同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

出雲國神仏霊場(第2回)

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「医」 第三番 一畑寺

鰐淵寺(がくえんじ)から一畑寺(いちばた)へは、県道250号鰐淵寺線で平田(ひらた)に出て国道431号線を宍道(しんじ)湖畔沿いに進み県道23号線で行くのが一般的なルートだ。しかし、土地鑑を生かして、島根半島の中央を通り抜ける宍道湖北部広域農道を走る。昨年、も使ったルートだ。交通量が少なく適度なアップダウンと緩やかなコーナー。流していて気持ちが良い、好きな道の一つだ。
鰐淵寺も一畑寺も中国三十三観音霊場巡りで、ほぼ同じ順路で廻っている。何しろ、他にも清水寺(きよみず)、雲樹寺(うんじゅじ)、大山寺(だいせんじ)と、出雲国神仏霊場と五ヶ寺も重複しているのだ。その上、島根東部の霊場を打ったのが一年前だ。二年連続同じ寺となると、正直少々新鮮味に欠ける嫌いはある。
寺が幾つもの霊場で重複してしまうのは、有名寺院の少ない地方の宿命だろう。

県道23斐川一畑大社線(ひかわいちばたたいしゃ)との交叉点で北へ進み、標高200mにある一畑薬師への山道を登る。

正式には一畑寺なのだが、一畑薬師と呼ばれることの方が圧倒的に多い。地元ではむしろ一畑寺という方が通じ難いだろう。また、親しみを込めて一畑さんとも呼ばれる。

一畑寺は境内に観音堂もあり、中国三十三観音霊場や出雲観音霊場ともなっているが、一畑薬師の名前から分るように当然ながら御本尊は薬師如来。
薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)というのが正しく、左手に薬壷を持ち、「薬」の文字からもわかるように、病気治癒の御利益がある医薬の仏さまとして知られる。あまり一般的ではないが、大医王仏とも称するらしい。ここのシンボルとなっている「医」は説明の必要もない。

お薬師さんが病苦から救って下さる仏様というのは間違ってないのだが、本当は少し違う。
仏教では現在の状態を「苦」と考え、そこからの解脱(げだつ)を目指す。そして「苦」である理由として十二の因果関係からなる十二因縁(いんねん)として説明する。そこでは苦悩の根本的な原因は無明(むみょう)、つまり、物事の真理を知らないことから始まると説かれる。無明でなくなれば十二因縁は生じない。十二因縁がなくなれば苦から解放される。簡単にはそれが解脱だ。
薬師如来は、その無明の病を治す仏とされる。
しかし、難しいことを説明しても一般には受け入れられない。病気が治る、無病息災。単純な現世利益に力点が置かれるのは無理もない。何しろ足を運んで信奉してくれる人がいなければ宗教として成り立たないのだから。

駐車場から杉木立の参道を歩く。木々の間から青く光る宍道湖や遠く大山も望める。新しい参道は古くからの参道と最後の石段前で合流する。
旧参道は麓から1000段以上、1138段とされる石段が続く難路で、ここを駆け上がる一畑マラソンという行事が毎年行なわれる。石段で有名な四国の金比羅宮が785段、奥の院まで行っても1368段とされているので、一畑の厳しさがわかる。日本一の石段マラソンとも称されるが、それももっともだ。
今では車道も整備されて上まで楽に昇って来れる。最後の石段だけでも結構疲れるのに、その昔、多くの参拝者は、病気平癒を願い一段一段はるばるここまで登った。それだけ霊験あらたかだったと考えたい。

山頂に近いはずなのだが、少しも涼しくない。風もない。病は治して下さっても暑さには験がないらしい、などと罰当たりなことを考えながら本堂へ向かう。前回は観音霊場の旅だったので本堂よりもむしろ観音堂が目的だったが、今回は個人的にお薬師さんに用がある。

先日8月10日に入院した母の病気平癒の御札を頂く。今日の出雲神仏霊場巡りの目的の半分、いや、半分以上はここでの御札を頂くことだった。鰐淵寺で住職を待たずにこちらへ向かったのはこのためだ。
一畑薬師は一般的な病気平癒より眼のお薬師さんとして知られている。それは、猟師が海中から引き上げた薬師如来のお蔭で母親の目が見えるようになった創建縁起を持つからだ。こちらは母の病気は眼ではないが、そんなことは構いはしない。仏様は困っている人を見捨てたりはしないはずだ。その時々で身勝手て都合の良いことばかり考えるが、しょせん人間なんてそんなものだ。

頂いた祈念札がヒップバッグに入らないことに気が付いた。これは困った。予想外だ。近所を巡るだけと油断して身軽にヒップバッグしか持って来てない。
悩んでも仕方がないので、強引に突っ込んで半分はみ出したまま、落ちないことを願いつつ走り出した。自宅に帰るまで常に不安だったが、ひょっとするとその不安感がいい加減なことばかり考えた罰だったのだろうか。それとも、時間的な関係で御祈祷に直接参加できなかったのが罰だったのか。

