同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その7

八口神社(印瀬の壺神)(平成19年9月24日)

日登から西へ伸びる飯石ふれあい農道にもどって分岐を探す。長者の福竹への分岐案内から西へ200m程進んだ所に一車線しかない道がある。細すぎると思ったがどうやらそれらしい。
狭い道だが、市民バスのバス停がある。自治体経営の小さなバスが走っているのだろう。バス路線であるからには、さすがに二輪での通過に支障はないだろうと思い進む。

道は途中で広くなることもなく完全に一車線のままで、そのうちに民家もなくなった。車同士はすれ違うことは出来ない幅の道が続く。

1km余りで集落が出て来て、それを過ぎると看板が出た。山間の狭道が続く。更に案内から1km程で田圃の畦道にぶつかり、行き止まりとなる。
少し広くはなっているが、駐車場と呼べる場所ではない。大きな車で入ってくると戻るのに苦労するかもしれない。

周囲は狭い山間に棚田が耕作されている。少し奥の山の斜面に鳥居が見える。
かなりくたびれた感じの説明板があり、八口神社(壺神さま)の案内が立ち畦道が先に続いているので、どうやら間違えずに来られたようだ。

ここが八岐大蛇にまつわる、もう一つの八口神社で(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇3、八口神社)、区別のためか、印瀬(いんぜ)の壺神と呼ばれることが多いようだ。

鳥居まで苅り入れの終わった棚田を横に見ながら上り道を行くと、そこからさらに急な山道の階段となったが、さほど登ることもなくすぐに境内に着く。周囲は森に囲まれた暗い社だ。

神社は1m程の方一間の祠のようなもので、案外に小さい。神社は結構有名なため、本殿と拝殿、両方が備わった立派な社を想像していた。
いつもは、「こんな小さな山間の集落に立派な社があるとは意外だ。」との勝手な感想を連発しているが、逆に思いのほか小さく質素で驚いた。
よく考えれば、小さな山村には小さな社、それが当たり前なのだが。
隣には祭りに使う道具が保管してあるのか、公民館のような、倉庫のような建物があり、そちらのほうがよほど大きい。ひょっとすると社務所なのか。

境内の隅には多くの注連縄で囲まれた木がある。中には若木も混じる。荒神などだろう。その数から、祭祀が盛んであることが窺われる。

そして、社の隣には、1m四方程の瑞垣で囲まれた石がある。これが御神体、印瀬の壺神さまだ。
加茂町の八口神社と名前は同じなのだが伝わる話は違う。
記紀によれば、素戔嗚尊は強い酒を作らせてそれで八岐大蛇を酔わせて退治した。その時、酒は八つの壺に分けて置いて、八つの大蛇の首が一つづつ飲めるようにした。
これは、その酒壺の一つだとされる。

瑞垣の中には、小さいものは数十cm、大きくても70cm位のいくつかの石が置かれている。
中央が窪んだ大きな岩を想像していたので、見た瞬間かなり戸惑った。正直、どう見ても壺には見えないのだ。少々失礼な言い方をすれば、その辺の邪魔な石を集めて積んだだけといったものだ。
それもそのはず、壺は隠れているらしい。
説明板が置かれていて壺神由来が書かれている。それによると、昔、住民が壺に触れたところ天は一転かきくもって山は鳴動し鳴り止まなくなり、幣と供物を捧げてようやく収まった。それ以来、人の手の触れることを恐れて、沢山の石で壺を覆い玉垣と注連縄で囲んだのだそうだ。

石が壺に見えないのは何故か、少々悩んだが、これで納得した。壺は隠してあるのだ。
石で覆われているということだが、その石はほとんど地面と同じ高さから積まれている。と、いうことは、壺はそのほとんどが地中に埋まっているようだ。
神話の壺はどんな形をしていて大きさはどの位で材質はどの様なものなのだろう。興味はある。
確かめるには積み上げられた石をどかさなければならない。人の気配はないし、誰も来るとは思えない。やれば出来ないこともなさそうだが、もし、誤って壺に触りでもしたら、空はかき曇り山は鳴動してしまう。大変だ。もっとも、そんなことはする気もないが。
ともかく、御神体なのだから地下に埋まっていても全体を玉垣で囲んでいるだろう。つまり、そこから直径は1m以下だと思われる。

