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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

出雲國神仏霊場(第3回)

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「導」 第四番 佐太神社

松江から県道37号線を鹿島(かしま)へ向かう。市街地を抜けると、そこは水田の広がる長閑な農村地帯。既に稲刈りが始まっている田圃がある。早稲だろうが、それにしても早い。ここは山陰だというのに。

松江城付近から7,8kmで県道左手に佐太神社(さだ)が現れる。古来より出雲国二之宮として信仰を集める由緒のある神社だ。出雲国風土記で記される四つの神奈備(かんなび)の一つの神名火山である朝日山から続く峰を背後に、大社造の社殿が三棟一列に並ぶ。

拝殿と呼べるような建物はなく、門と塀に囲まれた中に直接、本殿が建つ。
いつ見ても壮観な姿だ。神魂神社(かもす)や熊野大社(くまの)などもかなり大きく、どれが一番大きいのか正確なところは知らないが、出雲大社に次ぐとされるのも頷ける。三殿が並ぶので近くに寄り過ぎると全体が写真1枚に入らない。

本殿三社には多くの神々が祀られているが、主祭神は、真中の正中殿(せいちゅうでん)に猿田彦神(さるたひこ)、向かって右の北殿(ほくでん)に天照大神(あまてらすおおみかみ)、左の南殿(なんでん)に素盞鳴尊(すさのお)とされる。
すべて同じような規模の社殿だが南殿だけが、階の付け方が通常と逆の向かって左に付いている。このような大社造はここしかない。全体を左右対称にするための工夫だとされるが、本当にそれだけなのか。
残念ながら本殿の周りを巡ることは出来ない。山の斜面が後ろに接しているからだ。大社造では一周できるものが多く、ここのように前からしか見られない神社は少なく、それも少し変っている。

古代から続く神社なのだが、その古い歴史のためか社殿以外にも謎は多い。中でも主祭神の変遷は複雑でよくわからない。
三殿並立だが、一番の主祭神は正中殿の猿田彦神と考えられる。そこから「導」の字を出雲神仏霊場の神社の文字としている。

高天原(たかまがはら)から要求に従って出雲の国譲りが終わると、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降ってくる。記紀によれば、一団が高天原から降りて行く途中に一人の神がいて、誰かと尋ねたところ、天照大神の御子を迎えて先導をしようと待っていた猿田彦神だと答えたと記される。

ここから猿田彦神は先導の神、道路、運送などの神として知られる。文字通り「導」の神だ。

しかし、佐太神社の本来の祭神は猿田彦神ではない。神社の起源は出雲国風土記の秋鹿郡(あいか)条にある佐太御子社とされる。佐太御子とは、やはり出雲国風土記に登場する佐太大神のことと考えられている。
出雲国風土記には沢山の神が記されるが、「大神」と記される神は四柱しかない。大国主命である所造天下大神(あめのしたつくりししおおかみ)、出雲国造と関係の深い熊野大社の熊野大神、現在は表記が変っているが能義神社(のぎ)に祀られる野城大神、そして、この佐太大神。
大国主命以外は記紀には登場しない古代出雲の地方神だ。その中で佐太大神は特に頻繁に登場し、関連する話が多い。もちろん大国主命は別格にして、佐太大神は出雲地方で非常に大きな位置を占めていたと思われる。

そんな佐太大神が猿田彦神とどこで結びついたのか。謎だ。佐太大神には特に道路、交通と直接関係する話はない。最も単純に考えれば、「さだ」と「さるた」の音が似ているからということだが、それで正しいのかどうかわからない。
現在は神社は佐太大神である佐太御子神と猿田彦神を同神とする立場に立っている。

余談だが、謎は猿田彦神にも多い。日本書紀には、巨体で眼光鋭く、鼻が長いと記され、その顔貌から天狗見なされるようになる。また、道路の神から岐神(ふなど)とも同体と考えられ、道祖神とも集合した。もちろん、佐太大神に道祖神と結びつく話はない。天狗にいたっては、そのイメージが完成するのは中世以後なのでもっと関係がない。

境内を散策中に、神道系と思われる白衣の集団がやって来たが、正面で全員が一列に並び形式通り二例ニ拍手一例をすると、祝詞もあげることなく風のように去って行った。神道を深く信仰する人は時間をかけて丁寧に参拝することが多いのだが、急いでいたのだろうか。何だったのだろう。

