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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第12回)

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西楽院跡

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○西楽院跡 (平成19年7月8日)

賽の河原を後にして大山寺(だいせんじ)大神山神社への自然石の参道へ戻り、再びのんびりと木立の中を歩く。
神門が見えてくると長かった参道もようやく終わる。門の向こうの石段を登れば大神山神社(おおがみやま)だ。

神門は唐破風付き桧皮葺の堂々とした立派なもの。しかし、よく見ると少々妙だ。門の閂が手前についていて門扉が奥に向かって開いている。要するに前後が普通と逆なのだ。そのため違い門とか逆さ門とかとも呼ばれる。
最初から意図したわけではない。この門はもともとは江戸時代に大山寺、一山三院を管理した本坊の西楽院のもので、明治維新後、西楽院が途絶えた後にここに移して大神山神社の門にしたものだ。具体的な経緯はよくわからないが、その時に逆に据付けられてしまった。

門の手前の左側に石垣が残っている。
石垣の正面に出入りのために垣が途切れた場所がありそこが門の跡で、多分ここにあの神門があったと思われる。見た感じ少し神門の幅より狭い気もするが、ひょとすると石垣よりもっと奥にあったのかも知れない。

石垣に囲まれた中は広い空き地になっている。入って右手に大山寺奥宮社務所があるが、今は古ぼけて使われなくなっているようで、そうなってからかなり経っているようだ。
その広場の奥に更に数段の石段があり高くなった場所が西楽院が建っていた場所のはずだ。今は杉林となっていて、近寄って眺めてみても何もない。生えている杉の幹の太さは数十cmはあり、堂がなくなってからの時間の長さを示している。

大山寺の最盛期は平安時代末頃と考えられているようで、江戸時代には既に往時の勢いはなかったとされるが、それでも尚、大山寺は中国地方を代表する寺で、大勢力だった。
残された資料によると西楽院は横に長細い建物で、何と間口は24間あったとされる。つまり長さが24間もあったのだ。
建物の大きさを示す一間というのは絶対的な長さではなく柱の間の数のことなので実際の大きさは不明だが、多分、西楽院は江戸時代の尺度で建てられていたと考えられるので一間6尺、約180cmほどだったと思われる。それから計算すると約43m、相当大きな建物だ。

ちなみに横に細長い建物といえば、通し矢で知られる京都三十三間堂が有名で文字通り33間の長さがある。ただし三十三間堂は一間の長さがかなり長く12尺で3.6mを超えるらしいので他を寄せ付けないくらい長大だ。

三十三間堂は平安末期から今に残るが、西楽院は明治に大山寺が存続しなくなった後、維持できなくなり建物は倒壊した。

建物跡と思われる杉林はそんなに広くなさそうに見える。間口24間もの建造物があったようには思えないが、明治まで実際に建っていたのだからまんざら言い伝えによる誇張というわけでもないだろう。
今ではここに巨大な堂宇があったことを想像するのは困難だが、大山寺がそれだけの力を持っていたということだけは理解できる。

廃墟と化した大山寺奥宮社務所の前の空き地に車が停まっている。放置されている車ではなく現役の自家用車だ。どこからやって来たのか。
不思議だ。道は今歩いてきた石畳の参道しかないはずだ。これは理解できない。

途中の長い参道の横にも僧坊が立ち並んでいたはずだが、それも今は林になり、一山三院、42坊の昔の姿を想像できるものは何一つ残ってないのが、本当に残念だ。

賽の河原

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○賽の河原 (平成19年7月8日)

金門のあるこの河原は賽(さい)の河原と呼ばれる。小石を積み上げて塔のにしたものが沢山見られる。小石の石積は古来よりの宗教的聖地ではよく見られるものだ。
個人的には、賽の河原と呼ばれるような場所やそれに類した宗教的な意味のある場所で決して石を積む気にはなれない。単なる石なのだが、その石一つの持つ意味が重すぎて今のところそのような心境になれないのだ。

登山者も石を積んでいるのを目にしたりするが、あれはケルンで全く違う。
森林限界を超えて草木が生えなくなった岩場の登山道でよく石が積んである。あれがケルンだ。ケルンはもともと後から登ってくる人のために登山路などの方向を示すために作られるものらしい。今では単に登山の記念として積む人が多いとは思うが。

