同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その2

三人五輪 (平成19年7月7日)

名和一族(なわ)の墓のある小山の麓には的石(まといし)と長綱寺(ちょうこうじ)があって、道を隔てた集落内には名和氏館跡と長年(ながとし)にゆかりの遺跡が集中してある。
そこから少し離れるが、名和の中学校と小学校の前を通る道を南へ数百m。三人五輪(さんにんごりん)の看板が出る。
畑の作業小屋らしい建物の脇の畦道のような道を少し入ったところにある長年の墓と伝えられてる石塔だ。

説明板によると名和長年(なわながとし)と長男、義高、三男、高光の首塚と伝えられているとのことだ。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇(ごだいご)と争うようになった足利尊氏(あしかがたかうじ)は一度は九州まで落ちたが態勢を整え再び東上してくる。そして湊川(みなとがわ)の戦いで後醍醐天皇方の新田義貞(よしさだ)や楠木正成(まさしげ)を撃破し京都に入った。湊川の戦いで楠木正成が斃れたことは有名だ。そこで三木一草と呼ばれた後醍醐天皇の近臣四人のうち長年が最後の一人となっている。そして、その長年も京都市内の戦いで討ち死にする。

その首塚がここにあるのはどうしてか。また、息子たちの義高は泉州堺、高光は近江の西坂本でやはり戦死している。説明によると家臣が首を持ち帰ってここに埋めたそうだ。
実際には首を持ち帰るのは難しかっただろう。

この地方では珍しい大型の五輪塔とのことだ。石塀に囲まれて立つ五輪塔は確かに大きい。人の身長位の高さがある。堂々としたその大きさから相当著明な人の墓と考えられて、結果、長年に結びつくのも自然だろう。

何故か三人の墓のはずはのに、五輪塔は2基しかない。
横に3基の石塔があるが、こちらは1mにも満たない小型のもので、しかも一つは五輪塔ではなく宝篋印塔(ほうきょういんとう)と思われる。筐体も隅飾りも失われているが五輪塔ではない。先ほど見てきた名和一族の墓地にあったものによく似ている。
この一帯には五輪塔や宝篋印塔を墓石とする習慣があったということか。

この五輪塔はどうやら長綱寺の檀家の人たちが管理しているようだ。綺麗に掃除してあり大切にされていることがわかる。
石塔は長い年月にさらされていて危険なので立ち入らないようにとの注意書きがある。

隣接して墓地があり、碑銘は名和。一族の子孫なのだろうか。

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その2

名和一族墓地 (平成19年7月7日)

案内板が道端にあるのだが、新しい道が整えられている最中で案内板の指し示すのがどの道なのか方向が少しわかりずらい。

名和氏館跡(なわ)や的石の近くの道か見える寺がある。寺の駐車場に停めて近寄る。長綱寺(ちょうこうじ)。名和長年(なわながとし)の菩提所とされ、本尊の阿弥陀三尊は長年の念持仏という。拝観は出来そうにない。

縁起によれば、名和長年が開基した寺で長年と改名する前の名前の長高から長高庵と呼ばれた。その後、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇(ごだいご)を吉野に追って室町幕府として天下をほぼ掌握した後、名和長年が後醍醐天皇の近習であったことから長年の前の名前である長高を使うのを幕府に憚り、長高庵を長綱庵としたとある。

名和一族墓地の案内が寺の横を指している。探して進むと道は裏の小山に続いている。
のんびりと整備された遊歩道を登る。

数分で到着。もとの雑木が伐ってあり明るくて公園のようだ。
1mほどの五輪塔がびっしりと立ち並んでいる。その数約300とされる。
何列にも横に並んだ石塔は斜面を利用して建てられているためまるで雛壇に並んだ記念写真のようだ。

これ程の数があるとは思ってもいなかった。ここまで並ぶと見事だ。嵯峨野の念仏寺を思い出す。しかし、ここには観光客が訪れている気配はない。綺麗に整備されているのでもったいない。もっと紹介されてもいい。もっとも、名和長年の人気も知名度も現在では今ひとつなので仕方がないのかも。

五輪塔は角が丸く、あまり加工がされてなく素朴な印象に感じる。五輪塔に混じって宝篋印塔がいくつか混じっている。多くは隅飾りを欠いている。宝篋印塔の崩れが風雨によるものなら五輪塔の丸まった角も風化によるものとも思えるが、何となく初めから簡素に作ってあるような印象だ。そう思うのは角が丸くなっているだけでなく形自体が少々ゆがんでいるからだろう。

宝篋印塔は主に墓石群の後ろにあり数も少ない。宝篋印塔は家長かそれに近い墓で五輪塔は家人などのものという違いか。
まわりにも数基の宝篋印塔が一群とは離れた土のマウンドの上に建っている。単独であるところからもそれなりに一族の中で重きをなした人のものなのだろう。

