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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2007

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○日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる その8

長田神社(貴布祢大明神長田神社) (平成19年7月7日)

清見寺(せいけんじ)から西に少し歩くと神社がある。特に目的があったわけではないが、何となく目に付いて気になったので立ち寄ってみた。

思いのほか立派な神社だ。周囲は植林された杉林だが平地に均してあるのでもとは境内の一部だったと思われる。。
古い大きな石の鳥居に「貴布祢大明神」の額がある。現在の神社名は長田神社というが、明治にでも変わったのだろうか。ここは孝霊天皇とも楽々福とも何も関係がない。
しかし、この神社は清見寺に近く、往古の寺域と境内を想像するとほぼ接していたか重なっていた距離関係にある。お互いが神宮寺と鎮守のような関係にあったと考えるのが自然だろう。ただ、それだけのことだが。

隋神門を抜けると鬱蒼とた苔で覆われた石畳の参道が杉林の中に通っている。ここ長田の集落の氏神と思われるので参拝する人が少ないのだろう。苔が全く剥げていない。

拝殿は公民館のようだ。正面がガラス戸になっていると何となくそんな感じを受けてしまう。やはり神社は蔀戸などのほうが風情がある。

向かって左の境内に御神木が祀られている。「奉斎、素戔嗚尊」とある。やはり荒神なのだろう。
瑞垣に囲まれた木は古木でもない比較的若い木だ。滅法植物に弱いので種類は全く不明だが特別な霊木なのだろうか。ここでもそうだが、荒神として祀られている木は若いものが多いのは、何か理由があるのだろうかと思いながら、未だ解明できてない。

本殿はよくある方二間の大社造系。縁を支える右の一番前の柱の礎石が蹲る人の姿になっている。肩膝を地に着いてうな垂れて蹲る人の背中に柱が乗っている格好だ。これは一体何だろうか。今まで見たことがない。
あまり似てないがアトラスが地球を支えている像を思い出す。多分社を支える役なのだろう。文字通り縁の下の力持ちというものか。

それにしても薮蚊がひどい。少しでも立ち止まると刺されそうになる。おかげで全くカメラのピントが合わない。手ぶれ防止機能のついたデジカメが欲しくなった。

この神社にわざわざ来る人がいるとは思えないが道端に案内板が設置してあるのが何だか妙だ。

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○日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる その8

玉簾山、清見寺 (平成19年7月7日)

天気が長くぐずついていたがようやく夏になった、平成19年7月7日、特に目的もなく思いつきで近くを回る。

思いつきとはいっても土地鑑がないと見つけるのが難しい場所に清見寺(せきけんじ)はある。国道9号線から淀江で離れて日本最大級の弥生遺跡、妻木晩田遺跡(むきばんだ)への案内で道を進み、遺跡は今回の目的地ではないので通り過ぎて、更に東へ走ると民家のない山の裾野を進む。すると長田(ながた)の集落で寺の看板が出る。

ここには室町時代末期の木造十一面観音立像があるというのでやって来たのだが、参道入り口に立つ説明板では、本尊は12年に一度子年の3月17日のみ公開の秘仏だとある。残念。拝観は出来ないようだ。写真がある。少し腕などが細く華奢な印象だが、なかなか優美な像のようだ。しかし、十一面観音とのことだが明らかに千手観音像だ。これはどうした事なのだろう。

本尊の拝観は出来ないが、せっかくなので本堂へ向かう。真っ直ぐに緩やかに下る参道は石畳になっていて、ここのところの長雨と表面を覆う苔で滑りやすい。
山の中のお堂だ。周囲は竹やぶになっているが明らかに整地された平地なので昔はかなりの堂宇が立ち並んでいたことを偲ばせる。今は公民館というか収蔵庫というか、寺らしくないお堂が一つ建っているだけだ。

伯耆観音霊場の第十八番。お堂には線香が用意してあるし納札のための箱もちゃんとある。廻る人がいるのだろうか。朱印はいただけそうにない。
額には行基菩薩一刀三礼柵、千手観音菩薩とある。きちんと千手観音となっていて説明板よりお堂の額に表示のほうが正確だ。

寺の周囲には所々に檀家のものと思われる割と新しい墓がある。明らかに無住なのにどうなっているのだろう。裏には地蔵菩薩の石像が寂しく立っている。

参道途中から右の方に歩いてゆくと徳楽古墳(とくらく)がある。しかし、どこがどう古墳なのか。まるでというか完全に雑木林の一部の単なる小高い場所にすぎない。この古墳は寺の創建と何か関係があるのかも知れない。
隣には植林された杉林があり、珍しく格子状に幾何学的に植えてあるために、杉が一直線に並び美しい。

