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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第12回)

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丸山代官所跡

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○丸山代官所跡 (平成19年7月8日)

山陰の冬には雪が降る。中海、宍道湖あたりから西になると平地には積ることは少ないが山間部になるとやはり積雪は珍しくない。大山中腹の大山寺(だいせんじ)にはスキー場があり、以前は西日本有数とされてスキー客が多かったのだが、最近は中国山地の各地にリゾート化したゲレンデが沢山出来て客足は激減している。しかも、近年積雪はどんどん減少して滑走できる期間も短くなって来ているし雪質も良いとはいえない。人の集まりが悪いのも仕方ないだろう。これも地球温暖化の影響だろうか。

話はスキー場の経営不振の話ではなく、大山寺には雪が積るということだ。しかも、昔は今より積雪が多かった。

大山寺は冬季には雪で閉じ込められてしまうので当然その期間里へ降りてきて生活する僧たちもいた。ここ丸山(まるやま)には、代官所、丸山御役所などと呼ばれる大山本坊西楽院(さいらくいん)の里坊屋敷があった。
里坊屋敷は一部の僧の越冬の生活の場として使われただろうが、単にそれだけではない。丸山にある里坊屋敷は江戸時代には近辺の森林から得た材木を大山寺の普請や修理に使っていたことから設置されたとされる。後にこのあたりは大山寺領とされたため代官所として使われるようになった。そのため里坊屋敷が代官所と呼ばれる。

今日、巡ってきた久古(くこ)や蕃原(ばんばら)は大山寺領として開拓された場所だった。つまりここら一帯の広大な土地は大山寺領だったわけだ。丸山は大山寺の材木調達の場所だったとされるが、樹木の伐採は土地開墾も目的としていたのだろう。その結果が大原千町となって今こうして広大な農地が広がっている。最初は鬱蒼と茂る原生林だったにちがいない。
どうやら丸山から岸本へ向かうなだらかな大山の裾野は大山寺と密接に関係してきたようだ。

丸山は大神山神社(おおがみやま)が創建された場所とされるが、神社の主張する由来では最古の旧社地は大山寺にあり、雪が積ると参拝が出来なくなることからこの地に里宮を設けたとされる。
これは丸山代官所、里坊屋敷と同じだ。丸山が大山寺の冬期分院のような役割を担っていたのなら、大神山神社も最初は大山寺にあったと考えることも出来るのかもしれない。
しかし、冬の出先機関として発達したこの場所に大山を御神体とする神社を建立して本山としての大山寺を奉じたのが、大神山神社の最初と考えるほうが素直なようだ。

そんな代官所と呼ばれた里坊屋敷も明治の神仏分離令で大山本坊の西楽院が明治10年に取り壊されるのに伴って取り壊された。

丸山神社から集落を通る旧道に戻り登ってゆくと「丸山代官所跡」の案内看板があるので、そこの細道を入る。車は入らないほうがいい。進入は出来ることは出来るが自家用車だと出てくるのにとっても苦労するのは確実だ。

そこは突き当たりの民家の隣、雑草の生い茂った空き地というか荒地というか、それとも荒れ果てた畑なのか、何とも形容しがたい状態になっていた。
石碑はあるものの、説明の看板は朽ちて、そこに生えている木にもたれるように立てかけてある状態だ。説明の最後に平成元年の記載があるが、それからは風雨にまかせて痛み放題といったところだ。
さすがに屋敷は取り壊されて建物はなく「跡」だけなので、それほどのものは期待していないかったが、さすがにこれはひどい。碑と説明板がなければ跡とさえ想像することもできない。説明板はどこか他の場所から持ってきたゴミで、ここへもたれかけさせているだけといっても信じてもらえそうだ。もっとも、石碑はかなり大きいので持ってこれないだろうから、ここが跡であることは確かなようだ。

