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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

出雲國神仏霊場(第3回)

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終わりに

終わりに

中国三十三観音霊場を打ち終わり、元気なうちに一度はとずっと思っているが四国八十八ヶ所遍路は何時になったら出発できるのかわからない。何か手近なところで霊場がないかと始めた出雲国神仏霊場はあっさりと満願になった。

少々あっけなかったというのが正直な感想だ。しかし、そもそも霊場のコンセプトとして二泊三日程度を想定してあるので、その予定通りだった訳だが。
今回は寄り道をしなかったが、やはり、目的の霊場だけだと少々物足りない。霊場以外の場所を訪問するのは時間の無駄や観光気分といわれればその通りなのだが、霊場外でも霊場との何らかの関わりがあることも多いし、神仏分離以前には霊場と一体であった場所もあり、そこには歴史的な背景もあったりする。
そんなことより何より、目的地以外は脇目も振らずに進むと、せわしない。心に余裕も持てない。霊場巡りにの目的と少しずれている気がするが、気持ち的には寄り道も悪くないのだ。
今後どんな霊場巡りをするかわからないが、これからも間違いなく寄り道するだろう。

神社と寺院を区別せずに一つの霊場とするのは、ある意味画期的な行事だ。千年以上、良くも悪くも日本では神仏は厳密に区別されることなく信仰されてきた。混淆といえば難しいが、融合してきた。そのため分けられるはずのないものを強引に分離して混乱させたのは明治政府だが、その後は神社と寺院は全く別物という考えが広まってしまった。
しかし、神仏を厳密に分けた考えは歴史的に見ればつい最近のことで、日常に息づいている風俗習慣は以前の神仏習合を色濃く残したまま現在に至っている。そのため、神社と寺院は別としながらも、その違いがよくわからないという人も多い。

神仏霊場ができたことをきっかけに双方がもっと歩み寄ればよいのだが、まだ、そこまでいってないようだ。残念ながら出雲国神仏霊場でも、一つの霊場として成立はしたが、まだまだ各々の寺社が有機的につながっているとはいえない状況だ。今後、もっと一体化した展開があればと望むだけだ。

日本古来の神仏思想が一般化すると良いのだが。

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「神」 第九番 大神山神社奥宮

いよいよ出雲国神仏霊場、最後の大神山神社(おおがみやま)へ向かう。
大山寺本堂(だいせんじ)から近道があるが、せっかくなのできちんと参道を通ることにして、山門まで戻った。

駐車場から上ってくると石段手前に大山寺の山門が建っている。その向かって左手に鳥居があり、道が林の中に続いているが、それが大神山神社への参道だ。

両側に杉の巨木が並ぶ長い石畳の参道が鬱蒼とした林の中を続いている。観光パンフレットなどには日本一長い石畳と説明される。一山三院四十二坊、四十三坊という説もあるが、僧兵3000を数えたとされる大山寺の栄華を伝える遺構のように思えるが、実は、昭和になって整えられたものだ。知ってしまうと少々がっかりする。しかし、森林浴の快適な参道なのは確かだ。

本当に日本一長い石畳かどうかは別にして、500m程続くので長いことには違いない。左右には平坦地があり、石垣も残る場所もあり、僧坊跡と思われるが、既に周囲の森と同化して、建物がなくなってから長い時間が経ったことがうかがわれる。

参道の最後、石段の手前にある、通称、後向き門もかつての大山寺を管轄した西楽院の遺構だ。その先にようやく大神山神社奥宮が姿を現す。
毎年、初夏の6月第一日曜日に行なわれる大山夏山開きの前夜祭で、大神山神社からこの参道を観光客の松明行列が駐車場まで下りる。その時の炎の河は山陰の地方行事とは思えないほど美しく壮大で感動する。しかし、それももちろん新しい祭りで、新宮の那智の火祭りのように古い歴史を持つものではない。現在の大山寺には往古をしのぶものが有形無形ともにほとんど残ってないのだ。その中で、残された数少ない遺構が大神山神社奥宮だ。

寺院の名残が神社というのも、非常に複雑な気持ちがするが、日本でも最大級の権現造(ごんげんつくり)とされるだけあって、その社殿は壮大だ。
一見すると権現造には見えない。拝殿に左右翼廊がつながっているためだ。また、一般的には大規模な権現造は華麗な装飾で飾られていることが多いが、外側には彩色もないため、そのことも権現造に見えなくしている。
それに対して内部はかなり装飾が凝らしてある。ここまで来る観光客は少ないのだが、来ても拝殿内を拝観することなく帰る人が多い。それではあまり見所のない、大きいが地味な神社と映ってしまうかも知れない。