孝霊天皇伝説(こうれいてんのう)の皇后の伝説がある高杉神社(たかすぎ)が東へ2kmほどの場所にある。実はその伝説とここの行基菩薩一刀三礼の千手観音像の伝説は驚くほど似ている。

一刀三礼というのは一彫りする毎に三度拝むという信仰の篤さを示す。
話は次のようなものだ。

奈良時代、文武天皇(もんむてんのう)の頃、この近くの妻木(むき)というところに朝妻(あさつま)という夫婦が住んでいた。長い間子宝に恵まれず近くの産土神に祈願したところ、ようやく美しい娘を授かった。
娘が大きくなった時、都からの夫役(ぶえき)の達しがあり父親が行くことになったが娘は心配で同行する。すると父親は途中で倒れてしまい娘だけ都に着くことになった。
都で文武天皇はその娘を見初め、有栖川大納言の養女として中宮へ迎えた。娘は玉清姫と呼ばれ、その皇子が聖武天皇(しょうむてんのう)となったという。

玉清姫が都で暮らす間に妻木に残された母親が亡くなったため寺を建てた。寺は大山寺南光院(だいせんじなんこういん)の末寺にせよとの達しで、夕陽山朝妻寺と名づけられた。
玉清姫が崩御した時、聖武天皇が姫の菩提を弔うために行基にその寺に下向命じた。そして行基が一刀三礼して千手観音像を刻んだのだとされる。

時代が下り、江戸時代になって、初代の鳥取藩主、光仲(みつなか)が病気平癒をこの寺に祈願したところ回復した。さらに家老の娘が失明したのでその故郷のこの寺に祈願したところ目がまた見えるようになった。そこで光仲は霊験に感じて寺を整備し玉簾山清見寺の寺号を与えたという。

前半部分はどこからどこまでもすごい伝説だ。伝説にしてもあまりに荒唐無稽で無理がありすぎる。
娘が父親の夫役に一緒に都に行くというのも不自然だし、父親が亡くなった後に一人で行くのはもっとありえない。
もちろん聖武天皇の母親は藤原不比等(ふひと)の娘の宮子(きゅうし)だ。これは武家社会となるまで日本の政治中枢に座り続ける藤原氏の台頭を告げる事柄として教科書でもあまりに有名だ。
有栖川という大納言も、もちろん旧宮家の有栖川からのものだろう。奈良時代には有栖川家はない。時代でいえば、大山寺の南光院もその時代にあったとは思えない。

それはともかく、この話の前半部分は高杉神社の孝霊天皇と朝妻のロマンスとほぼ同一なことがわかる(2004年、日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる1、高杉神社)。
さらに、子宝を祈願した神社というのはどうやら志貴皇子(きしのみこ)の妃の話があるという淀江の一宮神社らしい(神社紀行 一宮神社)。このあたりは少し混乱があるようだ。志貴皇子というのは白壁皇子(しらかべのみこ)の父で白壁皇子は後の光仁天皇(こうにんてんのう)だ。余談だが光仁天皇の即位で後に志貴皇子は春日宮天皇とも田原天皇とも呼ばれるようになる。
どうやら文武天皇と聖武天皇の関係を志貴皇子と光仁天皇の関係と混同した伝説が一宮神社のほうにはあるらしい。文武天皇と志貴皇子が混同される要素はあまりないのだが、 何故そうなったのかは想像がつかない。

ちなみに聖武天皇の母が藤原宮子なのは確かだが、実は宮子には不思議な伝説がある。
それは安珍(あんちん)、清姫(きよひめ)の話で有名な紀伊国、道成寺(どうじょうじ)の縁起として伝わる。

紀州白浜、日高川の河口近くに子宝に恵まれない夫婦がいた。八幡宮に祈願したところ、よううやく女の子が生まれた。八幡宮から授かったので「宮」と名づけたが、娘の頭には生まれながら髪の毛が1本もなかった。

ある時、海底から不思議な光が射すようになる。母親の渚が海底まで潜って見つけたのは小さな黄金仏だった。渚は仏像を安置して毎日礼拝したところ、夢に黄金仏が現れて自分は「補陀洛浄土(ふだらくじょうど)の観音菩薩」だというので、娘に髪が生えないことのが不憫だと訴えた。すると宮に美しい黒髪が生えどんどん伸びて身の丈よりも長く七尺あまりの美しい黒髪となり、「髪長姫」と呼ばれるようになった。