旧暦10月を神無月というが、出雲地方では神様が集まるので神有月(かみありつき)と呼ぶ。佐太神社はその神有月神事とも関係していて、ここから北西2kmほどの所には、呼ばれた神様を送り返す、神送り神事が行われる斎場があるはずだ。
その他にも、佐太大神と佐太神社には興味深い点が多いのだが、今日は出雲神仏霊場での「導」の関係だけにして、次へ向かった。

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「昧」 第五番 月照寺

今日は出足が早かったので、まだ8時半を少し過ぎたところだ。しかし、既に観光客がちらほらしている。さすがに松江の代表的な寺院だけのことはある。

ガイドブックにも載る寺なのだが、市街地にあるため道は少しわかりにくい。松江城の南にある島根県庁の前、島根県警との間にある県道277号線を西に進むと、松江温泉から島根半島の北の鹿島へ通じる県道37号線につながる市道に突き当たる。そこから一本ほど北の住宅街の道を入ると市立第一中学校で、奥の低い丘に囲まれるように月照寺(げっしょうじ)がある。

松江城と1kmほどしか離れてないのだが、背後が丘で住宅街の一番奥という場所柄、市内の喧騒はここまでは届かない。
久しぶりなのだが変わっていない。いつ来ても落ち着いた雰囲気で囲まれた場所だ。そう感じるのは歴代の松江藩主、松平家の菩提寺だということなのかも知れない。どこの藩でも藩主は静な場所に眠っていることが多い気がするからだが、単なる思い込みなのかも。

出雲国神仏霊場で一文字で表わされる月照寺のシンボル「昧」を知ると、少し楽しく廻ることができる。これは、松江七代目藩主、松平治郷(はるさと)に因む。
彼は江戸時代後期を代表する茶人で、号を「不昧」(ふまい)と称し、松江では親しみを込めて不昧公(ふまいこう)と呼ばれる。
昧は味に似ているが違う。味だと「不味」公(まずいこう)になってしまう。と、いう説明は観光ガイドで定番だ。

あることに没頭してそればかりに熱をあげることを、何々「三昧」(ざんまい)という。お寺ということでその「昧」を連想するが、残念ながら「三昧」から来たものではない。同じく仏教でも禅からのようだ。不昧公は禅宗へ入門している。不落因果、不昧因果と対で語られることの多い禅問答の不昧に由来している。

話は難しく理解できない部分の方が多いのだが、間違いを承知で要約すると、修行をして行き着く所まで行くと因果から逃れられるか、との問に対して、因果に落ちることはない(不落因果)と答えたところ因果に落ちてしまった老人から、禅師が同じ問を受けて、因果を昧(くらま)さず(不昧因果)と答えたことで、因果に落ちていた老人も一瞬で悟りが開けたという話だ。

難しい話だ。特に、因果に落ちるというのが難しい。
仏教は、この世を「苦」ととらえ、苦からの離脱を目指す。また、苦である理由を十二因縁(いんねん)によって説く。十二因縁とは因果律だ。この十二因縁を正しく理解することを悟りといっても良い。
因縁は輪廻(りんね)と考えることも可能だ。仏教では六道(ろくどう)を永劫に輪廻すると考える。良い行いを積めばその結果、再び人間界や更に上の天界に生まれ変われるが、悪行によっては地獄や餓鬼道に落ちる。しかし、六道のどの世界でも結局は苦からは逃れることは出来ない。永久の安寧のためには悟りによって輪廻から解脱することが必要なのだ。

行き着くところまで修行をすれば因果、十二因縁から逃れられる、つまり悟りを得ると考えたことで、反対に因縁に捉えられてしまった。それに対して、因果を正しく理解するのだというのが禅師の答えだ。
悟りとは単に頭で理解することではない。真理を正しく理解し、あるがままに受け入れ、真理と同体となるために、その真理すら意識することがなくなる、と説明しても説明になってないが、とにかく、ただわかったという意味ではない。悟ったと思った瞬間に、悟りということにとらわれてしまうのだ。因縁から逃れられると考えたことで、因縁に縛られていることになる。何かにとらわれた瞬間に因縁の輪に入ってしまうのだ。

わかってない人間が難しいことを説明するとどんどん間違った説明になってしまう典型だが、この寺の一字、昧は不昧因果からとられた不昧公の昧だという説明にはなった気がする。

ここで、かなり疑問が浮かぶ。昧というのは、暗い、はっきりしないとか誤魔化すなどの意味で、不昧因果(因果を昧さず)と、不昧と否定することで初めてポジティブな意味を持つ。昧では反対の意味になって相当にネガティブだ。曖昧の昧と表現するとその感じがぴったりくる。
寺のシンボルに「暗」と付けているようなもので、文字通りかなり暗い。

