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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

出雲國神仏霊場(第1回)

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「素」 第十八番 須佐神社

国道54号線を南へ進み、掛合(かけや)から県道39号湖陵掛合線(こりょう)を西に向かうと、国道184号線と合流する手前3km程の場所に須佐神社(すさ)がある。

実はこのルート、国道54号線には出雲神話街道、県道39号線にはドラゴンロードというすごい名前が付けられている。
一度走ってみればわかるが、道にはドラゴンを連想させるものは何もない。須佐神社は素戔嗚尊(すさのお)縁の神社であり、その須佐神社の前を通る道に素戔嗚尊の八岐大蛇退治(やまたのおろち)から名前が付けられたのだろうとは容易に想像できる。

国道の方の出雲神話街道というのは、出雲が神話の里であり、そこへ向かう主要道であることから付けられたのだろうが、今後混乱が起きないだろうかと少し心配だ。と、いうのも歴史的な出雲街道は別にあるからだ。
現在の国道と同じではないが、おおよそ、山陽道から国道179号線で津山(つやま)を経て国道181号線で山陰道に入り松江に至るルートが、一般的には出雲街道と呼ばれる参勤交代の道だ。出雲神話街道は出雲街道ではないのだ。
もっとも、現代の出雲神話街道が旧出雲街道と全く無縁かといえば、そうでもない。江戸時代には同じ街道名が複数あって、出雲街道も例外ではない。旧山陰道と三次(みよし)間の国道54号線がトレースする旧道も出雲街道と呼ばれていた。

街道の命名の問題はともかく、神話の地を神話街道と龍の道で走るのは悪い気はしない。

須佐神社をこの前に訪れたのは4年前だったが、何も変った様子はない。須佐川に沿って少し開けた地にひっそりと佇んでいる。多分、風土記の時代からここの風景は大きくは変っていないのだろう。変ったことといえば、ゆかり館という温泉リゾート施設が近くに建ったことくらいなのかも知れない。

境内に進むと右手は町に沿った道路で左側は川。左右共に広がりがないために深い社叢の中にある訳ではないが、古木や巨木で囲まれているために森の中に鎮座する社のような印象を受ける。参拝者がほとんどいないのも更に落ち着いた印象を与える。川向こうの温泉リゾートもそれ程賑やかでないのも喧騒がなくて良い。

出雲国風土記によると、素戔嗚尊がここを訪れた時に、この地は小さいが良い所なので自分の名を木や石にはつけないようにしようと言って御魂を鎮め置いた。それで須佐と呼ばれるとある。少しわかり難いが、狭いけれど良い場所なので、些細なものではなく地名自体に自分の名前を付けたという意味だ。
出雲国神仏霊場でも、この神社のシンボルに素戔嗚尊の「素」を用いている。

記紀では素戔嗚尊は乱暴な神として描かれる。そのため素戔嗚尊は凄まじく荒ぶる状態を神格化したものだという説があるが、風土記の記事からはそれはうかがえない。そのまま読めば、素戔嗚尊の名前は「すさ」だったことになる。つまり、「すさのお」は「すさ」の「おう」、須佐の王としか解釈できない。どちらが正しいかはわからないが、今は風土記の立場で理解している。

何時来ても思うのは同じことだ。肥沃で開けた場所でもない、自ら小さく狭い場所と言っている、むしろ山間の寒村の地が、何故、記紀神話において大きな比重を占める素戔嗚尊の本貫地なのかということだ。
須佐神社には七不思議と伝えられるものがあるが、それよりもよほど不思議だ。

後ろに森を従えて拝殿と本殿が建っている。本殿はもちろん典型的な大社造。一辺4m程で、なかなか立派な社だ。

本殿背後には樹齢1200年とされる巨大な杉が聳えている。加賀藩から帆掛け舟の帆柱にと所望された時に須佐の国造がこれを断った逸話が書れている。この杉の他にも巨木が社の背後にあり、それが境内を落ち着いた印象にしている。

裏の末社に珍しいものを発見した。大きさは1m程で巨大な神棚のような祠なのだが、覆屋で大切に守られていて、しかも比翼造になっている。社殿形式から明らかに美保神社(みほ)だ。覆屋で守られた祠は見る機会が少ない。何かのいわれがあるのかも知れないが、不明だ。本家は出雲国神仏霊場にも入っているので、いずれお邪魔することになるだろう。

