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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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○素戔嗚尊と八岐大蛇 その5

稲田神社(横田稲田神社) (平成19年9月8日)

JR出雲横田の駅前から少し東へ進み川を渡ったすぐ後を南の山側に向かって真っ直ぐ進むと1km余りで神社の前に到着する。幹線道路からの案内がなく、周囲は田園風景で目印になるものも少ないため少々わかり難い。
稲田神社(いなた)、その名も稲田という地名の集落はずれ、奥にある。

素戔嗚尊(すさのお)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して娶った奇稲田媛命(くしなだひめ)を祀る神社だ。以前訪れたことがあるのだがすっかり忘れていた。鳥居前まで来ても全然思い出さない。
神社の由来によれば、江戸時代後期の文政年間に創建された小詞を昭和初期に横田町出身の九州小倉の石炭王と呼ばれた小林徳一郎が社殿を新築勧請したものだという。古い歴史を持つ神社ではないらしい。どうやら記憶がないのは新しい神社のため想像をかきたてられるものがなく、印象が薄かったからのようだ。そうは言っても今回も説明を読んだだけで引き返すわけにも行かない。前よりも多少は目的意識もあるし知識も増えているはずなので、何か興味深い点も見つかるかもしれない。しかし、歴史が浅いということを知ったこの時点でかなりテンションが下がったのは否定できない。

気を取り直してというか、自ら鼓舞して参道を歩いてゆく。左手の小高い場所に小林徳一郎の立派な記念碑がある。あの人がこの神社を立派に創建した人らしい。少し眺めただけで歩を進める。

更に進むと左手に稲田姫御誕生地という立派な碑が建てられている。そして、その碑の反対側の右手側には奇稲田媛命と素戔嗚尊の石像がある。高さは人の背丈ほどだ。
一般的な神様の身長というのは知らないが天照大神は2mくらいはあるらしい。と、言うのも、はっきりと覚えてないのだが、伊勢神宮で20年に一度の式年遷宮の時に新調される御装束と調度品が通常のものよりかなり大きかったことを見た記憶があるからだ。素戔嗚尊も天照大神の弟なのだからそれくらいはあってもいいだろう。これは少し小さすぎる。それに像はもう少し大きいほうが威厳が出るので人に与える印象が違う。
奇稲田媛命の像は少し古く、それに比べて素戔嗚尊のほうは新しい。像に比べて台座は古いので傷んだために作り替えたのかもしれない。その時にもう少し大きくすれば良かったのに。
姫の顔はしもぶくれなおたふくのように作られているのが何だかうれしい。最近の女神像はあまりに現代的過ぎる顔立ちをしていて何だか興ざめしてしまうことが多いからだ。

参道奥、正面の建物の唐破風は修理中のようでブルーシートがかけられていた。かなり大きい建物で一辺20m近い。それ拝殿と思っていたのだが、本殿を求めて横に回って見るとその後ろに石垣で一段と高く盛られた場所があり、そこに拝殿と本殿が建っていた。つまり、前の大きな建物は幣殿らしい。

拝殿は唐破風の向拝を持つ平入りの建物で、その後ろのには大社造系の本殿。
一般的に大社造系の本殿は周囲が回れるように背後が空いていることが多い。ここも一回り出来ることは出来るにだが、何故か本殿の建つ場所は1mほど高くなっていてそこへ登る階段がないため、横からよじ登らなければいけない。これはひょっとすると本殿には近寄るなということだろうか。しかし、段差は簡単に登れる高さなのでいくらでも近寄れる。

最初に感じたように個人的には、それ程琴線に触れるようなものはなかった。由来が新しいとどうも想像や空想が働かない。

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○素戔嗚尊と八岐大蛇 その5

船通山 (平成19年9月8日)

平成の合併で奥出雲町(おくいずも)の一部となった横田(よこた)からは南に船通山(せんつうざん)が良く見える。鳥取県と島根県、つまり伯耆国ほうき)と出雲国(いずも)の境にある山だが、峠を挟んで鳥取県側からは山容はほとんど見えない。横田の町からの眺めとは対照的で明らかに出雲の山、横田の山だ。