この路地への入り口の道端に農作物の100円市のような場所があり、そこに村人が集まっていたが、余所者がここへ入るのを胡散臭そうにみんな見ていた。当然だろう。この史跡を見に来る人間は一年に何人いるだろうか。

丸山周辺、大原千町という広い農地を支配した大山寺の栄華を今のとどめるものがこれとは。栄枯盛衰、生者必滅、時の流れをしみじみ感じさせる。

丸山神社

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○丸山神社 (平成19年7月8日)

県道36号名和岸本線(なわきしもと)をさらに大山(だいせん)に向かって登る。麓に広がる広大な農地に、県道158号米子丸山線、大山広域農道、県道52号線などが集まってくる場所があり、そこに丸山(まるやま)の集落がある。

いつもは素通りする場所なのだが、今日は集落の中へ入ってゆく。少々道を間違えたが、小さな案内に導かれて丸山神社へ到着。

この丸山という地は、今日最初に訪れた大神山神社(おおがみやま)の最古の社地があった場所とされる。つまり、大神山神社は最初ここに創建されて何度か遷座し、その度に里へ降りて現在の地に落ち着いたらしい。
この近くに大神山神社のあった大神谷という場所があり、そこには二宮屋敷という地名も残っているとのことだが、詳細は不明だ。
現在、旧社地として保存されているわけではない。旧社地の正確な場所は調べる限りでは確認できなかった。

丸山神社が直接に大神山神社の旧社地だということではないが、この丸山は大山寺(だいせんじ)の里坊があった場所なので、全く無関係ではないはずだ。

村のはずれに狐の狛犬が建つ参道がある。田圃の畦道のような参道を進んで門をくぐる。右手には道祖神、左手には御神木の祭祀場がある。何も案内はないのでそのいわれはわからない。

本殿は流造(ながれつくり)のごく普通の社。不思議なことに、ここでは社殿は大山をバックにしてない。大山を御神体とした社から発展したものではないということだろうか。

祭神は思兼神(おもいかね)と少彦名命(すくなひこな)。少々かわった組み合わせだ。
しかし、ここで最も眼を引くのは本殿に向かって左手にある稲荷神社だ。参道入り口の狛犬が狐だったのもこの稲荷のためだ。
赤い鳥居に「丸山、稲荷神社」と記してあるが、本来はお稲荷さんではない。
社は1m四方ほどで大きなものではないが、京都の名工に作らせたという立派な由緒正しいものらしい。白木で派手さはないし、彫刻のような装飾もないが、そう言われると、しっかりしたものに見える。良いものだと言う説明に左右されるところが、審美眼がないことを露呈しているが、素人なのだからしょせんそんなものだ。
屋根は柿葺(こけらぶき)のようで流造に千鳥破風(ちどりはふ)と唐破風(からはふ)をつけている。
そして社は全体が覆屋で囲まれて保護されている。もちろん風雨から社を守っているのだが、それ程村人に大切にされていることを物語っている。

この稲荷社はもともと利壽権現(りじゅごんげん)と呼ばれていたものでここに大山寺の里坊が置かれていたことから大山寺西明院(さいみょういん)の鎮守を勧請したとされる。
大山では神仏習合、本地垂迹から江戸時代には12の権現が祀られるようになっていたとされる。
利壽権現の本地仏は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)で近隣からも多くの信仰を集めていたらしい。
明治の神仏分離、神社改正の時に今の丸山神社の境内に移されたという。

ちなみに、利壽権現、つまりこの稲荷社を八棟造(やつむねつくり)と説明してある記事を読んだことがあるが、どう見ても違う。普通は八棟造というのは権現造(ごんげんつくり)の別名だが、この社は明らかに流造だ。どこかで間違った情報がそのまま引き継がれているのだろう。

手の込んだ造りの社だが、単独で祀られていたにしては余りに小さい。大山寺からの勧請された権現なので、もとは仏堂に厨子として安置されていたものかもしれない。

それにしても、どうして利壽権現がお稲荷さんになったのだろう。本地の文殊菩薩もお稲荷さんや狐とは関係がない。何だか不思議だ。

植松神社

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○植松神社 (平成19年7月8日)

