる。
また、別の絵巻伝でも、初め地より湧出された形は柔和忍辱の相を現し、地蔵菩薩の如くであったが、このような姿では未来濁世の衆生を済度出来ないだろうと思ったところ、地蔵菩薩は伯耆の国の大山というところに至って大智明権現となったと説明されている。

最も一般的に受け入れられているのは峰中秘伝などによるものだろうがそれにも大山が述べられる。役小角、つまり役行者が祈ったところ、最初に弁才天(べんざいてん)が雲に乗ってあらわれたが、力を奮い悪を懲らしめる強い方が欲しいと願うと、天女は天河(てんかわ)の里へ降りて行かれた。次に慈悲の姿の地蔵菩薩が降りられた。小角が人々に奮起を促すにはあまりに柔和な姿であると思うと、川上の阿古滝の方へ去って行かれた。あるいは遠く山陰の大山に避けられた。最後に大地を揺るがす轟音と共に金剛蔵王権が忿怒の相で現れた。
出現順番は、釈迦、弥勒、蔵王権現というのもかなり良く知られている。これには地蔵菩薩は出現しない。いずれにせよ役行者が祈って湧出した地蔵菩薩が大山にやってきたことは都でもそのように信じられていた。大山が修験道の聖地とみなされていたことは間違いない。

修験道では吉野と熊野が総本山のようになっている。大峯(大峰)(おおみね)山系の吉野側を金剛界(こんごうかい)、熊野側を胎蔵界(たいぞうかい)とする両部曼荼羅に対応させて、両方を巡るとされる。
天台系の聖護院(しょうごいん)が取り仕切った本山派(ほんざん)は、熊野から入峰(にゅうぶ)して北上して大峯吉野に至る順路をとり、これを順峯(じゅんぷ)と呼び、。真言系の醍醐寺(だいごじ)、三宝院(さんぽう)は当山派(とうざん)と呼ばれ、吉野から峯入りして南下して熊野に至る順路の逆峯(ぎゃくふ)と呼ばれる巡礼修行方法を取った。
実は、山陰の修験道の霊地、大山寺と三徳山三佛寺を結ぶ参詣路が大山の山中の大休峠(おおやすみ)を越えてあった。今はトレッキング路となっているが、途中の全くの山中、登山道のような場所に石畳が残っていたりする。
この大休峠越えの道は吉野と熊野を結ぶ修験道と対応されていたのではないだろうかなどと思った。

大山寺では考えることが多い。巡礼最後にもう一度来て、いろいろ知ることが出来たし、良い体験にもなった。

収蔵庫を出ると山門には白衣の巡礼者の集団が見えた。ほとんどが老婦人だ。ツアー遍路のようだが無事に廻れますように。

今日は少し寄り道しすぎた79km。これで本当の中国三十三ヶ所観音霊場を打ち終わった。
様々なことに感謝。

大山寺本堂

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○大山寺本堂 (平成19年7月8日)

大神山神社(おおがみやま)を後にして再び長い参道を下り戻る。
金門(きんもん)への分かれ道をすぎてしばらくすると、少しわかりにくいが左手に大山寺本堂(だいせんじ)への近道がある。本堂正面の参道の山門まで戻ってもいいのだが、そこまで行くと再び結構な数の石段を登らなければならなくなるので横道から楽をさせてもらう。

大山寺に牛馬市の博労座(ばくろうざ)が出来たのは、大山寺の本尊、大智明権現(だいちみょうごんげん)は本地が地蔵菩薩(ぢぞうぼさつ)とみなされ地蔵菩薩は牛馬の守護神とされていたからだ。
今でも大山寺集落にはあちらこちらに地蔵菩薩の石仏が多く立っている。

大山寺本堂、根本中堂は正面5間、横6間のほぼ正方形の宝形造。須弥壇にはもちろん地蔵菩薩が安置されている。
堂は決して小さくはないが、大智明権現、大日堂を中心とした中門院(ちゅうもんいん)、釈迦堂の南光院(なんこういん)、阿弥陀堂の西明院(さいみょういん)と、一山三院と称され僧徒3000を数えたとされる大山寺の根本中堂としては簡素で見劣りがするのは確かだろう。
それも当然で、本当の根本中堂というは本堂というか、伽藍の中心だったのはさっきまでいた大神山神社で、現在の本堂はもとの中門院の大日堂なのだ。