船通山は古くは鳥上山(とりかみ)と呼ばれ素戔嗚尊(すさのお)とその八岐大蛇退治(やまたのおろち)の舞台となった伝説の山とされる。

日本書紀では素戔嗚尊素は高天原から出雲国の簸之川(斐伊川)(ひいかわ)の川上に降り立ったと記すが、古事記によると出雲国の肥河(斐伊川)の川上の鳥髪(とりかみ)という地に降りたと、さらに具体的な地名を挙げる。そして、出雲国風土記に鳥上山(鳥髪)は伯耆と出雲の境という記事があることから、鳥上山、つまり今の船通山が神話の地とされる。

船通山には出雲神話に興味のある人には一度は登ってみたいと思わせる魅力が溢れている。しかも、いくつかの登山ルートがあり、どの道も整備されていて天候さえ恵まれれば低山の山歩き程度の装備で登ることが可能だ。
標高は1143m。最も有名な鳥上滝コースでゆっくり登って一時間半程度で山頂に着ける。登山道の途中に鳥上滝がありコース名となっているが、その滝に八岐大蛇が住んでいたという伝説がある。古事記によれば大蛇は身体に苔や檜、杉が生えて八つの谷と八つの峰にわたる大きさだという。伝説とはいえ誇大表現過ぎるだろう。そうは言ってもキングギドラ程度はあって欲しいところだ。しかし、滝は小さくて滝壷はどう見てもニシキ蛇くらいしか住めそうもない。
登山道の別ルートには亀石谷という谷があり、大蛇を酔わせた酒を造った石甕があったところとされるし、船通山の北東の山は、家内住山(かないずみ)と呼ばれて奇稲田媛命(くしなだひめ)と両親が住んでいた場所と伝えられる。そんなことを考えたり話したりしながら登ればトレッキングなどに興味のない出雲神話ファンも退屈しないだろう。

山頂は樹木がなく、草原で360°の展望が開ける。そこからは中国山地が意外に山並みが連なる深い山系だとわかる。また季節がGWだと有名なカタクリの群生地があり可憐な薄紫の花が楽しませてくれるし、少し下るが樹齢1000年とも2000年とも推定される国定指定天然記念物のイチイの大木もあり、その圧倒的な存在感に感動も出来る。記紀になど興味のない軽登山が趣味の人も十分に楽しめる。要するに誰でもそれぞれの趣味で楽しめる山だ。

頂上には天叢雲剣出顕之地の碑が目立つ。素戔嗚尊が八岐大蛇を倒した時にここから天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、つまり草薙剣(くさなぎのつるぎ)が大蛇の尻尾から出来てたという伝説で建てられたものだ。多分ここに剣の隠れていた尻尾があったということなのだろうが、記紀をどう読んでもこの山から剣が出てきたとは書かれていない。
実は鳥上山である船通山と素戔嗚尊の八岐大蛇退治伝説には別の混乱も見られる。鳥上山は素戔嗚尊が天降った山とも伝わっているが、記紀によれば鳥髪(鳥上)の地に降り立った後、川上に奇稲田媛命を尋ねて行くはずなので降臨した場所は山ではなくもっと里のはずなのだ。場所も鳥髪(鳥上)山ではなく鳥髪(鳥上)の地となっているし。

ここで、少し素戔嗚尊の天降った場所を考えた。
記紀で共通するのは斐伊川の川上ということだ。出雲国風土記は斐伊川の上流として説明されているのは横田川と室原川(むろはら)の二つだ。横田川は船通山の麓から流れる出る。室原川は下横田川とも呼ばれ国道314号線沿いの谷を流れて来て庁舎やJR出雲横田駅のある横田の中心地付近で横田川と合流する。源流は広島との境で船通山とは全く違う。素戔嗚尊の降臨地は、風土記に源は鳥上山からとされるている横田川を意識していると考えるのが素直だが、簡単にはいかない問題がある。風土記の写本の中には横田川と室原川が逆に記載されているものがあるそうだ。さらに古代には斐伊川と呼ばれたのは室原川で横田川ではないという説もある。結局、どこに降り立ったのかは謎ということのようだ。

