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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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○雲伯の古寺と仏と その7

大寺廃寺跡(大殿大寺廃寺跡) (平成19年8月15日)

石製鴟尾(しび)は大寺廃寺(おおてら)の金堂に乗っていたと考えられている。鴟尾と国道181号線を隔てて道路の向かい側に、大寺廃寺の塔の心礎が残っているはずだ。
しかし、ここも看板は小さくて知らなければ立ち寄ることはほぼ不可能と思える。

民家の軒先のまるで庭の一部のような場所に6角形の屋根だけの東屋がある。バス停の待合と間違えそうだ。もっとも、道路から少し奥まっているので、ここに待合所があっても困る。

屋根の下は地面から数十cm掘り下げてあり、その底に大きなほぼ6角形の表面の平な石が見える。
石の直系は1.5mもあるだろうか。中央にある柱の立っていたと思われる孔も1m近くある。巨大なものだ。柱孔には雨水が溜まっていて上からのぞくと井戸のようにも見えてしまう。よく見ると柱孔の中心に更に掘り下げてある部分があり、仏舎利を納める舎利孔と考えられているらしい。山陰では舎利孔のある心礎は珍しいとのことだ。
柱孔の雨水を見て覆いのための屋根がある理由がわかった。礎石のある位置が今の地面より低いので、屋根がないと見学できるように掘り下げて保存してある穴が雨水で一杯の水溜りになるからだ。
屋根は割りと新しい。掘ってある穴も綺麗に整備されている。以前は本当に雨のたびに水が溜まって小さな溜池になっていたのではないだろうか。

説明板によるとここらは昔、大寺村といっていた。大きな寺があったことからそう呼ばれるようになったと伝えられていて、塔の心礎と石製鴟尾などは発見されていたが、実際に昭和になっての発掘で伽藍の存在がはっきりしたとある。

伽藍配置図は興味深い。講堂に向かって右に塔、左に金堂という法隆寺に似た形式になっている。法隆寺形式は独特とされて、その理由に様々な説が出されたりしたが、全国各地で発掘が進むと、結構似たものがあることがわかってきている。ここもそうらしい。奈良時代やそれ以前は塔と金堂を左右に並べる形式はそれ程珍しいものではなかったようだ。
ただ、純粋な法隆寺形式でないのは講堂が南ではなく東を向いている点だ。法隆寺形式を左に90度回した格好になっている。
今は、寺の境内のど真ん中を北西から南東に国道181号線が通過している。

伽藍配置のアレンジはその地形によるところが大きいはずだ。確かに、現在鴟尾の置かれている近くは小高い山になっているが、そこまでは境内がかかってなりため、金堂を南面させるのに障害になりそうにない。寺域はほぼ正方形なので、90度回転して法隆寺形式にしてもほぼ同じ場所でおさまる。東に近くを日野川が流れているのも問題とはならなかったはずだ。川は古代はもっと東を流れていたはずだからだ。
結局、東が正面に変更されている理由は全くの謎だ。

大寺廃寺の元々の名前は伝わってない。大きな寺があったことから大寺という地名となって、後に寺院跡が発見されたので、寺の名前が大寺廃寺になった、というのは、何だか堂々巡りというか、循環理論のようだ。原因と結果が逆転している気がしてくる。

創建は奈良時代前期は下らないとされる。大寺廃寺の名前は不明だが、南北朝時代には伯耆国安国寺となったとされる。盛時には僧坊が四十数宇という大伽藍で寺領三千石も領していたという。現在も米子市街地に安国寺という寺があるが、これは後のものだ。

安国寺というのは良く聞くがあまり知らない。少し勉強してみた。
室町時代、足利尊氏(たかうじ)が全国に一寺と一塔を建てること決めた、この寺が安国寺だそうだ。聖武天皇(しょうむ)が全国に国分寺と国分尼寺を建立することを決めたのと似ている。ただ、聖武天皇の目的は日本を仏の力を借りて守り平和で豊かな仏国土とすることだったのに対して、安国寺の目的は全然違うようだ。

