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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡拝2008

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御岩宮祠

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大国主命の舞台 その5

御岩宮祠(平成20年6月28日)

鳥取県西部、米子市(よなご)の北西、米子水鳥公園は西日本でも有数の野鳥の生息、越冬、飛来地となっているが、その隣に原生林で覆われた粟嶋(あわしま)と呼ばれる高さ30m程の小山がある。少彦名命(すくなひこな)の伝説のある山だ。

山頂に鎮座する粟嶋神社)を参拝した後、山裾を反時計方向に歩く。
島を1/4周程回ると、大岩宮の扁額の赤い鳥居がある。御岩宮祠(おいわきゅうし)という岩だ。お岩さん、とも呼ばれるらしく、何だか四谷怪談の様だが全く違う。
粟嶋は古くは中海(なかうみ)に浮かぶ小島だったが、埋め立てが進んだ現在は海辺に接した小山に変わっている。この岩も以前は粟嶋とつながるかどうかの距離に海から突き出ていたはずだ。
海の彼方からたどり着いた少彦名命が、ようやく着いた、と抱きついて初めて上陸した岩とされる。粟嶋の地名説話では、少彦名命が粟の穂に弾かれて常世国へ旅立ったので粟嶋と呼ぶようになったとされている。上陸した場所と、去った場所では大きな違いがある。随分と混乱があるようだ。

粟嶋は、出雲国風土記に登場する意宇郡の粟嶋がここに比定されている。ここは伯耆国で出雲国ではないのだが、出雲国風土記には弓ヶ浜も記されていて、風土記が作られた時代には律令制以後の旧国の境よりも出雲国はもう少し範囲が広かったと思われる。
しかし、風土記には他にも嶋根郡、出雲郡などにも粟嶋があり、特別な固有名詞というよりは普通にありふれた名前だったことが分る。遠くから見ると粟の実の様な小さな島という事だろう。

粟嶋は島全体が御神体として信仰されていた。木々は生い茂っているが全体は岩山で周囲は急な崖で囲まれている。これが海に浮かんでいると、上陸して登るのはなかなか困難だったろう。当然、重要な祭祀は頂上で行なったが、日常的な祀事は下で済ますようになった時に、依代(よりしろ)として祀られたのがこの岩、御岩宮祠、お岩さんだったのではないだろうか。

また、そこには客人信仰(まろうど)も加わっていたと想像できる。
客人信仰は、稀な人、つまり遠くから訪れる異邦人を神と見なす考え方で、全国に見られる。時に神は山を越えたり海の向こうからやって来た。
島はその名前の粟から容易に少彦名命と結び付く。少彦名命は海の向こうから訪れる客人の性格を持つ神なので、神を迎える依代としての役割を持つ岩とも結び付く。
粟島、少彦名命、依代などが形を変えながら粟嶋の伝説が形作られていったと思われる。

大岩神蹟とも呼ばれるようだが、大岩という呼べる程ほど大きな岩ではない。地面から見えるのは2m程だ。お岩さんと言うのは、多分、大岩から来たのだろう。

岩には木が数本生えていて、それに囲まれるように頂上に小さな祠が置かれている。祠の前には置物のような狛犬もある。
コンクリート製の階段が付けられていて、その続きが土台となり祠が乗っているので、正面から見ると岩らしくない。どうして、上り下りに使うのは猫くらいしかいなさそうな幅しかない小さな階段を付けてしまったのだろう。
岩は御神体か依代のはずなのだが、一部とはいえコンクリートの階段で覆って、頂上にも土台を作るのは、如何なものか。

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大国主命の舞台 その5

粟嶋神社(彦名粟嶋神社)(平成20年6月28日)

米子駅(よなご)から真っ直ぐに境港(さかいみなと)へ向かい県道47号線を走り道沿いの建物がそろそろまばらになり市街地が終わる頃に、左手、米子水鳥公園近くの中海に面した場所にこんもりと樹木で覆われた小山がある。山頂に粟嶋神社を祭る粟嶋(あわしま)だ。
40m足らずの小さな山なのだが、米子から島根半島に延びる弓ヶ浜半島は砂州で平らなうえに高い建物のないので目立つ。