ここが奥宮とされるのは、もう一つ大山(だいせん)の麓に大神山神社があるからだ。
大神山神社奥宮は明治まで一山三院と称された大山寺の大智明権現(だいちみょうごんげん)を祀っていた。神仏分離と大山寺の廃寺の過程で、大智明権現は大国主命(おおくにぬし)と同体とされて神社に組み込まれ、大神山神社の奥宮とされた。
大神山神社は大山を御神体とする神社で、元々この地にあったものが遥拝の地の麓に下り、そして後に大山寺によって仏教化された、と神社の由来書には説かれる。神社側としては聖地を奪還したことになるのだろうか。そのためか、ここの神職は話の端々に大山寺を見下すような言葉が多い気がする。
神仏分離で明治以降に寺から離れた神社は多いが、どこも神社サイドの態度が何か頑なな印象を受けてしまう。仏教と一緒にするな、と声高に叫んでいる気がする。しかも、神社の由来などで展開される説は歴史的にかなり疑問のあることが多い事にいつも気が滅入る。
大神山神社も、大山を御神体とする神社として創建されたのは間違いないが、大山寺にあったものが里宮として麓に降りたとする説は神社の主張以外にはほとんど見られない。また、大智明権現は大山寺の歴史を通じて地蔵菩薩と見なされていて、大国主命とする考えもなかった。
ただ、大山寺がこの地にあった大山を御神体と祀る土着信仰を取り込む形で発展してきたのも確かだ。

大山は出雲国風土記に火神岳(ひのかみたけ)と記されるように古くから知られた神の山だった。出雲国神仏霊場で大神山神社が「神」の文字で代表されるのはそのためだ。
個人的には、大山寺との関係は神仏習合で発展してきたと素直に認める寛大な心が、「神」の文字を持つ大神山神社の真摯な態度ではないかと思ってしまう。

最後の朱印を頂いて大山寺集落まで戻り、南光河原(なんこうかわら)にかかる大山寺橋から山頂を仰ぎ見る。良く晴れた空に大山がくっきりと目に眩しい。
その後、気の向くままに大山周辺をツーリングした。どこを走ったのか帰ってみると163kmにもなっていた。

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「智」 第十番 大山寺

島根半島の東の端から、再び海岸沿いの爽快なワインディングを駆け抜ける。

日本海の向こうに霞んで聳えているのが中国地方最高峰の大山(だいせん)で、残り二つ最後の霊場の場所だ。ラストに向けて走り始めるが、数え切れないくらい行ったことのある馴染みの場所なので、特別な感慨は湧いてこない。

島根半島と弓ヶ浜半島を継ぐ境水道大橋を渡り、国道431号線を南へ走る。
港湾に架かる橋は船舶の邪魔にならないように、高い場所にあることが多いが、ここも例外ではなく、海面下から40mの高さがある。
島根半島側は崖の上から始まり境港(さかいみなと)側へ下るようになっているため、島根県から鳥取県に向かうと少し飛行機の着陸気分が味わえる。特に夜は眼下が街の灯りなので、一層雰囲気がある。

出雲国神仏霊場は手軽に出雲地方、つまり島根県東部の著名な寺社を3日程度で廻れる。地域が狭いのでそれぞれの霊場同士はお互いが近くだが、美保神社(みほ)と大山はその中で最も霊場間の距離が長く40km以上ある。
もう一つ異色なのは、大山は出雲ではなくお隣の伯耆国(ほうき)ということだ。出雲国神仏霊場という名前ではあるが、宍道湖(しんじこ)と中海(なかうみ)の周辺の霊場との理解なのだろう。
ただ、歴史的には鳥取県西部の大山周辺までは古代出雲支配圏だったと考えられているので、出雲国神仏霊場に組み込まれてもあながち間違いではない。出雲国風土記では長浜神社が国引きの西の浜なら、中海を日本海から切り離している弓が浜と、その向こうに聳える大山は国引き神話の東の舞台だ。
その、神話の舞台を南東へ向かい長い松林に沿った国道431号線を走る。
全国各地に、何とかの松原、と呼ばれる海浜に長く続く松林があるが、ここ弓ヶ浜は10kmはある立派な松林なのにそのような名前が付いていない。併走する国道が交通量の多いバイパスだから風情がないためか、それとも松林を歩く遊歩道が整備されていないためか。いずれにしても、長い立派な松林なのに観光資源になってないのは少し残念ことだ。

