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○平家物語 その3
矢中の松 (平成19年5月13日)
安来(やすぎ)から県道45号安来木次線(やすぎきすき)を南下して足立美術館を通り過ぎて広瀬(ひろせ)の町に入る。
戦前の教科書を知っている人にとっては、山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が月に祈った地といえばわかるだろう。月山富田城(がっさんとだ)、戦国時代の山陰の覇者、尼子(あまご)の居城。尼子氏といっても現在は戦国時代に興味がある人しか知らないと思われる。因みに「富田」は「とだ」と読む。「とみた」ではない。
町の前の飯梨川(いいなし)の向こうには山頂に富田城の聳えた月山がある。今は城跡になっている。
広瀬の町なら、当然尼子に関連した散策が思い浮かばれるが、それはまたの機会にして、今日は平家を視点にして廻る。
月山の山頂にあった富田城は平家の武将である景清(かげきよ)が築城したと伝えられる。城を築く時に、そこにあった八幡宮を遷座することになって、遷宮の地を選定するのに闇夜に白羽の矢を山頂の宮から放って、射た所に新しい社殿を造営したという。
もちろん史実とは考えられず伝説に過ぎない。
広瀬の町の南端に鳥居がある。見えているのだがそこへ入って行く道がわかりにくい。さらにわかりにくいが、そこに小さな松の木があり矢中の松(やだてのまつ)という看板が立っている。
この松が平景清が射た矢のあたった松だとされる。現在4代目とのことだ。看板がなければ顧みることなく通り過ぎてしまうだろう。看板があっても気にも留めない人のほうが多いと思われる。
それにしても、月山の頂上からは遠すぎる。どんなにがんばっても、ここまで射られた矢は届かないだろう。
平景清、悪七兵衛(あくしちべい)とも呼ばれた。平氏に使えていたため平性で呼ばれるが藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫の伊藤氏とされ、藤原景清あるいは伊藤景清というのが正しいらしい。
悪七兵衛の悪というのは叔父殺しの伝説がありそれから付いたともされるが、一般には勇猛の意味だといわれる。平家物語で豪の者として描かれる。
弓流しの段の錣引き(しころびき)。
屋島(やしま)で対峙していた源氏と平氏。平氏の差し出した扇を源氏の那須与一(なすのよいち)が射る。扇の的の話の続き。
源氏方は歓声を挙げて大喜び。それに対して平氏方は堪らず数人が陸に揚がって源氏を挑発すると何騎かが飛び出してきてこれと戦う。平氏の勢いに押された源氏方の美尾屋十郎(みおやじゅうろう)が逃げるのを追いかけて素手で錣をつかんだ。結局、錣は引きちぎれて美尾屋は味方の陣へ逃げ帰る。
平氏の武者は手に残た錣を大長刀(なぎなた)の先に突き刺し高々と差し挙げて、
「遠からん者は音にも聞け、近くは寄って目にも見よ。我こそは、京で噂の上総(かずさ)悪七兵衛景清よ」と、勝ち名乗りを挙げた。
錣というのは兜の後ろに垂れ下がった部分で太い糸で編んだものが使われたりすることが多い。絶対に人力で千切れるようなものではない。それを素手で引きちぎるということで無双の怪力ぶりを示している。
それだけの力があれば月山の上から弓で矢をここまで飛ばせるかも知れない。
景清は謎が多い人物で、最後は壇の浦の合戦で捕らえられて鎌倉で斬首となったとも食を断って死んだともされる。しかし、壇の浦から落ち延びた後、源頼朝(みなもとのよりとも)が東大寺の落慶法要の参列のため上洛した時に群衆の中に紛れ込んで狙っていたところを捕まって六条河原で斬られたともされるし、逃げ延びた景清は最後に日向に入ったという説もある。
これらの伝説から謡曲、能、浄瑠璃、歌舞伎などで景清物という一連の作品が作られる。
日向には縁の地が結構あるらしいが、他にも景清の潜伏地とされる場所は多い。
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