母のための御札を受けたことで今日の目的は終了した。心置きなく霊場巡りの打ちなおしができる。再び来た道を戻り鰐淵寺へ引き返す。

相変わらず参拝者はいない。セミの鳴き声しか聞こえない。
今度は庫裏の呼鈴で老住職が出てこられた。玄関の履物の位置は全く変わってない。老住職は昼寝でもしていたのだろうか。この暑さは高齢者には堪えるだろうからそれでも仕方ない。
田舎で老夫婦だけで寺を管理しているような場合は、朱印を頂こうにも誰も出てこられないということがありうる。実は、今までそういう場面に一度も遭遇しなかったのが不思議なくらいだ。

ともかく、朱印は無事頂けた。次の霊場は松江なので、今からでも時間的には何とか間に合いそうだが無理はせずに、今日はここで終了として、浮浪滝(ふろう)へ散歩を兼ねて向かった。

寺の前を流れる鰐淵寺川を渡る。奥の院などに向かう道の入り口は川を渡るようになっていることが多い。結界の役割と同時に、渡河することで水垢離(みずごり)の禊(みそぎ)になっている。
綺麗な杉木立が現れる。この参道は何時来ても出羽の羽黒山(はぐろ)の五重塔からの参道を思い出させる。規模は全然違うが。

コンクリート製のトーチかのような山王七仏堂がある。七仏なら過去七仏や薬師七仏が良く知られるが、山王とあるので少し違うようだ。
滋賀県坂本に比叡山の鎮守であり山王権現(さんのうごんげん)を祀る日吉大社がある。上七社、中七社、下七社と称される多くの社で構成されている。特に上七社は山王七社(さんのうしちしゃ)とも呼ばれる。鰐淵寺が天台宗であることを考えると、この山王七社の本地仏(ほんじ)を祀ったものだろうか。そう言えば安来(やすぎ)の出雲国神仏霊場十一番清水寺にも七仏があった。あそこも天台宗なので同じなのだろうか。

七仏堂から先は川沿いの山道になる。小さな小川が谷間を流れているが風ないため涼しくない。ただ自然林の中で日陰なのが助かる。所々足場が苔むしていて人の通行が少ないことが見て取れる。

500mほど歩くと、東屋があって滝のある崖に突き当たる。高さは30mくらいか。
滝壺の上、滝の後ろの崖にある岩窟に蔵王堂が嵌め込まれたように建てられている。流れ落ちる水量が多ければ、お堂の前を滝が落ちる景色が作り出される。しかし、今日は滝がない。
雨が少なくすっかり枯れていると思ったのだが、よく見るとほんの少し水が落ちているが、とても滝を呼べるような量ではない。湧水の雨垂れ程度だ。もともと水量の少ない滝なのだが、今日は一段と少ない。
滑る岩場に気を付けながら滝壺まで行き、手をつけてみる。意外に冷たくない。流れが少なくて水溜りのようになっているので当然だなのだが。
水垢離の代わりに手と顔を洗った。

伝承では、ある上人が滝で修行中に誤って滝壺に仏器を落としたところ、鰐(わに)が鰓(えら)に引っ掛けて上げたことから、鰐淵寺と呼ばれるようになったとされる。
何故、鰐が山陰にいるのかというと、この地方ではサメのことを鰐と呼ぶからなのだが、鰐だろうとサメだろうと、この滝壺は小さくてとても中には入れない。

伝承はともかく、鰐淵寺はこの滝を中心とした修験道場として発展したもので、奥の院とも見なされる重要な聖地だ。

滝まではかなり遠いように記憶していたが、参道入り口にある、「滝まで8分」の表示は正しかった。10分はかからない。山の中を歩くので随分と時間がかかった気がしただけだった。
しかし、滝への往復で最後の体力はなくなった。

帰りは夕方4時過ぎても道端の温度計は33度を示す。その日のニュースで米子で38.6度と記録的な猛暑。境港では38.1度の観測史上最高気温となっていた。

猛暑の中を走った265km。

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「瀧」 第二番 鰐淵寺

日御碕(ひのみさき)への県道29号線は突き当たりだ。そこから先へは道はない。3km程戻り県道23号線に入る。島根半島の西側半分の日本海側を通る道だ。

山を抜け小さな漁港を経てもう一つ峠を越えると島根半島の北の日本海に出る。快晴のもと、空と海が青い。浜は海水浴客で一杯だ。数年前の中国三十三観音霊場で山口から国道9号線で日本海を見ながらをひたすら帰った記憶が蘇る。何だか、霊場巡りで海岸線を走るのは、いつも暑い季節のような気がして来た。