県道36号名和岸本線(なわきしもと)の久古(くご)を後に500mほど大山寺(だいせんじ)に向かって登って行くと番原(ばんばら)の集落の道端に植松神社(うえまつ)が現れる。

元は八幡宮(はちまん)と呼ばれたそうで中世には大山寺の本院が社殿を造営したとされる。ここもやはり大山寺と深い関係のある神社だ。

本殿すぐ裏に新しい大きな道が出来ていて、県道36号線も神社の横を通っているおかげで本殿を周囲の視界から遮る社叢がなく明るい境内になっている。

今日は見えないが大山を背後にして建っているのが、この神社の性格を現しているような気がする。
社殿は新しい。3mほどの一間社流造(ながれつくり)に千鳥破風(ちどりはふ)とさらに唐破風(からはふ)を付けたもので、彫刻が沢山施してあり非常に凝った作りで、いわば巨大な御神輿のような少し派手目の社殿だ。
屋根は勾配を強くして床面積の大きさに比べて非常に高く作ってあり軒の出も大きいため規模の割に壮大な印象を与える。

建物は彩色はされてない白木なのだが彫刻の多さは田舎の神社にしては目を見張るものがある。
社寺彫刻に登場する霊獣はつい先日まで竜と鳳凰(ほうおう)程度しか知らなかったのだが、実は一見似ているが違うものが沢山あることを先日読んだばかりだ。久しぶりに日光東照宮に行った時、東武日光線のフリーマガジンSPACIAで東照宮のあの膨大な彫刻群の見分け方のような特集があり、間違えやすい霊獣の紹介があったのだ。ポスターにも霊獣の違いをキャッチにしているものが出ている。
残念ながら東照宮では彫刻が溢れていて霊獣がその中に埋まってしまい同定することは出来なかったし、一つ一つ確認しているそんな時間もなかった。一通り眼を通しただけなので未だに正確な区別は出来てない。
多分今後も霊獣の区別はつきそうにない。地方では興味を持って見るほど沢山の種類の霊獣が彫刻されている神社が少ないため同定する機会がほとんどないのだ。

唐破風の虹梁(こうりょう)にある正面のものはどうやら竜のようだが、横の木鼻(きばな)の彫刻は鼻が長く象のようにも見えるがどうも獏(ばく)のようだ。獅子の木鼻もある。多分狛犬ではなく獅子でいいと思うがそれ程自信はない。

大山の裾野に広がるここら辺り一帯は大原千町と呼ばれる水田地帯で、近隣では八郷米(やごうまい)というブランド米がある。また大原鍛冶のふるさとでもある(宍道湖中海巡礼記2005 鉄の道を往く その1 伯耆安綱伝承地)。
大原千町の千町とはもちろん広いということで、確かに高台となった見渡す限りの農地が広がる。
しかし、その昔はここも雑木の生い茂る深い樹海だったとされ、その開墾にまつわる伝説があることを知った。

昔ここには大蛇が守り神として村人と住んでいた。そこへ唐山(からやま)から山を7回り半もする大ムカデがやって来て村を荒らすようになった。ちなみに唐山というのは天皇巡幸と鬼伝説の孝霊山(こうれいさん)のことらしい(宍道湖中海巡礼記2004 日野川沿いに孝霊天皇伝説をめぐる)。
ともかく大蛇も村人も困っていたところ、大躰神(だいだいじん、おおたいじん)という神が開墾できる土地を探してここへやって来て、大蛇と人々が困っていることを知り大ムカデを弓矢で退治した。
感謝した大蛇は自分の住める場所だけを残して他の土地を譲ったので大躰神は開墾を始めた。ところが、ある日一夜にしてこの地に用水路(井手)が出来て上がっていて水をたたえた田が広がっていた。大蛇が一夜で作り上げたもので、大躰神がそのお礼に行ったところ大蛇は疲れ果て息絶えていたという。
こうして広大な農地が出来上がり大原千町と呼ばれるようになったという。

