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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その6

伊賀武神社(佐白伊賀武神社) (平成19年9月8日)

奥出雲、三沢神社(みざわ)から国道314号線を出雲三成(みなり)まで戻って、県道25玉湯吾妻山線(たまゆあずまやま)を玉湯方面に向かう。JR木次線(きすき)を時々左手に眺めながら走り、線路から分かれた後数キロで佐白(さじろ)の地に着く。県道沿いに目を引く八重石塔と場違いな雰囲気のメガネの三城があり、その先左手に伊賀武神社(いがたけ)が鎮座する。
佐白はこれと言って特徴のない中国山地の山々に囲まれた寒村にすぎないのだが、素戔嗚尊(すさのお)の八岐大蛇退治(やまたのおろち)の伝説が濃厚に存在しているのだ。

目的は伊賀武神社ではなくその境内にある八重垣神社(やえがき)。巨大な自然石の社名碑には、伊賀武神社と八重垣神社が併記されている。

参道は木立に囲まれて石段があり、その先にゆっくりとした登りが続く。100mはありそうだ。綺麗に整備されていて予想したよりも立派な社だ。参道横には境内まで登る事の出来る細い車道がついている。

隋神門をくぐるとすぐに社殿。正面が伊賀武神社で祭神はもちろん五十猛命(いたける)。それに建御名方神(たけみなかた)が併祀されている。
拝殿の内を見ると伊賀武大神の額があり、向かって右には若宮、左に西尾大神の額が掛かっている。合祀したものだろう。隋神門の向かって右に西尾社跡の碑があったのでそれが西尾大神と思われる。ただ西尾大神というのはどの様な神なのか知らない。

ところで若宮は誰を指すのだろうか。一緒に祀られている建御名方神が考えられるが、一般に建御名方神を若宮とするのはあまり例がない。五十猛命との関係からも少々無理がある。何故なら建御名方神は大国主命(おおくにぬし)の子とされ五十猛命とは親子ではないからだ。五十猛命と大国主命の関係も少し遠い。素戔嗚尊の御子が五十猛命で、大国主命は素戔嗚尊の子とも6世の孫とも7世の孫ともされる。
実は、五十猛命は素戔嗚尊の子ということで、若宮として祀られることがある。五十猛命が、主祭神として、さらに若宮としても二重に祀られているのかも知れない。

伊賀武神社の創建ははっきりしない。出雲国風土記に伊我多気社というのがあるのだが、それは仁多郡の条で、ここは大原郡だ。つい先日訪れた横田の伊賀多気神社(いがたけ)が風土記社ということになっている(2007年、素戔嗚尊の系譜1、伊賀多気神社)。
ここの社の由緒は不詳となっているが、表記の文字は少し違うものの式内社の伊賀多気神社と同じ神社名で主祭神も五十猛命である所から、横田の方から勧請されたのものと想像されている。
勧請したとしても元々の小さな社は存在しただろう。境内横に横穴墓跡という看板がある。その墓を斎祀るのが神社の前身だったのではないだろうか。
伊賀多気神社の勧請の時に先に祀っていた社に五十猛命を若宮として迎え祀ったことはありうるだろう。その後は五十猛命が主祭神として表に出てきた後、若宮という名前だけが残ったと考えるのは無理か。

境内の向かって左に一段高い場所があり、そこに八重垣神社が建つ。こちらが今回の本当の目的だ。
拝殿の後ろに1m四方の大社系の造りの本殿。三手先の組み物がある凝った作りの社だ。隣の伊賀武神社も方一間の造りだが、それはこちらより二周り程大きい。

素戔嗚尊が八俣大蛇を退治した後に奇稲田媛命(くしなだひめ)と結婚したと地と伝えられ、そこに八重垣神社が祀られた。出雲地方には多い素戔嗚尊の最初の宮伝説の地の一つということだ。
しかし、本当はここが伝説の場所ではない。八重垣神社は明治40年に移転して来ているのだ。近くに旧社地があるはずなのだが、事前に調べても所在地が不明だった。このあたりなのは間違いないらしいので、ひょっとすると境内に隣接しているのかと思っていたのだが、どうやら的外れだったらしい。結局、何の手がかりも得られなかった。