不昧公、松平治郷は茶人としては優秀であったが、有能な家老らの手腕で財政難から藩がなんとか回復したと思ったら、高価な茶器を買いあさったりして、再び藩の財政を悪化させるなど為政者としては落第だった。ほとんど放蕩息子だ。その意味では暗愚の暗で、昧なのかも知れない。

ひょっとすると、三昧という言葉も意識しているのだろうか。
ある一つのことに没頭してそればかり行なったりすることを、何々三昧という。この三昧も仏教用語で、正しくは「さんまい」と濁らずに読み、瞑想状態を意味する。瞑想にも段階があり、三昧は深いランクに位置する。
三昧から数字の三を取った昧なら否定的な意味はない。しかし、三昧から三を取る事は出来ない。三は瞑想の深さを表わす数字ではないからだ。
三昧は梵語のサマーディをそのまま漢字に変えたもので、三とか昧とかの漢字に意味はない。純粋に音を写しただけなのだ。だから、三昧の昧といわれても意味がない。茶の湯三昧だった不昧公に相応しいのだが、やはり、三昧とは関係ないようだ。

不昧公の政治能力は疑問だが、彼のおかげで松江に独特な風雅な文化が育ったことも確かで、茶道は現在でも不昧流として受け継がれている。松江を文化の街にしたのは確かに治郷の功績だ。

歴代藩主松平家の菩提寺なので不昧公と縁のあるものが多い。
門の手前には、不昧公愛用の茶の湯の水が不昧公好みの自然石の手水に流れている。茶室の入り口ではないので、後からつくばいにしつらえたのだろうと思うが、いきなり落ち着いた格式の高い古寺を印象付けられる。
井戸水につき、なま水では飲まないで下さい、との注意書きが気になる。名水だったような気がするのだが。水質が悪化したのかも知れない。

朱印を頂く場所は門の向かって右、宝物殿にある。境内へは拝観料500円が必要だが、宝物館は無料だ。
展示はやはり茶道具が多い。残念ながら、茶の湯に関しての知識も鑑賞眼も全くないので、猫に小判、豚に真珠状態だ。ただ、不昧公は大名茶人だけあって、枯れたわび、さびの中にも雅な要素が見られる気がした。

唐門をくぐり中に入る。
境内は樹木の緑で溢れている。境内というより公園のような印象を受ける。アジサイが有名で沢山植えてある。季節はすっかり終わっているが、これが一面に咲けば美しいだろう。

正面は一段高い場所に唐破風付き門のある不昧公の墓所。塀の先には石製鳥居があり、その奥に瑞垣に囲まれて、墓石が立っている。周りには沢山の石灯籠。
さすがに藩主の墓だけあって風格がある。五輪塔と鳥居の組み合わせが、神仏混肴の時代を物語る。
境内に入って七代目藩主不昧公の左手、一番奥が初代、直政公の墓所。ここも、やはり正面には門と塀、石灯籠で囲まれた中に、瑞垣と墓石、その前には鳥居。
境内の藩主の墓所は基本的には同じ構成になっている。ただし、墓石が五輪塔だったり宝塔のような形だったりするし、門の形式が違っていて、少しずつバリエーションがある。
最も明らかな違いは初代には前と右手側に掘りがあることだ。唐破風付き門、石橋、周囲の木々、アジサイ、池、瑞垣など、どことなく京都の寺の庭を思わせる。

境内に入って、初代墓所と反対の右手は旧本堂跡。跡というのはアジサイと木々に囲まれて礎石しか残ってないからだ。その奥には歴代藩主の墓所が並ぶ。やはり初代や不昧公と基本構成は同じだ。
見るべきものは墓しかない。観光の若い女性が、「もう、いい!!。墓ばっかり。」と、うんざりしたように友達に喋っていたが、これは率直な気持ちだろう。古寺というより墓所なのだ。多くの観光客が少し厭てくるだろう。
そのためだろうか、六代藩主の石碑を乗せた大亀の所は人が多い。小泉八雲も紹介した亀だからだ。