石塔群の斜面の後ろは人の背丈ほどの崖のような斜面になって落ちている。
一番後ろの中央にある宝篋印塔の後ろ下には遺骨を納めるためか石製の小さな門扉があり石槨か石室になっていそうだ。沖縄の亀甲墓(きっこうばか)のいわゆる破風型の上が墓石群になっているような格好だ。この独特の形がどういう意味なのかはわからない。

この石塔群は船上山(せんじょうざん)で後醍醐天皇を護り鎌倉幕府の軍と戦って戦死した名和一族を弔った墓とされる。後醍醐天皇が足利尊氏に敗れて吉野に走った後、室町幕府方の足利氏や北条氏の残党が荒らすのを恐れて埋められていたのが、昭和5年の山林開発で見つかった。
実は見つかった時は何の墓かわからなかったらしいが、名和長年につながる家に伝わっていた古文書から名和一族の墓と判明したという。

室町幕府に気を使い長高庵が長綱庵にされていたし、ここでは墓が埋められたという。室町時代の初期は幕府に対して吉野の後醍醐天皇の勢力があったことから南北朝時代と呼ばれるが、こうして見ると南朝の影響力は非常に小さかったことがはっきりわかる。南朝と呼んではいるが吉野だけの限定政権だったことが明らかだ。

名和氏館跡には天皇と船上山に籠って戦った者たちの残された老人女子たちが捕虜になるのを嫌って自害したという話が伝わっていた。この石塔群は館に残って果てた一族の女性墓だとも伝えられている。
何れにせよ少し悲しい話だ。

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その2

名和氏館跡 (平成19年7月7日)

的石から道を挟んで集落があり狭い道を入ると石柱の塀で囲まれた一画がある。
名和氏館跡(なわ)とされる。しかし、館を偲ばせるものは何もない。しかも狭い。跡といってもごく一部なのだろう。

サツキやツツジらしい植木があるが全体に雑草が繁っていて公園なのか空き地なのかわからない。大山町指定文化財「名和氏館跡及び碑」という標柱がたっているので、単なる荒れ果てた空き地でないことは確かだ。もっとも、意味のない空き地が垣で囲まれているわけはないので、前まで近寄ればこれが跡らしいとすぐに想像はつく。
中には碑が建っていうる。名和長年(なわながとし)と一族を称える顕彰碑のはずだが読めない。

名和長年が隠岐(おき)から脱出した後醍醐天皇(ごだいご)を奉じて船上山(せんじょうざん)に籠った時、残された一族の女性や老人が、鎌倉からの討伐軍が来て自分たちが虜囚となれば戦う長年らの重荷になるかも知れないと、屋敷に火を放ち自害したとも伝わっている。
先の名和神社でもそこにあったとされる米倉を奪われるのを恐れて焼き捨てたといわれていた。

名和一族は後に何も残さずに立ち去ったようにさえ思える。こうした行動を考えると、長年たち一族は後醍醐天皇に味方することを決めた時点で、死を覚悟していたような気がする。
すこし頭を使えば、長年たちは一地方の豪族に過ぎずない自分たちが鎌倉幕府から送られる軍隊を退けることが出来るとは思っていなかったと考えるのが素直だ。もちろんその後に味方が膨れ上がるとは予測するのも不可能だ。加勢をあてにはしてなかっただろう。
ひょっとすると天皇に助力を求められたのは迷惑だと思ったかもしれない。大変な厄介ごとが持ち込まれたと考えてもおかしくない。そうだったとしても、多分、長年は断りきれなかったのだろう。
たとて斃れたとしても天皇のために死んだという名が残るのは名誉なことだ、と決起したとされるが、その心意気はそのまま辞世の句のような気持ちだったのではないだろうか。

名和長年が後醍醐天皇につくことは天皇が隠岐脱出する前に事前に決めてあったという説もある。実際はその可能性は高そうだが、たとえ前もって決めていたとしても、決断には長年は苦悩したのは間違いない。どの時点で助力要請があったとしても後醍醐天皇につくことは長年にとっては死を覚悟するべきことだったはずだ。名和一族が全滅する可能性は少なくない。
多分、説得には、後醍醐天皇が再び決起したと知れば全国各地で味方が増えるなどと甘い予想が語られただろう。もちろんそれは事実だったが、その時点では何の根拠もない単なる希望だということを長年もわかっていたはずだ。
加勢もなく後醍醐天皇と伴に討ち死に、それが長年の描いた予想だったのではないだろうか。一方、後醍醐天皇は蜂起が失敗しても、また島流しだ、くらいに思っていたような気がする。