境内に入って右手に塩井(しおのい)と呼ばれる小さな池がある。素戔嗚尊がここから潮を汲んでこの地を清めたと伝えられる。池は日本海に続いていて潮の干満に従って水面が上下し、満潮の時は周辺の地面に塩をふくと説明してあるが、日本海まで直線距離でも10kmある。さすがにつながっていないだろう。
このような、遥か彼方の海や川につながったとされる池は全国に見られるようだ。東大寺のお水取り、修ニ会では小浜(おばま)の遠丹生(おにゅう)から、お水送りがなされる。

塩井は須佐神社の七不思議の一つだ。
相生(あいおい)の松は枯れたという説明板が本殿の裏にあった。神馬(しんめ)はもちろん既に生きてはいない。落ち葉の槙(まき)は神紋となって残るのみ。残りの、影無桜(かげなしさくら)、星滑(ほしなめら)、雨壺(あまつぼ)はどうやら離れた場所にあるらしい。
須佐神社の七不思議といっても、なんだが神社とはあまり関係なさそうだ。七つにするために集めたからだろうか。

鳥居の前、道を隔てて天照大神(あまてらす)を祀る天照社がある。社が須佐神社正面に完全に向かい合うように配置されているのは、記紀での素戔嗚尊と天照大神の因縁を物語るのだろうか。双方が睨み合うというより、封じていると思うのは考えすぎだろうか。
天照社の鳥居近くに、出雲地方独特の荒神と思われる瑞垣で囲まれた一画があり、中にとぐろを巻いた蛇の小さな石像が置かれている。八岐大蛇を意味しているようだ。
素戔嗚尊に退治されたいわば素戔嗚尊の下僕のような八岐大蛇が、正面に対峙する須佐神社と一緒になり天照大神を封じているような配置だ。
江戸の仇を長崎で討つ、というか、高天原の恨みを須佐で晴らしているのかも知れない。高天原は追放されたが、出雲では、須佐では、お前の好きなようにはさせないぞと。
天照社が神明造ではなく、出雲地方の大社造になっているのもやはり意味深だ。

帰りの国道9号線でリュックを背負った野宿風の老夫婦が歩道を歩いているのとすれ違った。少なくとも山陰地方に巡礼の風習は聞いたことがないが。
退職を機に徒歩での帰郷を決意した夫婦が、自宅の東京から島根の浜田まで、1006kmを徒歩で掻破し、7月2日日本橋を出発して8月8日、38日間かけてゴールしたというニュースを見たのは、数日後だった。
こちらは192kmを二輪で走ったのみ。ずいぶんと違う。

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「阿」 第十七番 峯寺

須我神社(すが)から県道24号線を松江方向に戻り、熊野大社から来た県道53号線の分岐を過ぎて、さらにそのまま西へ向かう。大東(だいとう)を通過して斐伊川(ひい)とぶつかる所が木次(きすき)の町だ。

次の峯寺(みね)は少々場所が分り難い。
木次の中心街から国道54号線で川を渡ると郊外型の大型店が並ぶ。里熊大橋から1km程の所に、県道26号線と国道314号線とが左右から交わる交叉点があるので、そこを県道26号線に入る。
県道はゆっくりと右にカーブするがそのまま進まずに、直進できる脇道があるのでそちらに入る。100m程でT字路となって道に突き当たるが、ここも直進できる細い道が山に向かい伸びているので、そのまま進む。山裾に立ち並ぶ民家の間に道が続く。車同士のすれ違いは苦労しそうだ。
そのまま高度を上げてゆくと、民家もなくなり山の中腹の本堂の下に到着する。

出雲国神仏霊場をスタートして、今まで訪問したことのない初めての霊場だ。全部で20の霊場があるが、そのほとんどは既に行ったことがあり、中には何度も足を運んだ場所も多い。そんな中で、数少ない未訪問地ということになる。

峯寺は弥山の中腹の森の中に静かに佇む落ち着いた寺だ。
御本尊は大日如来。自由に本堂に上がってお勤めができる
本堂裏には、小さいながらも良くまとめられた、主に刈り込みで構成された庭園があり、そこも「御自由にお入りください」とあり、来る者を拒まない開放的な寺だ。懐の深さを感じさせる。