賽の河原というのはあの世とこの世との境にある三途の川にある河原のことだ。その賽の河原で石を積むというのは意味がある。
一番有名なのは地蔵和讃(じぞうわさん)だ。これは昔は日本人の心に深く染み付いていただろう。

和讃というのは七五調の歌で仏の功徳や御利益などを詠う。その中でも地蔵和讃は涙を誘う内容になっている。

昔は子供が親より先に亡くなるのは良くないとされていた。特に幼い子供は、自分で生前に功徳を積むことも出来ずに亡くなってしまうので、そのままでは浄土へ行くのは難しいと考えられれていたらしい。そのため幼子は賽の河原に取り残されてしまう。

幼くして亡くなった子供は、生きている親兄弟のために賽の河原で石を積む。この石積みが功徳となって完成すれば浄土へ行けるはずなのだが、鬼がやってきて石積みを壊してしまう。そして、また子供たちは河原で石を積む。
この際限のない子供たちの石積みを、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が救ってくださるのだ。

自分では何も悪いことをしてないはずなのに、成仏できないためひたすら河原で石を積む子供たち。それを無慈悲に妨害する地獄の鬼。親より早く死ぬのが親を悲しませることになり罪だと、残された親はただ泣き悲しむだけでそれも罪だと責める。
幼い子供が小さな指から血をにじませて一つ一つ石を積む姿、ただ早くこの世を去ったというだけで責められる理不尽さ。思い描いただけでも涙が零れそうな状況だ。

(前略)
二つや三つや四つ五つ 十(とお)にも足らぬ幼子(おさなご)が
賽の河原に集まりて 苦患(くかん)を受くるぞ悲しけれ

娑婆(しゃば)と違いて幼子の 雨露しのぐ住処(すみか)さえ
無ければ涙の絶え間無し 河原に明け暮れ野宿して
西に向いて父恋し 東に向いて母恋し

恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり

(中略)

ここに集まる幼子は 小石小石を持ち運び
これにて回向(えこう)の塔を積む

手足石にて擦れただれ 指より出(い)づる血のしずく
体を朱に染めなして
一重つんでは幼子が 紅葉のような手を合わせ
父上菩提(ぼだい)と伏し拝む

二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する
三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと
礼拝回向ぞしおらしや
(後略)

地蔵和讃には多くのバリエーションがあるがその一部。聞くものに涙を起こさせることを目的に作られたとしか思えない。悲しすぎる。
しかし、それも最後には地蔵菩薩の慈悲で救われるのだ。

大山(だいせん)に賽の河原があるのは、本尊とされた大智明権現(だいちみょうごんげん)が地蔵菩薩とされたことと無関係ではないだろう。

大山は亡くなった人が昇ってゆく場所だという伝承もある。亡くなった人は大山頂上で休んでから昇ってゆくともいわれていた。
また、49日が過ぎるまでは賽の河原で亡くなった人の名前を呼ぶとどこからともなく生前の姿がおぼろに現れるとも、亡くなった人の後姿が見られるともいわれていたらしい。
ここに石が積まれるようになったのは、子供の他にも亡くなった人全てに対しての回向が目的だ。
せめてもう一度、後姿だけでもと念じながら石を積んだ人も多かったのだろう。

もちろん、今ここにある石積みは亡き人の回向のためになされているものはほとんどなさそうな気がする。観光客と登山者が特に意味もわからず積んだものが多いのだろう。

数名の登山者パーティーがやってきて金門の説明板を読んでいる。
ここは代表的な写真スポットとなっていて、現在の人は賽の河原をバックに荒々しい大山北壁が聳えるのを見る。
昔の人は頂へ登ってゆく亡き人を見たのだろうか。

少々気持ちが暗くなった。
大山の大智明権現が地蔵菩薩である以上は賽の河原を飛ばしてしまうわけにはいかなかったということで。

大山金門

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○大山金門 (平成19年7月8日)