出雲国風土記で黄泉の入り口とされた稲目(いのめ)の脳の礒(なづきのいそ)の前を通る。ここもやはり何年か前に訪れたことを思い出す。今回は素通りだ。

県道23号線の入り口に「夢の森うさぎ」の看板があるが、うさぎ森林公園のことだ。実際に訪問したことはないので、はっきりとしたことはいえないが、動物の兎とは関係がないはずだ。
途中にある漁村が鷺浦(さぎうら)、稲目の手前が鵜峠(うど)。鵜と鷺で「うさぎ」、鵜鷺地区と呼ばれる。そこの小学校も鵜鷺小学校という可愛らしい名前だ。
単なる駄洒落のようだが、兎を鵜鷺と書くことは古くからある。昔、鳥は食用としても良かったが動物を食べることが禁じられていたので、兎を鵜と鷺で鳥だとこじつけた。味も鳥に似ている。そこで兎を数えるのに何匹ではなく何羽を使うと説明されることがある。面白いが残念ながら俗説に過ぎない。味は動物肉としては淡白だが、鶏肉には似てない。そもそも、肉食は一般的な風習ではなく、時に禁じられたこともあるが、歴史を通じてずっと禁じられていた訳ではない。

十六島と書いて「うっぷるい」と読む、難読中の難読地名の十六島湾の奥で県道250号線に曲がり山間に入る。
昨年の秋に中国三十三観音で来たときは久しぶりだったが、もちろん今回は去年の今年なので懐かしい感じは少ない。

霊場の鰐淵寺(がくえんじ)は細い谷川を溯った山懐にある。紅葉で有名な寺で、季節には大変な賑わいを見せるのだが、それ以外の時は何時来ても閑静な古刹だ。そして、今日もひっそりとしている。
朝から気温はどんどん上昇しているが、避暑できるほど涼しい地ではないし、お盆の最中で忙しくもあり、普通の人にとって見るべきものが紅葉しかない古寺にわざわざ来る人はいないようで、途中、参道で子供連れの家族と出会った以外に人の姿はない。

暦では残暑の時期になっているが、激しい猛暑は完全に中高年の域に入った体から急速に体力を奪って行く。石段を登る足取りが多少重いのはそのせいだ。

参道を上りきると堂々とした本堂。その大きさが山陰で屈指の寺院であったことを伝える。天台宗なので正しくは根本堂と呼ぶ。
扉から中を窺うと、薄暗がりに厨子が安置されている。当然のように扉は閉まっている。四手先の宝形造のようで意匠を凝らした造りになっている、仏壇というより御神輿を思い浮かべる。修験の地であり、かつては神仏混肴だったことが窺われる。

神仏混肴と言えば、根本堂の左手に少しはなれて常行堂が建ち、その後ろに摩多羅神(またら)を祀る摩陀羅神社がある。通常は摩多羅を使うのだが、ここは摩陀羅となっている。
摩多羅神は念仏常行三昧の修行を行なう時の護法神とされるが、秘儀を伴う謎の多い神で、純粋な仏教の出自ではない。そもそも仏教には明王や天があるが神はいない。
そもそも、この摩陀羅神社は出雲大社の本殿後ろにあったものだが、明治維新後の神仏分離の際に大社から移されたものだ。神仏混肴時代には神道からは摩多羅神は素戔嗚尊(すさのお)や大国主命(おおくにぬし)と同体と考えられた。出雲大社の宝物館の絵図でも見たように本殿後ろには古くから素戔嗚尊を祀る小社があったので、摩陀羅神社はそれと無関係ではない気がする。そんな考えもあって、今日は改めて大社で素戔嗚尊社と古図を眺めていたのだ。

根本堂の右手にまわると鐘楼がありそこの釣鐘は、弁慶が米子(よなご)の大山寺(だいせんじ)から一晩でここまで持ち帰った伝説がある。出雲地方には弁慶伝説が残っていて、この寺もその一つだ。
弁慶ウォークという行事が毎年ある。大山寺から徹夜でここまで101キロを20時間程かけて歩くのだ。
歩き通すだけでも大変なのに、さすが弁慶、誰も持てない重さの釣鐘を担いで来るとは。

朱印を頂くために庫裏まで戻る。玄関の鍵は開いている。縁側も開け放たれているのだが、誰も出てこない。よく考えるとお盆だ。御住職は法事で出かけられているのかも知れない。

遊歩道で奥に入ると、出雲国神仏霊場で鰐淵寺を表わす文字「瀧」の元となった浮浪滝がある。奥の院でもある滝に参拝して住職の帰るのを待つという方法もあるが、少し考えて先の一畑薬師へ向かい、出直すことにした。
滝の入り口には「歩いて8分」と書かれているが、それ以上時間が掛かった気がするからだ。もし、滝へ往復しても住職が戻られなければ、次の霊場でゆっくりできない可能性があるからだ。

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「守」 第二十番 日御碕神社

出雲大社前の道をそのまま走ると国譲りの舞台である、稲佐の浜(いなさのはま)の海岸に突き当たる。そこから右に曲がり県道29号大社日御碕線(たいしゃひにみさき)で島根半島を北に向かい海岸線に沿って走る。
島根半島の西の突端、日御碕(ひのみさき)、出雲大社から8km程の所にある日御碕神社を目指す。

ここから先、海に沿う断崖に設けられた蛇行した細い道が岬まで続く。センターラインはあるのだが、左手は崖、右手は数十メートル下に日本海の荒磯、そして曲がりの強いブラインドカーブが連続し、所々のトンネルは大型バス同士のすれ違いが困難な少々狭い道だ。