県道24号線、通称、大山観光道路に入って大山の中腹の大山寺(だいせんじ)に向かう。大山道路は左右は原生林があるだけで対象物があまりないので、勾配はそれほどではなさそうに見えるが、実は道はほぼ直登している。
標高が一気に上がるに連れて明らかに空気の温度が変わる。つかの間の避暑となることを期待したが、大山寺でバイクを停めて歩き始めると涼しいと感じない。結局は今日は暑すぎるということのようだ。

大山寺は大山の中腹にある。寺の名前と同時に集落の名前にもなっているので、どちらの意味で使っているか少し紛らわしい。集落の中を真っ直ぐに寺に向かう長い急な参道が通っている。その参道が多くの登山客で賑わっている。大山は鳥取県西部を代表する観光地なので、来る途中にも県外車が多く目に付いた。最近、大山寺を歩く観光客が増えた気がするが、多くが登山客で寺や古い文化に興味のある人は稀なようだ。

ほんの一月半前に中国三十三観音霊場のお礼参りで大山寺はかなり詳しく廻ったため、今回特別な目的はない。こんなに早く同じ場所を訪問するなら、少し残しておけばよかった、などと思いながら参道を登る。

現在の大山寺にはその昔華やかな時代があったことを残す姿は残っていない。失礼だが寂れた寺だ。しかし、注意しながら周辺を散策するとかつての堂宇の跡がいたる所にあり、栄華がしのばれる。一山三院四十二坊と呼ばれ40を越える堂宇が立ち並んでいたとされることからも、その規模の大きさが想像できる。

大山寺は出雲国風土記に火神岳(ひのかみたけ)と記される大山を御神体として発達した修験道の聖地として信仰され、中世には中国地方の修験道を束ねる存在として君臨した。大山寺が一大修験センターだったことから、三徳山(みとくさん)や今回廻った峯寺(みねじ)、鰐淵寺(がくえんじ)など山陰には修験道の寺が多い。後醍醐天皇が流された隠岐島から帰還して名和長年などと立て篭もった船上山(せんじょうざん)も、現在は跡形もなく消滅しているが、やはり大山寺とつながる修験道の寺があった。その時大山寺の僧兵も当然戦闘に加わっている。大山寺がなければ後醍醐天皇は再び京都に凱旋することはなかった。
古代伯耆国は出雲文化圏だったが、逆に出雲国は伯耆国大山寺修験文化圏でもあったということだ。

かつての大山寺には三つの寺院集団があった。それが一山三院の三院だ。一つの寺がいくつかに分かれているのは妙な感じだが、比叡山延暦寺が東塔、西塔、横川と分れているようなものだ。各々が中心とする経典や主尊が微妙に異なる。
大山寺集落の駐車場から急な参道が真っ直ぐ延びるが、このあたりが中門院。参道に並行して寺へ向かう右手に川があり、河原の向こう岸が南光院。さらにその西、現在の大山登山道あたりが西明院。
釈迦如来を主尊とした釈迦堂が中心だった南光院は現在見る影もない。遊歩道沿いに夏草に覆われた釈迦堂跡があるだけで、それさえも注意しないと通り過ぎてしまう。西明院は浄土信仰の集団だった。かろうじて中心伽藍の阿弥陀堂とそこに安置されている阿弥陀三尊像は残されている。地方仏としては優れたものだが、残念ながら普段は公開されてない。
そして、今、歩いて登っている参道周辺の中門院は密教系の集団で大日如来が本尊の大日堂を中心としていた。その大日堂が現在の大山寺の本堂だ。しかし、本尊は地蔵菩薩に代わっている。

一つの寺に三つの系統の寺院集団があったのだが、大山寺ではそれらを全て統括する形で大智明権現(だいちみょうごんげん)が信仰されていた。それを一山として大山寺は一山三院と称された。寺院やその集団を山と呼ぶのは現在でも大本山などというのと同じだ。
権現は典型的な神仏混肴の信仰で大智明権現は地蔵菩薩と同体と考えられていた。
しかし、権現思想は明治の神仏分離でほぼ壊滅した。大山寺もその時に大智明権現が神社となり、寺は廃寺となった。後に寺の復活が認められたが、既に往時の勢いは全くなく、残っていた大日堂を本堂として、根本の主尊と考えられていた大智明権現の本地である地蔵菩薩を本尊として今に至る。