神社の彫刻の一つはこの大蛇を表しているとのことだ。ただ、大蛇なのか龍なのかはっきりしないが。

伝説が何を反映しているのかはわからないが、実際に原生林が徐々に開墾されていったのは確かで、その重要な役割を果たしていたのが大山寺なのもまた間違いない。

ところで、大蛇と大ムカデといえば俵(田原)藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の伝説が思い出される。秀郷は平将門(たいらのまさかど)の討伐で有名だ。
瀬田(せた)の唐橋(からはし)に大蛇が横たわり人々が恐れて橋を渡れなくなっていたが、藤太は平然と跨いで通り過ぎてしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて、自分は琵琶湖の龍神で昼間の大蛇は自ら姿を変えていたもので度胸の座った豪の者を見つけるためだったと言い、龍神一族が三上山に住む山を7巻半する大ムカデに苦しめられているので退治して欲しいと訴える。結局、藤太はムカデの嫌う唾を矢につけて眼を射て退治に成功するというものだ。

また、蛇とムカデの戦いは日光の戦場ヶ原の伝説もある。
下野国(しもつけ)の男体山(なんたいさん)の神と上野国(こうづけ)の赤城山(あかぎ)の神が領地をめぐり争うことなり、男体山の神は大蛇に赤城山の神は大ムカデに姿を変えて一族を率いて戦った。
大ムカデに大蛇は押され奥州から弓の名人、小野猿丸を助太刀に頼んだ。猿丸の射た矢は大ムカデの左眼(右眼という説も)を貫き、男体山の神の大蛇が勝利した。戦場ヶ原というのはこの戦いが行われたのでそう呼ばれるようになったとされる。

これらの話はかなり共通点が多い。大蛇と大ムカデが争い、大蛇が助太刀を頼んで大ムカデを退治するというのが基本のようだ。いつも大蛇のほうが劣勢だ。蛇はムカデが苦手なのだろうか。
ところで俵藤太秀郷の百足退治と戦場ヶ原戦譚はどちらかがが原型に違いない。助力を得て眼を弓で射て倒すというストーリーは同じだからだ。
実は戦場ヶ原伝説に似たものが関東から東北に広く認められるらしい。話自体も秀郷のものより素朴でドラマチックな要素が少ない。秀郷の本拠地が下野だったとされることをなどから、戦場ヶ原の話を元に秀郷の伝説が作られたと考えられているとのことだ。

それにしても大蛇と大ムカデの伝説がここにもあったのは意外だった。全国的に広がる話なのだろうか。
ここ大原千町の話は秀郷のムカデ退治に非常に良く似ている。ムカデの大きさの表現も「山を7回り半する」と同じだ。多分原型は秀郷の話なのだろう。
古来より伝わる地元の話なら、地域的に出雲神話の影響を受けるはずだ。そうすると、八岐大蛇の伝説を考えると、退治されるのはムカデではなく大蛇だろう。また、大きさも記紀よれば、八岐大蛇は8つの山と8つの谷にわたるとされるので、7回り半という数字は出てこない気がする。

大ムカデも大蛇も関係なく、ウグイスが長閑に鳴いている。

久古神社

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○久古神社 (平成19年7月8日)

国道181号線に入り岸本から県道36号名和岸本線(なわきしもと)で大山(だいせん)方向へ向かう。この道は山に向かってほぼ真っ直ぐに裾野を上って行くので、いつもなら正面に大山が見えるはずなのだが、今日はここまで近づいても霞んでいて山容がはっきりしない。