納経所へ向かう。庫裏に屋根にパラボラアンテナがあるのが現代的だ。
縁側で住職と思われる老人と檀家の若衆と思われる人がのんびりと談笑しているのも、とても長閑だ。
朱印をお願いすると、頭を青々とそった若い僧が対応された。息子さんだろうか。この頭も気持ちの良いくらい見事に剃ってある。こちらのこころまで洗われるような気がしてくる。

田舎で開放的な寺は禅宗のことが多いので、てっきりここもそうだと勘違いしていたが、実は真言宗だった。
この寺の「阿」の文字は、明らかに阿吽の阿であり、阿字観の阿だ。それを考えると真言宗を間違えるはずはない。御本尊も大日如来だった。しかし、あまりに開放的な印象の寺のために、しばらく禅寺だと思っていたのだ。

阿吽というのは、梵字で阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音とされて、そこからこの世界全ての始まりと終わりを表す言葉とされる。英語の"A to Z"や聖書の「わたしはアルファであり、オメガである」と似たような言葉だ。そのためか、梵字の一覧表で最初と最後の言葉だという説が流布しているが、それは違うようだ。

また「阿」は、胎蔵界大日如来の真言も意味する。真言宗では大日如来はこの世界、宇宙の真理であり、同時に真理とはこの世界そのものと考えられている。

簡単すぎてかなり間違っているが、この世界の最初であり、この宇宙全体である「阿」の梵字を見つめて、大宇宙と自ら個人とが同一であることを観じる瞑想法が阿字観で、真言宗で重要な修行法の一つとされる。

こんな静かな山寺なら瞑想に向いているだろうが、俗世の身としては傘がないのが気がかりで瞑想とは程遠い心境だ。前の須我神社から弱い夕立に遭ったり晴れたりを繰り返していて、ここでまた空模様が怪しくなっているのだ。しかし、ここまで来たからにはどうせ雨が降り出せば濡れずには帰れない。腰を落ち着けて境内や周辺を散策することにする。

本堂前の山道を更に進むと三十三観音の石仏が道端に並び、観音堂が現れる。ここもやはり扉は開かれていて、30cm位の小さな金色の聖観音観音菩薩坐像が安置されている。

観音堂の正面には両側に狛犬を伴った石段が下へ続いている。狛犬がいることから神仏習合の寺なのが明らかだ。一般に山岳寺院は神仏習合、特に修験道と関係していることが多く、ここも例外ではない。

出雲大峯修験根本道場と書かれた看板がある。寺伝では創建は修験道開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)が修行した庵で、後に弘法大師が密教道場としたとされる。後で調べると盛期には全山42坊を構え、出雲大峯(おおみね)と呼ばれて近隣諸国の修験者を統括したとのことだ。
峯寺という名前自体が、「出雲の大峰山」を表わしていることにこの時は気がつかなかった。これ程わかりきったことに気がつかないとはうっかりに程がある。最近、現地で思い付かずに後で、そうかと気がつことがやたらと多いが、これは年のせいだろうか。

修験道とは山岳修行に仏教、特に密教と、神仙思想の道教、更に日本古来の神道や自然崇拝などが複雑に融合した特殊な宗教形態だ。開祖は役行者とされる。人里はなれた深山幽谷の山奥で険しい岩や崖などを巡りながら修行することを特徴とする。
修験道には羽黒山、白山、大山、彦山など幾つもの系統があるが、最大なのが吉野大峰山だ。そこでは吉野の金峰山寺(きんぷせん)と熊野の熊野大社の間、紀州山地の大峰山脈の峰々を走破する奥駆けと呼ばれる修行が行なわれる。役行者が始めた修行とされる。
熊野から入り吉野に終わるのを順峰(じゅんぷ)、反対に吉野から熊野へ抜けるのを逆峰(ぎゃくふ)と呼ぶ。順峰は天台系で聖護院が主導し本山派と呼ばれ、逆峰は真言宗系で醍醐寺三宝院が取り仕切って当山派と呼ばれた。吉野金峰山寺は真言宗だったので金峰山と真言宗はつながりが深く、ここの峯寺という名前は真言宗、修験道との関わりをよく表しているようだ。

観音堂からの参道を脇に下ると小さなお堂がある。行者堂らしい。宝形造りの小さなお堂で建物には特徴はない。お堂の前に八角形の基壇がある。修験道で護摩壇を築く場所だと思われる。周囲は瑞垣と鎖で囲ってあり結界だろう。もちろんその気になれば入ることはできるが、そんなことはしない。

