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「素」 第十八番 須佐神社 |
出雲國神仏霊場(第1回)
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「阿」 第十七番 峯寺 |
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「授」 第十六番 須我神社 |
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「火」 第十五番 熊野大社
八重垣神社(やえがき)から国道432号線に戻り南へ走る。国道を2-3km進み県道53号大東東出雲線(だいとうひがしいずも)へ入って意宇川(いう)沿いを溯りしばらくすると熊野大社に到着する。
相変わらずここまで市街地を離れると一気に田舎になり喧騒とは無縁となる。神橋を渡って境内に進むと、ひっそりと静かに熊野大社は立っている。
今までに何度も訪れていて、2年程前にも上宮旧社地や本宮遥拝所などを含めてじっくり回ったので、今回はここで何か特別に考えることはない。
さすがに、どこでも立ち寄るたびに下らない空想や想像が浮かぶわけではないのだ。 ゆっくりと正面拝殿に進んで行き参拝を済ませる。出雲国、旧一宮だけに堂々とした立派な大社造の社殿だ。少し立派過ぎて、塀で囲まれているため本殿に近づけないのが惜しい。いつものように隙間に顔を近づけて本殿の様子を窺う。
境内の左手に華麗な本殿とは対照的なかなり地味な社が建っている。屋根は茅葺で四方の壁は桧皮(ひわだ)で、一見すると古代遺跡の住居を復元したのかと錯覚しそうな建物だ。切妻平入で棟持柱が建物の外側にある、いわゆる神明造(しんめいつくり)になっている。
それが鑚火殿(さんかでん)で、この霊場のシンボル文字「火」の元になっている。 出雲大社は出雲国造家(いずもこくそう)と呼ばる家系が祭祀を取り仕切っている。その国造家は、最初、ここ熊野大社を本拠地としていて、後に出雲の杵築(きづき)へ出たとされる。そのため今でもここは国造家が神職を務めるはずだ。
国造家は天穂日尊(あめのほひ)を先祖として、天皇家と同等かあるいはもっと古いと称する歴史を持つ。それが事実かどうかは別にして、古来より続く氏族であることは間違いなく、祭祀儀式も古代の様式を引き継いでいるとされる。いわゆる各地にあった国造とは少し性格が異なるようだ。
そして、国造家にとって最も重要な儀式である、火継式(ひつぎ)の舞台がここだ。火継式とは国造の代替わり、つまり継承式として行なわれる。
儀式の詳細は必ずしも明らかではないが、鑚火殿に納められている、火鑚臼(ひきりうす)と火鑚杵(ひきりぎね)で、火を熾すことが大切な要素になっている。 火鑚臼と火鑚杵というのは古代の発火道具だ。類似のものは遺跡からも出土するので、一般的な発火道具だったと思われる。 使用法は小学校などで古代の生活などという社会科の勉強で見たことがあるはずだ。 少し穴を掘った木の板に直径2cm程の棒状の木を立てて強く押し付けながら両手で棒を揉むようにして錐揉みに回す。これを根気よく続けると摩擦熱でそのうち発火するのだ。この作業は火をきりだすと呼ばれる。 もちろん穴と棒の近くに着火しやすい火種を置く必要がある。火鑚臼や火鑚杵自体がいきなり燃え出す訳ではない。この点は勘違いしている人が非常に多い気がする。 きり出された火は聖なる火、つまり浄火であり、それで調理された食物を神に捧げ自らも食すことで神職の資格を得て後継者となる儀式だ。祖先神、天穂日尊の霊力をも受ける意味もあるとされる。
継承式の他に、新嘗祭(にいなめ)では出雲大社で神事に用いられる火をきり出すために、火鑚臼と火鑚杵が送り出される鑚火祭という神事が行なわれる。火継式と内容的には同様の儀式だ。 火継式と鑚火祭では火鑚臼と火鑚杵が使われる場所が違うのだが、出雲国造家の本貫地は熊野大社だったとされているため、元々は両儀式ともここで行なわれていたはずで、共に聖なる火で調理された贄を神と共に食し霊力を授かるというものだ。 代替わりと新嘗祭に神人共食を行なうのは皇室神事でも同様で、神に饗された食事を共に摂ることで、神との一体や神霊を身体に摂り込むというのは、古来より行なわれていた日本の風習と考えられている。