鳥上山に降り立ったというのは多分、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)から来ている。それによると結構辻褄を合わせているのが面白い。
素戔嗚尊と御子の五十猛命(いたける)は新羅から船で渡ってきた時に、出雲国の斐伊川の川上と安芸国(あきのくに)の可愛の川(えのかわ)、つまり江の川(ごうのかわ)の川上にある鳥上峯(とりかみのたけ)に至ったとあって、はっきりと「峰」と山であるように書かれている。そして出雲国の斐伊川の川上の鳥髪の地に来た時に、川上から箸が流れてきたのを見て不思議に思い進んで行き、奇稲田媛命と泣く足名椎神(あしなづち)と手名椎神(てなづち)親子と会って八岐大蛇を退治するという話しになっている。
鳥上を山の名前として鳥髪を地名として明らかに分けて使っているのだ。どうやら室原川と横田川流域を広く鳥髪の地と呼んでいて今の船通山を鳥上山と考えていたようだ。
これは説明がスムーズだが一番の問題は、風土記では斐伊川の源流付近一帯を鳥髪という地域でなく横田郷と記していることだ。少なくとも風土記編纂時点では鳥髪という広いまとまった地域はなかったように思われる。

ついでだが、ここでいきなり江の川が出てくるのは、書紀の一書には素戔嗚尊が降り立った場所が安芸国の可愛之川(えのかは)、つまり江の川の川上、と記載されているからと思われる。江の川は島根県の真ん中辺りの江津(ごうつ)に注ぐ川なのだが、何故、安芸国の川とされているのか。江の川は広島の北から発して中国山地の中心付近にある三次を通り日本海に向かうため、かなりの流域が安芸国、広島にあるからだ。島根側では江の川というのが普通だが、広島側では今も可愛川と呼ぶ。そういえば、この川は途中に戦国時代の中国地方の覇者、毛利元就(もうりもとなり)の本拠地吉田を流れる。NHKの大河ドラマで毛利元就をやった時に、元就の娘の幼名を可愛川にちなんで可愛としていた。
江の川の支流の西城川(さいじょう)の源流は島根と広島の境の室原川源流と近い。これを受けたのが旧事本紀の記事なのかも知れない。ただし、西城川の川上と室原川の川上にあるのは船通山ではなく、伊邪那美命の御陵とされる比婆山だが。

ともあれ、船通山は素戔嗚尊が天降った地なのか、天叢雲剣が出てきた場所なのか、八岐大蛇の住みかだったのか。それともどれでもないのか。詮索しても仕方がないし、多分どれでもないのだろう。しかし、様々に想像して楽しむのは素人学者の特権だ。

思いつき放題のついでに船通山の混乱した伝説に、さらにもう一つの混乱を追加しておく。
出雲国風土記抄では素戔嗚尊が新羅国から五十猛命を伴って東進して船がその山に止まったので船通というとある。ただ鳥上山が船通山と呼ばれるようになったのは古いことではなく、江戸時代頃からとされるのでこの説明ではすぐにボロが出てしまう。素戔嗚尊が出雲に来た時にも、その後もずっと鳥上山と呼ばれていたのだ。
出雲国風土記抄が書かれたのが江戸初期とされるので、ひょっとすると出雲国風土記抄が山の名前を船通山のに変えた張本人かも知れない。そうでなくても、通説として定着させる役は担っただろう。

県道の横に蕎麦の花が満開だ。蕎麦畑の向こうに船通山が聳えるのが良く見える。横田は蕎麦どころ。卜蔵家庭園(ぼくら)にも椿庵という蕎麦屋があった。
白い蕎麦の花を見ていて昼食を蕎麦に決めた。この季節はもちろん新蕎麦ではないが、食べたくなってしまったのでしょうがない。そして出雲といえば割子そば。この後、稲田神社を廻って昼食には少々早かったが出雲横田の駅前の店に飛び込んだ。

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○素戔嗚尊の系譜 その1

伊賀多気神社(横田伊賀多気神社) (平成19年9月8日)

鳥取、島根県境の船通山(せんつうざん)の麓御越えて県道107号線を走り出雲横田(いずもよこた)の駅前に至る少し手前の道路右手に伊賀多気神社(いがたけ)の鳥居が見える。道には大きな案内はないし神社自体は少し奥まって両脇は住宅に埋もれていているので注意しないと通り過ぎてしまう。