参道の両側に聳える杉は立派な巨木だが、三沢神社にあった杉とその推定樹齢から考えると、どんなに古くても江戸の中期頃か。

参道前に碑の後ろに小さな馬頭観音があるのが不思議だ。何かいわれがあるのだろうか。

トウトウの滝

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小さな景勝地 トウトウの滝 (平成19年9月8日)

国道314号線から分かれて三沢(みざわ)の町に入る道に入るとすぐに、景勝トウトウの滝と看板があったので停まってみた。予定の行動ではなく単なる寄り道だ。

看板はかなり目立つ。しかし、駐車場はない。少し広い路肩なのでそこへ停めるが、車なら注意が必要だろう。

何となく公園風に整備されている。側を流れる川底に向かって、道からしばらく降りると、東屋と滝が確かにある。

滝は小ぶりでかなり迫力に欠ける。後で調べると、滝の大きさは30mとも15mとも10mともまちまちだ。はっきりしているのは30mもの一気に落ちる落差はないことだけは間違いない。正直10mも怪しい。
滝はいわゆるcascadeとwaterfallが組み合わさったようなもので、小さな段々の岩の川底を流れて来て最後に数段大きく落ちる。つまり、全てのcasicade部分を含めると30m位はあるということなのだろう。

因みに滝には2種類ある。つまり、既に使っているが、cascadeとwaterfallだ。cascadeというのは小さな階段状のものが連続した滝で、ごつごつした岩盤の川底を滑るように流れる。日光、竜頭の滝のような形のものだ。一方、waterfallが一般に言ういわゆる滝で、那智の滝や華厳の滝のように大きく落下するタイプのものだ。

滝の規模が小さいからだろうか、近所の人が涼を求めてやって来ている様子もない。東屋周辺も夏草に覆われていて、手入れも今ひとつ不十分だ。

滝自体の落差は高くないが、距離は少しあるようだし、滝の前後は少し渓谷風なので川沿いに遊歩道でもあれば良いような気がした。

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雲伯の古寺と仏と その7 松雲山、蔭凉寺 (平成19年9月8日)

奥出雲三沢(みざわ)、その三沢神社の参道前の道路の突き当たりに、妙に目立つ石段のとその上に寺が見える。実際はそれ程目立つわけではなく、他に目に付くものがあまりないような小さな町だから自然と気になるだけなのだが。

案内板によると寺は蔭凉寺。「いんりょうじ」と読むのだろうか。
寺の後ろの山が秋葉山で、ここには秋葉権現が祀られているらしい。三沢神社の境内にあった遥拝所はこの山へ向かっている。神社の遥拝所が寺の後ろの山に対するものだとすると、三沢神社の神宮寺か別当寺だったのだろうかと、興味が湧いて足を運んだ。

石段を登りつめると正面にお堂があり、人の背丈ほどの千手観音が安置されている。彩色は剥げているようだが、尊顔など端正で整った像に見える。しかし、扉は開かず、格子の間から薄暗いお堂の中をのぞくだけなので詳細ははっきりしない。

お堂の隣には釈迦如来像。なんとこれは伝定朝作。先ほどの観音像は伝運慶作。そして、本尊の延命地蔵菩薩は、立派な本堂に安置してあるのだろうが、伝行基作とのことだ。
説明によると実にすごい仏像製作者が並んでいる。

寺の開基といえば、行基(ぎょうき)、聖徳太子、弘法大師などが多く語られるし、仏像を刻んだとされるのは、行基や弘法大師、運慶、定朝などが定番だ。もちろん伝説に過ぎないのだが、地元の人々の、そうあって欲しいというささやかな願望が言い伝えを支えている。しかし、それも、仏像などが田舎には珍しい端正な作品でなければ、なかなか檀家も信じる気にはなれないだろう。