道端の鳥居から参道が延びて、山頂に向かって真っ直ぐに石段が続く。石段の途中に荒神社の祠がある。通称、粟嶋の荒神さんと呼ばれていて、農業の守り神となっている。
祠の側には巨大な岩が崖となって露出していて、山全体が岩山であることがわかる。それもそのはずで、粟嶋は江戸時代中期までは中海(なかうみ)に浮かぶ小島だった。現在の鳥居がある辺りから渡し舟で参拝したことが知られている。鳥居の向こうを通る県道47号線は弓ヶ浜の西端を沿う様に走っているが、中海の水際からは少し離れている。しかし、それは長年の埋め立てによるもので、県道がほぼ本来の海岸線だという。

低いとはいっても麓はほぼ海抜0mなので地上から38mの高さまで丸々登らなければならない。石段187段。少々息が切れる。体の鍛え方が足らないのが明白だ。
粟嶋全体が神域となっているため、社叢に埋もれていて石段は昼でも薄暗い。石段は表面を苔が覆い、歩くと滑る。かなり急な階段なので落ちたら大変だ。

頂上は平坦で、下から見上げて想像するよりも広い。隋神門の奥に拝殿と大社造の本殿が建つ。拝殿から伸びた瑞垣が本殿を囲んでいて、社殿を含め立派な作りだ。
ぽつぽつと参拝者が訪れてはお参りをして帰って行く。地元の崇敬が篤い。
社叢は県の天然記念物に指定されている。昔の姿そのままの原生林に囲まれてのんびりとした時間が流れてゆく。以前来た時の印象は全く覚えていない。こんなしっとりとした風情の神社だったのか、と改めて思った。

境内は苔むしていて長い歴史を感じさせる。古来より神宿る島、御神体、神奈備として信仰された。
祭神は神社名の「粟」から連想されるように少彦名命(すくなひこな)。少彦名命はとても小さい神だったとされる。物語に登場する時は大国主命(おおくにぬし)とコンビになる事がほとんどだ。
伯耆国風土記逸文(ほうき)によると、少彦名命が粟の穂にはじかれて常世の国に渡ったので粟嶋と名付けられたとあるらしい。似た話が日本書紀にもあり、それこには、大国主命と共に国作りをしていたが、その途中で、淡嶋(あはのしま)に行き粟(あわ)の茎に上ったところ、弾かれて常世郷(とこよのくに)に渡った、と記されている。逸文は後世の創作のことがあるので、多分オリジナルは書紀だろう。
実のところ、中海に浮かぶ小島で遠くからは粟の実の様に見えたので粟嶋と呼ばれていたというのが最も考えやすい。

このあたりから一帯は彦名(ひこな)という地名で、粟嶋神社に祀られている少彦名命に因んでいると思われる。
地名に因む話には、現在の市名になった米子の地名説話もある。昔、粟嶋神社近くに長者が住んでいたが子供に恵まれなかった。今の加茂町(かも)の賀茂神社の隣に引っ越してきて祈願したところ88歳になって子供を授り、子孫は繁栄した。そこで、それまで加茂の里と呼んでいたのを八十八歳の時の子供なので、「米子」いう様になったと伝わる。八十八を米と見立てるのは、米寿と同じだ。加茂町は現在の国道9号線を挟んで米子市役所周辺で、粟嶋から3km程離れている。
ところで、夫婦のどちらが88歳の時の子供なのだろう。可能性は爺さんだ。さすがに婆さんはもっと若くなければ無理だろう。少なくとも30以上年が離れていたに違いない。