足利尊氏が深く帰依していた夢窓疎石(むそうそせき)が内乱での戦没者の慰霊と平和を祈念に一寺一塔の建造を進めていたとのを受けたともいわれる。
しかし、実際はそういう宗教的目的だけではないらしい。
室町幕府は当時、後醍醐天皇(ごだいご)の南朝と対立していた。足利尊氏は室町政権の支配力を全国に示す示威行為として一寺一塔の建立を進めたのだとされる。
また、全国の安国寺のあった場所は交通の要衝が多く、寺院という広い土地と多くの人間を収容できる建物を、いざ地方への軍事勢力の展開が必要になった場合の拠点として利用しようとしたという説もあり、これも実に説得力がある。
安国寺は結構実用的な目的で建てられていたのだ。

安国寺には同時に利生塔というものも建てられた。安国寺は現在でもかなり残っているが、利生塔で現存するのは京都の八坂塔だけらしい。知らなかった。

安国寺といえば安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という大名がいたことを思い出した。安芸国安国寺の僧だったことから安国寺恵瓊と呼ばれた。戦国時代の中国地方の雄、毛利(もうり)の外交交渉をした僧で、出世して大名となったが、関ケ原の戦いで西軍として参加し敗れて捕まり斬首された。
僧侶のままで大名となった珍しい人物だが、やはり僧は僧らしく仏道を極める修行をしていたほうがよかったのではないだろうか。
恵瓊が血生臭い世界に進んだのは、安国寺の建立目的が戦略的だったためだろうか。

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○雲伯の古寺と仏と その7

石製鴟尾 (平成19年8月15日)

お盆の真っ最中、国道181号線を米子から南へ5-6km、バス停の近くに石製鴟尾の小さな案内板が現れる。もっとも、あらかじめ存在と場所を知っていないと目に付かないだろう。

矢印に沿って民家の軒先の細い路地を入ってゆくと福樹寺という寺があり、その境内の片隅に置かれているのが、大寺廃寺石製鴟尾だ。

鴟尾(しび)というのは、古代の寺院建築で主に金堂の屋根の棟の両側に乗せられていた飾りで、今の鬼瓦、城でいえば名古屋城の鯱(しゃちほこ)のようなものだ。
唐招提寺の鴟尾は特に有名なので良く知られている。鴟尾というのは空想上の鳥とされるが、唐招提寺金堂では「しび」に「鮪」の文字があてられていることから鳥ではなく魚なのではないかともいわれる。鴟尾は鯱の尻尾の部分のような形をしている。その形から魚とされるようなったという説もある。
鴟尾が魚とされたのには形だけでなく火事を防ぐためという意味もあったのではないかといわれている。日本の建物は木造なので消火方法がほとんどない時代、火を非常に恐れた。堂宇が火災で消失という記事は日本史を通じて大変多い。そのため火事を防ぐ、つまり火防(ひぶせ)の目的で水や水と関連したものを飾ることもよく行われた。そのためには鴟尾も魚が相応しかったという訳だ。何れにせよ鴟尾は装飾的な造形のほかに呪術的な意味を持っていたと考えられている。

何の関係もないが、「鮪」と書いて「しび」と読むと、平群臣鮪(へぐりのおみしび)を思い出す。
日本書紀によれば、雄略天皇の時代に大臣(おおおみ)に登用された平群臣真鳥(まとり)はその後勢力を伸ばし仁賢天皇崩御後は国政を専横するようになっていた。時の皇太子は物部麁鹿火(あらかい)の娘、影媛(かげひめ)を得ようとするが、誘われた歌垣で鮪に負けてしまう。姫は既に平群臣真鳥の息子の鮪と通じていたことを知った皇太子、後の武烈天皇は恥をかかされたと怒り大伴金村に命じて鮪を謀殺させた。その後、父親の真鳥も倒してしまう。西暦500年ごろとされる。飛鳥時代のことだ。
古事記と違って日本書紀では歌謡が少ないのだが、この鮪の話は、影媛をめぐっての歌垣の場面、討たれた真鳥を詠む影媛など歌謡の多い記事になっている。記紀で歌物語の一番とされるのは古事記では木梨軽皇子(きなしかるのみこ)の悲恋だが、多分、日本書紀ではこの平群臣鮪の物語ということになるのだろう。

武烈天皇は恥をかかされたことを根に持って平群氏を滅ぼしたのだが、記紀では非常に残虐な性格の天皇のように記されていて、その一つのエピソードにもなっている。
古事記でも鮪が殺され話はあるが、争った皇太子と姫の名前が書紀と違うので、完全な史実とは考えられていないが、この事件で平群氏は政治の表舞台から姿を消して、大伴金村が大連(おおむらじ)となり大伴氏の全盛期を誇ったのは確かで、裏では大伴氏の策略も関与してそうな気がする。