先の鬼神神社(おにかみ)はその由来書で起源出雲国風土記の伊我多気社であるとしていたが、一般的にはこちらの伊賀多気神社が風土記の伊我多気社に比定されることが多い。出雲国風土記抄によるとこちらは五十猛命(いたける)を葬った鬼神大明神を移したものとされているようだ。しかし、ここに遷されたはずの鬼神神社はそのまま残っている。今ひとつ関係が不明だ。
いずれにせよ、鬼神神社と伊賀多気神社、直線距離で3km足らずの場所に五十猛命を祀る二つの神社があるというのは何か意味があるように思われる。が、今のところどういうことなのか想像力が全く働かない。

風土記の伊我多気が伊賀多気と「我」が「賀」に変っているのは表記の違いでしかなく、どちらにせよ「いがたけ」と読む。「いがたけ」は「いたけ」と同じで五十猛を意味しているとされる。文字通り五十猛命を祀る社というわけだ。そんなことで個人的には祭神の五十猛命は「いたける」と読むようにしているが、ここの由来書では「いそたける」と読み仮名が振ってある。
日本書紀の一書によると、高天原(たかまがはら)を追放された素戔嗚尊(すさのお)は息子の五十猛命と初めは新羅国(しらぎ)に天降ったが、そこから船を作って日本にやって来たという。その時に着いたのが大田市(おおだ)の市街地から西に5kmほどのところの五十猛の地だとされる。現在は地名としての五十猛は「いそたけ」と読むが、どうやら神名もそう読んでも良いらしい。

道の鳥居から生活道路と兼用の参道が延びて小高い山の斜面に社が建っている。周囲には深い社叢はなく、すぐ近くまで住宅が迫っている。境内の隣には小さい公園もあり深遠静寂とは程遠い明るく開放的な雰囲気の神社だ。社殿などそれ程古いものではない。

狛犬の台座に「式内伊賀多気神社」の石の額が立てかけてある。もとは鳥居のものだろう。
石段を登るとまず隋神門が迎えてくれる。社宝として県の文化財に指定される、ヒノキ一木彫の鎌倉時代後期とされる木造隋神立像2体があるということなのでのぞいてみる。50cmにも満たない彩色のはげた半跏踏下像が安置してある。何だかそれ程すばらしいものに見えない。その価値がわからないまま拝殿へと進んだ。実は隋神門にあるのは文化財の神像ではなかった。よく見れば、というより一目でわかるのだが、門で見た像は坐像で立像ではないのだ。傷みやすい木造彫像を格子の戸しかない場所に安置している訳がなかったのだ。どうやら保管場所は別のところらしい。気がついたのは相当後だった。

本殿は小さいながら大社造。それでも一辺が4m近くあるだろう。鬼神神社より二周りほど大きいようだがほぼ同型の社だ。大社造というのは高床式の二間四方の構造になっているのだが、この社は少し地面からの床の高さが足りない感じがする。屋根も少し大きすぎるようで、全体的にずんぐりした印象を受ける。スマートというか洗練された感じがしない。社殿がそれほど古くないせいだろうか。

周囲には社日があり末社もある。末社の一つは大社造系、もう一つは一間社流造。神名を示す額はない。当然、大社造系に祀られるのは出雲系の神で流造には天神系が祀られていると想像したのだが、どちらの小社にも恵比寿神社修理の寄付の芳名帳がある。両方が恵比寿神社ということはないと思うが末社の説明は何もない。明治に周辺から合祀されたのかも知れない。それなら当時の社の形がそのまま踏襲されたために社の形式が違った恵比寿神社が同じ境内にあっても不思議ではないが、本当のところは不明だ。

建物も比較的新しく周囲に神社の杜もほとんどないのだが、境内の右にある大きなウロのある巨木が歴史を感じさせる。何の木なのか知らないがわざわざ残してあるのは祭神の五十猛命を崇敬してのことではないかと想像するのは少し考えすぎなのはわかっているが、それでも何だかそう思えてしまう。