大きさにこだわるのは、八岐大蛇がどれ位の酒を飲んで酔って寝てしまったのか疑問に思ったからだ。記紀は大蛇の大きさを八つの山や八つの谷にわたると表現するが、さすがにそれでは酔わせるのに壺が小さすぎる。ひょっとして八岐大蛇はアルコール分解酵素を持たない生物で、極少量でも酔ってしまったのだろうか。それとも、初めての酒で耐性がなかったのだろうか。
一番ありそうなのは、記紀の表現が誇張で数十メートルの大きさだったいうことだろう。あくまでも、八岐大蛇が存在したとしての話だが。

境内を後にしてバイクまで戻ると、暗くなっていた空からポツポツと雨が降ってきた。境内がやけに暗い気がしたのは空が曇ってきていたからだったのだ。
今日のこれ以上の訪問はあきらめて帰路に着く。途中雨脚が強くなり、国道54号線、木次にある道の駅「さくらの里きすき」で雨具を着ての雨中走行となった。
雨の中は二輪は滑りやすくなるし、ヘルメットにワイパーもないので走りにくい。壺のことや八岐大蛇のことなどで、つまらないことを考えた祟りなのか。壺には触れてないのに。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その7

長者の福竹(平成19年9月24日)

県道安来木次45号を木次(きすき)から3km程東にJR木次線の日登駅(ひのぼり)があり、その更に数百m下久野(しもくの)寄りに飯石ふれあい農道との交差点がある。その農免農道を西に走って行くと、途中に小さな案内板が出る。見落とさないようにしないと通り過ぎてしまうので注意が必要だ。西日登芦原という集落で更に細い農道に導かれて、多少不安になりながらも進んで行くと長者の福竹に到着。

山の中腹に看板がある。駐車場はないし、道は細く時々地元の農作業の車が通るので、自家用車なら広い農道に停めて歩いた方が良い。その点バイクは駐車にスペースが要らないので便利だ。

細い道は山の畑の畦道の様だ。そう思いなが登ると本当に山の斜面を切り開いた畑になっった。その片隅に、何やら一坪程の柵で囲まれた一画があり、説明板が立っている。

足名椎神(あしなづち)、手名椎神(てなづち)と奇稲田媛命(くしなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)から逃れる時にこの地に立ち寄り休憩した。そのとき両親が使っていた竹の杖を地面に立てたところ杖から根が出て竹になったと伝えられる。
佐白(さじろ)の長者屋敷跡にあった立身竹と同じ言い伝えだ(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇6、長者屋敷跡)。
足名椎神、手名椎神と竹はどうやら切っても切れない関係にある。そこで、竹と笹の違いはあるものの、横田町の稲田神社近くにあった笹宮を奇稲田媛命らの屋敷跡というか宮跡というか、そういう伝説のものだろうと考えたのだ(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇6、稲田神社元宮跡)。あそこにも杖が笹に変わったと言う伝承がきっとあるはずだ。

近寄る前から何か違和感があったのだが、その理由にようやく気がついた。柵の中に生えているのが、南天なのだ。長者の福竹と言いつつ、竹でも笹でもない。それで良いのだろうか。

ここの周囲は個人の畑だ。説明によると少し暗い歴史を感じた。戦時中に食糧確保の目的で畑にされてしまって、竹林がなくなったのだそうだ。しかし、その後伝承地を示すために今の様になっているのだと。
何か植えて場所を残すのなら、南天ではなくもう一度竹を植えて欲しかった。しかし、少しでも手入れを怠ると竹はどんどん広がり周囲へ侵食してゆく。手入れをしても根が広がってゆくのはなかなか抑えられない。せっかく竹林を耕して畑にしたのに、竹をもう一度植えることは出来なかったのだろう。
代わりに植えられたのが南天というのも意味深い。南天は古来より「難転」、つまり「難」を「転じる」とされる。不幸を幸いに変えるという事だ。全てが苦しかった戦争中の祈りが込められているのかも知れない。

後ろの谷を振り返ると集落の向こうに遥か、三角形の稜線をした綺麗な形の山が見える。天が淵から出てきた八岐大蛇に追われて奇稲田媛命と両親神は万歳山からここまで来てさらに伴昇峰に逃れたとされる(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇4、天が淵)。
その時は山容からそれが伴昇峰と思ったのだが、帰って調べるとどうやら方角は逆らしい。
伴昇峰というのはもちろん奇稲田媛命を伴って登った峰というところから付けられた名前だろうが、実はどの山がそれなのかはっきりしないようだ。

盆地状になっていて山深く感じる地だが、実際は斐伊川からは2kmほどしか離れていない。八つの山谷を跨ぐほどの大きさと記される八岐大蛇にしてみれば、手の届く範囲と言える。大蛇に手があったかどうかは知らないが。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その7