出雲国神仏霊場で大山寺のシンボル文字が「智」なのは大智明権現からきている。美保神社の「知」と文字としては重なってしまうが、背景は全く違っている。

かなり急な坂道を登って、そろそろ疲れた頃に山門が現れる。この山門は最近の再建で、その時から入山料を納めるようになった。せめて、阿弥陀堂の阿弥陀如来像でも拝観できれば入山料も安いと思えるのだが。入山料に見合うだけの拝観対象はないのだが、霊場巡りということで素直に料金を払う。実は、山門を通過せずに簡単に本堂まで行ける道がいくらでもあるのだ。
ただ、この大山寺は元々僧の自治集団で檀家を持たない。そのため寺の維持にも苦労する状態だ。入山料はお布施と考えるしかないのかも知れない。

山門から更に急な石段が続き、ようやく本堂。本堂内の厨子は開いているが、遠く暗いので尊顔は拝せない。
御朱印は本堂横ではなく、下の観音堂だった。
中国三十三観音霊場の納経も同じく観音堂だったことを思い出していた。

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「知」 第八番 美保神社

中海(なかうみ)の北岸を国道431号線で東へ走り、鳥取県の弓ヶ浜半島へ渡る境水道大橋への分岐をそのまま直進し橋を頭上に見上げながら県道2号境美保関線を更に東へ向かう。
この道は海沿い、しかも海面に近い入り組んだ海岸線で、車では少しカーブが厳しい所が多いがバイクではとても快適だ。調子に乗ってスピードの出しすぎに注意しなければならないほどだ。

美保関(みほのせき)は島根半島の東が日本海に少し突き出た端に位置する。民謡ファンなら関の五本松でよく知られているが、観光ではそれほど成功しているとは思えない。
漁船の停泊する港に入ると数件の土産物屋と大きな石製鳥居が目に入る。

神社は海に面して建っていて参道が海であることが分る。海岸沿いや湖畔にある神社ではよく眼にする配置だ。
美保神社には磯の香りが漂う。

拝殿の後ろに巨大な比翼大社造(ひよくたいしゃつくり)の本殿が聳える。何時見ても華麗だ。独特な構造で美保造(みほづくり)とも呼ばれる。
大社造の社殿を左右に二棟継げて、正面に二棟分の向拝を付ける。切妻妻入の建物が二棟なので建物を前や後から見ると屋根が「M」の字になる。両方の屋根が合わさる場所には樋がある。その下が室内になっているのか濡れ縁の延長なのかは内部構造を知らないので不明だが、屋根を二つ継げるとその部分の建築上の処理は難しくなる。雨漏りの原因になるのだ。宇佐八幡(うさはちまん)に代表される八幡造は、美保造と90度違うが、切妻平入を前後に二つ継げたようになっていて、その継ぎの屋根部分にやはり樋を設けるが、同じような構造上の弱点に苦心している。
祭神に関してはかなり謎が多いのだが、向かって右に三穂津姫命(みほつひめ)、左に事代主神(ことしろぬし)を祀るとされる。二神を同等に祀るために、敢えてこのような複雑な造りにしたものと思われる。

美保神社は去年の夏に周辺の末社を含めてかなり廻った。その時に個人的な興味のある参拝はほぼ尽くした。今回はのんびりと心ゆくまで華麗な社殿を楽しむことにする。

出雲国神仏霊場で美保神社は「知」の文字で代表されている。しかし、三穂津姫命も事代主神も特に知恵や知識の神様ではない。三穂津姫命なら大物主神(おおものぬし)の后ということで「大」、あるいは稲穂の神とも見なされるので「稲」か「穂」、事代主神なら漁業の神様とされるので「釣」とか「漁」、あるいは「船」などが相応しいのだが。

「知」と美保関との関係を考えると、久延毘古命(くえびこ)しか思いつかない。
古事記によれば、大国主命(おおくにぬし)が美保関にいると、海の向こうから小さな神がやって来た。それは後に二神協同で国造りをすることになる少彦名命(すくなひこな)なのだが、その時は誰も知らなかった。ただ一人、久延毘古命だけが答えた。
久延毘古命は案山子の神で歩くことは出来ないが、この世界のことを全て知っている神だと記される。
この話には事代主神も三穂津姫命も登場しない。しかし、これ以外に「知」と結びつける話を知らないのだ。