高天原から追放された素戔嗚尊と五十猛命の父子は多くの樹木の種を持って天降って来たとされる。それに続いて日本書紀では五十猛命の次のような別伝を載せている。
素戔嗚尊は韓国には金銀があるのに我が子の治める国に宝がないというのは良くないと言って次々と樹木を生み出す。髯(ひげ)を抜いて放り投げると杉の木になり、胸の毛を抜くと檜(ひのき)に、尻の毛は槙(まき)の木に、眉の毛は楠(くすのき)になった。そして杉と楠は国の宝とするように言い、檜は宮を作る木材に槙は棺の材料とするように用途を定めた。
そして、五十猛命と妹の大屋津姫命(おおやつひめ)、柧津姫命(つまつひめ)の三神は、沢山の樹木の種を全国に広め植樹して、そして紀伊国に渡って祀られたとされる。
つまり五十猛命は樹木、林業の神なのだ。

古事記には記載がなく日本書紀にのみ登場する五十猛命。その記事には韓国との関連が窺える。出雲地方には韓国伊太抵神社(からくにいたて)という社がいくつかあるが、これも韓国五十猛と同じとされる。このようなことから五十猛命は渡来神という説はかなり有力だ。また父神の素戔嗚尊も渡来系ではないかともされる。何時か韓国伊太建神社も廻ってみようかとも思っている。
ちなみに、韓国伊太抵は正しくは韓国伊太[氏/一]で、「抵」は「氏」の下に「一」を引いた字で手偏はない。JISにないのでしかたなく抵で代用している。代用しないと漢字変換が不便だという都合だけだが。

一人で名所旧跡神社仏閣を巡っていて、訪れた証拠に自分が写真に入ろうとするとどうしても三脚が必要になる。これは必須だ。
コンパクトに脚が縮められ、パンツの後ろポケットに入れても邪魔にならない長さに収納できるのし、伸ばすと1m程になるものを重宝していて何年も愛用してるのだが、長年の酷使に少々曲がったらしく脚の伸縮がかなり硬くなってしまっていた。最近では収納に苦労するようになって買い換えも考えたのだが、長年使ってきて何となく愛着があり、駄目で元々と先日潤滑油で少し拭いてみたところ、実に快調になった。
こんなことなら早く注油すればよかった。

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○素戔嗚尊の系譜 その1

鬼神神社(横田鬼神神社) (平成19年9月8日

船通山(せんつうざん)を後ろに卜蔵家庭園(ぼくら)から数キロ県道を走ると右手に鳥居が見える。鳥上駐在所(とりかみ)のすぐ近くだ。名前だけで気になる鬼神神社(おにかみ)。五十猛命(いたける)を祀った社だ。

五十猛命というのは知名度が低いかもしれない。古事記には登場せず日本書紀にだけ出てくる。
記紀によると素戔嗚尊(すさのお)は高天原で傍若無人、無礼でやりたい放題、手のつけられない行動をする。それに耐えかねて天照大神(あまてらす)が天石窟(あまのいわや)に籠ってしまうことになる。天照大神の岩戸隠れと呼ばれる有名な話だ。それはともかく、その後、素戔嗚尊はその罪を問われて高天原を追放されてしまう。そして、天降った出雲で八岐大蛇退治(やまたのおろち)をする話に続くのだが、書紀に記される別伝で五十猛命が登場する。

書紀では素戔嗚尊は天上を追放される時、息子の五十猛命を率いて新羅国(しらぎのくに)に降り立ち曾尸茂梨(そしもり)という所に着いた。しかし「この地には私はいたくない」と言って、船を作って東に渡り出雲国の斐川(ひのかわ)の川上にある鳥上之峯(とりかみのたけ)に着いたとされる。
さらに、五十猛命はが天降った時に沢山の樹木の種を持って下りたが、最初の韓国、つまり新羅には植えずに全てを持って日本にやって来た。そして筑紫から始めて大八洲国の国中に植えて青山としたという。そのため五十猛命を有功(いさをし)の神と称する。紀伊国に鎮座する大神がこれである、と続く。

江戸時代初めの出雲国風土記抄という出雲国風土記の解説書があり、それによると五十猛命を葬って鬼神大明神として祀ったのがここであるらしい。鳥居前の社号標石に五十猛命の御陵地とある理由がそれだ。もっとも、書紀の五十猛命は紀伊国に鎮座するとも葬られたとも記されていることと矛盾するが、いつものことなのであまり気にしない。