後醍醐天皇を警護しつつ館を出発する長年とその一族、それを見送る家族たち。お互いに交わす最後の言葉。生きて再び合えるとは思っていない決死の旅立ち。
想像すると涙が湧いてきそうだ。それとも、単なる空想が過ぎるのか。

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その2

的石 (平成19年7月7日)

名和神社(なわ)から県道240号線に入り南へわずかに走る。的石の標識があるのでそれに従って新道の脇に下りてゆく。

田圃の外れの一角に説明板と大きな岩があった。

2-3mの巨大な板状の岩が斜めに石の台に乗せられるように置かれている。
後醍醐天皇(ごだいご)に従った名和一族は強弓でならしたとされる。伝説によるとその名和一族が弓矢の訓練のための的にした岩だとされる。確かに岩の真ん中辺りに弓道の的のような丸い1m足らずの輪型の印が薄っすらと残っている。自然の岩の模様にしては妙で表面も不自然に平らで人工的に加工されたように見える。

弓の的といわれればそっくりだが、実際には的にはしないだろう。
石を的にすると矢の鏃が傷む。練習の矢には鏃がなかったとも考えられるが、鏃が付いていなかったり別のもので代用したような矢を射て練習しても実際の矢とはバランスが違うので実戦の時に命中率が落ちるので意味がないだろう。
それに、硬い鏃が当たれば石の方は欠ける。練習で何千何万と矢を受ければ石だって掘れてくるはずだ。しかし、石にはそんな凹凸はない。

誰かが丸い的のようなものを書いたのが、後世に伝説になったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
壁画古墳の石室だったのではないかとされる。気がつかなかった。

丸や三角、環状の幾何学模様の描かれた彩色壁画古墳としては茨城県虎塚古墳が有名だ。石室奥に丸い環状の五円玉のような模様がよく写真で載っている。
ここからは少し遠いが鳥取市国府町岡益にある梶山古墳(かじやまこふん)がやはり彩色壁画を持つ古墳として知られる。ここにも、石室の奥の壁にベンガラで魚や同心円、波型の竜文、三角文などが描かれている。
この的石も円形の文が描かれた石室の奥壁だったのではないかと考えられているのだ。多分それで間違いないだろう。それが伝説になったのだ。

ちなみに、幾何学模様のようなものが描かれたものを装飾古墳と呼び、高松塚古墳などのように絵画が描かれたものは特別に壁画古墳と呼ぶことが多い。

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その2

名和神社(長者原名和神社) (平成19年7月7日)

国道9号線を米子(よなご)から淀江(よどえ)を過ぎて東へ向かって走る。名和(なわ)の町で名和神社の案内が出るので左へ曲がり旧道へ入りJRの線路を高架で越える。

特別に考えるところがあって参ったというわけではない。名和長年(なわながとし)には実に失礼な話だが、太平記には詳しくなく興味も古代史より薄い。それに初めての訪問というわけでもないので、正直なところあてもなくのんびりと走っていて案内板が目に付いたので寄っただけだ。

元弘(げんこう)の変で鎌倉幕府打倒の蜂起に敗れて隠岐(おき)に流されていた後醍醐天皇(ごだいご)は島からの脱出に成功してこの近くにたどり着いた(2006年、後醍醐天皇にまつわる史蹟、1、後醍醐天皇腰掛石)。
その時に天皇を迎えて味方し以後の鎌倉倒幕から建武新政(けんむのしんせい)への立役者の一人となったのが名和の豪族、名和長年とされる。

後醍醐天皇が隠岐島から名和の湊に着いた後、島まで同行していて同じく脱出してきた千種忠顕(ちぐさただあき)は、住民に頼りに出来る武将がいないかと訊ねた。すると名和長年が無名だが一族皆、心が広く志のある者だと答える。
そこで、忠顕は使者として長年の屋敷に行き天皇に味方するよう下命した。
長年は一族で宴会の最中だったとされるが、突然の申し出を一族で協議する。既に新しい光厳天皇(こうごん)が鎌倉幕府のもとでで即位している。一度は鎌倉に敗れて島流しになった後醍醐天皇側に付くのは相当危険だったはずで、下手すると一族滅亡することになる。
「たとえ屍を軍門に曝すとも、一天万乗の天子のために戦ったなら、その名を後の代に残し、生前の思い出、死後の名誉たるべし」
つまり、たとえ敗れたとしても天皇のために戦て斃れたと、名を後世まで残せるのは名誉なことだという意見で、名和一族は後醍醐天皇に味方することを決意したとされる。そして、天皇を奉じて挙兵し名和の南、大山(だいせん)に連なる船上山(せんじょうざん)に籠り鎌倉軍を撃破する。以後、幕府は倒れ、建武新政へと続くのだ。