観音堂の後ろにはお稲荷さん。その小さなお堂の後ろに洞になった巨木。御神木だろう。古い歴史を感じさせるものが目に付く。

参道はそのまま仁王門に向かい麓に続くようだ。案内板によると、遊歩道が幾つもあり、展望台や修行滝なども書いてある。
更に奥にはバンガローもあって、時間があれば修験道場の霊気ある幽遠な森を散策して、森林浴もできる気持ちの良い時間を過ごせる場所だ。

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「授」 第十六番 須我神社

熊野大社から更に県道53号線を中国山地に向かい奥に進むと、途中一車線の山道になり、県道24号松江木次線(まつえきすき)に合流する。そこから再び松江方面に戻ると2km余で須我神社(すが)に到着する。

出雲国神仏霊場の小冊子では須我神社と須佐神社の名前が入れ替わっている。確かに似ているし、両者共に素戔嗚尊(すさのお)と縁の深い神社だが、それだけに、馴染みのない人は混同しやすいので、案内冊子は間違えないで印刷して欲しかった。と、いうことで、ここは須我神社。
神社は県道から少し離れているので、見落とさないようにしなければいけない。特に冊子をたよりに須佐神社を探している人は要注意だ。

ここも静かで参拝者が誰もいない。
鳥居の右手に和歌発祥の石碑がある。
第十四番、八重垣神社の所でも書いたが、素戔嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田媛命(くしなだひめ)を救い、宮を建てて鎮座して
「八雲立(やくもた)つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻篭(つまご)みに 八重垣作(やへがきつく)る その八重垣(やへがき)を」
と、詠ったとされる。
この歌は三十一文字、日本で最初の和歌と言い伝えられているのだ。まあ、万葉集を読めば誰でも気がつくが、五七五七七の形式はかなり後になって出てくる新しい和歌の形式だ。最初の和歌を素戔嗚尊はこの形式では詠まないだろう。

記紀には、素戔嗚尊がここにやって来て、「わが心は清々しい。」と言ったので、「すが、須我」と呼ばれるようになり、宮を建てたとされる。和歌発祥の地であると同時に、日本初之宮(にほんはつのみや)とされる所以だ。

八雲立つの歌の発祥地との伝承を持つ八重垣神社と熊野大社を廻って来たことになるが、一番由緒正しそうなのは、ここ須我神社ということになる。ただし、それは観光人気や社格などとは全く関係がない。

ここの「授」という文字は何に由来するのだろう。一番端的に表わす「歌」で良かった気がするが、それは他の和歌発祥地を自認する神社が反対したのだろうか。また、「宮」でも良かった気もするが、やはり他から、神社自体を代表するような文字は良くないという意見でも出たのか。
素戔嗚尊と奇稲田媛命の伝説に因むのは間違いないが、はっきりと「授」と記されるようなエピソードはない。
素戔嗚尊は奇稲田媛命を見て、自分の妻に欲しいときちんと両親神に申し出て、両神もそれならばと承諾したことが、古事記と日本書紀の両方で述べられている。強奪や略奪ではないことが「授」といえる。
また、素戔嗚尊は両神に宮の首長を任じて新たな名前を与えたと、されるので、それもまた「授」なのだろう。
奇稲田媛命に宮を建てたて与えたのも「授」とも取れる。そんな、色々な意味が重なっているのだろうか。

ここも何度も訪れているので、今回特別に見学するポイントがない。
社務所でお守りを売っているおばさんに、御朱印をお願いする。
「これは(この企画は)、良いですよね。色々と行ったことのない所に行けて。」
そう言われて「そうですね。」と、相槌を打ってはみたが、実のところ出雲神仏霊場の二十寺社は既にほとんど訪問済みだ。

そうこうしているうちに、神仏霊場の団体が登場した。受付での添乗員の会話で19名のツアーであることがわかる。この霊場のツアーがあるとは知らなかった。
境内が急に騒々しくなった。賑やかなのも活気があって時には良いものだ。

「火」 第十五番 熊野大社
八重垣神社(やえがき)から国道432号線に戻り南へ走る。国道を2-3km進み県道53号大東東出雲線(だいとうひがしいずも)へ入って意宇川(いう)沿いを溯りしばらくすると熊野大社に到着する。
 