亀が好きだっ藩主をしのび大亀の石像を作ったところ、その大亀が毎夜城下を徘徊し暴れたので、住職が藩主の功績を刻んだ石碑を大亀の背中に乗せて封じたという伝説がある。

月照寺の大亀、確かに大きい。長さは4mくらいはありそうだ。背中の上の石碑もそれ位はあるだろう。正式には亀形の寿蔵碑と呼ばれるものらしい。林の中の薄暗い光の下、まわりは墓がかりで、苔むした大きな亀は、人によっては少し薄気味悪く感じられるかも知れない。
亀というが耳がある。パンフレットにも亀と書かれているが、どう見ても亀趺(きふ)だ。亀ではなく贔屓(ひいき)と呼ぶ想像上の生き物で台座として作られる。贔屓というのは龍の子供らしい。台座とされることが多いため、縁の下の力持ち、蔭から支えるということから、お気に入りを支援したり肩入れしたりする意味に使われるようになった。

個人的には亀よりも仁王の半肉彫がされた門の扉が興味深かった。

境内を順路に従い反時計周りにぐるりと墓所を一周すると、旧本堂の裏にあたる場所に建つ書院があり、そこから出ると最初の宝物殿になる。
書院に付けられた阿弥陀堂が現在の本堂。お堂の扉は開いていて、座高1mほどの阿弥陀如来像が安置されている。始めは禅宗だったが後に浄土宗に変わったためだからだろう。

墓に興味がなくても亀の他にも見るべき文化財は多いのだが、どうも、ほとんどの人が亀を見て満足するらしい。

それにしても、ここはなぜ出雲国神仏霊場で寺を表わす一文字に暗いを意味する昧を使ったのだろう。不昧公に因むのなら「茶」とでもしたほうが良かった気がする。茶道を極めたことは確かなので、「道」でも良い。朱印を受けるところは受付の婦人だけだったので、あえて昧を用いた理由を尋ねることは出来なかった。
寺は間違いなく昧の意味は知ってる。不昧公のネームバリューを利用したほうが得策と考えたに違いない。観光ビジネスからは仕方がないが、そこには、一般参拝者が昧の意味を知るはずはない、という少し見下した態度が隠れているような気がするのは、こちらの見方が曲がっているからだろうか。

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「浄」 第六番 賣布神社

今月初めに開始して、早くも今回で出雲国神仏霊場巡りは終わる予定だ。霊場数が20と少なく、しかも松江と出雲を中心とした狭い範囲に限られているので、簡単に廻れる。
霊場会でも2-3日での満願を想定しているようだ。気楽に廻れて、主要な寺だけでなくも神社も参拝できる。

寺社巡りや巡礼が初めての人には最適だが、少し簡単すぎて物足りない気もする。そんなことを考えながら平成19年8月25日、松江の市街地を賣布神社(めふ)を探しながら走る。
松江は宍道湖(しんじこ)から中海にそそぐ大橋川が町の中央を東西に横切る。現在はその大橋川に西から宍道湖大橋、松江大橋、新大橋、くにびき大橋の四本の橋が架かる。一番両端の二本は交通の便のため新しく設けられたもので、残りが古くからある橋だ。その内の新大橋の南に、住宅と商店街にポツンと取り残されたように神社がある。

大橋に通じる道路は両側がアーケードになった、いわゆる中心商店街。しかし、郊外の大型店に客を奪われて市街中心部の商業活動が低下する、地方都市に多いドーナツ化現象がここでも顕著だ。シャッター通りにはなってないが、活気は今ひとつだ。

出雲国風土記の賣布社に比定され、延喜式で賣布神社と記される由緒ある神社なのだが、今まで訪れたことは一度もない。そして、霊場の一つでなければ今後も来ることはなかっただろう。と、いうのも、興味のある伝承がないからだ。

主祭神は速秋津比売神で五十猛命(いたける)とその姉妹神が相殿として祀られているらしい。この神社に関する基礎知識が全くないので、由来をそのまま引用する。

賣布神社は、遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神(くしやたまのかみ)が、潮の流れの中にあるとされる速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、後に樹種の神とされる相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられている。このことは、海の潮の働きと地上の樹木の働きがあいまって海河山野の幸がもたらされ、人々も生かされていることが示されている。神ながらの道の原点は、大自然の営みに畏敬の念をはらい、自己の生き方を律して、諸々の禍(わざわ)いや過(あやま)ち、そして気枯(けが)れ(穢れ)などあればこれを見直し、人本来の生き方や生命力を蘇らせることにあり、それが「祓え・清め」の真の意義でもある。 そのための活力(気・き)は、「潮の気(水気や塩気)そして樹木の気に宿る神々によってもたらされる」と信仰されてきたのである。