ここの神社は明治になって建てられたものなので古い歴史はない。鳥居前からすでに新しい神社特有の雰囲気が感じられる。
境内は広い。概して新しい神社は広い。少しその広さは不釣合いな感じがする。要するに立派過ぎる。収蔵庫があるが何が入っているのか。歴史的なものはないはずだ。
拝殿前にある社務所は銅葺だが勅旨門を思わせる唐破風玄関がある。やはり立派過ぎる。

本殿はどうやら流造のようだ。二重の瑞垣に囲まれていて近づくことが出来ない。遠くから眺めるだけだ。このあたりも新しい神社によくある人を容易に近づけさせない権威的な雰囲気が十分に出ている。何だか冷たい感じだ。
文句ばかり言っているが、単純に好みではないというだけなのだが。

由来を調べると、初めて造営されたのは明治16年(1883)。現在の社殿は昭和10年(1935)に名和長年殉死600年を記念して建てられたそうだ。そのときの造営は明治神宮の設計者が手がけらしいので神社の雰囲気に国家神道を感じたのも納得だ。

ここは名和氏の米倉があったところとされる。一族は船上山に籠る時に敵に兵糧を渡さないために米を倉ごと焼き払った。そのため現在でも社殿の裏の土中から焼けた米が出てくるという。本当だろうか。

拝殿にかけられた帆掛舟の紋が実に誇らしげだ。
長年は船上山の活躍によって後醍醐天皇からこの帆掛船の紋を賜ったという。
名和氏は村上源氏の流れを称しているが、出自ははっきりしない。「伯耆(長年)は鰯売りなり」という記述の古本もあるらしく、名和地方を中心にした海運漁業の豪商から出発した豪族だったという説が有力だ。一介の商人が天皇自ら紋を賜るまでになるというのは感無量だったに違いない。

戦前戦中は足利尊氏(あしかがたかうじ)は逆臣扱いで、長年は不遇の後醍醐天皇を支えた忠臣として人気が高かった。
建武新政を支えた「三木一草」と称された四人の公家や武将がいる。楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年、結城親光(ゆうきちかみつ)、千種忠顕。三木一草というのは名前に「き」の付く3人と「くさ」のつく一人という意味だ。
楠木は文字通りくすの「き」、結城は木の漢字ではないがゆう「き」、千種はち「くさ」。名和長年には「き」の文字は付いてないが、出身地から伯耆守長年(ほうきのかみ)と呼ばれたため、ほう「き」で三人目の「き」にあたる。

三木一草のうち楠木正成は太平記のヒーローの一人でよく知られている。調べてみると結城親光、千種忠顕は後醍醐天皇と伴に流された隠岐島まで従っていて常に天皇の側に仕えていた側近だ。彼らが忠臣とされるのは理解しやすい。その中に長年が入っているというのは意外だ。
しかし、よく考えれば長年が協力して船上山で幕府軍を退けたことから鎌倉幕府の滅亡と建武新政が成ったわけで、彼がいなければ隠岐から戻った天皇もまたすぐに捕まった可能性は高い。歴史を転換させたといってもよさそうだ。
長年は建武新政から離反した足利尊氏によって京都で討ち死にするのだが、旗揚げの時の「死しても名を残す」というのを実践した形だ。

個人的な好みでは後醍醐天皇はそれ程ではない。鎌倉幕府を倒したものの結局は足利尊氏に追われて吉野へ逃げる。南北朝時代になるが、南朝は地方勢力に過ぎない。その責任は後醍醐天皇の戦局の読み違え、味方してくれた武士団の心情が理解できなかったことなどにあり、仕えるには少々不安な人物だったと思うからだ。
しかし、北畠親房(きたばたけちかふさ)、顕家(あきいえ)親子、新田義貞(よしさだ)など、後醍醐天皇に振り回されながら最後まで天皇を支えた南朝の英雄には、その実に健気な働きと報われない悲運に同情してしまう。
長年のことをこうして調べてみると、彼もまた悲運の人物だとわかった。それまでの印象が全然変わってしまった。
英雄よりもその周りで斃れて行く人物に強く魅力を感じる。特に仕える大将や上司に問題がある場合などは尚更だ。今まではそれ程でもなかったが長年が好きになってしまいそうだ。

戦後はあまり人気がない名和長年だが、鳥居前に戻ると、なにわナンバーの車が一台駐車場へ入ってきた。娘二人連れの夫婦の一家だ。近くには大した観光地はない。わざわざ来たのだろう。歴史ファンなのか長年ファンなのか。
「あなたがたも長年を好きになってもいいですよ。」
心の中で勝手にエールを送った。


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