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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡拝2008

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木花咲耶姫命 その1

縄久利神社(比田縄久利神社)(平成20年6月15日)

暖かな日差しの中、平成20年6月15日、安来の町から県道9号線を中国山地に向かって奥へ走る。徐々に山が深くなり左右からの山が迫って、小さな峠が近づいてくる景色の中、草野の集落の木立に隠れるように縄久利神社(なわくり)の案内板が出た。
分岐は県道258号線で、一応県道だが道幅は一気に狭くなる。程なくして集落の中では一車線道路となり、車同士はおろか車とバイクでの離合も困難になった。集落を抜けると道幅は少し広がるが舗装林道のようになり、この先大丈夫なのかと少々心配になるが、道路状況がそれ以上悪化することはなかった。
一つ峠を越えると間もなく山中を走る道端に参道と鳥居が現れてほっとした。

神社前の県道は草野と比田を結ぶ道だが、どちらの集落とも離れた山の中でとても静かだ。老杉に挟まれて立派な長い石段が拝殿に続く。予想に反して大きな神社だ。

周りは高い木々で囲まれているが、鬱蒼とした森の中といった印象は受けない。境内が広いので明るいのだ。
彫刻で飾られた唐破風向拝の拝殿も立派だ。本殿は方一間の大社系の造りで小さいながら綺麗に管理されている。
向かって左奥には若宮神社の石碑。かなり新しそうだ。残念ながら祠は残っていない。境内の左手に廻って一段降りた一画には小さな摂社とお稲荷さんなどがあるなど、境内摂社も多い。しかも、そのどれも手入れが行き届いている。

奥深い山の中に入って来て周囲には民家もほとんどないような地なので、傷んだ小さなお堂のような社を想像していただけに、これだけのしっかりした規模の神社があったことは少々驚きだった。しかし、それもそのはずで、単なる山奥の氏神ではなかった。
江戸時代には家畜の守護神として信仰を集め、中国地方にこの神社の講(こう)が結成されていたという。現在でも春には花傘神事と呼ばれる、家畜の健康に効験があるとされる花を争奪する行事が続いているのだそうだ。境内に牛像が置かれ、鳥居近くに畜魂碑が立っているのも納得できる。具体的な内容は不明だが、さぞ賑やかに祭りが催されるのだろう。

講というのは厳密にはかなり定義が難しいが、ある神仏の信仰を持った組織のようなものを指す。神社や寺院などは基本的に氏子や檀家で成り立っていて地域密着だが、講は、そいういう枠を超えた広域的な範囲に構成員が存在する。例えは良くないが、自分の集落ではない遠く離れた場所にある寺社の氏子や檀家になるようなものだ。
講では信仰する寺社が日帰り出来ない程遠方にあることも多く、参拝するのも大変だった。そのため、講の皆でお金を積み立てて少人数の代表が参拝することも普通だった。その一番有名なのが、お伊勢参りということになる。これは伊勢講と呼ばれた。
多くの庶民にとって伊勢までの旅は個人負担ではとても無理だったので、講で集めたお金で参ったわけだ。講での集金と積み立ては定期的に行なわれ、参拝するメンバーは案内人となる先達以外は順番に変るのが普通だったので、講に参加している人は毎回は行けなくてもそのうち自分の順番に恵まれることになる。
お伊勢参りも含めて、講での参拝は信仰もあるのだが観光旅行の要素も大きかった。一生に一度の大旅行だった人も数多くいたはずだ。講というのは、貧しい人たちが協力して普段行けないような場所に旅をするという、よく考えられた行楽のシステムだったともいえる。

神社は元は縄繰大権現と呼ばれたらしい。
ここは下の宮で、奥宮、いわゆる本宮は飯盛山にあり、山頂からは大山(だいせん)や三瓶山(さんべさん)が望めると説明されている。奥宮周辺には巨岩が多く、菊水の岩、こもり岩、乳岩、赤子岩など、名前の付けられた岩には言い伝えもあるらしく、古くから巨石信仰の地であったことが知れる。大権現と呼ばれたのは、磐座を中心とした山岳修験の地であったからだろう。古来からの西日本の修験道の勢力分布を考えると、山頂からの大山の遥拝が重要だったのだと思われる。鳥取県西部にある大山にある大山寺(だいせんじ)は、室町以降は多少寺勢が衰えるものの、明治維新まで日本有数の修験道の聖地だったからだ。また、大山寺は牛馬を扱う博労(ばくろう)としても知られていた。説はいくつもあるものの、大山寺博労座は日本三大牛馬市の一つに数えられることもある。大山を遠望できるここが牛馬の守護神として崇敬されていたことと無関係ではないはずだ。
神社周辺は山中にしては広く、鳥居前も開けていて古来は神宮寺のような僧坊でもあったのではないかと想像するが、隆盛だった頃の姿がどうの様だったのかは知れない。