ここは観音像も釈迦像もあまり稚拙な印象は受けない。多分、良いものなのだろう。ただ、かなり新しそうだ。とても鎌倉時代まで遡るとは思えない。行基にいたっては到底ありえない。文化財指定されてないのも、あまり古い物ではない証拠と思われる。

由来によると、三沢神社の神宮寺は亀嵩(かめだけ)の青竜寺だったと記されている。ここが神宮寺だったという予想は全く違った。
この蔭凉寺は尼子の台頭までこの地を治めていた三沢氏の菩提寺だったらしい。

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○出雲に賀茂を探して その1

三沢神社(出雲三成三沢神社) (平成19年9月8日)

出雲横田から国道314号線を斐伊川(ひいかわ)に沿って西に向かい出雲三成(みなり)を過ぎて2km程走ると左手に三沢城址の案内が出る。そこから南に1km足らず谷を入るとそこが三沢の町の中心地。

郵便局の隣が三沢神社だ。ちなみに「みさわ」ではなく「みざわ」と濁って読む。

周囲を山に囲まれた狭い山間の集落で、こんな所が神話の舞台となったのかと思うと少し不思議な気がする。そういえば須佐神社(すさ)の建つ場所も平地の少ない山間だった。古代の大集落は今では全くその賑わいを想像できない場所なことが多い。

参道横に小さな事代主社(ことしろぬし)がある。漁業の神、恵比寿神(えびす)としても知られる事代主神だが、ここは海と遠く離れて全く関係がない。三沢神社の主祭神と異母兄弟ということで祀られているのだろうか。

山を背後にした斜面の一部に神社は建てられている。石段を登ってゆくと隋神門の手前に三沢神社大杉と名付けられた巨木がある。見上げる高さは30m、目通り4.5mという大きさだ。大杉と名前もうなづける。社の古い歴史を感じさせるようで、少しワクワクしたのだが、樹齢は240年だという。杉というのは200年余りでこれ程の巨木になるのかと、妙に感心した半面、江戸時代後期のものと知って少し気持ちが醒めてしまった。

境内向かって左には荒神社や八幡宮をはじめ多くの末社がある。近隣からの合祀と思われるが、それはやはりここが由緒のある社だからだろう。

本殿は大社造。残念ながら拝殿とともに新しい再建のようだ。
本殿反対側には秋葉山大権現遥拝所がある。そこには四角い土段が作られている。そこで遥拝の神事を行うのか、それとも依代を置くのか。杉林があって見えないが向こうの山が秋葉山なのだろう。
その土段の後ろには低い石垣で雛壇のようになった場所が5段作られている。境内後ろの斜面に続いているが、単に土砂が崩れるのを防ぐような土押さえではなさそうだ。しかし、見たことがない構造物だ。一体何だろう。他には目に付くようなものはないし、説明もないので分からなかった。

拝殿に由来書が置いてあり、お持ち帰りください、とあるので有難く頂く。代わりにといっては変だが芳名帳に名前を記載しておく。
出雲国風土記に登場する神社なのだが、写本の多くは、地名も神社も三沢ではなく「三津」になっている。もちろん三沢となっているものもある。どちらかが誤写なのは間違いない。神社の由来書では三津説を採用し風土記でも三津神社であったとしている。しかし、個人的には、現在の地名が三沢なのでそのまま三沢神社でよしとする。