本殿の裏には小道があり少し眺望の開ける場所へ出る。前には中海、その向こうには安来(やすぎ)の町が見える。ここらあたりから安来は眼と鼻の先に感じられる。中海を渡る橋を架ける計画が出ては消えているのも頷ける距離だ。
足下に水鳥公園がある。望遠鏡があればここからでもバードウォッチングが可能だ。「グワグワ、ゲゲ、キキ、チッチッ」の鳴き声は公園にいる水鳥の声だろう。何とも長閑だ。
展望所にしては整備されてない。多少開けた所を展望所にしただけだ。周囲に岩が転がっていたりする。古来、粟嶋全体は御神体とされて麓に拝殿だけがあったとされている。もしかすると、この場所は古代祭祀の跡なのかも知れない。
岩の間を抜けて下へ降りられるかと思ったが、道は先にはなかった。

境内に向かって右奥に出雲大社の遥拝所が設けられていた。白木が新しい。もちろん見えるのは中海だけで、直接の遥拝出来るのは水鳥公園だけだが。
隋神門の向かって左には伊勢神宮の遥拝所もあった。

麓の祈祷所に神社の歴史年表が掲げられている。その始めの辺りに、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐に向かう時、お腹の子供の出産日が近かったため粟嶋神社に使者を遣り安産祈願をされた、という神功皇后伝説があった。ここにそんな伝説があったとは初めて知った。
しかし、何故ここに安産祈願したのだろう。その説明はない。伝説とはいえ、少々、無理な感じがしないでもない。

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後醍醐天皇にまつわる史蹟 その5

珠慶山、生蓮院、凉善寺(平成20年6月28日)

古くからある町には寺院の集中した寺町と呼ばれる地域があることが多い。多くは江戸時代に藩の方針で集められたものだ。鳥取県の西部、島根県との県境に近い米子にも昔ながらの細い路地に沿って寺がずらりと並ぶ寺町がある。
その寺町から100m程南にある凉善寺(りょうぜんじ)を訪れたのはそろそろ蒸し暑くなってきた平成20年6月28日。

開発のされてない旧市街なので道は細く一方通行も多い。土地鑑がないと、来るのも難しいような場所だ。
ごく一般的な町中の寺で取りたてて特徴などない。もちろん観光寺院でもないので人の姿も見ない。そんな中に「児島高徳縁の地」の看板が妙に目立つ。

児島高徳(こじまたかのり)の名前は現在ではあまり知られているとはいえない。しかし、後醍醐天皇の忠臣として、皇国史観で天皇至上主義だった戦前戦中は天皇を助けた臣下の鑑として教科書などにも載り、知らない人はいなかったと聞く。
「天莫空勾践 時非無范蠡」。十字の詩で有名だ。もっとも、漢文がよほど得意でなければ読めない。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画して挙兵するが失敗する。元弘の変だ。捕らえられた天皇は隠岐島に流罪と決まる。天皇方の郎等は天皇を奪還しよう画策するが、実現しなかった。児島高徳はあきらめず護送中に助け出そうとすして、天皇が宿泊していた津山市院庄(いんのしょう)の美作守護院庄館に忍び込む。しかし、さすがに厳重な警護のためにそれ以上近づけず、そばにあった桜の木に、十字の詩を彫った。現在、館があったとされる場所には後醍醐天皇と児島高徳を祀る作楽神社(さくら)が建てられている。「作楽」の「さくら」とはもちろん児島高徳が彫った「桜」の木を意味している。旧国名で津山のある岡山北部は美作(みまさか)という地で。略して作州(さくしゅう)とも呼ばれた。宮本武蔵は出身を作州宮本村といっている、あの作州だ。そこで、「さくら」の神社を表わすのに作楽の字を使ったのだと想像される。創建は非常に新しく明治だ。天皇の権威で国を纏め上げる過程で創建されたものだ。

桜の木に刻んだ十字の詩の意味を知るには、鎌倉幕府滅亡の太平記の時代から、遥か紀元前500年位前の中国春秋戦国時代まで遡らなければならない。

古代中国は周が紀元前770年に倒れてから、秦の始皇帝が紀元前221年に再び統一するまで、
各地に小国が群雄割拠する状態で、春秋戦国時代と呼ばれる。
そして当時、南の揚子江流域では呉と越という二大勢力があった。呉は今の上海あたり、越は紹興酒で有名な紹興のあたりだったらしい。呉王夫差(ふさ)と越王句践(こうせん)が激しく戦う。