平群臣鮪と影媛との話はともかく、真鳥、つまり鳥の息子が鮪なので、やはり鴟尾は鳥なのかもしれない。

屋根だけの東屋があってそこに鴟尾があるのだが、蛛の巣が張っていたりして扱いはあまり丁重とはいえないようだ。それでも野ざらしでなく雨風を防いでいるだけでもましか。

鴟尾は普通屋根の上に乗っているのでその大きさが実感しにくいが、こうして近くで見ると相当に大きい。
高さはほぼ1m。横幅は80cm、厚さ45cm、巨大な石の塊だ。重さは相当あるだろう。こんなに重いものを屋根に乗せて大丈夫だったのだろうか。
残念ながら重量を示してある資料が見つからなかったが、石製の鴟尾としては他に群馬県の山王廃寺のものがあり、それが1トンもの重さらしい。大きさはほぼ同サイズの1mほどの高さなので、この鴟尾も1トン前後あるということになる。建物の強度が心配になってしまう。

因みに、唐招提寺の金堂修理で製作された平成の鴟尾が高さ約1.2m、重さ約220kgという。瓦と同じ焼き物でしかも内部が中空になっていることから、石製よりも相当に軽量化されている。ここのものより一回り大きいにも関わらず約1/5という軽さだ。

石製鴟尾はここにあった大寺廃寺のもとの考えられ、白鳳から奈良時代前期のものとされる。当時瓦が広まっていったとはいえ、まだまだ先進技術で焼く技術はあまり全国に浸透してなかったと考えられる。本当は瓦製の鴟尾を飾りたかったが、地方の技術では瓦程度の大きさは作製が可能でも、1mもの巨大な焼き物は作ることが出来なかったのではないだろうか。苦肉の策として石で作った鴟尾を乗せたと想像される。苦労が窺える。

寺の境内から階段が続いているので、少し歩いてみた。
裏山に登ると墓地が広がっていて、そこに剥きだしの箱式石棺があった。普通の住民の墓の隣にぽつんとあって少々場違いな感じだ。
説明によると水田整備に伴って出土したものをここに移築したのだという。それならもう少し場所を考えればよかったのに。何故こんな所にわざわざと思ってしまう。移転だけすればいいというお役所的な決定だったのか。
お盆だからだろうか花が供えてある。少なくともこの墓地の檀家の人には丁寧にされているようだ。

そばには宝形造のお堂がある。寄進名簿に観音会とあるが、中におられるのは30cmほどの定印の阿弥陀坐像様の様だ。観音様ではない。何だか不思議だ。

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その3

会見山、西月院、安養寺 (平成19年8月15日)

米子南ICから国道181号線に降りて宗形神社を過ぎ橋を渡る。この橋は安養寺橋といってこれから目指す寺の名前になっている。地元では知られた寺だ。

国道の東側は今では少し古くなりつつある新興住宅街。その住宅地の中に向かって入ってゆく。坂を上り切って下りになるころ、民家に囲まれた一画に寺の門が見える。

安養寺、「あんようじ」ではなく「あんにょうじ」と読むらしい。門前に瓊子内親王御廟の碑が立つ。
門を抜けて進むと向かって左に本堂があり境内は明るい。本堂正面が本来の参道のようだが今は使われていない。

本堂に向かって右に御陵とされるものがある。宮内庁管轄の立て札がいかめしい。宮内庁管轄なので当然近寄れない。瑞垣に囲まれた中には身長ほどの宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。かわいらしいと思うのは瓊子内親王御陵とされているという先入観があるためだろうか。

元弘2年(1332)、鎌倉幕府の倒幕に失敗した後醍醐天皇(ごだいご)は隠岐配流(おき)となった。その時16歳だった瓊子内親王(たまこ)は父を慕って随行して来たが、一緒に隠岐に渡ることは許されなかった。そのためこの地に留まり剃髪して西月院安養尼と号した。後醍醐天皇が京に戻った建武新政後、天皇が念持仏の阿弥陀仏を授けて寺を建立させたのが安養寺の開基とされる。
瓊子内親王は24歳の若さでここで生涯を終えたと伝えられていて、その御陵だということだ。