主祭神は阿遅鋤高日子根命(あじすきたかひこね)。記紀では天若日子(あめのわかひこ)の悲劇に出てくる。、いつものことながら日本書紀と古事記の内容に差異があり神名や人物相関にも混乱があり、その上かなり長い話なのだが、一般的な古事記を基に一言で済ますと次のようになる。
高天原(たかまがはら)からこの地上の世界である葦原瑞穂国(あしはらのみずほのくに)を渡すように、出雲に国譲りを迫る使者の二人目として天若日子が遣わされる。しかし、天若日子は出雲で下照姫命(したてるひめ)を娶ってそこに留まり復命しなかったため、高皇産霊尊(たかむすひ)の返し矢で命を落としてしまう。天若日子の死を悲しむ下照姫命の慟哭を聞いて殯が行われていることを知り、そこへ弔いに親友が来る。その親友はあまりに天若日子に似ていたため、両親が息子が生き返ったと勘違いしてしまう。死者と間違えられるのは忌むべき事だとして、激怒して帰っていったその天若日子の親友というのが阿遅鋤高日子根命だ。阿遅鋤高日子根命は大国主命(おおくにぬし)の息子で下照姫命の同母兄ということになっている。
下照姫命にしてみれば、実の兄とそっくりな天若日子に嫁いでいた訳だ。何となく許されざる兄妹間の恋の匂いがしてくるが、その方面へ話は止めておく。

ところで、出雲国風土記には全く別の話が記されている。風土記では名前が阿遅鋤高日子根命ではなく阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)となっているが同一神として異論はない。
大己貴命の御子である阿遅須枳高日子命は髭が長く伸びるまでになっても、昼も夜も泣くばかりで言葉を発することが出来なかった。父神は御子を船に乗せて沢山の島々を連れまわったがやはり泣き止まなかった。大神は御子の泣いてばかりの訳を知りたく夢見を祈願、つまり夢判断を願ったところ、夢に御子が現れた。目覚めてから御子に問うと、「御沢」と言って喋るようになた。それはどこか尋ねると向かいの川岸に行き、ここだと言い、その時、沢の水が流れ出しそれで御子は身を清めた。そのため出雲国造が朝廷に神賀詞奏上に向かう時にそこで身を清めるようになった。
そのようなことから三沢というようになったと説明されている。風土記によくある地名説話だ。

この風土記の話は記紀の誉津別(ほむつわけ)の話と良く似ている。
書紀では、垂仁天皇の皇子、誉津別命は30になって長い顎鬚が胸元に届くようになるなっても泣いてばかりで言葉を喋ることができなかった。ある日、白鳥が空を飛んでいるのを見て「あれは何か」と喋ったので、天皇はあの鳥を捕らえて献上せよと命じ、ついに捕まえた。そして、誉津別命はその鳥と遊んでついに言葉が話せるようになった。因みに鳥をとらえた臣下は鳥取造(ととりのみやつこ)となったという。
古事記では本牟智和気(ほむちわけ)となっていて、話の内用はほぼ同じなのだが、鳥を捕らえただけでは喋ることができなかった。その理由を占わせると出雲大神の祟りであると出た。そこで、出雲での話が続く。
祟りを鎮めるための参拝を終えて大和に帰る際に、出雲の国造の祖が仮御殿を作って御饌を奉ろうとした時についに本牟智和気は言葉を喋るようになる。
その時、御子は肥長比売(ひながひめ)と一夜を共にする。ところが、その姫の姿をのぞき見ると正体は蛇であった。そこで恐れをなして大和に逃げ帰ったと続く。
これは肥長比売が斐伊川に住む女神で蛇体だったということだろう。

風土記では三沢の地名の元となった阿遅鋤高日子根命。その話は記紀の誉津別の逸話にそっくりで、そこには出雲での物語が附属する。阿遅鋤高日子根命はどうやら出雲と密接に関連しているらしいのだが、意外に出雲地方では人気はなく、主祭神として祀られる神社も多くない。

実のところ、阿遅鋤高日子根命は葛城(かつらぎ)の高鴨神社(たかかも)の主祭神としてのほうが断然名高い。その上、高鴨神社には下照姫命も配祀されている。
高鴨神社は大和葛城鴨氏が祀る社で、古代鴨氏は葛城に勢力を張っていた豪族だ。高鴨神社を上鴨社、葛木御歳神社(みとし)を中鴨社、鴨都波神社(かもつは)を下鴨社とも呼び、鴨氏の奉祭した重要な社が葛城山の麓には並んでいる。
つまり、阿遅鋤高日子根命は鴨氏の氏神といっても良い神なのだ。出雲の神というよりむしろ鴨氏の神が、何故かこの出雲の山深い地に祀られている。