鳥居に向かって右に注連縄がかかった巨岩があり、これが素戔嗚尊と五十猛命が韓国から乗って来た岩船らしい。岩の船といえば貴船神社を思い出す。京都の鞍馬にある貴船神社の奥宮には神武天皇(じんむ)の母の玉依姫(たまより)が乗って来た船を人目に付かないように小石で囲んで隠したとも、岩に変ったとも伝えられる船形石(ふながたいわ)という巨岩がある。

石で出来た船では沈んでしまう気もするが実は神の乗る船は空を飛ぶらしい。大阪の石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)は饒速日尊(にぎはやひ)が降臨したとされ、その時の乗り物がやはり磐船と呼ばれるものだったらしい。

岩船を横に見ながら鳥居を抜けると石垣がありその上に石段が延びている。
拝殿と本殿を圧迫するほどではないが境内は思ったほど広くない。周囲は森に囲まれて静かだが社叢もそれ程古くはないようだ。
簡素な拝殿に大社造の本殿。社も大きくないが本殿への階段は向かって右に偏って取り付けられていて、この規模の大きさにしては本格的な大社造を踏襲しているのが歴史を感じさせる。床下は羽目板で覆われているので心御柱があるのかどうかわからないのが残念だ。

本殿の右に荒神なのか小さな石が8つ置かれている一画がある。幸神、剣神、荒神などと彫られた自然石が置かれているが、詳しいことはよくわからない。
わからないと言えばもう一つある。由来書があり、ここが出雲国風土記の伊我多気社であるとされていることを説明してあるようなのだが、難しくて読めないのだ。もちろんその内容は気になるのだが、一番の問題はそ点ではなく、肝心の五十猛命の御陵の説明がないことだ。

周囲を見渡すと本殿に向かって境内の左手に、何も案内がないがはっきりと遊歩道のような道が続いている。他に小道はないのでとりあえず進んでみることにした。
最近人の通った跡の見られない蜘蛛の巣の張った小道を歩く。竹林から植林の杉並木へとかわり、数十メートルで少し鞍部になった場所で道は十字路になっている。どちらに進むか迷ったもののそこを右に折れた。理由はただ最も道が太かったからだ。山道というか植林の作業用の道のようで、途中「これは単なる林道だったか。」と、かなり不安になり引き返そうと思い始めたところに、前方に明るくなった場所が見えてきた。そこまでは行ってみようと進んだところ、森の中に少し高くなった場所が10m程切り開かれていた。
実際は境内からの距離は200m足らずなのだが、目的地がはっきりしない人の気配のない山道を進むのはかなり心細い。

何もない空き地にポツンと「五十猛尊御陵地」の碑が建っている。碑は平成18年4月10日建立の非常に新しいものだ。何だか御陵というより墓石のようだ。

石碑の側面に簡単な説明がありそれによると長円墳とある。山の斜面の頂上近くにある古墳といえば、毘売塚古墳(2005年、ワニといえばサメのこと、毘売塚古墳)を思い出させるが、見回してもここはほとんど古墳に見えない。後で調べると弥生時代と考えられる遺跡らしいが、はっきりした古墳ではないらしい。まあ、神様の御陵が古墳かなのかどうか詮索してもしょうがない。八岐大蛇の魂が眠るところという説もあったようだし。

場所は神社の裏になるようだが真裏というわけではないようだ。

ここまで来る人が多いとは思えないが、せっかく新しい石碑が建てられているのだから案内板程度はあってもいいような気がする。中には道を間違える人がいるかもしれない。

秋晴れの心地よい一日。神社まで帰ってくると遠くから運動会の放送が聞こえてくる。ここへ来るまで道中でも各地で運動会をやっていた。今日は絶好の運動会日和だ。

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○鉄の道を往く その4

卜蔵家庭園 (平成19年9月8日)

平成19年9月8日。鳥取県から県道108号印賀横田線(いんがよこた)で峠を越え島根県へ入る。峠から3-4kmで道端に小さな案内板があるのでそこを山側に入ると数百mで卜蔵家庭園(ぼくら)がある。

