同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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後醍醐天皇にまつわる史蹟 その4

伯耆稲荷神社(赤碕伯耆稲荷神社) (平成19年10月13日)

隠岐から脱出した後醍醐天が着いたとされる伝承地の荒涼とした箆津海岸(のつ)を後にして、次に向かう。

箆津の国道9号線に伯耆稲荷神社(ほうきいなり)の看板はあるのだが、そこから先には詳しい道順が示されているわけではないので、土地鑑がなければ行き着くのは少し難しい。
まず、看板から山に向かい国道から離れ集落を抜けてJR山陰本線を超える。このあたりはJRの線路に沿って南側に細い地元の生活道路が並行して走っている。その道に出られれば、どこから入っても良いのだが線路を越えられる場所は多くない。ともかく、その道に出るのが一番のポイントなのだ。
国道に沿う道に出たら、それを西へ向かう。しばらくすると山裾に入るので、それから注意して走ると左手に大きな鳥居が出る。そこを入って進むと数百mで神社に着く。

道に面して朱色に少々剥げの目に付く鳥居が並んでいる。桜の木が繁っているが、社叢は背面に少し残っているだけなので、全体には歴史を感じさせない。
拝殿は千鳥破風が申し訳程度に付いてはいるものの、トタン葺きの屋根にアルミサッシの扉で公民館と間違えそうな建物だ。
本殿もコンクリート造りでで風流がないこと甚だしい。

拝殿にさだまさしの色紙があったが、本殿の左手に「株式会社さだ企画奉納」の鳥居のある社。
伯耆弁才天神社と呼ぶようだ。祭神は厳島大明神で、別名江ノ島弁才天と略記にあるので、宗像三神の市杵嶋姫(いちきしまひめ)と弁財天がの神仏習合した社であることは分かるが、さだまさしとのつながりは全く不明だ。
一つだけ分かったのは、さだまさしは佐田雅志と書くのだということだけだ。

ここは別にさだまさし縁の神社ではない。
後醍醐天皇が名和長年や大山寺僧兵の協力もあって、船上山で鎌倉幕府軍を撃退し、いよいよ京都へ向かう時に、ここで休憩し戦勝祈願をしたと伝えられる。
古い歴史を持つ由緒正しい神社だ。しかし、その割りには、由来を伝えるものは何もないようだし、天皇との関係を全面に出す気もないようだ。
旧社地がここではないようなので、それも関係しているのだろうか。

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後醍醐天皇にまつわる史蹟 その4

箆津海岸 (平成19年10月13日)

逢坂八幡、木ノ根神社、お船頭山のある交叉点から、国道9号線を更に東へ5-6km。赤碕の町の手前の直線道路のところが箆津(のつ)だ。

山側には田圃が広がる。反対の海側にも別に観光ポイントとなるようのあ場所も目に付かない。しかし、敢えて大きな酒造工場の横の小道を海岸に向かって入る。

海岸へ出ると砂浜が広がり風が強い。
眼前には、荒れていると言う程ではないが白波が目立つ日本海が広がり、何もない殺風景な浜に波が寄せては返す。見渡す限り民家もなく、荒涼とした印象を受ける浜辺だ。

ここからも空気が澄んでいれば当然、隠岐島(おきのしま)が見える。
後醍醐天皇(ごだいご)が隠岐を脱出して伯耆国(ほうき)、今の鳥取県西部の海岸に着いたことは歴史的な事実だが、何処から上陸したのかは諸説ある。要するに分かってないのだが、一番有名なのは、名和の御来屋(2005年、後醍醐天皇にまつわる史蹟1、後醍醐天皇腰掛石)。そして、逢坂もそれなりに知られている(2005年、後醍醐天皇にまつわる史蹟1、隠岐の神塚)。実は、ここ箆津海岸も候補地の一つなのだ。
しかし、前の二ヶ所と違って、ここはほとんど知られていない。記念碑らしきものもないようだ。少なくとも調べた範囲ではそうだった。そして、こうして浜に来てあたりを眺めるのだが、やはり、後醍醐天皇を連想させるような物は何もない。

決死の思いで隠岐を逃げてきた天皇の一団が、堂々と港に入ったとは思えない。難民の違法入国と同じなので、船を付けるのは人里から離れた場所が良い。自然の磯は船を着岸し難いので浜を選びたいところだ(2005年、後醍醐天皇にまつわる史蹟1、隠岐の神塚)。
そんなことを考えていた天皇と側近には箆津の浜辺はぴったりの場所と言えるだろう。