鴨氏に関しても謎は多く、鴨氏の社といえば高鴨神社より京都の上鴨神社と下鴨神社のほうが知られているだろう。鳥越健三郎氏によれば葛城鴨氏の地が高天原で、後に山城(やましろ)へ移ったのだという(2006年、美保神社、境外末社六社参り3、糺社)。現在では葛城と山城の鴨氏は別系統とするのが有力なようだ。実際、葛城鴨氏と山城賀茂氏の神社の縁起などの説話には類似がないし、主祭神も違う。出雲と関連しているのは葛城鴨と思われる。何となく、山城賀茂は三輪氏との関連の方が強そうな感じだ。
京都の上下鴨神社は、現在、賀茂姓を用いているので、混乱を避けるため便宜上、葛城鴨と山城賀茂と「かも」の漢字を使い分けている。まあ、大した問題はないのだろうが。

ちなみに阿遅鋤高日子根命と誉津別の、大人になるまで喋れないというのは記紀の素戔嗚尊(すさのお)の話にも類似している。
記紀によれば、伊邪那岐命(いざなぎ)が黄泉国から帰還して左眼を洗った時に生まれたのが天照大神(あまてらす)で、右眼を洗いから月読尊(つくよみ)が生まれ、鼻を洗った時に素戔嗚尊が生まれた。
伊邪那岐命のはこの三子に、天照大神には高天原を、月読尊には書紀では海原の、古事記では夜之食国(よるのをすくに)の、また素戔嗚尊には天下(あめのした)の、古事記では海原の統治を委任する。しかし、素戔嗚尊は成長して長い髭が伸びて胸元に届くようになても泣きわめいているばかりだった。
その理由を伊邪那岐命が尋ねると、母の伊邪那美命(いざなみ)のいる根之堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと言う。そこで伊邪那岐命は怒って素戔嗚尊を追放した。
ただ、こちらの話には喋れるようになる逸話はない。

何だか、話はとりとめもなくあちらこちらに飛んでしまい、収拾がつかなくなった。所詮、単なる思いつきなのでまとまった説を持っているわけではないので、こうなってしまう。それにしても脈絡がなさ過ぎるか。
しかし、出雲と鴨は何か因縁がありそうだ。大和朝廷と出雲勢力の関係を考えると色々と想像が膨らむのを止められそうにない。

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○素戔嗚尊と八岐大蛇 その5

稲田神社元宮跡 (平成19年9月8日)

稲田神社(いなた)の鳥居へ続く道を数百m戻ると道端に新しい白木の案内板が立っている。稲田神社の元宮跡と産湯の池の案内だ。

横田(よこた)には船通山(せんつうざん)の他にも八岐大蛇(やまたのおろち)伝説があるらしい。国道314号線を出雲横田から出雲三成(みなり)へ向かって1km程の場所に大曲という場所がある。その名前のように斐伊川(ひいかわ)が大きく蛇行する場所なのだが、この辺りに磨砥(とぎと)という所があり、素戔嗚尊(すさのお)が大蛇退治の剣を研いだ所だとされ、また池の谷という所には昔溜池があって大蛇が住んでいたと伝えられているとのことだ。溜池に八岐大蛇が住むというのも何だか妙な話だが。
さらに、その池の谷の東北の斐伊川に急峻な丘陵があり大蛇が池から出てきた場所で蛇山平と呼ばれ、そのふもとの川岸にあった奇稲田媛命(くしなだひめ)と足名椎神(あしなづち)、手名椎神(てなづち)の屋敷を襲っていたとされて、そこには長者屋敷という場所があるらしい。ただ、遺跡も碑もないようなので未だに場所が確認できていない。少なくとも横田の観光案内や文化財遺跡案内には載っていない。