大神山神社(おおがみやま)へ向かう自然石の石畳の参道の途中に右に入る細道がある。切通しとなった岩壁の横を通り過ぎると視界が開けて河原の上に出る。

正面に聳える大山北壁(だいせん)から雪解けと伏流水で流れてくる水がこの河原になりそのまま断崖絶壁の狭い場所を流れ落ちる。その岩の切り開けを金門(きんもん)と呼ぶ。
縁起によると、大山寺本尊の大智明権現(だいちみょうごんげん)の堂宇を建立しようとしたが、巨岩があって工事の通行の妨げとなったため取り除こうとしたが出来ずにいた。その時、地蔵菩薩の命を受けた八大竜王がその岩を切り開いたのがこの金門だという。第八代孝元天皇(こうげん)、西暦で52年のこととされる。
この時に金剛鳥(こんごうちょう)が飛んできて次のような偈(げ)を説いた。偈というのは仏の教えなどを詩の形式にしたものをいう。
大仙多宝佛、関鑰御金門
應化身垂跡、釋迦両足尊
それまで火神岳(火神山)や大神岳(大神山)と呼ばれていた山がこれ以後、大山(大仙)と呼ばれるようになり、さらに金門の名前もここに由来するとされる。

少々妙だ。堂宇建立工事の通行の妨げになったというが、道としては今歩いてきた参道のルートが自然でそちらを通れば特に通行の障害とはならない。大体、金門のところで川は滝になって落ちている。ここが開かれても川に沿った川原を通行などは出来ないのだ。
どうやら、金門というのは仏の力で開かれた岩壁だということを主眼にした由来のようで、工事の話などはその付け足しのような感じだ。

偈は難しくて内容がよくわからないが、読み下すと
大仙の多宝仏、関鑰(かんやく)の御金門、応化身として垂迹す、釋迦両足尊
こんな感じだろうか。意味は、
大仙(だいせん)は多宝仏(たほうぶつ)のおられる所で鍵のかかった金門があり、それを開けて応化身(おうげしん)として垂迹(すいじゃく)されるのは尊き釈迦如来(しゃかにょらい)である、といったようなことか。あまり自信はない。

実はここには金門の説明版があるのだが、そこでは「関鑰」が「開輪」になっている。しかし、これでは意味が通らない。
関鑰というのは難しい字だが、調べると「門の閂(かんぬき)と鍵」とある。鑰と言う字は鉤と同語源で鍵の意味らしい。つまり、断崖の切り開けを閂のかかった門に見立てているわけだ。どうしても鑰でなければならない。輪では門と意味がつながらないのだ。漢字が難しいので間違えたとしか思えない。

ここでは金門を開くことを聖地への立ち入りを許可することや仏の教えの秘密を説くことにかけているのだ。密教では真の教えは隠されていて悟りへ達するには秘密の鍵を開けなければならないというような教義がある。例えば空海は「般若心経秘鍵」という書物を著した。ここで空海は般若心経の内容を説くのにやはり題名に鍵という言葉を使っている。
大山寺の中門院は密教集団だったので鍵の持つ意味は大きい。金門は鍵を開けるべき重要な門としてのシンボルと認識されていたのだ。

余談だが、偈の最後の釋迦両足尊というのもわかりにくい。両足尊というのはお釈迦さまの尊称の一つだ。
二足歩行するもの、つまり人間のなかで最も尊い者という意味らしい。多分に仏足石(ぶっそくせき)を意識した言葉だと思われる。

夏草を分けて小道を河原へ下りてみる。
これ以上山の上には川がないため源流に近い。さほど多くない量の水が左右から断崖の迫った狭い金門を通り落ちてゆく。
大山寺の集落に架かっている大山寺橋の下の河原を登ってゆくと金門の下まで到着できる。そこでは結構な高さから川が滝となって落ちているのがわかる。もっともそこまで行く人はめったにいない。

大山寺山門

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○大山寺山門 (平成19年7月8日)

大山寺(だいせんじ)の集落入り口にある博労座(ばくろうざ)から真っ直ぐに続く400mほどの参道はそのまま大山寺の山門につながる。

山門は新しい。明治の神仏分離で壊滅した大山寺は山門を持ってなかった。平成12年10月22日に落慶法要なったごく新しいものだ。
再建という訳ではなく参道の途中に全く新たに作られている。もともと今の本堂は大山寺を構成していた中門院(ちゅうもんいん)の大日堂にすぎないので特別に山門があったというわけではないのだ。