相変わらずここまで市街地を離れると一気に田舎になり喧騒とは無縁となる。神橋を渡って境内に進むと、ひっそりと静かに熊野大社は立っている。
 
今までに何度も訪れていて、2年程前にも上宮旧社地や本宮遥拝所などを含めてじっくり回ったので、今回はここで何か特別に考えることはない。
さすがに、どこでも立ち寄るたびに下らない空想や想像が浮かぶわけではないのだ。
 
ゆっくりと正面拝殿に進んで行き参拝を済ませる。出雲国、旧一宮だけに堂々とした立派な大社造の社殿だ。少し立派過ぎて、塀で囲まれているため本殿に近づけないのが惜しい。いつものように隙間に顔を近づけて本殿の様子を窺う。
 
境内の左手に華麗な本殿とは対照的なかなり地味な社が建っている。屋根は茅葺で四方の壁は桧皮(ひわだ)で、一見すると古代遺跡の住居を復元したのかと錯覚しそうな建物だ。切妻平入で棟持柱が建物の外側にある、いわゆる神明造(しんめいつくり)になっている。
それが鑚火殿(さんかでん)で、この霊場のシンボル文字「火」の元になっている。
 
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出雲大社は出雲国造家(いずもこくそう)と呼ばる家系が祭祀を取り仕切っている。その国造家は、最初、ここ熊野大社を本拠地としていて、後に出雲の杵築(きづき)へ出たとされる。そのため今でもここは国造家が神職を務めるはずだ。
 
国造家は天穂日尊(あめのほひ)を先祖として、天皇家と同等かあるいはもっと古いと称する歴史を持つ。それが事実かどうかは別にして、古来より続く氏族であることは間違いなく、祭祀儀式も古代の様式を引き継いでいるとされる。いわゆる各地にあった国造とは少し性格が異なるようだ。
 
そして、国造家にとって最も重要な儀式である、火継式(ひつぎ)の舞台がここだ。火継式とは国造の代替わり、つまり継承式として行なわれる。
儀式の詳細は必ずしも明らかではないが、鑚火殿に納められている、火鑚臼(ひきりうす)と火鑚杵(ひきりぎね)で、火を熾すことが大切な要素になっている。
火鑚臼と火鑚杵というのは古代の発火道具だ。類似のものは遺跡からも出土するので、一般的な発火道具だったと思われる。
使用法は小学校などで古代の生活などという社会科の勉強で見たことがあるはずだ。
少し穴を掘った木の板に直径2cm程の棒状の木を立てて強く押し付けながら両手で棒を揉むようにして錐揉みに回す。これを根気よく続けると摩擦熱でそのうち発火するのだ。この作業は火をきりだすと呼ばれる。
もちろん穴と棒の近くに着火しやすい火種を置く必要がある。火鑚臼や火鑚杵自体がいきなり燃え出す訳ではない。この点は勘違いしている人が非常に多い気がする。
 
きり出された火は聖なる火、つまり浄火であり、それで調理された食物を神に捧げ自らも食すことで神職の資格を得て後継者となる儀式だ。祖先神、天穂日尊の霊力をも受ける意味もあるとされる。
継承式の他に、新嘗祭(にいなめ)では出雲大社で神事に用いられる火をきり出すために、火鑚臼と火鑚杵が送り出される鑚火祭という神事が行なわれる。火継式と内容的には同様の儀式だ。
火継式と鑚火祭では火鑚臼と火鑚杵が使われる場所が違うのだが、出雲国造家の本貫地は熊野大社だったとされているため、元々は両儀式ともここで行なわれていたはずで、共に聖なる火で調理された贄を神と共に食し霊力を授かるというものだ。
 
代替わりと新嘗祭に神人共食を行なうのは皇室神事でも同様で、神に饗された食事を共に摂ることで、神との一体や神霊を身体に摂り込むというのは、古来より行なわれていた日本の風習と考えられている。
ただし、一般には直会(なおらい)と呼ばれることが多く、共食というより、お供え物のお裾分けを頂いて御加護、御利益を得るという感じだ。おかげを分けてもらうということだろうか。
 
御朱印を頂に行くと朱印帳を持っているかどうか尋ねられ、持っていれば差し出すように言われた。
何度も書いているように、この霊場は朱印帳が袋状になっていて既に半紙に書かれて用意されている御朱印を頂き、そこへ差し込めば良いようになっている。朱印帳に書いてもらう訳ではないので特に差し出す必要はないはずなのだ。もちろん今までも朱印帳の有無を尋ねられたことはない。
何だかわらないまま手渡すと、「お守りを貼りますから。」とのこと。
戻された朱印帳には、御朱印が挟んであり、その半紙の上に小さな赤いお守りのような御札が貼ってあった。とても粋な処理だ。
 