左手に広がる日本海は晴天の下、透き通るような青さが目に飛び込んでくるし、眼下の磯や小島は海のコントラストに映えて風光明媚だ。タイトコーナーもバイクでは気持ちよく流せる。ただし、あまり海の美しさに見とれていると崖にぶつかるか海に落ちる可能性がある。

振り向くと稲佐の浜から長浜の砂丘が弧を描いて伸び、その向こうに三瓶山(さんべ)が見える。古代に砂丘が砂州で細く伸びていた姿を想像する。国引きの綱とそれを止めた杭そのものだ。長浜神社での国引き神話が目の前に展開しているのを実感する。

狭く曲がりくねっているとはいえ、車の通行に支障がある訳ではない。しかし、この道路が今のように整備されるまで、この先の日御碕への通行は大変だったと想像される。
日本全国、多くの海岸線、特に半島では山が海に迫り断崖となっていることが多い。島根半島も例外ではない。狭い場所に高い所では500mを越える山が連なっていて、日本海に面した部分は断崖となり平地は限られた場所しかない。そのため人の往来のできた道は少なかったし、道自体も険阻で獣道よりましいった程度だったと思われる。

現在でさえ日御碕に通じる道は東の猪目(いのめ)からの道が合流した後は最終的にこの県道だけになる。そこから先、もしも不通となったら日御碕は陸の孤島となる。少なくとも戦国時代以後江戸時代を通じて、実際に日御碕は何度も孤立している。それは自然災害ではなく出雲大社によってだ。

集落も小さく住民もそれほ程多くない島根半島の端っこにある日御碕神社が何故大きな力を持っていたのか不思議なのだが、ともかく、日御碕神社と出雲大社は古来より社領で勢力争いを繰り返していた。
しかし、地理的な立地条件から日御碕側は大変分が悪い。大社側は日御碕への道を封鎖して日御碕側を攻撃している。日御碕は困って、その度に当時の守護大名や藩に陳情したりしているが効果のないことも多かった。また、大社は道の直接の通行止めではなく、勝手に関所を作って通行料を徴収して交通を妨害することもやっている。なかなか、陰険なやり方だ。

今でもそうなのかどうかは確認できないのだが、最近まで陰で古老の人たちは「大社と日御碕は神様同士が仲が悪くて・・・。」と、よく言っていたそうだ。
多分、仲が悪かったのは神様ではなく宮司や社家だろうが。

出雲国神仏霊場は20の寺社で宍道湖(しんじこ)と中海(なかうみ)を囲む輪を描くようになっている。松江で宍道湖の輪と中海の輪がつながり、全体で∞の形になり、一巡すると循環と無限大を象徴するらしい。今回は輪の途中から始めているのでようやく半分といった所だが、番号順に廻ると次の日御碕神社で終わる。
円の循環なのでどこをスタートにしても良いのだが一番霊場は出雲大社で、日御碕神社が最後の二十番になっている。ひょっとすると、お互いの仲を考慮して最初と最後に分けたのだろうか。それはさすがに考えすぎか。

岬の手前に近づくと道から左手遥か下に朱色の鮮やかな神社がチラリと見える。宇龍の集落への分岐があるが、真っ直ぐに進むと日御碕灯台だ。何故かバイク乗り、ライダーは突端が好きだ。岬とか灯台とかあると立ち寄ってみたくなるようだ。最果て好きなのかも知れない。
日御碕灯台は観光地でもあるので、普通ならここまで来れば必ず灯台へ寄るのだろうが、今日は車の流れと離れて交叉点を曲がった。
日御碕灯台には何度も行っているということもあるが、今回の出雲国神仏霊場巡りは寄り道をしないことに決めたからだ。途中で思いついた場所に立ち寄っているといつまで経っても終わらないし、寄り道はいつもの宍道湖中海周辺の神社仏閣名所旧跡巡りと変わらなくなってしまう。自分なりのメリハリといった所だ。

県道から離れてループを描くように県道の下をくぐりぬけ海岸まで下ってゆくと、日御碕神社の鳥居だ。小さな港の海のすぐそばに社殿が建っている。

鮮やかな朱塗りの楼門をくぐると、正面にはやはり朱も鮮やかな拝殿。右手の斜面にある社殿への登廊、境内全体も回廊がめぐっていて、それら全ての朱塗りという、田舎には珍しい目に眩しい華麗な神社だ。海辺に建つ竜宮城といった印象を与える。
向かって右側から背後にかけて崖で囲まれた地形になっていてその上には木々が茂り、境内の松の緑と共に、社殿の朱色がいっそう映える。

正面は日沈宮(ひしずみのみや)で天照大神(あまてらす)を祀り、右手の上にあるのは神の宮で素戔嗚尊(しさのお)を祀る。

最初は天照大神はここに祀られていたのではなく、神社の背後、港の数十メートル沖合いにある小島、経島(ふみしま)にあったとされる。
創建は、島の上で瑞光が輝き、「吾は日の神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん。速やかに吾を祀れ」との天照大御神の御神託があったことに由来するとされる。そして、日の登る伊勢神宮は日の本の昼を守り、日の沈むここは日の本の夜を守る、ということで日沈宮となった。
後に、素戔嗚尊を祀っていた現地に経島から遷座したと伝えられている。