文章が格調高いためか、要約されすぎているためか、少々理解し難い神社の由来書は多い。そして、神社関係者には失礼だが、ここの説明も何か要領を得ない。祭神の部分ともかく、後半が特に難解だ。由来書が用意されているのは良いのだが、これは一般参拝者にとって理解の助けになっているのだろうか。
それに対して、社の歴史の説明はわかりやすい。

当社は、「出雲国風土記」に「賣布社」、「延喜式」には「賣布神社」と記された古社であり、社名の「めふ」とは、海藻や草木の豊かに生えることを意味しています。当社の元の鎮座地は、古代名の意宇の入海(今の宍道湖)の西部湖岸と考えられ、潮の流れや地形の変動に伴い遷座され、岩崎鼻(袖師ヶ浦)に鎮座した時代もあり、潟地が広がって白潟の地が形成されて現在地に遷座されたのが十三世紀頃と考えられ、「白潟大明神」とか、十五世紀には「橋姫大明神」とも称され、水郷「松江」の産土神として鎮座しました。
また、中世には港町「白潟」の宮座の権利として神田や漁業権を保有してきた歴史があり、祭儀では摂社の「櫛八玉神」の御事蹟と関連して、古代神話の国譲りの段に因む神事が継承されてきました。

要するに港と橋の鎮守として信仰されてきたようだ。そのためだろう船舶運輸に関する神を祀る摂社が目に付く。本殿の後ろに金刀比羅神社(ことひら)、その横には船魂神社(ふなだま)。境内には他に綿津見神社(わたつみ)や陶器の狛犬がかわいい恵比寿神社(えびす)になどがある。全て海や船に関係した社だ。

本殿は方一間の大社系の造りで、高床の下を見ると中央に心御柱が見えている。
境内には老松が何本もあり、境内の末社の数も多くて歴史のある神社だ。

帰った後でゆっくりと考えた。
速秋津比売神は記紀には名前が載るだけだ。ただ、古事記では別名、水戸神(みなとのかみ)とある。「水戸」はそのまま「港」で、港の神なのだろう。しかし、それだけではなく、「みなと」には水上交通の関所としての意味もあるような気がする。

伊邪那美命(いざなみ)に追われて黄泉の国から逃げる伊邪那岐命(いざなぎ)は杖を投げて岐神(ふなどのかみ)とし、黄泉の軍勢をこちらの世界に来られなくした話が日本書紀にはある。別名は来名戸之祖神(くなとのさへのかみ)と呼ぶ。
古事記では、伊邪那岐命が黄泉の国から帰った後の禊の場面で、やはり杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が生まれる。これにははっきり衝立の文字があるが、記紀では岐神は悪鬼の衝立となる防御壁の神として描かれている。
岐神は、後に、祖神の文字から民間習俗などと習合して、村の入り口などに道祖神として祀られるようになる。古代では疫病や災害は他の土地から道を通って村に入ってくると考えられた。岐神は他所から疫病などが集落に入ってくるのを防ぐのだ。
同じ御利益を水戸神が持っている気がする。「みなと」と「ふなど(ふなと)、くなど」、読みが似通っている。しかも、両方に「戸」の文字を持つ。「戸」は悪鬼を防ぐ扉だったのではないだろうか。
水戸は海上交通を通じて入ってくる悪鬼を防ぐ門戸だったような気がする。
そもそも、いわゆる港を表わすのに、古代では「みなと」はあまり用いられていない。「津(つ)」と呼ばれるのが一般的だった。「みなと」を単純に「港」と捉えるのは少し違うのではないかと思う。

記紀にも多く記されているように、日本では古代から水で穢れを祓う信仰がある。そこから悪しき物事を水に流すという考えが生まれる。「水戸(みなと)」は、災厄を防ぐ場でもあり、不幸にして入ってきてしまった穢れを祓う場所も兼ねる祭祀の意味合いの強い特別な港、つまり「津」だったのではないだろうか。

穢れを祓い清める。それがここの神社のシンボル文字「浄」らしいが、水戸神をこのように考えると由来書より理解しやすい。

神職は朝のお勤め中だった。境内を廻っているうちに終了したので、心置きなく朱印を頂けた。しかし、気楽に由来を聞ける雰囲気の神主ではなかったため、すごすごと退散。

町の真ん中にあるが、眼に入る景色は周囲と隔絶されていて、思いのほか落ち着いた雰囲気の神社だ。しかし、道路に面しているため少々騒がしい車の音で静寂がないのが玉に瑕だ。

門前に次々と車が来ては駐車するが、参拝者は少ない。どうやら近所の人の駐車場代わりになっているようだ。

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