ある日、一羽の雀が木の枝にかかった宮の長い髪をくわえて飛び去った。都で鳥の巣から垂れた長い美しい髪を藤原不比等が見つけて持ち主を探させる。
そして、藤原不比等の養女として迎えられ名を宮子と改めて文武天皇の妃となり、皇子を産んでそれが聖武天皇となった。

故郷の事と観音像が気になり悩む宮子のために文武天皇は寺の建立を命じる。紀伊国司の紀道成(きのみちなり)が伽藍造営の任務につくが材木を日高川を筏で運ぶ途中に事故で水死する。それでも寺は完成しそれが道成寺だという。

道成寺の縁起なのだが清見寺の伝説とかなり似ている。藤原宮子には何か伝説が出来る理由があったのだろうか。

清見寺本尊の千手観音は行基菩薩一刀三礼とされるが、像は室町末期とされるため行基が彫ったものではないのは確かだろう。
大体、仏像といえば行基や空海、時代が下れば運慶、快慶、定朝(じょうちょう)作とされるのことはよくある。やはりありがたい人の作と信じることで礼拝する人々の信仰心が深くなったのだろう。実際に誰が作ったかではなく、誰が作ったと伝えられているということの方が重要なのだと思う。

清見寺の後半の伝説も真偽はともかく大山寺の末寺であったことは確かなようで、明治に大山寺が廃寺になるのに伴ってここも全て解体されたが奇跡的に本尊だけは残った。それは地元住民の努力によるもので本当に奇跡ともいえる。本尊を保存しようとする時にも、行基菩薩が刻んだものという伝承は住民を動かす力になったはずだ。
本堂が収蔵庫のようなのも無住なのも全ては廃寺になったためだった訳だ。

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○日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる その8

山口神社(栃原山口神社) (平成19年6月2日)

生山(しょうやま)から国道180号線を米子(よなご)へ向かって走る。日野川(ひの)と併走するように続く道は交通量もそれ程多くなく初夏の風を浴びながら快適だ。気持ちよく走っていた最中に襟元から虫が入って胸の辺りが痛くなる。刺されてしまった。
あわてて少し広い道端に停めて急いで上着を脱いでシャツを脱ぐ。一匹の小さな甲虫が飛んで出た。後には胸と脇に小さなポツっと赤い咬まれた印。
こんなところで上半身裸になるとは思わなかった。

途中、川には鮎の釣り人の姿が。そういえば昨日が日野川水系の鮎漁解禁日だった。
そんな太公望の姿を横目に県道209号線を大山(だいせん)方向へ登る。

栃原(とちはら)の集落というのがわかりづらい。県道52号線にぶつかるまで行きすぎて再び1kmほどバックする。小さな川にかかる橋の向こうがそうらしいということで進んでみる。少し広い住宅の前の道にバイクを停め、国土地理院の2万5千分の1の地図をにらみながら見当をつけて歩くと村はずれに神社を見つけた。

集落の家々の向こうに聳える大山が綺麗だ。
鳥居の向こうに二本の巨木がまるで第二の鳥居のように両側にそそり立っている。
ここが孝霊天皇(こうれい)を祀る山田神社だと思うのだが本当にここだろうか。

小さな村の氏神様とった神社だ。確認のために額を見て驚いた。何と神社の名前は山口神社。山田神社ではない。神社を間違えたのだろうか。しかし、何度見ても山口で山田ではない。
何だか少々妙な感じで納得がいかない気もしたが、とりあえずお参りをした。

本殿の前に狐の石像が一匹。本来はお稲荷さんなのだろうか。
本殿右に南天を囲ったブロック塀があり何かの斎場のようだが地元の氏子でなければわからない。それにしてもあまり眼にした事のないものだ。その反対側には巨木が祀ってある。これは荒神だろうか。
当然、由来や縁起を記したものはない。典型的な村はずれの小社で、子供が境内で遊んでいれば一番に似合う。

楽々福(ささふく)関連社についてはネットで検索しても引っかかるものは全て山田神社となっていて山口神社ではない。
今回旅の参考にしているのは「日本の神々 神社と聖地 7 山陰」白水社、という単行本の中の「楽々福神社について」という記載なのだが、その中では、日野郡溝口町栃原の山田神社と紹介されている。楽々福神社のまとまった資料で現在簡単に手に入るものは実はこの本以外にはない。ネット上での記事もどうやら全てがこの本からの引用のようで、そのほかの情報のもこの本によっているらしいのだ。執筆者が間違えたのか、製本時の校正間違いなのか、どうやら山口が山田になってしまったのがそのままで広まっているようだ。
本自体が話題になるような種類のものではないし、しかもその中の知名度の低い神社の項目なので、誰も間違いに気がついてない可能性が高い。要するに大多数の人にとって間違っていても何も支障がないのだ。
少なくとも国土地理院の地図では日野郡溝口町、現在は市町村合併で伯耆町となっているが、栃原の集落にはこの神社しかない。