米子自動車道の高架下を過ぎ、久古(くご)のバス停に停めて集落には歩いて入った。
車は通ることが出来るが両脇の民家が迫っていて一台がぎりぎりの道幅しかなくすれ違いが出来ない。通るだけならそれほど問題ないが、相変わらず農村集落は静かで部外者が軒先をバイクで通り過ぎるには気になれない。やはりバイクは車より騒々しすぎる。

国土地理院の25000分の一の地図を片手に神社を探して歩くのだがなかなか見つからない。
集落を抜ける細い道を登ってゆくと高台となって周囲が開けた場所に出たところでようやく発見した。田圃や果樹園、畑に囲まれ、向こうには米子道が走っている。高速道路を走っていると見えるはずなのだが今まで気がついてない。

久古神社は大山を背後に石垣の上に建っているため、何か屋敷跡のような印象を受ける。
境内は特別広いわけではない。夏草が生えるに任せて少々荒れている。唐破風に竜の彫刻があるのだが彩色はすっかり剥げている。しかし、何故か緑色だけ残っている。周囲の蟇股にもやはり緑だけが残っているのだが、それが何か緑青のように見えてしまう。
本殿はよくある大社造系の切妻妻入。

大山の裾野で少し高台となった場所にあるため境内正面は良く開けていて米子自動車道の向こうには米子の市街が広がるのが見渡せる。
なだらかに広がる大山の麓のこのあたり一帯、大山に向かって登ってゆく県道36号線沿いの久古、番原(ばんばら)、八郷(やごう)、大原(おおはら)、丸山(まるやま)といったところは大山寺(だいせんじ)と深いつながりがある。正確にどこまでを領有していたかは定かでないが、古くから大山寺領として開拓された場所なのだ。

ここは大山寺西明院久古御牧(さいみょういんくごのみまき)の故地とされ、大山寺領の開拓に際しての総鎮守だったのがこの久古神社とされる。
久古のほか近隣の産土神として信仰され古くは山王宮と呼ばれたという。現在の祭神は大国主命(おおくにぬし)とされているが、これは当然明治以降のことだ。山王宮と大国主命は結びつかない。

山王宮という名前からは日吉山王(ひえさんのう)が容易に連想される。それは当然で大山寺は古くより天台宗寺院だった。多くの天台宗系の寺には比叡山の守護である日吉山王が勧請されているが、その例に漏れず大山寺も山王権現(さんのうごんげん)を祀っていたことが知られている。大山寺がここを御牧とした時に山王権現を開拓の鎮守として祀ったと思われる。

山王権現は日吉大社(ひえたいしゃ)で奉斎される。日吉大社は天台宗総本山の比叡山守護で寺と一緒になり発展した典型的な神仏習合だ。東西の宮で構成される日吉大社だが、西宮は奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)から大物主神(おおものぬし)を勧請している。大物主神は大国主命のこととされるので現在は大国主命が祭神とされているが、創建当初は東宮の大山咋神(おおやまくい)のみでこれが根本と考えられ、一般に日吉山王は大山咋神のことを指す(宍道湖中海巡礼記2004 神社紀行 日吉神社)。

山王宮と呼ばれた久古神社が大山咋神でなく大国主命を主祭神としたのは、この地方では馴染みが薄かったからではないだろうか。大山との関連から大神山神社(おおがみやま)と同じ祭神にしたのかも知れないし、あるい国造りの神だということでは開拓の神として大国主命としたのかもしれない。少なくとも日吉大社の西宮の大国主命を直接勧請したのではないと思う。

今、ひっそりと建つこの社は事前の知識がなければ訪れることのない田舎集落の鎮守にすぎない。
二度と来るとは思えないが神社前まで集落を通らない広めの農道があるのでそれを使うのが楽だ。車を利用するなら米子自動車道と交差する手前にここまで続く横道があるはずなのでそれを探すのが良いだろう。

大神山神社里宮

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○大神山神社里宮 (平成19年7月8日)

今年も空梅雨かと思われていたが、季節も終わりごろになって九州南部を中心に大雨と洪水になっている。山陰は長雨の合間の雲空となった平成19年7月8日、大山寺(だいせんじ)の関連社などをまとめて廻る。