港の浜から眺めると経島は西にあり、日本海に沈む夕陽が拝める場所に位置する。日没の遥拝所として、日沈宮が島にできるのは自然なことだ。しかし、多分それは最初は素朴な夕陽を祀る儀礼信仰で、天照大神というはっきりとした神格を祀ったものではなかっただろう。風土記からも古代出雲に天照大神を祀る信仰は見られない。
天照大神が日本の最高神と考えられるようになって来た後、日の登る伊勢神宮に対して日の沈む日御碕という対応が浮かんだ時に、日沈宮には単なる夕陽の神ではなく天照大神が祀られるようになった。祀られる祭神が変化したわけだ。今まで出雲で馴染みのない神に変わったのだが、信仰する氏子にとって、それは必ずしも不本意なものではなかったはずだ。何しろ日本で一番の神様なのだ。日御碕の主祭神が最高神と見なされることは有利な点があったに違いない。
むしろ出雲の最大勢力出雲大社に対抗するために、天照大神を積極的に迎えたのかも知れない。

同地に祀られている素戔嗚尊と天照大神は、本来同列で扱われることが少ない。
記紀では兄弟との設定になっているが、素戔嗚尊の性格は粗暴に描かれ、そのため天照大神は素戔嗚尊を高天原から追放している。仲良く一緒に祀られるような間柄ではない。長浜神社や出雲大社の時と同じで、大和朝廷対出雲勢力の図は、信仰面では天照大神と高天原(たかまがはら)の天神対素戔嗚尊と子孫の大国主命ら地祇との構図で対比される。

素戔嗚尊が祀られていた神の宮の地に、夕陽を祀る日沈宮が遷座した。その後、日沈宮の祭神は天照大神と見なされる。神の宮と日沈宮が同一境内になっても、当然元からの素戔嗚尊が主だったのだが、その後、皇室の祖先で最高神とされる天照大神を全面に出すほうが様々な点で都合が良くなり、天照大神が主となった。
しかし、最初からの素戔嗚尊をないがしろにもできない。そこで、素戔嗚尊の神の宮を摂社、末社と呼ぶには大きく立派で、しかも天照大神の日沈宮を見下ろすような場所に建てて、面目を保った。そんなところではないのだろうか。それが、高い位置にあり、しかも神の宮の規模が大きい理由だと想像した。

日沈宮も神の宮もどちらも権現造(ごんげんつくり)。出雲地方ではこれ程の規模の権現造はほとんど見られない。大社造でない点も、出雲大社との関係を暗示しているようで興味が湧く。

日沈宮旧社地の経島は、現在、日本でも有数のウミネコの繁殖地となっている。御神託は島の松に光が現れたらしいが、今は草木は一本も生えない、ウミネコの白い糞で覆われた小島だ。

境内にはウミネコではなく鳩がいる。松の木陰に地べたに座ったまま、近づいても動こうとしない。あまりの暑さに日差しを避けているようだ。
日御碕神社の「守」は、夜を守ることから来ている。できればこの厳しい日差しからも守って欲しい。守る意味が違うのは十分承知しているが。

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「譲」 第一番 出雲大社

国道9号線から長浜神社を経て、国道431号線を北へ向かうと島根半島の山々の麓に出雲大社が鎮座する。

島根県というより山陰一のビッグネーム、どんな観光案内にも必ず登場する出雲大社。出雲国神仏霊場の第一番になっているのも当然だろう。むしろ、ここが一番でなければ、一体どこを一番にすれば良いのか見当も付かない。

日本書紀と古事記の記紀神話と出雲国風土記の出雲神話、高天原(たかまがはら)の天照大神(あまてらす)以下の天津神(あまつかみ)と追放された素戔嗚尊(すさのお)の子孫である大国主命(おおくにぬし)たちの国津神(くにつかみ)、高天原の天神と葦原中国(あしはらのなかつくに)の地祇(ちぎ)、伊勢と出雲。中央の大和朝廷との関係で数々の対比で述べられる出雲大社は多くの謎を含み、古代史好きはいくらでも想像が膨らむ。
ここでは何か一つでも想像し始めるとそれだけできりがなくなってしまうので、なるべく触れないで通ることとにする。

出雲大社を代表する文字は「譲」。国譲りから来ている。話は結構長いのだが、「譲」を重点に記紀を要約すると次のようになる。

天上の高天原の天照大神はこの日本の国は自分の息子が治める地だと、御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)を派遣したが、下界の葦原中国は国津神が多くひどく騒がしいと言って帰って来た。そこで、天照大神は統治の委任を承認させるために天穂日尊(あめのほひ)や天若日子(あめのわかひこ)を出雲に派遣するが、反対に大国主命に仕えて帰って来ない。そこで、武神である建御雷神(たけみかづち)や経津主神(ふつぬし)を送り武力で従うことを強要させる。建御名方神(たけみなかた)の反抗もあったが、結局は大国主命は自分の宮を造り祀ってくれるならという条件で、以後は葦原中国を天照大神の御子に譲り、自らは宮に隠れた。これを出雲の国譲りと呼んだりする。
その後、この国譲りの騒動の間に天忍穂耳尊に御子が生まれていて、その瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降る天孫降臨の話へと続く。