大山寺は江戸時代には3000石の領地を持ち自治を獲得していた。そして代々、皇族の宮が座主を勤めるようになっていた。もちろん名前だけの座主で実際は天台座主が兼任することになっていて当地には下向してこられてないが、大山寺が中央から一目置かれていたその実力がうかがえる。

明治になり、神仏分離令で神仏習合していた全国の寺が壊滅的な打撃を受ける。特に権現というのは仏が神の姿を借りて現れるという本地垂迹(ほんぢすいじゃく)が基本になっているので、神と仏を厳密に区別して分けろといわれたとき困った。
この時、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の日光東照宮、金比羅大権現(こんぴら)の金刀比羅宮など、多くの権現は神であるという立場をとった。政府が仏教を軽視して神道を保護する姿勢をとったことも大きく影響しているだろう。
大山寺も大智明権現を大国主命として神社に姿を変えた。

上手く行けば王政復古の流れで、皇族の宮を座主にしていた大山寺は神社の分離だけで済んだはずなのだが、残念ながらそうはならなかった。
幕末の天台座主は日光宮北白川能久親王(よしひさ)というかただった。この皇族は戊辰戦争の時に上野で戦った彰義隊(しょうぎたい)に擁されている。また、それに続く奥羽越列藩同盟にも迎えられ、一時は東武天皇と称したともいわれる。
大山寺の座主は天台座主が兼ねることになっていたので、当然この北白川親王だった。北白川親王は新しい明治政府にとっては賊軍の御旗になっていたわけで、そのために大山寺も朝敵とみなされて処分が重くなったとされる。
大山寺の本尊である大智明権現を神社にかえて対応したものの、、明治4年には寺領を没収され、明治8年には大山寺の寺号を廃される。要するに寺としても認められなくなった。
寺号が何とか復活したのは明治36年。しかし、七堂八社四十二坊あった大山寺は三堂十坊となっている。
大山寺の歴史を簡単に紹介した記事によると以上のような経緯らしい。

鳥取藩の最後の藩主、池田慶徳(よしのり)は養子で、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)の実兄にあたるため、新政府からの風当たりを弱めるために大山寺に過酷な処分を与えたということもあるような気がする。
と、いうのも、北白川親王は輪王寺宮(りんのうじのみや)とも通称され、寛永寺貫主(かんえいじ)、日光輪王寺門跡も兼ねていた。日光の輪王寺は東照宮と分離しただけで何とか維持されていることを考えると、同じ北白川親王を座主にした大山寺の処分に差がありすぎるからだ。
理由はどうあれ幕末から新政府への動乱の時代の波にのまれたということだろう。

寺号の廃止中は今の大神山神社から中門院の大日堂へ本尊を移して細々と寺を維持していた。もちろん本堂となった大日堂は名前からわかるように本来は大日如来を安置していた。中門院は密教系の属する集団だったらしい。
そして寺号復活の時にそのまま根本中堂となったのが今の大山寺だ。

その本堂も、1928年(昭和3)火事で焼失する。残念なのはその時に本堂とともに「大山寺縁起絵巻」も焼けてしまったことだ。室町時代初期のものといわれる大山寺縁起絵巻は残っていれば国宝級とされる。絵巻物だけであれば観光の集客もずいぶんと違うのだろうが。

本堂の前はコンクリートながら舞台造になってる。元が大日堂なのになぜ観音堂につきものの舞台を作る必要があったのか、何だか不思議だ。
舞台というより単に展望台なのか。しかし、特に景色がいいというわけでもないのだ。

舞台から下を眺めると目に入るのが、観音巡礼の札所である観音堂だ。

下山神社

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○下山神社 (平成19年7月8日)

大神山神社(おおがみやま)の前を左に行くと下山神社(しもやま)がある。大山寺(だいせんじ)の中心から遠いが、それでも大神山神社は山陰の主要観光地なので見学者も三々五々やってくる。しかし、隣の神社に興味を持つ人は少ない。