浜の西向こうは崖になって連なっている。台地の上には戦国時代には城があったらしい。箆津城址と言われるものだ。後醍醐天皇の時代にはなかったので、安心して上陸できる。
更に、近くには弥生時代の遺跡などもあるらしいが、場所は未確認だ。
人影はなく寂しい浜だが、昔から少し行けば集落があったということだ。
無事に伯耆国に上陸したあと様子を窺いに行ったのだろうか。

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後醍醐天皇にまつわる史蹟 その4

お船頭山(平成19年10月13日)

逢坂八幡(おおさか)と木の根神社から国道9号線を道を隔てて反対側の小山の上に、碑か東屋のようなものが見えている。正確な場所は事前に確認できなかったが、あれに間違いないだろう。
昨年、後醍醐天皇(ごだいご)が隠岐(おき)から逃れた時に着いたと伝えられる「隠岐の神塚」を尋ねた時に(2006年、後醍醐天皇にまつわる史蹟1、隠岐の神塚)、その説明板にあったので来て見たのだが、肝心のこちらには案内がないようだ。

丘の下を歩いてみるが、上り口がなかなか見当たらない。ようやく右に少し回る細い道の途中に遊歩道らしい入り口を見つけた。
上って行くと、ほぼ頂上近くで反対側からの道と合流する。狭いながらも車が通れる幅で、どうやらそちらが本道らしい。

頂上は広くはないが平で、民家の墓地になっていて、そこから少し離れた一画に塚がポツンと建っている。御船頭塚の文字。
この山をお船頭山(おせんどうやま)と言い、後醍醐天皇の脱出の時に隠岐から逢坂まで送ってきた船頭を葬ったと伝えられている。
船頭は隠岐には帰らないでこの地で余生を過ごしたが、「自分は死を覚悟して天皇様を伯耆の国までお連れ申し上げた。しかし、死後は隠岐の見える地に葬って欲しい。」と言い残したため、村人がこの山に葬ったとされる。

島根半島から鳥取県の西部の海岸は、晴れていれば隠岐島の島影を見ることが出来る(2005年、日韓交流の交流を望む、赤崎道の駅、ポート赤碕)。ただ、日本海の沖60-70kmにあるので、かなり空気が透き通っていなければ駄目だ。台風一過で空気中の塵が強風と雨で流された後とか、冬の空気の澄渡った午前中などが比較的よく眼に出来る時だ。
確かに見晴らしはよく目の前には日本海が広がっているのが良く見える。しかし、残念ながら今日は少し霞んでいるため隠岐島は見えない。海岸沿いに建てられた風力発電の巨大風車が5-6機、ゆっくりと羽を回している。

碑の手前は少し公園風に整備されていて花壇があり、下から見えたように東屋もある。そして、その東屋には意表をつく仕掛けがしてある。椅子には何と、等身大もありそうな大きな熊のプーさんが座っているのだ。しかも、テーブルにはタオルが置かれている。プーさんが汗を拭いたのだろうか。
縫ぐるみが置かれている理由が分らない。訪れる人を驚かす目的とすれば、それは成功しているようだ。
ここはかなり知名度の低い旧跡なので、誰かがいるとは想像もしていない。そんな場所へ、下から上って来ると、背中を向けて子供くらいの熊が椅子に座っているのが突然眼に入るのだ。しかも、その姿はまるで死んでいるようで全く精気が感じられない。一瞬、ギョっとする。
縫いぐるみだと分った次は、ほっとすると同時に、突然動き出すような妙な想像が浮かんでしまう。実際に動いたら、間違いなく腰を抜かしてしまうだろう。ひょっとするとこちらの心臓は止まってしまうかも知れない。
ただ、そんないたずらをしようと思っても、ここに来る人は滅多にいないので、何日も縫ぐるみのなかで待たないといけなくなるだろう。もし、そんな人がいるのなら、それはそれで本当に恐ろしい。
いずれにせよ、人影のない東屋に一人ポツンと座った熊のプーさん。かなりシュールな情景だ。熊が怖い。