美保神社は歴史的にみると出雲国風土記に載る美保社がその始まりなのは間違いない。ところが風土記には事代主神、三穂津姫命ともに登場しない。祭神として記されないのではなく、風土記そのものに出てこないのだ。古代出雲で信仰された神ではないということだろう。
一方、所造天下大神大穴持命、つまり大国主命の姫御子の御穂須須美命(みほすすみ)が鎮座するので美保と呼ぶという地名説話が載る。このことから、美保神社は単純に美保の地で信仰されていた地方神、美保の神様を祀る神社だったと考えてよいだろう。
特別な祭神ではなく産土を祀る、「美保」の神社なら、美保の地と関係する久延毘古命の話から「知」をとっても問題ないということだろうか。自分でも納得はしてないのだが。

境内裏の末社に境外末社である糺社がここに遷って同座となっていた。この糺社が久延毘古命を祀る。やはり久延毘古命の「知」なのか。

境内右手の一番前に、瑞垣で囲ってある丸い石がある。船御魂を祀るものか。
回廊には奉納絵馬や写真が掛けられている。その中に、南極観測船「砕氷艦しらせ」昭和60年9月10日参拝奉納の写真を見つけた。やはり、海運の神様だ。日付は調べてみると進水の時でも、初航海の時でもないので、この年の越冬隊員に地元かこの近くの人が参加していたのかも知れない。

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「薬」 第七番 華蔵寺

次の霊場へは松江市内に戻って国道431号線を行くのが通常なのだろうが、市街地は走りにくい。土地鑑を利用して、佐太神社(さだ)近くから県道264号講武古江線(こうぶふるえ)に入り県道21号松江島根線を経由して国道431号線に戻った。距離的には遠くなるが、交通量はほとんどなく快適に走れる。

本庄(ほんじょう)で県道252号枕木線(まくらぎ)の九十九折の道を枕木山頂に向かってひた走る。この道を走るのは久しぶりだ。最後に来たのはひょっとするともう20年近く前かもしれない。いやそれ以上だろうか。記憶も曖昧なほど昔ということだ。

集落を過ぎると一気に高度が上がる。所々の道端の木々の切れ目から、眼下に中海(なかうみ)が青く光るのが見える。景色は良い。日が暮れると中海の隣の境港(さかいみなと)と遠くに米子(よなご)の街の灯が見られ、地元では隠れた夜景スポットとして知る人ぞ知る穴場だが残念ながら駐車展望所がない。路肩に停めて眺めることになる。
実際、本当に隠れた名所で、夜にこの道を登ってくる人はほとんどいない。車を停めていてもとがめられることはないだろうし、追突もされないだろう。ただ、街灯などの灯りが全くないので崖から転落しないように気を付ける必要がある。
枕木山頂にまで行けば駐車場があるのだが、そこは展望が全くない。星空を眺めるには良いが、いま一つ目的がよくわからない広場だ。

山頂駐車場よこから伸びる細い道がどうやら寺への道らしい。道の幅から何となく進入してはいけない気配がする。本当にこれで良いのかも不安が募る。特に道が下りだと不安は倍増する。バイクはバックが出来ないので、途中が行き止まりでUターン出来ない狭い道の場合は助けを呼ばないといけなくなるからだ。200kgを軽く越えるビッグバイクは坂道を押すことは出来ない。
500mほどで寺の横に着く。車も停められるのだが、何となく関係者以外はここまで来てはいけないようだ。途中は一車線で離合は出来ないので、通行が多くなれば困ること必至だ。
山頂駐車場までのかなり手前に参道入り口がある。そこから歩くのが一般参拝者の道のようだ。しかし、歩くとかなりの距離がある。
関係者用と思われる狭隘な道を車に出会わないように祈りながら進入するか、それとも長い坂道の参道を登るか、どちらもそれなりの覚悟が必要だ。

枕木山のほぼ頂上にある華蔵寺(けぞうじ)。ここも出雲国神仏霊場の中で初訪問の数少ない寺の一つだ。この後は残り三ヶ所だが、何度も訪れているので、新鮮さの点ではここが最後の霊場となる。