樋の谷(平成19年9月24日)

県道25号玉湯吾妻線の八頭峠(やと)を越えるとあるのが樋ノ谷トンネル。新しく整備されたトンネルだ。手前には左へ分岐する細い道、県道156号木次横田線が狭い急な峡谷に沿って続いているが、法面工事で通行止めになっている。

手前の小さな整理された場所があり、そこに説明板が立っている。
それによると、江戸時代に仁多(にた)、つまり今の奥出雲の上納米は斐伊川(ひいかわ)を運ばれていたが、川の氾濫で舟による運送が出来ず陸路を使うこともあった。しかし、陸路は急峻で輸送に難儀をしていた。そのために役所に勤めていた個人が樋の谷道を開削したのだそうだ。
説明板からはどうやら、樋の谷は現在通行止めになっている川沿いの道らしい。

ここにもまだまだ大蛇伝説が残っている。
樋の谷は天が淵から通じていて八岐大蛇(やまたのおろち)が行き来していて、大蛇が火を吹いたので樋の谷と呼ぶようになったとされる。樋の谷、ひのたに、火の谷という訳だ。
口から火を吹くと言うのは凄い。もうほとんど怪獣だ。大蛇伝説をいろいろ見て回っているが火を吹くというのは初めての知った。

記紀によると八岐大蛇の眼は赤加賀智(あかかがち)のようであるとか赤い酸漿(ほおずき)のようであったと記されている。赤加賀智と言うのもほおずきのことらしいので同じだが、要するに赤いということだ。
そして、八岐大蛇は斐川と踏鞴を表現していて、素戔嗚尊(すさのお)の八岐大蛇退治というのは、鉄を求めて進出した大和勢力の出雲制圧の話だという有名な説がある。それによると、この八岐大蛇の眼の記載は踏鞴での鉄の溶ける炎溶に比される。そんなところから、火を吹く大蛇のイメージが醸し出されているのかも知れない。

そういえば、かなり昔に掛屋町(かけや)の出雲神楽を見たことがあるが、その中の素戔嗚尊の八岐大蛇退治では確かに大蛇は口から火を吹いていた。もちろん花火だが。

ところで、樋の谷が天が淵に通じているのなら、ここから目と鼻の先の八頭坂にも簡単に行けそうだ。八頭坂では八岐大蛇を陸生かと思ったが、やはり基本的には水生生物でいいのだろうか。口から吐くのは火ではなく放射能物質だったがゴジラも海からやって来たな、などと思いつつ、樋ノ谷トンネルを抜けて下久野(しもくの)に抜ける。

久野川とJR木次線(きすき)に沿って県道安来木次45号線を西に木次へ向かう。両側から山が迫る峡谷の1-1.5車線道路だ。途中は車同士のすれ違いは出来ない場所が多い。その長さと大きさからはこちらが樋の谷と呼ぶのに相応しい気がする。

斐伊川は樋川とも記された(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇4、斐伊神社)。要するに「ひ」の川、つまり「ひ」という地を流れる川ということなのだが、樋の谷はこれに対応していることが容易に想像できる。樋の谷はもちろん「ひ」の谷、「ひ」という地にある谷ということだ。
斐伊川は島根を代表する大河川なので、その流域は広い。それを「ひ」という地名を用いて「ひかわ」と呼んだと言う事は、当時の「ひ」は相当に広い地域を表していたのではないだろうか。出雲国風土記では斐伊郷はかなり狭い場所を指しているが、巨大河川にをわざわざ狭い小さな土地名を付けることは考えられないので、既に風土記の時代には「ひ」の地が限定的なものになっていたと思われる。
下久野から木次に向かう途中に日登(ひのぼり)という地名がある。これが何時の時代まで遡れるのか知らないが、これも「ひ」という地名と無関係ではないだろう。

「ひ」の地が広かったとすれば、「ひ」の谷と呼ばれるからには相当大きな渓谷でなければならない気がする。今の樋の谷は少し小さすぎるのではないだろうか。大きさからは、やはり県道安来木次45号線沿いの谷が相応しい。どこかで変わってしまったのだろうか。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その7

八頭峠(平成19年9月24日)

国道314号線と432号線の交わる奥出雲仁多(にた)から県道25号玉湯吾妻線を北上したところに佐白(さじろ)という地がある。そこら一帯は、八岐大蛇(やまたのおろち)伝説が集中している場所だ。道路の佐白の地名板には稲田姫神話の里と書いてあり、姫と大蛇の絵が描かれている。