まず、呉の夫差の父親が越に攻め込むが越王勾践に敗れ、越へ復讐して無念を晴らすように息子の夫差へ言い残して亡くなる。呉王夫差は夜に薪の上に寝て自分を痛めつけ、父の無念と復讐の念を忘れないようにして、軍を強化した。
それを知った越王句践は、重臣の范蠡(はんれい)が止めるのも聞かずに呉王夫差へ打って出るが、敗れて会稽山に逃れる。句践は范蠡の忠告に従い、生きて再起を図るために恥を忍んで呉の臣下となり降伏する。この時、夫差の父の重臣だった伍子胥(ごししょ)は、句践を生かしておいてはいけないと進言するが、夫差は降伏条件を受け入れて助けてしまった。
命の助かった句践は、恥を忘れず復讐の念を持ち続けるために、肝をいつも側において舐めた。肝というのは動物の胆嚢のことで、胆汁のためにとても苦い。
じっと耐え忍んで范蠡とともに反撃の機会を狙っていたが、ついに句践は呉に攻め込み激戦の末に呉を破る。以前に命を助けられているので、越王勾践は呉王夫差の助命を考えるが、范蠡は許さないように主張して、夫差も臣下に下るのを潔しとせず自決した。

長くなったが、先の十字詩「天莫空勾践 時非無范蠡」はこの呉越の攻防の故事を踏まえている。
「天、勾践を空(むな)しうすることなかれ、時に范蠡無きにしもあらず」と訓読する。
直訳すると「天は勾践を見放してはいけない。時には范蠡の様な忠臣がいないわけではないのだ。」とでもなるのだろうか。勾践を後醍醐天皇に見立てて、「今は囚われの勾践の身でも、必ず范蠡の如く忠臣が現れてお助けし、御武運も開けますので、それまでご辛抱を。」と言うような意味が込められている。もちろん児島高徳は自らを范蠡に重ね合わせている。
朝になって護衛していた兵士が刻まれた詩を見つけたが誰も意味が分らなかった。ただ、天皇だけが理解出来たと伝わる。

戦前は何と、この十字の詩を含む歌が小学唱歌になっていたそうだ。昔の小学生はすごい。それに対して、さっぱり読めないし、意味の分からない現代の我々は護衛の兵士並みか。

その後、児島高徳の願いどおり、後醍醐天皇は隠岐からの脱出に成功して鎌倉幕府は倒れ、建武新政を断行するのは誰でも知っている通り。

因みに、呉越の戦いに関しては多くの故事成語が出来ている。
「呉越同舟」は、夫差と句践の物語とは直接関係ないが、二国の対立が激しかったことを踏まえている。
復讐の念を燃やすため、夫差が薪の上に臥し句践が肝を舐めたことから、「臥薪嘗胆」の成句が出来た。
会稽の恥をそそぐ、というのは会稽山で破れ屈辱を味わった句践が復讐を遂げたことから生まれた。単に、会稽の恥、という使い方もある。
また、呉王夫差の父親の代からの重臣、伍子胥の物語からも故事成句もある。
彼は、父兄の仇の墓を暴き死体を掘り出して鞭で打った。これから、死屍に鞭打つ、の成句が出来ている。死人に鞭打つ、または死者に鞭打つ、などとも使われる。死体を掘り出してまで復讐をするのは、日本ではあまりない。どこか大陸的な感じがする。
さすが死体を掘り返して鞭で打つのはやりすぎだと非難した友人との会話の中からは、「日暮れて道遠し」の句がある。

境内に入るとすぐ左手に児島高徳の顕彰碑が立っている。
「勤皇 児島高徳公」。自然石に彫られたなかなか立派な石碑だ。新しいもので、寄付の名簿の石版もある。
石碑の隣にお堂があり、その側に先程の立派な石碑とは対照的な小さな慎ましい碑がある。「誠忠 児島高徳 遺塔」。石碑との関係は不明だが、どうやらここに遺塔があった跡らしい。