山門は入山受付も兼ねていて、宝物館である霊宝閣(れいほうかく)の入館料を含み、参拝志納金300円。冬の間は宝物館が休館することもあって、入山料は4月1日から11月30日までということになっている。もちろん冬期も寺への参拝は出来るので、その時は無料だ。
有料期間と無料期間があるのは何か妙だが、実は山門が創建されるまでは入山料を納める場所はどこにもなく、ただで自由に参拝できたのだ。そういう以前の状態を知っている者にとっては料金を徴収しはじめたのには少し抵抗と言うか戸惑いもあるのだが、仕方のない面もある。
大山寺というのは檀家を持たないので、何らかの方法で寄付を募らないとやってゆけないのだ。大口の寄付が主で入山料などわずかなものだろうが、それでもないよりましなのだろう。

山門の先の石段は大山寺本堂と観音堂へ続くのだが、今日は後で廻ることにしているのでそちらへは向かわずに手前で左へ折れる。巨大な石の鳥居があり、大神山神社奥宮(おおがみやまじんじゃ)への参道がそこからさらに続くのだ。
駐車場からここまで登ってくるだけで結構疲れるが奥宮へは更に700m程ある。

そこからは今まで一直線で上がってきた参道と風景は一変して鬱蒼とした木立の中を緩やかに曲がりながらゆっくり登ってゆく道に変わる。

参道は自然石の石畳。静かな木陰の情緒ある参道で深遠な雰囲気とも加わり、歩いていて落ち着く道だ。敷かれた石に加工はあまりされてない。表面は平らなのだが最初からというより長い間に磨り減ってそうなったようだ。
昨日までの雨で濡れて表面がツルツルになっていて滑って少々歩き難い。

苔も生えているところもある石畳を歩いていると歴史の重みを感じたりする。石の表面が滑らかになるにはどれくらいの歳月と人の足が必要なのだろうか。

大山寺参道

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○大山寺参道 (平成19年7月8日)

国道181号線、岸本(きしもと)から大山(だいせん)へ向かい、丸山(まるやま)を出て県道284号線を高度を上げる。徐々に涼しくなって、大山寺(だいせんじ)に着く頃には薄曇の中に入った。大山山頂は全く見えない。もちろん下界の米子(よなご)方面も見えない。

バイクを駐車場に停めて真っ直ぐ続く長い急勾配の参道を歩いてゆく。

地元なので何気なく大山寺と言う言葉を当然のように使ってきているが、大山寺という場合二つの意味を持っている。一つは寺としての名前、つまり寺号の大山寺で、もう一つは集落の名前としての大山寺だ。
もともとは集落全体が寺域で大山寺という寺だったのだが、明治維新以後は寺勢がすっかり衰えて現在は大山寺と言えば集落名を指すのが普通になっている。ただ、特別に使い分けている訳ではないので、文脈から区別するしかないので、知らない人は混乱するかもしれない。

大山寺は天台宗の古刹でその歴史は古い。中世にはすでに中国地方を代表する修験道場として知られていた。

寺は主に三つの寺域からなったらしい。今歩いている参道周辺が大日堂(だいにちどう)を中心とした中門院(ちゅうもんいん)と呼ばれた領域。右手の方にある河原の右岸にあった釈迦堂(しゃかどう)を中心としたのが南光院(なんこういん)。更に南光院から南よりの現在の大山登山道に近い場所が阿弥陀堂(あみだどう)を中心とした西明院(さいみょういん)。
そして大山寺の本尊とされた大智明権現(だいちみょう)を祀っていた権現堂がある。
それらの中心伽藍全体は一山三院と総称され平安時代には、僧坊106、僧兵3000人といわれる賑わいだったとされる。三院百八十坊という記載もあるらいい。さすがに僧坊が106とか180は少し大袈裟だろうが、それにしても大変な勢力だ。織田信長が延暦寺の僧兵に手を焼き対立の末に比叡山焼き討ちを行ったが、その時の僧兵勢力が4000人程度だったとされることから、大山寺の強大な力が窺われる。もっとも、大山寺の僧兵3000人は多分武装化した僧兵ではなく僧侶全員の数だと思われるが、それにしても大変な数だ。
今では山陰の片田舎に過ぎないここに、比叡山や高野山のような強大な宗教都市が存在していたことになる。
一般人も沢山生活しているが、現在の高野山が山内寺院は約100余り、人口は減少の一途で半減していて4000人足らず、僧侶は1000人程だという。このことからも僧3000人がいかに巨大かが想像できる。