簡略化しすぎているが、要点は大体間違っていない。
これを大和朝廷の出雲勢力の武力平定の神話化と考えるのは良く知られた説だ。また、大国主命の宮隠れは、出雲の首長の降伏と自殺とみなすのも有名だ。
真実はともかく、記紀をそのまま読めば、国譲りはけっして平和的ではないし、出雲にとっては喜ばしいことでもない。天照大神の側からすると国譲りなのだろうが、出雲の大国主命にすれば略奪侵攻や討伐平定になるので、「譲」よりむしろ「奪」の方が正確な気がする。

しかし、何故か被制服側の出雲でも国譲りとして友好的な話として説明されることが多い。不思議だ。実は国譲りは余所者への表面的な態度で、古来より住民の奥底には大和朝廷や天照大神への反抗心があるのだろうか。出雲人ではないので知る方法がない。

駐車場の混雑から予想していたが、お盆ということで参拝者が多い。さすがに山陰地方を代表する神社だ。元旦とはいかないが、少し遅い初詣に匹敵する人ごみだ。普段の休日よりも明らかに多い。初詣にお寺に参り、お盆に神社詣で、実に日本人だ。

大社の駐車場は境内の横なので、そこから神楽殿の前を通って境内に入ると、もうそこが拝殿の横だ。車で来た人はそのまま拝殿と本殿で参拝を済ませて帰って行く。もちろん普段は観光客と同じように真っ直ぐ拝殿に向かうのだが、今日は久しぶりに参道を歩いてみたくなった。

真っ直ぐに伸びる参道を拝殿を背に一旦逆に進む。道路に面した境内の端、鳥居までやって来た。通称、二の鳥居。巨大な鳥居を前に見る大社の境内は広い。
息を整え、鳥居前で一礼し、改めて拝殿向かって参道を進む。来る時よりも楽だ。それもそのはず参道は緩やかな下り坂になっている。
現在は県道161号線で車道になっているが、古くからの参道は境内から更に南へ延びている。県道から大社に向かって進むと、700m程離れて一の鳥居である石の大鳥居を抜けるが、その手前から、道が上り坂になっていることに気が付く。
境内正面の二の鳥居前を勢溜り(せいだまり)と呼び、そこが一番高い場所となっているのだ。

長い参道を進んできて、一番高い場所で、歩んできた勢いが溜まるので勢溜りと呼ぶという説もある。門前の出店が多く大変賑やかだったことから勢溜りと呼ばれたらしいが。

鳥居から拝殿や本殿に下って行く参道はあまり多くない。むしろ上って行くことが普通だ。出雲大社を一般的な大国主命を祀る社ではなく、隠れ籠もった宮、奥津城(おくつき)と考える人たちには、本殿が参道より低い位置にあることもそれを暗示する証拠となるのだろう。
そんなこととは関係なく次々と参拝者が拝殿に向かい流れてゆく。下りの参道が珍しいということに気がつく人もほとんどいないのだろう。

参道の両側左右には立派な枝振りの松の巨木が連なる。玉砂利を踏みしめながら、この多くの人たちは一体どこから来たのだろう、とぼんやりと考えていた。勢溜り周囲には駐車場はない。
今までの経験で自家用車で来た場合、駐車場に停めて参道を一度鳥居まで歩き、そこから参道を歩いて参拝する人が多くないことを知っている。
一畑電鉄を利用しても、便数が多くないので人の列は電車の到着の間で途切れるはずだ。大社の前には既にJRはない。出雲市街からバスでやって来たのだろうか。
よくわからないが、確かなのは、これだけの人を集める神社は山陰には他にないということだ。

最後の鳥居、銅の鳥居の手前右手に、波の上に乗り海の向こうから来る和魂(にぎみたま)、幸魂奇魂(さきみたま、くしみたま)を迎える大国主命の像がある。和魂の周囲には、イチイだろうか、密集して植えてある枝がまるで海原のようだ。記念写真を撮っている若者の集団がいるが、ここに表してある記紀の話は知らないだろう。

拝殿でニ礼四拍手一礼する。出雲大社は拍手は二つでなく四つ打つことになっているのだ。
そのまま後ろの本殿に向かう。
本殿は現在、平成大遷宮が進行中だ。遷宮と言っても伊勢神宮のように別の場所に新しい社を造るのではなく、今の建物の修復の意味が強い。仮殿への遷宮は来年平成20年。新しい本殿に帰られるのが平成25年の予定となっている。

まだどこも工事が行なわれている気配はない。しかし、これが今の本殿を自由に眺められる最後になるかも知れない。参拝の後、いつものようにゆっくりと本殿の玉垣を巡る。

ぐるりと一周する人は少ないらしく、本殿裏は驚くほど静かだ。実は、本殿の真裏にあたる場所に、素鵞社(すが)という素戔嗚尊を祀る社がある。まるで奥の院のような配置でかなり気になる。