楽々福神社に興味がある人がどれだけいるかは知らないが、わざわざ現地に確認に来たいと思うような神社ではない。もちろん来て見れば神社名が山田ではなく山口神社だということがすぐにわかる。百聞は一見にしかず、というのはこういうことなのだろう。

祭神は孝霊天皇ということらしい。山の中なので蹈鞴(たたら)と関係していて楽々福関連社となっているということも可能性はあるが、しかし、その可能性は低そうだ。
谷を流れる白水川があるがとても鉄穴流し(かんなながし)の出来そうな流れではない。流れが急すぎる。
今まで廻って来てきて孝霊天皇と関連したのが不思議な社が多いが、ここも、どうして祀られているのが孝霊天皇とされたのか不思議だ。

大山がはっきり見えて、もちろん大山寺とも近い。祭神はむしろ大山寺と関係しているほうがより自然な気がする。
そういえば、明日は大山夏山開き。今日は前夜祭だ。大山寺の大神山神社(おおがみや)から2km程の参道を参加者が松明を持って歩く松明行列が行われる。長い坂道を流れる光の川は幻想的で美しい。今回は無理だがまたいつか見てみたいと思った。

ここまで来たら大山を走らずに帰るわけには行かない。県道52号線まで上りワインディングを楽しむ。
途中でイタチの子供が道路を横切るのに出くわした。

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○日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる その8

生山神社(生山八幡宮) (平成19年6月2日)

日谷神社(ひたに)からさらに県道9号線を奥に進む。途中で大入峠を越える。道はかなりの急坂で峠付近はヘアピンだがセンターラインもあり道幅も広く特に危険はない。そのうちに国道183号線に合流。米子方面に少し戻る。

生山(しょうやま)の町に入る。JRの駅の近くに神社があるはずだが見つけられない。あまり気乗りがしなかったが派出所に寄って場所を訊ねた。

時々田舎の派出所で道を訊ねたり場所を聞いたりすると、何故そんな所に行きたいのかといった感じで少し胡散臭そうな態度をとられることがある。観光客が立ち寄りそうもない場所を聞くので何者かと思われるのだろうが、あまり気持ちのいいものではない。
しかも、大抵そんな場合は、走り出した後もこちらをジッと見ているのがバックミラーに映って少々嫌な感じだ。ナンバーでも控えてるのではないかと勘ぐってしまう。ただ道を訊ねるだけなのに。

入ると若い駐在さんだった。教えていただくと、駅まで行けばすぐ分るという。
ここでは全く不審がる様子もなく気持ちがいい。警察も、真に「国民に親しまれる警察」になるなら、善良な市民には何時でも何処でもこうあって欲しいものだ。

生山駅まで行くと道は突き当たりを左に曲がるしかない。そこに生山神社の鳥居があった。

鳥居はまるで踏み切りの遮断機のようで、その向こうは線路だ。そしてその先に石段と社殿が見える。線路を右に追ってゆくと駅のホームが見えている。
神社へ参るには線路を横断するしかない。実に参詣に不便な神社だ。幸にJRのローカル線は便数が少ない。少ないというよりめったに通らないので、神社へ参るのに列車をそれ程気にしなくてすむ。これが都会だとお参りも大変だろう。

線路を越えると山の端で階段を登り隋神門をくぐる。結構急な石段だ。境内は山の斜面に建つために狭い。
本殿は一間社流造。大きな神社ではない。境内には本殿の両隣に小さな末社があるがいわれは不明だ。全体の印象は村の鎮守といったところだ。

由来や縁起を記したものは何も見当たらない。
もともとは八幡神社とされる。祀ってあるのは当然、応神天皇(おうじんてんのう)。直接には孝霊天皇(こうれいてんのう)伝説とは関係がないのだが、全く無関係というわけでもない。
社のある山の上に孝霊天皇の皇女である福姫(ふくひめ)が生まれたと伝えられる地があるらしいのだ。福姫というのは以前の菅福神社(すげふく)でも誕生譚があったが、ここも生まれた伝説の場所とされる(2004、日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる2、菅福神社)。そして、福姫が生まれた山がある場所なのでここを生山というようになったと地名説話になっている。