ただし、一般には直会(なおらい)と呼ばれることが多く、共食というより、お供え物のお裾分けを頂いて御加護、御利益を得るという感じだ。おかげを分けてもらうということだろうか。 御朱印を頂に行くと朱印帳を持っているかどうか尋ねられ、持っていれば差し出すように言われた。
何度も書いているように、この霊場は朱印帳が袋状になっていて既に半紙に書かれて用意されている御朱印を頂き、そこへ差し込めば良いようになっている。朱印帳に書いてもらう訳ではないので特に差し出す必要はないはずなのだ。もちろん今までも朱印帳の有無を尋ねられたことはない。 何だかわらないまま手渡すと、「お守りを貼りますから。」とのこと。 戻された朱印帳には、御朱印が挟んであり、その半紙の上に小さな赤いお守りのような御札が貼ってあった。とても粋な処理だ。 境内にひっそりと素戔嗚尊(すさのお)の八重垣の歌碑があった。
伝承では、大蛇退治後に宮を造ったのはここだと伝わっているらしい。しかし、ここの伝承は知る人が少ないようだ。 境内の一番前に祓所を見つけた。瑞垣で囲まれた一画は一面苔むしていて、前には石の台がある。方角的には熊野神社元宮の遥拝ではなさそうだが、何の神域なのだろう。神社には余所者には分らない謎が多い。
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「結」 第十四番 八重垣神社
竹内神社を後にして国道を少し戻り交差点から県道247号八重垣神社竹矢線に入る。県道が麓を走る茶臼山の周辺は古代出雲の中心地で、出雲国分寺跡の前を通り過ぎて出雲国庁跡を左手遠くに見ながら、さらに八雲立つ風土記の丘を後にする。 国道432号線を横切り1km程で県道246号八重垣神社線にぶつかるので、それを右に入ると間もなく八重垣神社(やえがき)に到着する。 参拝客で一杯とはいわないが、それなりに賑わっている。若い女性のグループが圧倒的に多く、次は若いカップルだ。結婚式場が隣接していることからもわかるように、縁結びの御利益がある。そのため若い女性やカップルがこぞって来るのだ。神社のテーマも「結」。そのものずばり。
縁結びとされるのは、素盞嗚尊(すさのお)と奇稲田姫命(くしなだひめ)が夫婦となりここに宮を造った伝承に因む。
素戔嗚尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する時に、佐草女(さくさめ)の森の大杉を中心に八重垣を作って生贄になろうとしていた奇稲田媛命を隠した。そして、大蛇退治後に「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣つくるその八重垣を」と詠い、佐草の地に宮を造って夫婦の宮居とした。由来ではこのように伝えられる。 しかし、記紀では素戔嗚尊が宮を構えたのは須賀(すが)の地で、宮の名前も須賀宮(すがのみや)だったとされる。ここではない。
実際、ここにあった佐久佐神社(さくさ)の境内に八重垣神社が遷座し、合祀された後に神社の名前が八重垣神社と改称されたようだ。 佐久佐神社は出雲国風土記の佐久佐社に比定されることもある、古い由緒ある神社だ。しかし、名前からも場所からも記紀に記される素戔嗚尊と奇稲田媛命の伝説とは全く関係ない。 佐久佐神社から神社名を取ってしまった八重垣神社はその名前が何時、どこから出てきたものか不明な神社だが、素戔嗚尊の和歌に出てくる「八重垣」と同じことこから広く縁結びとして知られるようになったようだ。松江を代表する観光神社で知名度は高いが、実は由来がはっきりしない。 本殿は当然ながら大社造。一辺5mはある立派なものだ。千木は女神に多い内削(うちそぎ)。
横に何か建築中だ。舞殿のようにも見える。隣の結婚式場とタイアップしているからか、資金には困ってないようだ。 神社裏には奇稲田媛命が隠れた佐久佐女の森があり奥の院とされる。
その途中に金精神(こんせい)と思われる物が沢山奉納されている祠があり山神神社とある。金精神とは、いわゆる男根を御神体とする民間信仰で、縁結び、子授け、子宝、更に下の病、つまり性病に御利益がある。 確かに縁結びには相応しいが、祀られているのは大山祇神(おおやまずみ)と石長姫(磐長姫命)。これは縁結びには相応しいのか。天孫降臨の後の瓊瓊杵尊(ににぎ)が妻を娶る話では、磐長姫命は妻にはなれず帰されたはずだが。 奥の院には縁結び占いを行なう鏡の池がある。葉書ほどの大きさの和紙に硬貨を乗せて池に浮かべ、早く沈むと良縁が早いと言い伝えられる。どの観光案内にもほぼ載せられる程に有名だ。こういう若い女性に好まれそうなイベントも御利益以上に人気の秘密なのだろう。