公園の後ろは山桜で春には美しく咲くらしいが、今は塚の周りにコスモスが揺れているだけだ。

もと来た道を帰るのだが、これも少々怖い。小道はコンクリートで舗装されているのだが、その上が苔むしていて滑りやすくなっている。人が通らないのだろう。雪の上を歩くような感じでそろそろと歩く。

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民俗学考 その1

甫登神社(逢坂甫登神社)(平成19年10月13日)

木ノ根神社から八幡さんの六角堂を過ぎると、草に覆われて手入れのあまりされてない広場があり、更に進むと甫登神社の鳥居が見えてくる。

鳥居の向こうは、巨石で形作られた構造物が待っていた。古墳の石室と思われる。新たに作ったのものではなさそうな感じだ。
人が悠々と入ることが出来、相当に大きい。中には「やきもち神」と書いてあり巨大な岩が据えてある。

やきもち神、これだけでは「やきもち」と言うのが何だか分からないが、木ノ根神社とこの先にあるはずの甫登神社の関係を考えれば、何となく理解で出来ないでもない。

石室を抜けたところが甫登神社だ。通路に蛛の巣が張っていて最近人が来ている様子がない。
こちらも石室の壁ようだが一部コンクリートで補強してある。奥と左右の三面のみが石組の壁で外にそのまま姿を現している。上は切妻の天井で覆ってあり、石組みを保護してある。正面は鉄格子で守られていて、石には触れることが出来ないようになっている。

一番奥の真ん中に注連縄の飾られた苔むした岩があり、それが甫登神社の御神体である「ほと」神様で間違いない。「甫登」は「ほと」と読む。
「ほと」というのは、女性器の古語だ。もちろん先に見てきた木ノ根神社と対を成す。
このような男女性器の形をした自然の造形を御神体として祀る神社は全国に数多い。その中には、単なる石でも結構リアルな形をしたものもあるのだが、ここの御神体には、それほど写実的な要素はない。木ノ根神社にいたっては、どこがその様な形になっているのかさえ、よく分からなかった。

御神体の前の左右に50cm程の石が置かれているが、それには明らかに人が彫った穴が開けてある。誰かが奉納したものだろう。

やきもち神、甫登神社、共に石室の一部のような気がしていたが、古墳の転用かというと自信がなくなった。壁の石がコンクリートで間を埋められているからというのではない。それは補強されてるだけかも知れないのだが、古墳の石室にしては内部空間が大きすぎる気がするのだ。もちろんこの程度の規模の石室はいくらでも存在するが、その場合、壁に使われる石はかなり巨大なもののことが多い。ここでは、屋敷の石垣のような大きさの石で組まれていて、小型の占める割合が多い。
しかし、これを新しく一から作ると言うのはもっと妙だ。石室にする必要がないのだ。御神体を安置したお堂を建てるだけでいいはずだからだ。
結論が出ないまま、神社を後にした。

木ノ根神社の駐車場まで帰る途中、草の生えた手入れの行き届かない広場を再び通るのだが、その隅に、上下のひっくり返った鳥居がある。「大山股のぞき」と書いてあるが、山の方向には木が生い茂っていて大山は全然見えない。

逆さになった鳥居の形が奇妙だ。鳥居は普通、島木と笠木が二本の柱の上に並行に置かれているのだが、この鳥居はクロスした形になっている。

股のぞきと言えば、日本三景の一つ天橋立が有名だ。確かに、天橋立はそのまま眺めれば天駆ける龍に、そして逆さに見ると天に向かって伸びる架け橋のように感じられる。他にも、股のぞきと称する場所はあるが、見方自体に特別な意味のあるものは多くない気がする。天地を逆にすると見え方が変るということだろう。
しかし、「大山股のぞき」はそう言う見方の違いとは全く異なるのではないだろうか。もちろん単に大山の遥拝という意味でもないはずだ。それどころか、遥拝するのは大山自体ではないような気さえする。
いずれ考察する機会もあるかも知れない。

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民俗学考 その1

木ノ根神社(逢坂木ノ根神社)(平成19年10月13日)

平成19年10月13日。和牛博覧会の日。さわやかな秋晴れとなった。和牛博というのは正式には和牛品評会と呼ばれるもので、5年に一度開かれる和牛のオリンピックのようなものだ。今回は第9回、鳥取県の米子を中心にいくつかの会場に分かれて開催されている。
開会期間4日間で20万人の来場者を見込んでいるらしいが、牛のファンがそんなにいるのだろうか。そもそも、山陰の片田舎に来るのに足はどうするのか。来てもどこに泊まるのか。他人事ながら心配だ。