皇女誕生の謂れがあるとすれば、山上には磐座か何かがありそうだ。その祭祀がこの神社の創始なのだろうか。しかし、現在、福姫や孝霊天皇の伝説はほとんど知られていない。その影すら見当たらない。
福姫の話が古いものならば祭神は当然孝霊天皇か福姫となるのが普通だろうが、八幡神だ。
八幡は福姫と全然関係ないし、孝霊天皇とも関連しない。初めに孝霊天皇や福姫が祀られていた神社が途中で八幡に変わるというのはあまり必然性がないだろう。
神社が八幡神社ということは、神社の創建よりも福姫伝説が相当遅れることを示唆しているような気がする。孝霊天皇伝説が出来て、後から生山という地名に付けられた話のようだ。

線路の手前に「危険です。鉄道用地内に入らないで下さい。」という注意書きがあるが、神社へ参るには線路を跨いで行かなければならない。
線路を渡るなということではなく、参道として通る以外には線路内に入るなということだろう。
何しろ他に参道がないのだからしょうがない。

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○日野川に孝霊天皇伝説を尋ねる その8

日谷神社(山上日谷神社) (平成19年6月2日)

国道180号線を南下して県道48号阿毘縁菅沢線(あびれすげさわ)へ入り西へ向かう。途中、蹈鞴製鉄(たたら)で有名だった鋼産地の印賀(いんが)を通過すると、中海(なかうみ)に面する安来(やすぎ)から南の中国山地へ向かう県道9号安来伯太日南線(はくたにちなん)に合流する。平成19年6月2日、暖かな日差しの中をのんびりと走らせる。
合流して県道9号となる前後は川沿いの左右の山が近くにあって山深い景色となり、この奥にはもう中国山地を超えるまで開けた所ははないような気がしてくる。
ところがしばらくすると視界が開けて山間ながら田園地帯と集落が現れて意外な気持ちにさせられた。
昔はこのあたりは山の中とはいえ平地もあって開けていて住みやすかったのだろう。

小学校を過ぎると県道186号線多里伯太線(たりはくた)が分岐する道端に日谷神社(ひたに)を見つけた。

両脇に杉の巨木が並ぶ参道は石段となって上へ伸びる。鳥居も石段も大昔のものではなく近年整備された社のようだが、道の拡張で狭く削られている社叢は老木が見られるので、社地は古いものなのだろう。

祭神は大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)、つまり孝霊天皇(こうれい)だ。
由来書が立ててあるが、創建は不詳という。もとは大明神と称していたが明治に周辺の神社を合祀して日谷神社と改称したらしい。特に孝霊天皇にまつわる話はなく近世以後の略歴が書かれているだけだ。鬼退治などの物語もない。

孝霊天皇とそれを祀る楽々福神社(ささふく)を廻っているが、「ささふく」が蹈鞴と関連しているという説がある。蹈鞴といえば、ここは印賀鋼で有名な印賀は近い。もしかすると、ここも蹈鞴製鉄を行っていて孝霊天皇を祀ったのだろうか。これは少し納得できない。
正直なところ、孝霊天皇、楽々福、蹈鞴という組み合わせに強い関連性を求めるのには否定的なのだ。少なくとも楽々福と蹈鞴は結びつかないと思っている。特に強い根拠があるわけではないが、楽々福神社には製鉄の神という伝承が全くないのがその大きな理由だ。

楽々福神社東西宮のところでも考えたが、鬼退治を主体とした孝霊天皇巡幸説話は後世に天皇の御子である吉備津彦(ぎびつひこ)が鬼退治で有名になってから作られたものとしか考えられない。もともとの鬼退治伝説の主人公は孝霊天皇でも吉備津彦でもなかっただろう。楽々福神社と孝霊天皇との結びつきがしっくりこないのだ。
当然、孝霊天皇と蹈鞴とも全く結びつかない。

こう見ると孝霊天皇、楽々福、蹈鞴の組み合わせには必然性がなくなってくる。

ただ、何らかの理由で、一度、楽々福と孝霊天皇の結び付きが完成されると、全国的には知名度の低い孝霊天皇も周辺の集落では有名になってくる。そうなると神社の権威付けに、実は祭神は孝霊天皇だったという神社が出現してくる可能性はある。そんな、神社の一群が楽々福関連社なのではないだろうか。そして、その一つがここかも知れない。
それにしても、楽々福と書いてささふくと読む。この謎は全く不明だ。

本殿は二間四方のいわゆる大社造系。それ程大きくはないが破風や蟇股に彫刻が施してあったりして田舎に似つかわしくない立派な社だ。

境内の左には社日の石碑の置かれた祭祀場がある。その近くから裏山に登れそうだが道がはっきりしない。山の上に古墳でもあるのかもしれないが情報がないので進むのはやめた。


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