一度は大山寺とゆかりの深い場所を廻ってみたいと以前から思っていたので、中国三十三観音霊場巡りの一環としてまとめて訪ねてみることにした。観音霊場を打ち終えたのでそのお礼参りの大山寺へのお参りも兼ねている。いわば一石二鳥な巡礼だ。

中国地方最高峰の大山は出雲国風土記の国引神話では伯耆国(ほうき)の火神岳(ひのかみたけ)として出てくる、古代よりよく知られ、その具体的な内容は今となっては不明だが神の山として信仰を集めていた。
大山を祀る神社は山を御神体そのものと見なした遥拝所として始まったとされる。山の中腹に出来た遥拝所はその後に修験道と結びついて神仏習合が進み寺となり大山寺となった。そして、里にあった遥拝所から発達したのが大神山神社(おおがみやま)と考えられている。

大神山神社への入り口は土地鑑がなければ少しわかりにくい。
山陰道の一部となっているバイパスでなはく、市街地を通る国道9号線を米子の東で県道24号線に入り大山に向かって走ると、山陰道の国道9号線をくぐったところに小さな案内が出る。

駐車場からアジサイの咲く境内を進む。晴れていれば境内の遥か後ろには神の山とされる大山がその雄姿を見せているはずなのだが、あいにく曇っていて何も見えない。

本殿は5-6m四方はある大きな大社造。さすがに伯耆二宮とされるだけあって立派なものだ。主祭神は大己貴命(おおなもちのみこと)、つまり大国主命(おおくにぬし)。大山祇神(おおやまずみ)、素戔嗚尊(すさのお)、少彦名命(すくなひこな)を相殿神として祀る。もちろん大神山神社は元々は大山そのものを御神体として祀っていたとされるので主祭神が大己貴命に落ち着いたのはそれ程古いことではないらしい。伯耆は出雲の信仰圏でもあり国土開発などに縁のある大己貴命が選ばれたとされる。

現在、大神山神社と呼ばれる社は二つある。一つはここでもう一つが大山山腹の大山寺にある。つまり、ここの里宮と大山寺にある奥宮の二社形式になっている。しかし、この里宮と奥宮の今の形に落ち着いたのは明治の神仏分離令以後のことだ。
明治の神仏分離で大山寺は一時廃止され大智明権現(だいちみょうごんげん)を安置していた寺の奥の院が大神山神社の奥宮とされたことによる。ずいぶんと離れた大神山神社に併合されたのは、大神山神社も大山寺も共に大山の遥拝所から発達展開し大山を奉じていたことによると思われる。

境内の向かって左奥の本殿横に、「大山奥宮、下山神社遥拝所」があり御神木が祀られているのが大神山神社の性格を良く表している。もちろん下山神社というのも大山寺にある神社だ。
狛犬は狐。平成6年作だが、かなり目つきが鋭く少々気圧される。

この神社はハナショウブの名所として知られていた。東京の明治神宮から譲り受けた株を増やして最盛期には2000平方メートルに50種類3万株となり、菖蒲園は季節になると観光客が訪れていた。
当初は神社が管理していたが経費は赤字で2003年からは氏子の有志の維持管理に移行していたらしい。しかし、過疎にあえぐ田舎都市、世話をするのは当然老人なので、結局、経費も手間も負担は大きくとても氏子だけで継続出来るものではなくなったということで、昨年で閉園していた。

神社横の菖蒲園に行ってみると、手入れは全くされてなく菖蒲と夏草が入り混じる荒地に変わっていた。一面に咲いていた菖蒲を思い出すと、その変わり様は寂しい。

隣の蓮池には白、黄色、薄いピンクの蓮の花が可憐だ。また、境内にはアジサイが多く植えてあり今が盛りでだ。しかし、以前見たあの菖蒲園の一面の花模様にはかなわない。

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