山神神社を過ぎて鏡の池への途中にある道端の木の洞にも金精神がさりげなく納めてある。多くの女性が鏡の池に向かうはずだが、彼女たちは金精神を見て何を思うのだろう。詳しいことはともかく、縁結びの神社にある男根シンボルなので、何となく意味は分るとは思う。 森の入り口近くに根元は二つだが途中で幹が合わさった不思議な椿の木がある。子宝椿とか夫婦椿と呼ばれる。境内前にも連理玉椿とも呼ばれる夫婦椿があり、それはかなりの巨木で、奇稲田媛命が二本の椿の枝を立てたところ芽吹いて一本になったと伝えられる。何故か美容にも御利益があるそうで、東京資生堂の花椿会はこの椿に由来するのだそうだ。
良縁はやはり器量が大切ということか。 この神社には3本の夫婦椿があるそうだ。偶然で3本もできる可能性はかなり低い。これも縁結びの御利益の現れなのだろう。本当の所は、御利益を演出するための人為操作なのだろうが、そう言っては実も蓋もない。 奥の院とされる佐久佐女の森は鬱蒼としていて昼でも薄暗い。木の根が迷路のように地面を走る小道を入って行くと大きな古木に囲まれ昔ながらの原生林の社叢に入る。幾本かの巨木は御神体として祀られている。その勇姿は御神体に相応しい。
一番奥に小さな鏡の池が静かに水をたたえている。奇稲田媛命が姿を映したと伝わる。 池は深くはない。オタマジャクシが沢山泳いでいる。モリアオガエルのようだ。 底には占いの後の白い和紙が無数に沈んでいる。一枚一枚それぞれに思いが込められているのだろう。 太古より占いは存在する。古代では現在よりも真剣に信じられていた。もちろん一般でも広く行なわれていたが、神社や神域での占いは神職や巫女が執り行う神聖な儀式、神事で個人で行なうものではなかった。現代のように普通の参拝者が良縁占いをしていたとはとても考えられない。
池に硬貨を沈めるというのは奉納の変化したものではないだろうか。 出羽修験(でわ)でよく知られている出羽三山には、羽黒山(はぐろ)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどの)の三神合祭殿として出羽三山神社が羽黒山にあり、その本殿前に御手洗池(みたらし)という池がある。別名、鏡池とも呼ばれ、池の底から奉納された500面以上の鏡が見つかった。鏡といってもガラスではなく古い金属製の円盤の鏡だ。出羽三山神社の鏡の数の多さは例外だが、この池中納鏡は各地で行なわれているのだ。 鏡を沈めて奉納するので鏡池と呼ばれるようになったと考えらている。 鏡池は非常に神聖な場所だったようで、池があったために神社が建てられたとも考えられている程だ。 佐久佐女の森の鏡の池も同じではないだろうか。この森は明らかに神域で、わざわざ神社境内が少し離れていいる所を見ると、森か池が自体が御神体だった可能性がある。森の巨木を見ると禁足地だったかも知れないとさえ感じる。
池の奥に小さな祠がある。天鏡神社、「あまのかがみ」と読むのだろうか。当然、稲田姫が祀ってあるが、これは池自体が御神体であった名残ではないだろうか。 神聖な池に納鏡を行なっていたので、鏡の池と呼ばれるようになった。その後、徐々に儀式が変化して行き、鏡の代わりに硬貨で代用するようになったかどうかは不明だが、ともかく奉納品が身近な物になり、最終的に一般参拝者の賽銭のようになってしまった。そして、それが占いとされるようになったのではないだろうか。
池に硬貨を沈める行為は元々は占いではなかったはずだ。 池には金網が沈めてある。池底の賽銭泥棒の防止らしい。神社にとっては大きな問題かもしれないが、風景としては全く興醒めだ。
残念ながらタイミングが悪く、池で占いをしている人はいなかった。 この森は、途中すれ違うのは若い女性とカップルだけなので、中年オヤジ一人というのは少々恥ずかしい。
社務所で若い巫女さんに朱印をお願いするが、少し待ってくださいと、奥でばたばたしている。どうやら朱印を書ける巫女さんを探してあわてて準備しているようだ。
出雲国神仏霊場では御朱印は半紙に書かれたものを頂いて、袋状になった朱印帳に入れるシステムになっている。そのため御朱印をあらかじめ用意しておけば、墨書できる人を置いておく必要がないのだ。しかし、ここでは準備がされたなかったようだ。 ちゃんと書けるのか少し心配したが、しばらく境内を散策して戻ると綺麗にできていた。 何でもそうだが、新しい出来立てのは気分が良い。
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