境内にひっそりと素戔嗚尊(すさのお)の八重垣の歌碑があった。
伝承では、大蛇退治後に宮を造ったのはここだと伝わっているらしい。しかし、ここの伝承は知る人が少ないようだ。
 
境内の一番前に祓所を見つけた。瑞垣で囲まれた一画は一面苔むしていて、前には石の台がある。方角的には熊野神社元宮の遥拝ではなさそうだが、何の神域なのだろう。神社には余所者には分らない謎が多い。


 
「結」 第十四番 八重垣神社

竹内神社を後にして国道を少し戻り交差点から県道247号八重垣神社竹矢線に入る。県道が麓を走る茶臼山の周辺は古代出雲の中心地で、出雲国分寺跡の前を通り過ぎて出雲国庁跡を左手遠くに見ながら、さらに八雲立つ風土記の丘を後にする。
国道432号線を横切り1km程で県道246号八重垣神社線にぶつかるので、それを右に入ると間もなく八重垣神社(やえがき)に到着する。
 
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参拝客で一杯とはいわないが、それなりに賑わっている。若い女性のグループが圧倒的に多く、次は若いカップルだ。結婚式場が隣接していることからもわかるように、縁結びの御利益がある。そのため若い女性やカップルがこぞって来るのだ。神社のテーマも「結」。そのものずばり。
 
縁結びとされるのは、素盞嗚尊(すさのお)と奇稲田姫命(くしなだひめ)が夫婦となりここに宮を造った伝承に因む。
素戔嗚尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する時に、佐草女(さくさめ)の森の大杉を中心に八重垣を作って生贄になろうとしていた奇稲田媛命を隠した。そして、大蛇退治後に「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣つくるその八重垣を」と詠い、佐草の地に宮を造って夫婦の宮居とした。由来ではこのように伝えられる。
 
しかし、記紀では素戔嗚尊が宮を構えたのは須賀(すが)の地で、宮の名前も須賀宮(すがのみや)だったとされる。ここではない。
実際、ここにあった佐久佐神社(さくさ)の境内に八重垣神社が遷座し、合祀された後に神社の名前が八重垣神社と改称されたようだ。
佐久佐神社は出雲国風土記の佐久佐社に比定されることもある、古い由緒ある神社だ。しかし、名前からも場所からも記紀に記される素戔嗚尊と奇稲田媛命の伝説とは全く関係ない。
佐久佐神社から神社名を取ってしまった八重垣神社はその名前が何時、どこから出てきたものか不明な神社だが、素戔嗚尊の和歌に出てくる「八重垣」と同じことこから広く縁結びとして知られるようになったようだ。松江を代表する観光神社で知名度は高いが、実は由来がはっきりしない。
 
本殿は当然ながら大社造。一辺5mはある立派なものだ。千木は女神に多い内削(うちそぎ)。
横に何か建築中だ。舞殿のようにも見える。隣の結婚式場とタイアップしているからか、資金には困ってないようだ。
 
神社裏には奇稲田媛命が隠れた佐久佐女の森があり奥の院とされる。
その途中に金精神(こんせい)と思われる物が沢山奉納されている祠があり山神神社とある。金精神とは、いわゆる男根を御神体とする民間信仰で、縁結び、子授け、子宝、更に下の病、つまり性病に御利益がある。
確かに縁結びには相応しいが、祀られているのは大山祇神(おおやまずみ)と石長姫(磐長姫命)。これは縁結びには相応しいのか。天孫降臨の後の瓊瓊杵尊(ににぎ)が妻を娶る話では、磐長姫命は妻にはなれず帰されたはずだが。
 
奥の院には縁結び占いを行なう鏡の池がある。葉書ほどの大きさの和紙に硬貨を乗せて池に浮かべ、早く沈むと良縁が早いと言い伝えられる。どの観光案内にもほぼ載せられる程に有名だ。こういう若い女性に好まれそうなイベントも御利益以上に人気の秘密なのだろう。
山神神社を過ぎて鏡の池への途中にある道端の木の洞にも金精神がさりげなく納めてある。多くの女性が鏡の池に向かうはずだが、彼女たちは金精神を見て何を思うのだろう。詳しいことはともかく、縁結びの神社にある男根シンボルなので、何となく意味は分るとは思う。
 