周辺に比較的まとまった素戔嗚尊の八岐大蛇伝説があるわりには、歴史も浅く創建も若い稲田神社が観光案内に紹介されることがある程度なのは、見所が少ないからなのか。
神社のすぐそばに産湯の池があると書いてあるものが時々ある。以前に来た時に参考にした本でも境内にありそうに書いてあり、探したのだが見つからなかったということを、ここで思い出した。しかし、実際は神社のすぐそばではない。遠くはないが、少なくとも境内に隣接はしてない。最近案内板が立てられたようだ。

示された道は砂利道なのでバイクは路肩に停めて歩く。先は道というより民家の玄関前でどこまでが道路でどこから他人の家の庭なのか区別がつかない。入っていっていいのだろうか。表示はないが他に道もないようなので庭を横切るように進む。
更に数十m進むと田圃の向こうに鳥居が見えた。どうやらそこのようだ。

周囲を田圃に囲まれた雑草の茂る空き地のような一画に鳥居があり、その向こうに前に御幣の立った1m程の「稲田神社元宮跡」の木柱がある。

向かって右奥に「産湯の池」がある。もちろん奇稲田媛命が生まれた時につかったとされる産湯だ。しかし、これは池なのだろうか。少し上流からちょろちょろと湧水が流れて溜まっているだけのようなのだ。雑木と夏草が生い茂っていて水源も確認できない。見方によっては細い用水路の途中にようでもある。
これを産湯のかわりにつかうのは衛生上どうだろうか。

旧社地というと随分歴史がありそうだが、稲田神社での説明によればここに小祠が出来たのは江戸時代という。船通山が素戔嗚尊の舞台で、稲田という地名から八岐大蛇退治のヒロインである奇稲田媛命を祀ったのが初めなのだろう。
稲田の地名もどこまで溯れるか不明だ。語感からは新しく水田として開墾した地に付けそうな名前だ。稲田が奇稲田媛命の生まれた所とされるようになって、そこに小さな湧水があり、それがいつしか産湯だと呼ばれるようになり、小さな社が建てられたという感じがする。
礎石なども残ってないようなので鳥居と御幣がなければ空き地にしか見えない。もっとも、最初に建てられていたのは本当に小さなお堂というか祠のようなものだっただろうから、跡地に何も痕跡がなくても仕方ないだろう。しかし、こんな小さな元宮が今まで残されていることのほうが驚くべきことだ。こう言っては失礼だが残しておくべきほどのものではなさそうだからだ。地元の人にとっては、奇稲田媛命の産湯というのは自慢するべき大切な宝だったということだろう。

案内板も新しく白木で新調されているのも、また驚くべきことだ。

道端の産湯の池の案内板の反対側に「笹宮」という標識がある。これには全く説明がない。しかし、奇稲田媛命と足名椎神、手名椎神の館跡のはずだ。かなり自信がある。その根拠は、これから行く予定にしている長者の福竹というのが屋敷跡とされているからだ。どうやら足名椎神、手名椎神の住んでいた場所には竹や笹がつきものらしい。

実は、稲田神社の鳥居近くに神社や産湯の池などのQRコードの付いた案内があり、携帯でその情報を聞けるようになっている。しかし、何故か笹宮の情報は聞けなかった。横田はその他の場所もQRコードのある案内で情報を提供しているが、全てが駄目なのかそれとも笹宮だけなのかは確認してない。
平成の大合併でここ横田も周辺と合併して横田町から奥出雲町に変った。町村合併の後で町のHPが変ってしまい、それまでかなり詳しく町内を紹介してあって便利だったのがアクセスできなくなったり内容も乏しくなったりして、それ程有名でない所を廻っている身には不便になることがある。ひょっとすると横田のこの携帯を使った情報配信システムも引継ぎが上手くいってないのだろうか。

出雲横田の駅前は綺麗に整備されている。駅舎は神社を思わせる作りでやはり稲田神社をイメージしているのだろう。注連縄だってある。
町おこしで観光になんとかつなげようという意気込みは感じられるが、残念ながら駅前に人影はない。


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