元文5年(1740年)、児島高徳公17代目の子孫、古谷作太夫一政の位牌を、その子の古谷如水が作って凉善寺で供養を行ったことから、児島高徳ゆかりの寺となったようだ。
本堂にはその時の位牌が安置されているそうだ。遺塔はその時の供養と関係するものだろうか。
顕彰碑は寄付で作られているので子孫の供養塔などとはあまり関係がなさそうだ。

児島高徳はその名前から分るように、岡山市の南、児島を本拠地としていた。山陰にやって来たとの話も聞かない。何か伝説があり墓でもあるのか、と期待してここにやって来たのだが碑しかなかった。直接は関係ないことが分かった。正確には児島高徳の子孫ゆかりの地とするのが正しい。
もっとも、児島高徳の実在を疑問視する説もあるようなので、何もなくてもしかたがないかも知れない。
それにしても、実在が疑問視されてもその子孫は続いているわけだ。

日吉切通し

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川の流れに

日吉切通し(平成20年6月15日)

松江の南、国道432号線沿いに伊邪那美命陵(いざなみ)の岩坂陵墓参考地があり、国道を挟んで劔山がある。山と言っても20-30mの小高い丘の様なものだ。その劔山の西の麓を流れる意宇川はこの後大きく東へ向きを変え、古代国庁の南を通り意宇平野を潤して中海に注ぐ。

その昔は、川は劔山の東を流れていた。地図を眺めないとわからないが、劔山の北には東から山裾が張り出している。劔山の東を流れる川は、その山裾にぶつかり、一度西へ回り込んでから東へ流れるしかない。つまり、大きくUターンするようなS字に蛇行することになる。そのためにここ日吉(ひよし)の地は洪水に苦しめられて来た。

現在の意宇川の流れになったのには、篤志家の偉業があった。

川の氾濫を防ぐには流れを変えるしかないと、日吉村の豪農の周藤彌兵衛家正(すとうやへえいえまさ)は慶安3年(1650)に松江藩に懇願し、藩は劔山の西側を切通しとして開削し工事を行なった。3年の歳月の後に完成するが、切通しが狭かったためか、その僅か2年後の承応3年(1654)の洪水で新しい堤防が決壊して、再び水害に苦しめられるようになる。しかし、藩は財政難を理由に開削は再開されなかった。昔も今と変らないようで、良く聞く話だ。

藩があてに出来ないことから、三代目周藤彌兵衛、つまり家正の孫の良刹(りょうせつ)、は遂に、宝永3年(1706)私財を投じて切り通しの拡大を決意する。その時、良刹は56歳。
彼は、槌(つち)と鑿(のみ)で42年間も岩盤を切り開く作業を行ない、切通しを完成させる。更に、6代目周藤彌兵衛も切通しの拡充を図った。代々の当主が事業に力を注いだ結果だ。

劔山の頂上にある劔神社へ行く途中の川沿いに、切通しの説明板が立てられている。
現在の切通しは幅は約30mで高さは20m、長さは30m。初代の家正の時は幅が約12m程だったが、良刹の開削がほぼそのまま現在の姿とされる。

流れる意宇川の川底は荒々しい岩肌を見せていて、その姿は川の流れで徐々に角が丸まってきているらしいが開削で削られた跡そのものと言う。その多くを個人が行なったのかと思うと大変な労力だ。川底のごつごつとした岩盤から周藤彌兵衛の執念が見えるような気がした。

