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○西楽院跡 (平成19年7月8日)
賽の河原を後にして大山寺(だいせんじ)大神山神社への自然石の参道へ戻り、再びのんびりと木立の中を歩く。
神門が見えてくると長かった参道もようやく終わる。門の向こうの石段を登れば大神山神社(おおがみやま)だ。
神門は唐破風付き桧皮葺の堂々とした立派なもの。しかし、よく見ると少々妙だ。門の閂が手前についていて門扉が奥に向かって開いている。要するに前後が普通と逆なのだ。そのため違い門とか逆さ門とかとも呼ばれる。
最初から意図したわけではない。この門はもともとは江戸時代に大山寺、一山三院を管理した本坊の西楽院のもので、明治維新後、西楽院が途絶えた後にここに移して大神山神社の門にしたものだ。具体的な経緯はよくわからないが、その時に逆に据付けられてしまった。
門の手前の左側に石垣が残っている。
石垣の正面に出入りのために垣が途切れた場所がありそこが門の跡で、多分ここにあの神門があったと思われる。見た感じ少し神門の幅より狭い気もするが、ひょとすると石垣よりもっと奥にあったのかも知れない。
石垣に囲まれた中は広い空き地になっている。入って右手に大山寺奥宮社務所があるが、今は古ぼけて使われなくなっているようで、そうなってからかなり経っているようだ。
その広場の奥に更に数段の石段があり高くなった場所が西楽院が建っていた場所のはずだ。今は杉林となっていて、近寄って眺めてみても何もない。生えている杉の幹の太さは数十cmはあり、堂がなくなってからの時間の長さを示している。
大山寺の最盛期は平安時代末頃と考えられているようで、江戸時代には既に往時の勢いはなかったとされるが、それでも尚、大山寺は中国地方を代表する寺で、大勢力だった。
残された資料によると西楽院は横に長細い建物で、何と間口は24間あったとされる。つまり長さが24間もあったのだ。
建物の大きさを示す一間というのは絶対的な長さではなく柱の間の数のことなので実際の大きさは不明だが、多分、西楽院は江戸時代の尺度で建てられていたと考えられるので一間6尺、約180cmほどだったと思われる。それから計算すると約43m、相当大きな建物だ。
ちなみに横に細長い建物といえば、通し矢で知られる京都三十三間堂が有名で文字通り33間の長さがある。ただし三十三間堂は一間の長さがかなり長く12尺で3.6mを超えるらしいので他を寄せ付けないくらい長大だ。
三十三間堂は平安末期から今に残るが、西楽院は明治に大山寺が存続しなくなった後、維持できなくなり建物は倒壊した。
建物跡と思われる杉林はそんなに広くなさそうに見える。間口24間もの建造物があったようには思えないが、明治まで実際に建っていたのだからまんざら言い伝えによる誇張というわけでもないだろう。
今ではここに巨大な堂宇があったことを想像するのは困難だが、大山寺がそれだけの力を持っていたということだけは理解できる。
廃墟と化した大山寺奥宮社務所の前の空き地に車が停まっている。放置されている車ではなく現役の自家用車だ。どこからやって来たのか。
不思議だ。道は今歩いてきた石畳の参道しかないはずだ。これは理解できない。
途中の長い参道の横にも僧坊が立ち並んでいたはずだが、それも今は林になり、一山三院、42坊の昔の姿を想像できるものは何一つ残ってないのが、本当に残念だ。
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