境内の前の方に垣で囲ってある木がある。歯型栗と呼ばれるものだ。
ある日、瓊子内親王に地元の者が栗をさし上げた。皇女はその実に歯をあてて、もし春になってこれが芽吹いたら父の後醍醐天皇の運命が開けるかもしれないと願を掛けて植えたところ翌年の春には芽が出た。そして、天皇は名和長年らの助けもあって京都に帰ることが出来た。
その栗の木になった実には歯の瘢がついていたという。何代か後の今の栗の木にもやはり実に歯型がついているそうだ。

伝説では一連の話として語られるが、詳しく調べてみると時間的には少々問題があることがわかる。
後醍醐天皇が隠岐を脱出したのは流された翌年、元弘3年(1333)2月24日のことで、5月23日には京都に凱旋したとされる。つまり、願掛けた栗の芽が出てきた頃には既に船上山で鎌倉幕府軍を打ち破って再起を果たしていたはずなのだ。
さらに、「桃栗三年」といわれるくらいだから栗の実がなったのは数年後と考えられる。建武新政がわずかの期間で屯坐したのは良く知られているが、1336年には足利尊氏の反撃にあって後醍醐天皇は京都から吉野へ逃れて南朝を称するようになっている。ひょっとすると歯形のついた栗の実を瓊子内親王が見たのは、父の後醍醐天皇が再び落ち延びた時だったのかもしれない。だとすれば皮肉だ。

天皇は隠岐から一年で京都に戻っているのだが、瓊子内親王はその時に帰ることは出来なかったのだろうか。髪をおろしたといっても、京にはいくらでも門跡尼寺があったはずなので、そこへ移ることも可能だったはずだ。父を深く気遣い慕う娘の心とは別に、当の後醍醐天皇は娘をそれ程気にかけていなかったように思われる。それとも、天皇は建武新政で忙しく問題山積みでそれどころではなかったのかも知れない。

境内の右には社が三社。一番大きな入母屋造のお堂は後醍醐天皇社。そして、祠のような大きさの社とお稲荷さん。神社が寺の境内にはっきりと残っているのは珍しい。明治以後正統とされた南朝の後醍醐天皇の御威光によるものか。それとも、最近合祀されたものか。

後醍醐天皇の皇女に瓊子内親王という人が本当にいたのかどうかは知らない。何しろ後醍醐天皇には子供がやたらと多い。宮内庁が御陵として認定していることが実在の証拠にはならない。宮内庁の陵墓と陵墓参考地の指定は疑問のあるものが多いからだ。内親王ではなく御付の女官だったかも知れないが、天皇に付き従って来た中にモデルとなった女性がいたのはありそうな気がする。読み方も「たまこ」と地元では訓読みだが、一般的には「けいし」と訓読みされているようで、はっきりした呼び方も不明なようだ。
何れにせよ、薄幸の皇女の物語は物悲しく哀れを誘う。

少し高台になっているとはいえ、ここはから隠岐島は見ることは出来ない。
前の墓地ではそろそろお墓参りの人が姿をみせるようになって来た。

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○古代伯耆の港湾都市 その3

宗形神社(会見宗形神社) (平成19年8月15日)

米子バイパスの米子南ICを国道181号線に降りて数百メートル南へ向かうと右手に鳥居が見えてくる。お盆の真っ最中の、平成19年8月15日。そういえば昨年もお盆にこの近くを散策したことを思い出した。

鳥居の奥には宗形神社(むなかた)。もちろん北九州の宗像大社を総本家とする宗像三神を祀る神社だ。宗像神は宗像氏が奉じた海上交通の神と考えられている。
ここの神社の創建が何時なのかははっきりしないが、地名も宗像であることから、時代が下ってから宗像神を勧請して神社を建てたのではないと思われる。古代、宗像一族が海の道を通じてこのあたりまで来ていたということだろう。

海の一族として有名なのは綿津見神三神(わたつみ)を祀っていた安曇氏(あづみ)がある。こちらは福岡の志賀島(しかのしま)周辺を本拠地にしていたとされる。しかし、今では安曇といえば信州の安曇野が連想されるのが一般的で、海とは程遠くなっている。九州から進出した彼らの一部は日本海に沿って北上し、新潟の糸魚川(いといがわ)を溯って松本盆地に定住したとされる。しかし、海洋族が山の中に落ち着くというのも何となく釈然としないものを感じる。
ただ、海の一族は日本列島のかなり広範囲に広がり影響力を及ぼしていたことは確かだろう。

