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素戔嗚尊の系譜 その2
五十猛駅(JR山陰本線五十猛駅)(平成20年4月27日)
集落の細い生活道路を抜けて、途中対向車とすれ違うこともなく、静之窟から無事に国道9号線に戻りほっとする。
逆走となるが少し大田市街方向へ帰り、昼食のために郊外型大型ショッピングセンター、ホープタウンへ。
お弁当を求めて店の入り口に向かうと、近くに停まっているミニバンの屋台から良い香りがしてくる。揚げパン屋さんだ。揚げたての香りには敵わない。結局それが昼食になった。
勧められるまま籤を引くと、何と無料券が当たった。しかし、有効期限はこのGW中だ。次に来る機会もなく使えそうにない。運が良いのか悪いのか。
ついでに敷地内のホームセンターで自転車の荷台用のゴムロープを買う。
前のX11は積載がほとんど出来なかったためにキャリアを付けていた。今度のCB1300SFは荷掛けフックがあるため、そのままタンデムシートに荷物を積める。しかし、実際に走って見るとバッグの固定に多少不便な所が出てきたため、ロープを少し工夫することにした。
標準では荷物の積載を全然考えてない二輪が多い。移動する場合には多少の荷物は必ずあるのだから、メーカーはもう少し積載を考えたほうが良いと常々思うのだが、全く改善される様子はない。こんな点からも、バイクの将来の先が暗い感じがして、気持ちも少し暗くなる。「バイクは趣味の乗り物」という言葉を免罪符にして細かな実用性を無視することを、そろそろメーカー各社は考え直したほうが良い。多くの人に受け入れられるように努力しなければ市場はますます狭くなり先細りとなるだけだ。
荷台用のロープを追加したことでバッグの固定は飛躍的に改善された。安心して次へ向かうことが出来る。
再び国道9号線を西進して五十猛駅への案内を入る。
JR山陰本線、五十猛駅は少し変っている。
道端に広い場所があるが駅舎がない。盛り土で高架になった堤防のような場所を線路が走り、そこをくぐる地下道のようなトンネルがある。その入り口の上に「五十猛駅」の看板があるだけだ。
線路下をくぐる道は一般道路ではない。先は行き止まりで階段があり、上ったところがプラットホームだ。五十猛駅の看板通りに、トンネルが駅そのもの。
鉄道ファンにとっては、このようなタイプの駅は珍しくないのかも知れないが、初めて見た。ある意味感動。もちろん無人駅だ。
駅の名前は「いそたけ」と読む。町の中心地はもう少し西なのだが地名としてははこのあたりを五十猛という。少し難読の地名だ。初見で正しく読める人はほとんどいないのではないだろうか。
一般の人は見慣れない文字なので読むのは難しいだろう。記紀など日本神話に興味がある人は、素戔嗚尊の息子の五十猛命と同じなので簡単に読めそうだが実はそうでもない。一般的には神名の五十猛命は「いたける」の命、と読まれることが多いからだ。個人的にも「いたける」と読んでいる。「いそたける」の命、「いそたけ」の命と読む説もあるが少数派なので、五十猛命を知っていると、五十猛駅を「いたける」駅と読んでしまう可能性が高い。
地名が五十猛のなったのには伝説がある。
日本書紀の一書によれば、素戔嗚尊は高天原を追放された時に、沢山の樹木の種を持った息子の五十猛命と新羅の国に天下り、日本にやって来て国中に種を植えて緑にしたとされる。(2007年、素戔嗚尊の系譜その1、鬼神神社)
また、書紀の別伝の一書によると、素戔嗚尊は樹木を生み出し、その木々の種を皆で蒔いて国中に増やすように言い、息子の五十猛命、娘の大屋津姫命と次女の柧津姫命の三神が樹木を広めたと記される。(2007年、素戔嗚尊と系譜その1、伊賀多気神社)
これらの記事を元にしたのだろうと考えられるが、五十猛命ら兄妹三神が父神素戔嗚尊と共に韓国から帰って来た時に上陸したのがこの地で、五十猛と呼ぶようになったと伝えられる。
歴史的には、明治の町制で磯竹が五十猛村になったのだが、それは古い時代に五十猛を磯竹に改称していたからだそうだ。要するに、五十猛が磯竹になり、それを元の五十猛に戻したということになっている。
五十猛命は渡来系の神という説もあり、この地に上陸伝説があるのは非常に興味深いのだが、地名説話に関しては少し妙な気がする。
五十猛命の縁の地なので五十猛と称していたのを、わざわざ磯竹に変えたというのが納得できない。磯竹では五十猛命とのつながりが弱く、ありふれた地名になってしまう。せっかく神の村とも言うべき自慢できる伝説があるのにこれでは台無しだ。
どうやら、五十猛を磯竹と改称したというのが怪しい。根拠は石見の地誌である石見八重葎(むぐら)で、その中で神亀3年(726)のことと記されているらしい。しかし、石見八重葎自体が書かれたのは文化14年(1817)なのだ。江戸時代に書かれた奈良時代の歴史で、少々信用し難い。
多分、村の表記は最初から磯竹であって、古代に五十猛と記されたことはなかったのではないだろうか。
「いそたけ」という村がある。朝鮮半島から海を越えて「五十猛命」がやって来た伝説がある。それを結びつけて地名説話が作られたというのが一番ありそうな話だ。
もちろん、「五十猛」から「磯竹」への変更が実際に行われて、それが和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令、いわゆる好字二字令によったという可能性はある。好字二字令というのは、地名は縁起の良い二文字で表せという命令だ。
地名や人名など固有名詞は文字が使われる以前は発音しかなかったので、漢字で表記する場合その「音」による当て字になる。どのような文字を使うかの指針として発せられたのが好字二字令ということだ。多分、中国の地名は二字が多いのでそれに倣ったのだろう。
出雲国風土記で一例をあげると、現在の斐伊神社とされる樋社の説明で樋速比古命(ひはやひこ)が鎮座するので樋と言って、後に文字を斐伊に改めた、とある。(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇その4、斐伊神社)。こうした、後に表記を改めたという記事は風土記に大変多い。
もし、好字二字令で表記を改めたのなら、それを行った者は文字を使えるエリートだったはずで、五十猛という文字の持つ意味を十分知っていたはずだ。神の名を直接戴く村。それを何の変哲もないどこにでもある磯竹に変える。担当者が中央からの官吏ならこだわりは少なかったと思われるが、地元出身者なら相当にためらっただろう。
地元の誇りの村名、それを変えろという朝廷からの命令、板挟みとなった地方官僚。想像すると何だか悲哀感漂う姿になってしまった。
もっとも、どのように書き表そうと、一般庶民にとっては「いそたけ」は「いそたけ」で「磯竹」でも「五十猛」でもどっちでもよかったはずだ。何しろ文字を読める知識人は支配階級だけだったのだから。さらに地方都市では識字は支配層の中でも極めて限られた知識人だけだったに違いない。
古い磯竹村。「いそたけ」は文字通り磯竹で、磯の近くまで竹薮が迫っていたような地形だったような気がする。これは素朴すぎる考えなのだろうか。
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