前回の時に見た鏡ヶ池や元結掛の松のそばを過ぎて小さな峠に向かう場所を八頭(やと)坂といって、峠を八頭峠という。
元結掛の松から山へ少し歩いた場所にあった長者屋敷跡の説明に「この付近一帯を八頭といい、昔、八岐大蛇が住んでいたところとされる」とあった。八つの頭がある八岐大蛇が住んでいたので八頭、実にわかりやすい。
しかし、ここに大蛇が住んでいたのなら、奇稲田媛命(くしなだひめ)と両親の住んでいた長者屋敷と近すぎる。ほとんど屋敷の庭先に大蛇が住んでいることになる距離だ。危険な大蛇のそばに住んでいては、襲われても仕方ないだろう。
地名説話としては面白いが現実的には少し無理がある。まあ、神話を現実の目で見ても仕方がないのだが。

大蛇の棲家としては、船通山(せんつうざん)の鳥上滝(素戔嗚尊の足跡 5、船通山)や、天が淵(素戔嗚尊の足跡 4、天が淵)などが良く知られている。いままで、八岐大蛇は爬虫類の仲間か両生類の仲間かは不明だが、水辺の生き物だと思っていたが、ここに住んでいたというこことは、陸上生物なのか。さすがに伝説の生物は謎が多い。

余談だが、隣の県の鳥取の東部に八頭という地名がある。そこにも大蛇伝説があるのかというと、これが全然違う。鳥取の八頭は「やず」と読む。これは、八上郡、八東郡、智頭郡が明治29年に合併した時に八頭という名前を作ったものだ。今は平成の大合併で、もとの八東郡だけで八頭町が構成されて小さくなってしまっているが。
もっと余談だが、八岐大蛇とは関係がないが、実は鳥取の八頭も記紀と関係している。それは元の八頭郡を構成した旧八上郡で、そこは大国主命(おおくにぬしのみこと)が求婚に出向いた八上比売(やかみひめ)の故郷だ。この時の道中の話が、因幡の白兎として有名だが、とりあえず今は関係ない。

それよりも「やと」といえば、常陸国風土記を連想させる。行方(なめかた)郡の記事に次のような話が載っている。
昔、またちという人が葦原を開墾して新田を作ったが、夜刀(やつ、やと)の神が群れをなして現れ出て耕すことが出来なかった。見かねて、またちは武装して立ち向かい、山の入り口に境界となる杖を立てて、「ここから上の山を神の住処として、下は里の田圃とする。代わりに神司(かむづかさ)になって、子々孫々代々神を祀るので祟ったり恨んだりしないように。」と夜刀の神と折衝をして社を建てて祀り、それが続いているという。
この夜刀の説明に、蛇のことを夜刀の神と言って、姿形は蛇だが頭に角があり逃げる時にふり向いてその神の姿を見ると、家は滅ぼされ子孫は絶える。傍らの野に群れかたまって住んでいる、とある。
つまり、「やと」というのは蛇の形をした神、蛇神で、しかも祟りをなす神だと言うことがわかる。
また、常陸国風土記逸文には、新治郡の駅の名を大神(おかみ)と言うのは大蛇(おかみ)が多かったためである、とあり、大蛇を神とみなすのは一般的だったことが知れる。

「やと」と呼ぶ祟神としての蛇神と、奇稲田媛命を襲う八岐大蛇。そして、その伝説が残る「やと(八頭)」の地。これは、蛇体の荒ぶる神が住むところを「やと」と言ったことによるのだろうか。想像が膨らむ。
もっとも、冷静に考えれば、常陸国と出雲国では地理的に離れすぎていて、民間伝承に共通性があるかどうか甚だ疑問なのだ。それに、ここが八頭と呼ばれるのがどの時代まで溯れるかも問題だ。

出雲国風土記には八岐大蛇は全く出現しない。そのこと自体は大変に難しい問題を含んでいるのだろうが、それはさて置いて、出雲国風土記に八岐大蛇の話がない理由として、出雲国風土記の説話は全て地名説話なので八岐大蛇に関する地名説話がなかったからだとされることが多い。
そうすると、もし、「やと」の地名が風土記の時代にまで遡れるならば、八頭と表記される理由として八岐大蛇の話を載せるのが普通だろう。しかし、出雲国風土記には八頭の地名はない。田舎の小さな村なので省略されているということもあるだろうが、地名説話を持つ場所はそんなに多くはないはずなので、かなり派手な八岐大蛇の話があるなら記載しないということはないだろう。
つまり、風土記の時代にはこのあたりには大蛇伝説はなかったと考えられる。