大きな旧宅が残っていてそこに庭園があると思っていたが、道沿いに小さな公園のように残っていたのは意外だった。そのため一度見落としてかなり通り過ぎてから戻るということをしてしまった。

出雲国(いづものくに)、今の島根県東部の中国山地には江戸時代蹈鞴製鉄(たたら)で莫大な財を成した鉄山師がいた。蹈鞴御三家と呼ばれる田部家(たなべ)、絲原家(いとはら)、桜井家(さくらい)がその筆頭だが、その御三家の次に位置するとされた鉄山師が卜蔵家ということだ。

近代的な工業製鉄が入るまで日本では蹈鞴と呼ばれる製鉄法が行われていった。その蹈鞴製鉄の一大中心地が島根県東部の中国山地だった。鉄山師ははぼ独占企業なので出雲国の蹈鞴の鉄師(かなし)は莫大な富を持っていたことになる。その財力と支配力は現在の想像を超えている。それは単に鉄を独占していたことではなく広大な山林を保有していたことにある。山は鉱山ではなく山林だ。
蹈鞴というのは砂鉄を炭の火力で製鉄する方法なので大量の木炭が必要になるため、その材料の樹木の供給源として山林が重要だった。製鉄なのに鉱山よりむしろ山林が必要なのにはそういう理由がある。蹈鞴御三家の田部氏は日本の山林王と呼ばれたらしく、日本三大山林王の一人などとも称されるらしい。その所有した山は6500ha、65平方キロとされる。
山手線の内側が大体63平方キロらしいから、確かに広い。
鉄師の財力と支配力は単に製鉄だけでなく、それだけの土地とそれから生まれる労働力を支配していたところにあるのは明らかだ。

庭は思ったよりもこじんまりとしていた。現代のそこらの豪邸の庭のほうが規模が大きい。もちろん、一部しか残っていないことにも原因はあるのだろう。

中央に池を配して周りと奥の斜面に大小の岩を置き、正面には小さな滝が落ちる。庭の向こう、遠くに船通山が借景となっていて、小さいながらとても落ち着く良い庭だ。
庭の滝は鳥上滝(とりかみ)を表現しているとのことだ。鳥上滝というのは素戔嗚尊(すさのお)の物語で有名な八岐大蛇(やまたのおろち)が住んでいたとされる滝で船通山(せんつうざん)の登山道の中途にある。
イチイの木が植えてあるが、船通山の頂上には樹齢2000年とされる国の天然記念物のイチイの木がある。 それを意識しているのだろうか。
滝の右手に1m程の柱状の石が配してあるが、観音石といって、それを池に面した平らな石の上から拝むようになっているとのことだが、手前の木が茂っていて遥拝用の石に立っても座っても観音石は見えない。

日本庭園では庭を通して眺められる遥か後ろの風景を、庭の一部として全体を構成する借景いう技法がよく知られる。借景という名前はもちろん遠くの景色を借りるという意味なのだろう。ここの庭では船通山が借景として使われている。しかし、ひょっとすると蹈鞴鉄師だった卜蔵家は庭から眺められる山を全て所有していたのかもしれない。もしそうなら風景を借りる借景どころかプライベート背景とでも呼ぶべきものだ。しかし、当時の卜蔵家が、あながち空想とも思えないほどの広い山林を有していたのは間違いない。

庭に面して椿庵という蕎麦屋がある。最初に通り過ぎてしまったのは、この店の幟しか眼に入らなかったからだ。営業は金土日だけでしかも11時から3時までというあっさりした経営。庭の公開と兼ねて営業を始めた村おこし事業の一環のようだ。まだ開店時間には早い。三々五々近所の主婦風の店員さんがやって来る。これから準備を始めるようだ。
何となく気になる店なので、機会があれば食べに来たい。庭を眺めながらの食事は落ち着いた時間が持てそうだ。

超えてきた山の中の気温は22℃、今は晴れたが曇っていると体に当たる風が既に涼しい。メッシュジャケットだと肌寒いほどだ。一部ではもう稲刈りが始まっている。夏も終わり秋になろうとしている。そして、今年最後のセミの声が響き渡る。


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