人力での岩を削ってゆくといえば、大分中津市耶馬渓(やばけい)の青の洞門がすぐに頭に浮かぶ。菊池寛の「恩讐の彼方に」の舞台だ。
密通が発覚して手討ちにされるところを逆に相手を斬ってしまい逃走した主人公は、自分の行いを後悔し出家して了海と名を変えて全国行脚に出かける。そして大分で山国川の川沿いが断崖絶壁で通行に難渋し転落死も出ている事を知り、犯した罪の滅罪の気持ちなどから、そこに槌と鑿でトンネルを掘り始める。難事業で何十年もかかり、そこに、斬られた方の息子の仇討ちが絡むのだが、成り行きから協力して彫り抜くことになり最後に二人で手を取り合い貫通の完成の感涙に咽ぶ、といった感動的な話だった様な気がする。青の洞門という名前も実は菊池寛の小説から出ている。
ただ一人狭いトンネルの中で槌と鑿で岩盤と格闘する年老いた僧侶が蝋燭の明かりに浮かぶ、といった挿絵が必ず付いている。

事実は多少違っていて密通や仇討ちの話はない。掘削も禅海という僧が個人で行なったのではなく、托鉢や勧進などで資金を集めて、人を雇って行なっている。そして、洞門が出来た後は、お金を取って通行させたらしい。
小説の感動的な話とは大分違うのだが、個人で行なった工事としては大事業だ。さらに、貫通後に通行料を取り、それを資金にトンネルを拡張させていたらしい。通行料が幾らだったのかは知らないが、お金儲けが目的でないのだろう。とても30年間の工事に見合う収入が得られるとは思えないからだ。何とか安全に通行させたいをいう願いからだったはずだ。

日吉切通しでは、三期全体の工事に要した費用を米に換算すると、当時の日吉村の14年分の石高に相当すると旧八雲村発行の「周藤彌兵衛」に記されているそうだ。
切通しの完成に努力したのは灌漑用水を完備して米の収穫量を上げる目的があったのかもしれないが、村人が水害で苦しむ姿を何とかしたかったのだろう。その証拠に全く採算が取れてない。
もちろん工事も一人で行ったものではなく、大庄屋だったらしいので、人を雇って行なっているはずだ。
さすがに実際の青の洞門の話を知っているためか、凹凸の激しい荒れた岩盤の川底を、白髪の老人が一人、槌と鑿で削っている姿が目の前に浮かんで来ることはなかった。

もちろん個人で鑿をふるって掘削したものではないからといって、青の洞門にしろ日和の切通しにしろ、その功績は全く揺るがない。ただただ頭が下がる。
藩が動かななかったのは、財政難だけでなくお役所体質もあった気がする。住民の要望があるにも関わらず、対費用効果が認められない事業には政府も地方自治体も乗り出そうとせず、全く当てに出来ないところは、現代と何だか似ている気がする。

後で知ったのだが、周藤彌兵衛の墓とされるものが、劔神社へ登る参道近くにあるらしい。事前に知っていれば手を合わせたのだが、残念だ。

劔神社(日吉劔神社)

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伊邪那美命と比婆山 その8

劔神社(日吉劔神社)(平成20年6月15日)

国道432号線を松江市街から数キロ南へ走ると八雲立つ風土記の丘があり、その先の切通しの様な神納峠(かんのう)を越えると伊邪那美命(いざなみ)の御陵とされる岩坂陵墓参考地がある(2005年、伊邪那美命と比婆山2、岩坂陵墓参考地)。
江戸時代の出雲の地誌、雲陽誌には、神納山は劔山から五丁つまり約500mあまり離れた場所にっあて、伊邪那岐命(いざなぎ)を追った伊邪那美命が自ら魂を治めたところなので神納と言う、とあるらしい。まさか、この記事で宮内庁が岩坂陵墓参考地を認定した訳ではないだろうが、少なくとも江戸時代には既に伊邪那美命陵として知られていたことがわかる。