しかし、「やと」という地名はかなり古くからあったかもしれない。常陸国風土記の夜刀神の話が知られるようになると、蛇神が八岐大蛇と結びつき八頭と書かれ始めたというのはありそうだ。実はこの地の八岐大蛇伝説はその時から広がったとするのは無理だろうか。
その場合、何故、この地が積極的に八岐大蛇と関連すると考えられたかが問題になる。それは、「ひ」の地名に関連するのではないだろうか。

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多根と三城

志學荒神社(多根志學荒神社)(平成19年9月24日)

平成19年9月24日。先日の八岐大蛇伝説の続きを廻るため再び奥出雲へ。同じように国道432号線を出雲三成まで走り、県道25号玉湯吾妻線を北へ。JR木次線出雲八代駅を過ぎて佐白へ入る。とにかくこの近くには縁の地が多い。

前回、伊賀武神社を探す時に町内観光案内板があってとても助かった。その案内板を見つけられたのは、その手前に余りに目立つ八重石塔があったからだ。更に、案内板の隣には、これまた周囲と余りに不釣合いなメガネの三城。何しろ中国山地山間部の狭い谷に囲まれ田園が広がり、民家はあるが店らしいものがない場所に、突然、メガネの三城の店舗が建っているのだ。誰を相手に商売をしているのかはなはだ疑問だが、絶対に売り上げが店の維持費を上回るとは思えない立地条件の場所。
とにかくある意味異質な空間がそこにある。そのおかげで案内板が眼に入ったのだ。

そろそろ眼鏡が合わなくなってきているが、ここで新しく作り直す気はない。メガネの三城には用がないが、向かいの石塔は興味があった。しかし、この前は、石塔が非常に新しいために立ち寄っても仕方ないだろうと通り過ぎたのだ。新興宗教のような気がした事も確かで、近づくのに少しためらいもあった。
今回は二度目、勇気を出して近づいてみる。

道から少し高い小さな丘の頂上のような狭い場所に、コンクリート製の社と八重塔。石ではなくこちらもコンクリートのようだ。そして東屋。確かに小高い場所ではあるが、周囲を見回しても田圃くらいしか見えないので何のための東屋か。ともかく、全体に何とも表現が難しい境内だ。

社は志學荒神社という。建物は本殿、拝殿という二棟ではなくどうやら拝殿のようだ。どうやら左手の高い場所に三宝荒神が祀ってあるが、それが御神体というか本殿というか、そういうものらしい。
ここは学問の神様で御利益は学業成就ということになっている。志學荒神社という名前からもそれは推測できる。しかし、少々変っている。
荒神はカマドや火の神、又は鎮守といった祀られ方が一般的だ。学問と関連すると言うのは珍しい。その上、三宝荒神というのは荒神の仏教的な呼び名のことが多い。本来は障碍神(しょうげしん)なのだが、その後、仏法僧の三宝を守護する護法神となり崇拝されてる。どちらにせよ三宝荒神と学業との組み合わせはあまり例を見ない。
参拝の仕方にも特徴が表れている。ここでは二拝三拍手一拝となっているのだ。出雲大社などが二拝四拍手一拝というのを除いて、神社ではほぼ二拝ニ拍手一拝というのが通例だ。三拍手という参拝方法は今まで経験がない。
三拍手の「三」というのは三宝荒神の「三宝」への拝礼ということなのだろう。

ちなみに、仏教では三宝というのは仏法僧を表す。それは、聖徳太子の十七条憲法、「篤(あつく)く三宝を敬へ。三宝はとは仏法僧なり。」で有名だ

境内に胸像がある。道を隔てた向こう側にメガネの三城が場違いにあるその謎の答えがこの胸像だった。
ここ奥出雲町佐白はメガネの三城の創業者、故、多根良尾氏ゆかりの地だからだ
育った家があったところには研修施設としての会社の厚生寮が建っていてるらしいし、この志學荒神社も、元は佐白の荒神さんを多根良尾氏が復元建立したものという。更に近くにある奥出雲多根自然博物館も多根家が建てたものだそうだ。

これらの事実はこの後調べて知った。それで、何となく志學荒神社が学問の神様とされる理由がわかったような気がした。多分、多根氏が一生懸命勉強して立身出世したというようなことと関係しているのではないだろうか。

それにしても、ここに研修施設があるというのは驚いた。毎年新入社員はここで新人研修でもするのだろうか。周囲に何も誘惑的なものがないので確かに研修にはぴったりの立地環境だ。


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