ちなみに大山寺を総称した一山三院の一山というのは大智明権現のことで、熊野詣で有名な、熊野大社(くまのたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたま)、那智大社(なち)の三社が熊野三山と呼ばれたように、権現社は「山」とも呼ばれることがあったからだ。

後醍醐天皇(ごだいご)が隠岐(おき)を脱出して伯耆(ほうき)の豪族、名和長年(なわながとし)を頼り船上山(せんじょうざん)にたてこもったとき、長年の弟で大山寺の別当だった信濃坊源盛は僧兵700名を率いてはせ参じたとされる。史実かどうかは疑問もあるが、船上山の戦力のかなりの部分を大山の僧兵が占めていたのは確実なようだ。
ひょっとすると大山寺の加勢がなければ後醍醐天皇は鎌倉幕府軍に勝利できなかったかもしれないのだ。

江戸時代になると寺運は衰えるが、それでも大山寺は一山三院四十二坊という記事があるようだし、僧徒3000人ともいわれたらしい。ここでは僧兵でなく僧徒とされているが、こちらが正しそうだ。
最終的には幕府に大山寺領3000石を認めさせ、寺領の完全自治を獲得している。

自治を背景にして大山寺は牛馬市が盛んになる。自治を持った治外法権だったため幕藩体制の枠を超えて自由な商取引が行われたからだ。信長の楽市楽座が商業活動を盛んにしたのと同じだ。
その名残が、大山寺集落の入り口、今登っている参道の始まる場所にある博労座(ばくろうざ)という地名だ。博労というのはもとは馬の良し悪しを見分ける人、つまり白楽(はくらく)が変化したもので、後に牛馬商人を指すようになったもので、文字通り牛馬市が行われた所だ。
近県一円から牛馬が一万頭も集まったという話もある。日本三大牛馬市の一つなどと書かれていることもあるが、残りの二つは知らない。まあ、大体において日本三大何とかという日本三選は他の二つが不明なものが多々ある。
何れにせよ、江戸時代には牛馬市から得られる資金も大山寺の権力を支えていたのは間違いない。博労座での市は昭和の初めごろまで続いていた。
そんな、博労座も今は場所の名前だけとなり駐車場になっている。誰かに指摘されなければわからないだろう。

過去の栄光に反して、一山三院の今は寂しい。
根本堂であった権現堂は大神山神社(おおがみやま)となり寺から分離した。中門院と大日堂が現在の大山寺の本堂となってどうにか寺が存続している。大山寺周辺を歩く遊歩道の一つ僧兵コースの途中に南光院の釈迦堂跡があるが、文字通り木々に囲まれた建物跡で、説明板に目を留めなければ通り過ぎてしまう。
西明院の阿弥陀堂は健在で山陰屈指との呼び声も高い国の重文の三尊形式の丈六阿弥陀如来坐像(じょうろくあみだにょらい)も残って安置されているが、無住で管理が出来ないことから普段は一般公開されていないため、やはり周辺は閑散としている。

急な参道をゆっくりと登ってゆきながら道の左右をに目を向けると、戸の閉まった土産物屋や観光旅館、空き地となり夏草の茂る昔の僧坊の跡などが多く、何時来ても実に活気がない。
在りし日の大山寺の寺勢を物語るものはほとんどない。
遺跡のように全く何もなければ往時を勝手に想像するのも史跡めぐりの楽しみなのだが、中途半端に寂れた旅館街が残っていたりするとかえって空想も妨げられてしまうようだ。

NHKが日本の名峰という特集で視聴者から登山の人気投票のようなことをやった。何と大山が日本で第3位に選ばれたという。何だか納得できないが、ともかくその影響もあって登山客は増えているようだ。確かに、そこかしこに登山者が目に付く。しかし、それも今のところ町に活気を与える程ではない。登山者は町にお金を落としてゆかないということか。

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