古事記によれば、伊邪那美命は炎の神である火之迦具土神(ほのかぐつち)を生んだため産道を焼かれて亡くなってしまい、亡骸は今の島根県東部地方の出雲国と鳥取県西部地方の伯伎国(ははきのくに)、つまり伯耆国(ほうきのくに)の境にある比婆山に葬られたと記されている。
その後、伊邪那岐命は伊邪那美命を訪ねて黄泉国へ行くが、そこで変わり果てた女神の姿を目にして恐れをなして逃げ帰る(2006年、伊邪那美命と比婆山6、揖屋神社)。
そのために、比婆山のある出雲国は黄泉国で伊邪那美命が眠ると考えられるようになった。日本書紀では伊邪那美命の被葬地は熊野となっているため、熊野も黄泉国と見なされるようになり、出雲と熊野は。伊邪那美命と黄泉という概念で重層化されることとなる。
伊邪那美命が祀られる地には、比婆山や黄泉国への入り口、また熊野神社などがあることが多い。

伊邪那美命陵があるなら比婆山もあるはずなのだが、ここでは代わりに劔山(つるぎやま)がある。
黄泉国で変わり果てた姿を見られ、恥をかかされたとして伊邪那美命が黄泉の軍勢を率いて追ってくるのを、伊邪那岐命は後手に剣を振りながら逃げた。それで劔山と呼ぶようになったと伝わっている。以前に岩坂陵墓参考地を訪れた時にも気にはなっていたのだが、最近まで場所がどこかわからなかった。

国道を挟んで岩坂陵墓参考地の反対側に新興住宅街が出来ている。つるぎニュータウンとかつるぎ団地だ。そこに、低い小山があり、それが劔山で山頂には神社があるはずなのだが、宅地造成で出来た新しい住宅地に囲まれていて、参道がどこかわかりにくい。
国道432号線から側を流れる意宇川に沿って川下に200m程進むと、劔山の裾に日吉切通しという場所がある。そこから山に沿って右折する細い道を進むと参道入り口だ。
山全体が社叢なのだろう。雑木が生い茂っている。しかし、基本的には岩山のようだ。

崩れかけた狛犬、痛んだ舗装参道、左右から夏草が迫る。予想通りの鄙びた参道風景だ。駐車場はない。参道前の道も狭いので、車では入ってこないほうが良いだろう。
参道は民家の隣を通り、そこから一直線に長い石段が山頂まで続いている。劔山の山頂と聞くと随分な高さを想像するが、実は20-30mの小山なので散歩気分で登れる。

頂は平らだが周りは木々で囲まれ見通しは全く効かない。かなり磨り減って傾いた石畳と石段の向こうに、少しくたびれた感じの拝殿が建っている。場所は住宅地に囲まれているが、新しい住民にはそれ程の愛着はないと思われる。古くからの村の氏神といった風情だ。
本殿は大社系。その後ろには摂社の祠がが二棟。向かって右は稲荷神社。これは特に変ったところはないが、左の藤森神社が珍しい。興味があるのは社の名前ではなく祭神が舎人親王(とねり)である点だ。

舎人親王は天武天皇(てんむ)の皇子で、日本史の授業では日本書紀を養老4年(720年)に奏上した人物として覚えさせられる。それだけだと実に無味乾燥な事績だが、しかし、舎人親王をめぐる人物関係はとても劇的だ。

672年の壬申の乱(じんしん)で天智天皇(てんじ)の皇子の大友皇子を破り大海人皇子(おおあま)が天武天皇となった後、奈良時代末まで天武系の天皇が続く。その後継は、皇后で後の持統天皇の系統と、藤原氏の縁戚の皇子が占め、天武天皇の皇子であってもそれ以外は不運に見舞われる。特に皇位継承に関わる有力な皇子であればなおさらだった。
天武天皇の後継として最も天皇位に近かった大津皇子(おおつ)は謀反の罪で捕らえられ自害させられる。持統天皇が実子の草壁皇子(くさかべ)を天皇にするために画策した事件とされる。
天武天皇の皇子の一人の高市皇子(たけち)に関しては、彼が亡くなった後、都が奈良に遷ると、その息子の長屋王が政治の舞台で台頭してくる。しかし、天皇を呪詛したとして長屋王も自害に追い込まれる。藤原氏の陰謀だったとされる。
そんな政敵となる皇子の粛清が行われる中で、舎人親王は奈良朝廷で権勢を保ったまま天授を全うした。それは藤原氏に接近していたためらしく、実際、長屋王の変では糾弾する側にいる。
自身は見ることが出来なかったが、息子の大炊王(おおい)が淳仁天皇(じゅんにん)として天平宝字2年(758年)に即位したことから、天皇の実父として崇道尽敬皇帝(すどうじんけい)と追号された。しかし、間もなく淳仁天皇は、先の天皇である孝謙天皇と対立し権力を奪われる。しして、藤原仲麻呂と密接であったこともあり、仲麻呂の乱の後には皇位を剥奪され淡路島に流されてしまう。その後、脱走を企てるが捕まり亡くなった。病死とされているが多分暗殺だ。近年まで正式な天皇とも認められず淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれた。淳仁天皇というのは明治に追号されたものだ。息子は父の舎人親王ほど朝廷内を上手く立ち回れなかったようだ。