人里はなれた山の中で、アクセスも良くないからだろう、参拝者の姿は全くない。

本堂はあちらこちらの壁が剥落していて傷みがかなり激しい。木々に囲まれているので特別に風雨が激しいとは思えないので、山の上ということから雪が多いのかも知れない。いずれにせよ、修理が行き届かないようだ。
しかし、前庭は白砂が綺麗に掃き清められ清々しい。
本堂の横には開山堂があり、その隅に六角形の小さな厨子がある。中に何が祀られているのか不明だが、彫刻の意匠が凝らされているのが眼を引く。

本堂の前を通り過ぎてそのまま進むと、境内が想像以上に広いことに驚く。車道で登ってくると裏手から入ってしまうので小さな寺だと思ってしまったのだ。
古木に囲まれた静かな境内を散策していると、山寺や古寺という言葉が本当に相応しいことがわかる。木陰も涼しく癒しの空気に溢れている。

参道からの順路とは逆走する形で進むと、薬師堂が現れる。説明板があるがほとんど木の陰に隠れて読めない。
枕木薬師如来、秘仏のため拝観できない。平成13年5月3日から8日まで創開1200年ということで御開帳があったらしい。知っていれば訪問したのだが。
本堂の御本尊は釈迦如来らしいのだが、こちらの薬師如来のほうが有名になっている。
ここ、華蔵寺の出雲神仏霊場の一文字「薬」は、この薬師如来にちなんでいることは間違いない。神仏霊場が出来た時、薬師如来の一畑寺と重複して困っただろう。一畑は「医」、こちらは「薬」とわけられているのは上手な解決だ。

薬師堂は後ろが長く伸びていて、多分そこが本尊の安置場所だ。尾廊というより拝殿とその後ろの本殿を継いだような形に見える。寺院建築というより神社に近い。お堂の前に狛犬がいるので、神仏習合で神社様式で建てられたものを、明治以後に寺とするため改装したことが想像できる。
板彫りのように妙に平べったく、玉垣に隠れるようにいる狛犬が、かわいらしい。

薬師堂と反対側には展望台がある。標高456mの枕木山のほぼ頂上にあるため眺めは抜群だ。中海が一望出来る。今日は残念ながら大山は霞んでいて見えない。冬だと空気の透明度も高く、中海の向こうに雪をかぶった大山が聳える姿が美しそうだ。ただ、冬はここまで来るのが本当に大変だろう。
晴れた空のした、鏡のような波のない中海にポッカリと平らな大根島が、浮かんでいるように見える。

境内から出て参道をそのままバックする。200mほどで仁王門に到着。2mを超える仁王像は運慶作と伝わる。彩色はほとんど剥げて痛々しい。
何となく運慶にしては力強さが足りない気がする。傷みが激しいからそう感じるのかもしれない。

寺への戻る道で、参道から歩いて来た場合を仮想体験してみる。
仁王門をくぐると左手の斜面に石の不動明王が姿を現す。ここは松江城の鬼門にあたるため、城の守りとしてこれを建立したとされる。以後、歴代藩主の帰依は篤かった。
不動明王は石で組んである。石組みではなく本堂の壁の状態などを考えると長い年月で一つの巨石が割れたのかも知れない。お顔は少しユーモラスだ。規模は全然違うが、臼杵(うすき)の摩崖仏が思い出された。

更に、杉井の霊水がある。亀山天皇の病気平癒に御利益のあったとされる湧水だ。
水源がよくわからない。水は岩肌から滑り落ちている。ここから参道は最後の石段を残すだけになる。昔は山の麓から急な坂道を歩いて登って来た参拝者は、ここで寺への到着にほっと安堵したことだろう。そして、山頂なのに湧き出る不思議な水が喉を潤したはずだ。それはどれだけ甘露だったことか。京都、上醍醐の霊水と似ている。
飲むのは遠慮したが、水は冷たかった。

石段を登ると境内だ。イチイの巨木が迎えてくれる。ひょっとしたらキャラボクかも知れないが、どちらでもいい。

出雲神仏霊所を廻る地元の人はそれ程多くなく、かえって遠くから来られるほうが多いという。中には東京などからも来るらしい。そんな話を朱印所で聞いた。
古寺という言葉が本当に相応しく、どこを廻っても清々しい気持ちのする寺で、もっと知られても良い。灯台下暗しというか、近くの名所にはあまり行かないことが多い。
そういう自分自身も今回が初めてだ。今まで来てないことが少し恥ずかしかった。
機会さえあれば何度でも訪れたい寺だ。

ただ、アクセスが少し不便だ。

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