森の入り口近くに根元は二つだが途中で幹が合わさった不思議な椿の木がある。子宝椿とか夫婦椿と呼ばれる。境内前にも連理玉椿とも呼ばれる夫婦椿があり、それはかなりの巨木で、奇稲田媛命が二本の椿の枝を立てたところ芽吹いて一本になったと伝えられる。何故か美容にも御利益があるそうで、東京資生堂の花椿会はこの椿に由来するのだそうだ。
良縁はやはり器量が大切ということか。
この神社には3本の夫婦椿があるそうだ。偶然で3本もできる可能性はかなり低い。これも縁結びの御利益の現れなのだろう。本当の所は、御利益を演出するための人為操作なのだろうが、そう言っては実も蓋もない。
 
奥の院とされる佐久佐女の森は鬱蒼としていて昼でも薄暗い。木の根が迷路のように地面を走る小道を入って行くと大きな古木に囲まれ昔ながらの原生林の社叢に入る。幾本かの巨木は御神体として祀られている。その勇姿は御神体に相応しい。
一番奥に小さな鏡の池が静かに水をたたえている。奇稲田媛命が姿を映したと伝わる。
池は深くはない。オタマジャクシが沢山泳いでいる。モリアオガエルのようだ。
底には占いの後の白い和紙が無数に沈んでいる。一枚一枚それぞれに思いが込められているのだろう。
 
太古より占いは存在する。古代では現在よりも真剣に信じられていた。もちろん一般でも広く行なわれていたが、神社や神域での占いは神職や巫女が執り行う神聖な儀式、神事で個人で行なうものではなかった。現代のように普通の参拝者が良縁占いをしていたとはとても考えられない。
池に硬貨を沈めるというのは奉納の変化したものではないだろうか。
出羽修験(でわ)でよく知られている出羽三山には、羽黒山(はぐろ)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどの)の三神合祭殿として出羽三山神社が羽黒山にあり、その本殿前に御手洗池(みたらし)という池がある。別名、鏡池とも呼ばれ、池の底から奉納された500面以上の鏡が見つかった。鏡といってもガラスではなく古い金属製の円盤の鏡だ。出羽三山神社の鏡の数の多さは例外だが、この池中納鏡は各地で行なわれているのだ。
鏡を沈めて奉納するので鏡池と呼ばれるようになったと考えらている。
鏡池は非常に神聖な場所だったようで、池があったために神社が建てられたとも考えられている程だ。
 
佐久佐女の森の鏡の池も同じではないだろうか。この森は明らかに神域で、わざわざ神社境内が少し離れていいる所を見ると、森か池が自体が御神体だった可能性がある。森の巨木を見ると禁足地だったかも知れないとさえ感じる。
池の奥に小さな祠がある。天鏡神社、「あまのかがみ」と読むのだろうか。当然、稲田姫が祀ってあるが、これは池自体が御神体であった名残ではないだろうか。
 
神聖な池に納鏡を行なっていたので、鏡の池と呼ばれるようになった。その後、徐々に儀式が変化して行き、鏡の代わりに硬貨で代用するようになったかどうかは不明だが、ともかく奉納品が身近な物になり、最終的に一般参拝者の賽銭のようになってしまった。そして、それが占いとされるようになったのではないだろうか。
池に硬貨を沈める行為は元々は占いではなかったはずだ。
 
池には金網が沈めてある。池底の賽銭泥棒の防止らしい。神社にとっては大きな問題かもしれないが、風景としては全く興醒めだ。
残念ながらタイミングが悪く、池で占いをしている人はいなかった。
 
この森は、途中すれ違うのは若い女性とカップルだけなので、中年オヤジ一人というのは少々恥ずかしい。
 
社務所で若い巫女さんに朱印をお願いするが、少し待ってくださいと、奥でばたばたしている。どうやら朱印を書ける巫女さんを探してあわてて準備しているようだ。
出雲国神仏霊場では御朱印は半紙に書かれたものを頂いて、袋状になった朱印帳に入れるシステムになっている。そのため御朱印をあらかじめ用意しておけば、墨書できる人を置いておく必要がないのだ。しかし、ここでは準備がされたなかったようだ。
ちゃんと書けるのか少し心配したが、しばらく境内を散策して戻ると綺麗にできていた。
何でもそうだが、新しい出来立てのは気分が良い。

 

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