下山神社は典型的な権現造(ごんげんつくり)で、建物が少し低いところに建っているため入り組んだ屋根の様子がよくわかる。権現造は拝殿と本殿を継ぐという特殊な構造をしているため屋根が複雑になり、別名、八棟造(やつむね)とも呼ばれる。「八」というのは正確な屋根の数ではなく多いということを意味する名前だ。
拝殿の右前に社務所が付いているのが少々邪魔だが、権現造の形を知るにはとてもいい社といえる。

社の前には狐の狛犬がいるのでお稲荷(いなり)さんかと思ってしまうが、正確にはそうではない。
下山善神である白狐が祀られている。祭神が白狐なのだ。

稲荷神というのは神仏習合の影響を強く受けているために難しいのだが、宇迦之御魂神(うかのみたま)、保食神(うけもち)、大気都比売(おおげつひめ)、御饌津神(みけつかみ)などと考えられているし、仏教では荼枳尼天(だきにてん)とされることが多い。
御饌津神が三狐神と書かれたり理解されたりしたことから稲荷神と狐が結びつき、狐が稲荷神の神使とされるようなったというのも一つの説だ。そのうちに一部では狐が稲荷神そのものと考えられるようになったが、本来はあくまでも狐は稲荷神のお使いだ。
また、密教では稲荷神とされた荼枳尼天は白狐の上に乗る姿で現されることからも稲荷神と狐が強く結びついた。しかし、こちらも狐と荼枳尼天は同体でない。

つまり、お稲荷さんといえば狐、狐といえばお稲荷さんを思い浮かべるほどだが、狐が神として稲荷社に祀られているのではないのだ。その点で、白狐を直接祀る下山神社は稲荷社とは少し違う。

由来によれば、美作国の渡辺源五郎照政(下山源五郎とも)は熱心な大山寺の信者で欠かすことなく大山詣でをしていた。ところが些細なことがもとで口論となり地元で殺されてしまう。信心篤かった彼を哀れんで大山寺の僧が大山の下山という地に小さな塚を作って供養した。その後、源五郎は大山寺の本尊大智明権現(だいちみょうごんげん)に救われて白狐になり、難渋する大山寺への旅人や僧を救うようになったとされる。

ある日、寺の住職とも村人ともされるが、夢に白狐が現れて、自分の祠を本堂の近くに移すように、そうすればもっと多くの大山寺に参拝する人や僧をいつまでも救い守れるだろうと、またそこの土中には黄金仏があるとも告げた。そこで、夢の中で告げられた利壽権現社(りじゅごんげん)の側の土中を探すと観音菩薩が姿を現したので、そこに新しい社殿を建て下山善神として祀ったのがこの下山神社であるとされる。

今回、いろいろ大山寺のことを調べていて初めてこの縁起を知った。実に興味深い話だ。大山寺は由来、縁起の宝庫でもある。

利壽権現社というのは、今日廻ってきた丸山神社の境内に移されていた、あの社の本社だ。今はなくなっているがこの近くにあったことがわかったが、それ以上に丸山神社に勧請された利壽権現が稲荷神社に代わっていた謎が一つ解けた気がした。
どうやら利壽権現社と下山神社は近くにあったため、いつしか両者が混同されていて利壽権現も稲荷神とみなされるようになっていたということだろう。

それにしても、個人が祀ってあるとは知らなかった。祀られているのは白狐となった渡辺源五郎だという。
しかし、狛犬が狐になっているようにいつの間にか稲荷神、稲荷神社と習合している。
この社には稲荷神との習合を示すものがもう一つある。
お稲荷さんを祀る稲荷神社には、よく社や祠の横や後ろの下の部分に小さな10-20cm程度の丸い穴が開けられている。そこは、稲荷神の使いである狐の出入り口なのだそうだ。
下山神社は社殿は本殿と拝殿を継いだ権現造だ。本殿と拝殿の間の継げた部分を石の間と呼ぶ。その石の間の地面近くの所にやはり小さな丸い穴が開いているのだ。これは狐穴と考えるしかない。完全にお稲荷さんと見なされている。
それとも白狐である下山善神は、眷属として狐を使いに用いているということなのだろうか。