そのまま宝物館に入る。奉納の刀には興味がない。興味というより刀剣の鑑賞眼がないのだ。
大社造の模型は興味深いが、今回は古い境内図に目が止まった。そこにもやはり本殿の真後ろに素戔嗚尊社が描かれている。本殿は何度か建て替えられていて、場所も同じではない。どこまで溯れるのかわからないが、本殿と素戔嗚尊社の配置が古来より踏襲されているとしたら、素戔嗚尊社はかなり根本的な重要な社で、やはり奥の院としての意味を持つ気がする。そうなると単なる末社などでははないと思われるのだが。
何時来ても、出雲大社は勝手な空想が際限なく湧いてくる神社だ。

宝物館の入り口受付の老人は、愛想がなさ過ぎる。少し考えた方が良いだろう。

出雲といえばそば。何時もの老舗店に回ってみたが、やはり待ち行列ができている。普段は空いている観光土産店の食堂やソバ所にも客が溢れていたので、待たずに入れるとは期待してなかったが、やはりそうだった。
時間の余裕が少ないので今日はあきらめる。

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「綱」 第十九番 長浜神社

平成19年8月14日、お盆の真っ最中だが事情により墓参りにも帰れない。職場が休みということもあり第二回目の出雲国神仏霊場巡りに出かける。

いつものように混雑を避けて山間の農道をのんびりと走る。一つ山を回り込んだり一つ坂を下ったりするだけでまわりの温度が暑くなったり涼しくなったりする。少しだけ地形が変わるだけで気温が変わるのが実感できる。車ではこれはわからない。直接肌で風を感じられるバイクならではの楽しみだ。

左右の水田は青々としていて、神話の昔からこうして人々は暮らしてきたのかと、連綿と続く農村生活を妙に感傷的に考えてしまったりする。

出雲市(いずも)のはずれ、市街地と多伎(たき)の間、島根半島の西の付け根あたりに位置する場所に神西湖(じんざい)がある。東西南北1km余で湖と呼ぶより少し大きめの池といった規模だ。周囲は一面の水田で、湖面との差はほとんどない。湖の水位が上がればまわりは簡単に水没する。
湖の水深も2m程度で非常に浅い。広い湖沼が周辺から埋め立てられて残った湖のように見えるが、実際その通りだ。

これから訪ねる次の霊場、長浜神社のシンボル、「綱」という字を理解するには、国引き神話と神西湖周辺の古代の地形を知る必要がある。

国引き神話とは出雲国風土記の冒頭に語られ、出雲の地名説話にもなっている重要な物語だ。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は国を見まわして、小さく造ってしまったので他所から土地を引っ張ってきて継ぎ足した。そして、仕事を終えた時に瑞祥の雲がたなびいたので、この土地を出雲と呼ぶようになった。
一言で説明すればこういう内容だが、実際は、繰り返しを多く用いたリズミカルな文調で壮大に語られる出雲国風土記のハイライトの一つだ。
以前は、素戔嗚尊(すさのお)の八岐大蛇退治(やまたのおろち)などと並ぶほど全国的に知られているのだと思っていたが、古事記や日本書紀などには載らない内容で、どうやら知名度はそうではないようだ。しかし、多分、出雲を含めて山陰地方では誰でも知っているといってもおかしくない程良く知られている。

引っ張って来られた土地は今の島根半島で四ヶ所から別々に引いて来て継ぎ合わせたとされる。その時、一番東は、引っ張った綱が島根半島の東に延びる弓ヶ浜半島(ゆみがはま)で、その綱を継ぎとめた杭が大山(だいせん)とされる。
これは、地図を開いて見ると成る程と思える地形になっている。実際に、大山の中腹にある大山寺あたりから日本海を眺めると、大山の麓から弧を描いて日本海に突き出る弓ヶ浜の先に島根半島が俯瞰できる。まさしく国引き神話の景色そのものだ。

一方、島根半島の西に目を転じると綱と杭は見当たらない。しかし、古代は出雲市の西にも大山と弓ヶ浜のような地形が存在した。島根半島の東西両側に同じような大きな山と砂州があったために、国引き神話が誕生したと考えられる。

斐伊川(ひいかわ)は現在は宍道湖(しんじこ)に注いでいるが、これは江戸時代の治水工事で付け替えられたもので、それまでは西へ向かい日本海に注いでいた。そして出雲の暴れ川であった斐伊川から供給される土砂で砂州が形成され、その砂州によって河口には広い沼沢が広がっていた。それが神西湖だ。
つまり、神西湖は今よりずっと広く北の出雲大社の方へ向かって広がり、その西に砂州が弓状に南北に伸びて、斐伊川は神西湖に注ぎ神西湖は日本海に出雲大社の南側でつながっていた。
現在の大社近くの日本海では稲佐(いなさ)の浜とも呼ばれているが、古代の砂州の名残が大社から多伎へ延びている薗の長浜(そののながはま)と呼ばれる砂丘だ。
国引きで八束水臣津野命が使った綱が薗の長浜で杭が三瓶山(さんべ)と風土記には記される。