天皇ではないが、崇道尽敬皇帝の追号を持ち、歴史的に取り巻く状況には興味尽きないものがあるが、一般的にはそれ程有名ではなく、祀られる神社は多くない舎人親王を祭神とした祠が何故ここにあるのだろう。日本書紀の編纂事業に携わったからといって、書紀に登場する伊邪那岐命と関係があるわけではないだろう。

隣は稲荷神社。藤森神社と稲荷いえば京都伏見を連想させる。歴史的には伏見稲荷と藤森神社は複雑な関係になっている。祭神の舎人親王は、どうやらその藤森神社の勧請によるようだ。藤森神社には早良親王の祀られていて、早良親王の話も劇的なのだが、さすがにここでは脱線が過ぎてしまう。
ただ、どうしてここに藤森神社が勧請されているのか謎だ。

謎はまだある。
山頂の劔神社から参道石段を少し戻ると脇に日吉神社という別の神社がある。この劔山のある場所は日吉と呼ばれる地域なので、これが地元の氏神なのは確かだ。氏神のはずが摂社のような扱いになっている。劔神社は氏神ではないのだろうか。
日吉神社は比叡山の東麓の日吉神社の勧請なのは間違いない。村の名前の日吉は日吉神社の勧請後に呼ばれるようになったと思われ、やはり劔山と劔神社の方が歴史が古いことになりそうだ。
いろいろと不思議なことが多い神社だ。

劔山と劔神社といえば、四国の剣山を先ず思い浮かべる。そして、平家落人と安徳天皇伝説、平家物語などが連想されるのだが、ここには源平の陰は全くない。

由来書などは一切ないのだが、この劔山には伊邪那美命に関する言い伝えがまだある。神納山のいわれを記載した雲陽誌によると、次のような話が伝わっていたようだ。
劔山の崖下に黄泉国への入口といわれる穴があり、剱神社神主の内蔵太夫(くらだゆう)は、100日間の断食の後にようやくその穴に入ることが出来たが、3日程と思って外に出たところ既にに3年が経過していた。人々は不思議に思って中の様子を尋ねたが、内蔵太夫はその様子を喋ろうとしたがどうしても喋れなくなった。劔山は黄泉国との境だ、と記されているらしい。
伊邪那岐命は黄泉から逃げ帰った時、黄泉の軍勢を防ぐためと黄泉とこの世を分けるため、最後に千引石(ちびきのいわ)で道を塞いだ。この劔山全体が千引石とも見なされていたようだ。
伊邪那美命の御陵がある所には比婆山がつきものだが、山と呼ぶほど大きくないので比婆山では千引石と考えのかも知れない。

劔山神社神主の物語は浦島太郎の竜宮城と同じで、別世界では時間経過が違うという話だ。こういった神隠しのような伝説は各地にある。実際には数年程家出をして放浪していた言い訳だったと思ってしまうのはロマンがなさ過ぎるだろうか。

黄泉の穴がどこかなのか興味はあるが未だに場所がわからない。現在はなくなっているという話もある。そこへ入って数年の神隠しはとても魅力的だが、どうも無理なようだ。


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