下山神社は彩色はされていないが権現造の非常に凝った作りになっている。入り組んだ屋根の形は美しい。少し小さく詰め込まれすぎた印象もあるので、もう少し余裕を持たせてあると少し軽快な感じが加わってそのほうが好みだが、そういう欠点を差し引いてもなかなかいい建物だと思う。
じっと眺めなければさえない傷んだ社に見えるが華麗といってもいい社殿だ。

後ろを振り向くとやはり権現造の大神山神社の壮大な社殿の側面が聳える。しかし、バランスとしてはこちらは少々石の間が長すぎるのが欠点か。それが逆に重厚な印象を与えているといえないこともない。
大神山神社奥宮、下山神社、共に一長一短あるが立派な権現造が二棟並んで建っていることになる。

大神山神社奥宮

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○大神山神社奥宮 (平成19年7月8日)

参道の最後、神門をくぐると最後の長い石段がありその向こうには大きな唐破風が見える。大神山神社奥宮(おおがみやま)だ。

ここは明治の神仏分離まで大山寺(だいせんじ)の本尊である大智明権現が祀られていた、いわば大山寺の本堂といってもいいものだ。

天台宗の古刹、大山寺は、寺伝によれば金蓮上人(こんれん、きんれん)が養老2年(718年)に地蔵菩薩を安置した庵を結んだのが初めとされる。
縁起によると、出雲玉造(いずもたまつくり)の猟師、依道(よりみち)が猟の途中で金色の狼を追って大山まで来た。そして後を追って洞窟に入ったところ、洞窟では老尼が地蔵菩薩を守って修行していた。それを見た依道は欲深い自分を恥じて出家し、後に金蓮上人と呼ばれるようになったとされる。
猟師の名前は俊方(としかた)で、ある日鹿を追って大山に入り、ようやく射止めたところ、近寄ってみると地蔵の額に矢が刺さっていた。そこで、殺生の罪を後悔して金蓮と改め庵を結んで地蔵菩薩を祀ったのが開山ともされる説もある。

金蓮上人は修行していると、ある日、南の空に光り輝く雲が釈迦如来の姿となった。そこに釈迦如来を安置したのが南光院だという。また、庵で法華経を読誦(どくじゅ)していると西の空に阿弥陀如来が現れ金蓮上人は自らの遷化の近いことを悟りその場所にお堂を建てて西明院と名づけたともいう。大山寺、三院の三つの僧侶集団にそれぞれ縁起があったようだ。

後に、地蔵菩薩がこの大山に現れたのが大智明権現(だいちみょうごんげん)であるとされて大山寺の本尊となる。大山の三院、つまり中門院の大日如来、南光院の釈迦如来、西明院の阿弥陀如来、その全てをまとめるものとして、地蔵菩薩である大智明権現があった。その大智明権現が祀られていたのがこの建物だ。

中世以後崇拝を集めたが、残念ながら明治の神仏分離で大智明権現は仏でなく神であるとされ、大国主命を祀る大神山神社の奥宮とされた。

長い参道を歩き、歩きつかれたところに現れる石段。誰でもゆっくり登ることになるが、一歩一歩進むに連れて拝殿正面が目の前に迫ってくる。
山陰だけでなく外へも名をとどろかせていた大山寺の元本堂、さすがに壮大な社殿だ。
拝殿と奥の本殿をつないだ、いわゆる権現造。桧皮葺の屋根に拝殿正面は立派な唐破風が付く。
しかし、普通の権現造とは違っているので一見すると権現造とは見えない。

正面の拝殿は左右に長く伸びている。廊下のような構造で翼廊と呼ばれる。その両翼の長さは約50m。その長廊には大神山神社となるまでは八大竜王、八幡菩薩、不動明王、役行者などの像が安置されていたという。もちろん今は空っぽだ。
拝殿と本殿の間も一般的な権現造に比べてかなり長い。それはまるで拝殿の後ろに左右の翼廊のようなものをくっつけたような、いわゆる尾廊のように見える。
全体の形は平等院鳳凰堂に似ていなくもない。

左右の両翼は石段を登ってきたものに対しての視覚的な威圧感などを考えても悪くはないが、建物のバランスとしては後ろに少々長すぎるのが欠点だ。もとが寺だったためか装飾に少々欠けるのも残念だ。
しかし、壮大な建築には違いない。これだけの規模の社寺建築はそんなに多く残っていない。権現造としても最大級のものになる。

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