牛への興味はないが、隠岐の闘牛、つまり牛突きがイベントとして行われるらしく、それは見ても良いな、などと道端の和牛博の案内や幟を見つつ、鳥取県の国道9号線を東へ走る。相変わらず鳥取県内の国道9号線は、走っていてつまらない。

道端の温度計は21度。太陽が雲に陰ると少し肌寒い。もうすっかり秋だ。

米子市から東へ20数km。逢坂(おうさか)と言う場所に、木の根まんじゅうの大きな看板を挙げたトラックステーションのような食堂がある。その近くの道端に逢坂八幡があり、隣接するように、木ノ根神社がある。

神社の駐車場には大阪ナンバーの車が一台停まっていて、社の方へ若いアベックが歩いている。カップルに相応しい神社と言えなくもない。ここのシンボルはリアルではないので大丈夫だろう。

木ノ根神社の社標柱、鳥居から少し高台に向かって階段があり上の少し平らな部分にこじんまりしたお堂がありそれが社だ。
途中に、甫登神社、やきもち神の洞窟、八幡大菩薩の案内がある。八幡はともかく、木ノ、根、甫登、やきもち神などの名前から何が祀ってあるのかが容易に想像出来る。
お堂の横にはここを訪れた小泉八雲の文学碑がある。八雲は紀行文「日本海に沿うて」で、この神社を紹介しているそうだ。

描写は小泉八雲に任せることにした。原文は手元にないが、案内板と記念碑から抜粋する。

上市という、眠ったような小さな村の近くで、名高い神木を見るというので足を止める。神木は小高い丘の森の中にあった。木立を入ると、三方を低い崖に囲まれた、小さな窪地みたいなところへひょっこり出た。
・・・(途中省略)・・・
崖の上には樹齢いくばくも知れぬ見事な老松が、高々と群らたっている。太い盤根が岩を割って崖の表面に這い出し、さしだす枝と枝が低いそこの窪地に、昼なお暗い緑陰をおとしている。その中の一本が、太い三本の根を妙な形に突き出していて、その根元のところに、なにやら祈願の文句を記した紙のお札だの、奉納の海草だのが巻きつけてある。なにか言い伝えによるというよりも、その三本の根そのものの形が、民間信仰からこの木を神木に祀りあげたというものであるらしい。

つまり、御神体は巨大な木の根で、男根の形をしているということだ。お堂は覆屋にすぎない。御利益は当然、子宝、縁結び。
正面扉の格子から中を覗くと、地面には多数の男根の奉納物と小さな祠がある。その後ろに確かに巨大な木の根があるのだが、屋根で覆われているために全体像がつかめない。枯れ木の幹という以外にどの様な形なのかは全くわからない。肝心の三本あるのかどうかもはっきりしない。
結論としては、相当、初心(うぶ)な乙女でもこれなら大丈夫だろう。因みに、国道沿いにある木の根まんじゅうというのは、シンボライズした形の大きな饅頭だ。

右手に更に進んで行くと六角のお堂があり、中に立木のようなものが安置されている。これが案内にあった八幡大菩薩で、隣接する八幡神社に置かれていた仏像に違いない。明治の神仏分離で神社から出されたのを氏子達が守ったのだろう。
扉は開かないのでやはり格子越しに眺める。
三尊形式らしく、右脇侍は何となくお地蔵の様だ。唯一それが像に見えるもので、中尊を含め残り二つは枯れ木のようで判別不能だ。八幡なので、お地蔵様ではなく僧形八幡かも知れない。

逢坂八幡と木ノ根神社の関係は駐車場の由来に記してある。
生まれつき体が弱かった松助という若者はいつも嫁に逃げられていた。見かねた母親が八幡さまに参ると「山の中ほどにある大きな松の根を祀れ。」とお告げがあり、一心に祈願したところ、数日経つと、息子の松助は見違えるような立派な男になり、子宝に恵まれて長者になったという。
松助というのが既に暗示的な名前になっていて、作られた印象が強い。八雲が考察したように、初めに男根に似た木の根を祀る民間信仰があり、それから、由来譚が出来たのだろう。


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