ここは海から4-5km離れている。すぐ近くに日野川という大きな川があるのだが、この地へ手を伸ばした宗像氏がその川を溯ってここに居を構えたというのではないだろう。と、いうのも、古代には日野川の河口は現在よりもずっと東の淀江(よどえ)あたりにあったとされるし、今の米子市街(よなご)は潟で大きな入り江になっていたと考えられるからだ。つまり、このあたりが海岸線に近い場所だったと想像される。
いずれにせよ、淀江が潟湖を利用した港湾都市として栄えていたことを考えると、宗像氏がここまで来ていたのは間違いない(2004、古代伯耆の港湾都市その1)。

社の背後の山を中心に古墳群があるらしい。それが宗像一族のもので奥津城を祀る施設として神社が創建されたと考えるのは無理だろうか。古墳がどの時代のものか知らないので単なる思い付きだ。

参道は、参拝者を出迎えてくれる巨木で木々のトンネルのようになり、南側が山の斜面になっていることもあり昼でも薄暗い。老木はモミジで季節には近隣から多くの人で賑わうという。
境内を取り囲む森も深い。県の銘木100選の楠の巨木が歴史を伝える。
本殿は大社系の造りで立派だがこの地方では良く見かけるものだ。特に目を引くものはなかった。

ところで神社の名前は「宗形」で「宗像」とは字が違う。地名は宗像だ。しかし、こういう漢字表記の違いは珍しくない。
漢字はもともと中国からの輸入なので、日本古来の言葉を表す時に漢字の音をあてはめることが普通に行われた。その代表が万葉がなだ。特に固有名詞は漢字の持つ意味を使うことはできないので音を使って表すしかない。
そこで「むなかた」というのを宗像とか宗形、さらには胸形などと書いたのだ。漢字の違いは問題ではなく「むなかた」と読めればそれでよかった。統一されなかったのは文字を書いたり読んだり出来るのが極限られた少数の人たちだったということもある。要するに、一部の識字可能な人がわかればよかったからだろう。
神社や寺院を回っていると、漢字表記がいろいろ違うことがあり、それを見て「当て字なので間違っている。」というように説明している人が時々いるが、漢字を使っていることが既に最初から当て字なので正しいとか間違いとかいうことはない。読み方より漢字の違いを意識するようになったのは、一般人が字を読めるようになった近代以後のことだ。

黒の略礼服を着た老夫婦が訪れた。どのような事情があるのか、末社まで熱心にお参りする姿が印象的だ。

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○雲伯の古寺と仏と その6

名和滝不動明王 (平成19年7月7日)

名和(なわ)の町から南へ走り県道278号線、通称大山(だいせん)広域農道に入り西へ向かって帰路に着く。
県道240号線と交差したところに名和滝不動の案内があるのが目に付いた。どのようなものなのか。道草をしてみる。

少し山側に向かったところの橋のたもとに案内の矢印があるが、「車では入れません」とある。特に注意書きがなくても、とても車で進もうとは思わない細い道が続き、その先は舗装もされてないような雰囲気だ。

何だか良くない予感がするが、せっかくなので川土手のような道を川下に歩いて進む。案の定、夏草が生い茂った小道となって本当にこの先でいいのか不安になるが、岩場を回ったところでそれらしい場所が見えるようなった。

岩と立木を利用して注連縄が張られていて、その向こうに小さな公民館のような建物がある。
周囲を見回すと、元々は川下の河原を越えてくるのが参道だったように思える。

お堂に近づくと、小川が川に向かって流れて来ていて、滝の落ちる水音が大きくなる。流れ落ちる滝の音は涼やかだ。
お堂の裏に高さ3-4mほどの小さな滝が一筋。流れていた小川は溝のような大きさだったが、水量は確かに少ない。それでも、ここのところ雨が多かったことを考えるとこれでも多いほうなのかも知れない。夏の日照りが続くと枯れることもありそうな滝だ。

大きさの割りに音が大きい。落ち込んで岩場で少し囲まれたようになっている地形のため周囲に響くようだ。
滝の正面に祭壇と注連縄がある。

お堂は当然閉まっているし本尊も拝観出来ない。滝を御神体とした集落の神仏習合の聖地といったもののようだ。滝には修験道が関与することが多いが、ここはそれ程のものではないようだ。
当然地元の人しか知らないし、余所者が来るような場所でもない。
わざわざ案内を出さなくてもいいのではないだろうか。表示の目的がわからない。

後で確認すると、ここは旧名和という集落らしい。それで名和滝と呼ぶのだ。


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