国引きの綱の地に鎮座する長浜神社。シンボルの一字は「綱」しかない。

神西湖から国道9号線に出て国道431号線に入り出雲大社方面へ向かう。1.5km程で県道279号線との交叉点を西へ曲がれは更に1km余で神社に到着する。一応、交叉点には看板があるのだが、高くなった夏草に隠れて目に入らずに一度は行過ぎてしまった。

昔の斐伊川の名残を留める神戸川(かんど)を渡ると少し樹木に覆われた小高い丘が目に入る。薗松山(そののまつやま)と呼ばれる50m程の小山だ。
山を一周するように道が続くが、参道は真っ直ぐに突き当たった場所から始まる。ここも手前の表示がはっきりしなくて横道に少し進んでしまった。しょっちゅう間違うのは単純に方向音痴だからなのか。気持ちとしては年のせいにしたいのだが。

駐車スペースから山頂に向かう長い登りの参道が続く。
大きな石の鳥居、随神門と続き長い石段。細い舗装路が横にあるのでそちらはまだ進めそうだしもちろん舗装路を走った方が楽だが、参道は静かで落ち着いた風景で、のんびり歩いて登るのは悪くない。後で知ったが800m程あるらしい。

少々疲れた頃、ほぼ山頂付近に境内が広がる。
拝殿は新しいモダンな屋根の建物で、その後ろの本殿は典型的な大社造。先日霊場巡りで訪れた須佐神社(すさ)よりは一回り小さいが、それでもかなり立派だ。主祭神はもちろん国引きの神、八束水臣津野命。

境内を掃いているのは田舎の神社には珍しく大学生くらいの若い女性。社家の娘さんだろうか。夏休みなのか、それともお盆の里帰りなのか。
周囲は原生林そのままで、他に参拝者もいなく、静かでゆったりとした時間が流れる。
ここには縁がなく今回始めての参拝だが、落ち着いた気持ちにさせられる癒される良い場所だ。何故今まで来てないのだろうと、少し反省した。

本殿に向かって右後ろに、三つ鳥居がありその背後には壇が築いてある。壇上に岐神(くなど)の石碑、荒神の祠が据え置かれて、中央に要石(かなめいし)、夫婦石と記される人の頭程の自然石が三つ固定されている。新しいもので、境内の末社や神石などをまとめたらしい。まるで何かのモニュメントのようだ。どうでも良いことだが岐神は「ふなど」と読まれる場合が多いが、道祖神のことで、道俣(ちまた)の神などとも呼ばれる。夫婦石はどうやら陰陽石らしい。

この中で、要石が国引きに関係がある。風土記にはないが、八束水臣津野命は引っ張って来た土地や継ぎとめた綱が動かないように所々に杭を打って歩いたとする伝説があり、その時の杭が要石とされる。ここ以外にも島根半島などにもあるらしいが、調べても確認できなかった。

それにしても三つ鳥居が変っている。鳥居の両脇に更に小さな鳥居が組み合わされているもので、非常に珍しい。シルエットはオリンピックの表彰台のようになる。三輪山(みわ)の麓の大神神社(おおみわ)の禁足地にあるものが良く知られていて、三輪鳥居とも呼ばれる。
伊勢神宮の起源の笠縫邑(かさぬいむら)伝承地とされる檜原神社(ひばら)で見たのが最初でその後も記憶にない。もちろん山陰で見かけたのは初めてだ。

大神神社や檜原神社などでは特別な意味を持つ鳥居なのだろうが、ここではそこまで深い意味はなさそうだ。典型的な三つ鳥居は明神鳥居という少し反りのある形式の鳥居が基本なっているが、ここでは神明鳥居という反りのない鳥居で構成されている。
祀られているのが、中央の要石群、左右の荒神、岐神ということで、単純にその三つにそれぞれ対応する鳥居として建てられたとしか思えない。

境内には砂場がある。子供の遊び場ではなく、ジャンボ綱引き大会の催される場所だ。もちろん綱引き大会は国引き神話に因んでいる。

ここは国引き神話の舞台となった神社とされるが、実は起源はあまりはっきりしないようだ。
江戸時代までは妙見社として知られている。北斗星あるいは北斗七星を神格化した妙見菩薩を祀るのが妙見社だ。神仏混肴の社だ。
ここらは元々、斐伊川によって堆積した砂丘が長く広く続く平坦な地なので、小高い丘でも昔は良く目立ったはずだ。その頂で北斗星を祀っていたのだと思われる。
意外に国引き神話との結びつきは新しいのかも知れない。

参道入り口に出雲国風土記登場地を示す石柱がある。松江、出雲にはあちらこちらに立てられていて、簡単な地図と説明が付けられている。訪問の手助けや理解にとても役立っている石柱だ。

薗松山「此(これ)は意美豆努命(おみずづぬ)の国引き坐(ま)しし時の綱なり」。

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