現在の主祭神は大山祇神(おおやまずみ)と磐長姫命(いわながひめ)。大山祇神はともかく、磐長姫命を祀る神社はあまり多くない。
以前の神社名の表記が「縄久利」ではなく「縄繰」だったのには次の様な伝説が伝わっている。
大山祇神の娘に、磐長姫命と木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)という姉妹がいた。二人はお互いの住家を見つけるために飯盛山に登り見渡すと、遠くに大山が見え、そこがよさそうだった。木花咲耶姫命は、良い場所が見つかったら合図に引っ張るといって、縄を持ち引いて出て行ったが、何時までたっても連絡がない。そこで残されていた磐長姫命が縄を繰ってみると、縄は途中で切れていた。裏切られた磐長姫命を祀り縄繰神社と呼ばれるようになったと伝えられる。
この神社の氏子は縄を大切にして使えなくなっても焼かないのだという。

磐長姫命と木花咲耶姫命の話は記紀に有名なものがある。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫、瓊瓊杵尊(ににぎ)は天上の高天原から、この地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために天降って来た。ある日海辺で木花咲耶姫命と名乗る美しい乙女に出会い求婚する。父神の大山祇神は、姉の磐長姫命も一緒に娶って欲しいと姉妹を遣わせる。しかし、磐長姫命は醜かったため帰されて、妹の木花咲耶姫命だけを宮に留めた。
大山祇神はそれを知り、二人揃って差し出した理由を述べる。磐長姫命はいつまでも岩のように硬く揺るぎなく堅固で長寿となるように、そして木花咲耶姫命は花が咲きほこる如くに栄えるように、との事だったが、木花咲耶姫命だけを娶ったため、子孫は咲く花の命が短いように短命になってしまったと。そのために天皇は寿命が限られ短命になってしまった。

人間に寿命があることを説明するこの手の神話は世界各地にある。民俗学ではバナナ型神話と呼ぶのだそうだ。知らなかったがどうやらよく知られた神話分類名らしい。
神が人にバナナと石のどちらかを選ぶように命じたとき、食べられるバナナを選んだ。この時に石を選べば、変ることなく不死となったが、バナナを選んだため人は短命になったというのが大筋らしい。石を不変の象徴としていて、磐長姫命の説話と本質は同じだ。
もっとも、哺乳動物に限らず地球上の高等生物の中でもヒトの寿命は決して短くない。むしろ長い部類に入るのだが、何時でも人が不老不死を望むのは、石よりも堅固な永遠不変の願いなのだ。

瓊瓊杵尊に帰された後の磐長姫命の話は日本書紀では別説が載っている。
扱いを恥じた磐長姫命は、もし自分を娶っていたら子供は堅い岩のように永遠の命となっただろうが、妹の木花咲耶姫命だけを娶ったので、生まれる子供は木の花のように散り落ちるだろう、と呪ったと。磐長姫命の恨みは分る気がする。
ストーリーとしてはこちらの方が二者択一のバナナ型神話に近く、古い神話に基づいているのかも知れない。

それにしても、大山祇神も含めて神様は酷だ。寿命を左右するような重大な意味があるのなら、あらかじめ瓊瓊杵尊に教えておくべきだろう。バナナ型神話の神様にしても何も知らない人類にバナナと石を選択させて決めるというのはあんまりだ。誰だって石よりも目の前の食料に手を伸ばすだろう。神様なのだからバナナをくれた上で、不老長寿にもしておいたから感謝するように、とでも言ってくれても良いだろう。

何故人は死ぬのかという問は、何故生まれてくるのかということの裏返で、それは人生とは何かという問題の言い換えだ。当然、古代人でもこの哲学的な問題に悩んだはずで、その答えの一つがこういう神話なのだろう。それは未発達の稚拙な考えの様だが、神話をそのまま受け入れられていたのは幸せだったように思われる。どうせ今だって答えが出ているわけではない。神話での説明を受け入れられず納得できない現代人は、生き甲斐探しとか、自分探しなどと現実逃避するしかなくなっている。

神社の背後にある山が、伝説の飯盛山のようだ。由来の書かれた説明板には、本宮や巨石が描かれている。磐長姫命を祀る縄繰社というのも見える。社名からは本宮よりこちらが本来の社で、後にここに下りてきたのではないだろうか。いずれにせよ、見学したいと思い、鳥居前の道を進んだのだが、その後が少し大変だった。

かなり急な登りのタイトコーナーがあり、その先に本宮の石製鳥居が道端にあった。鳥居は新しく綺麗なのだが、参道と思われるその先は夏草の生い茂った山道が林の中に消えている。近くによって見たが全く足跡はない。かろうじて道であることは分る。
蛇は出ないだろうか。このあたりは熊の噂は聞かないが、出ないとは限らない。残念ながら足を踏み入れる勇気がなくて、断念した。

Uターンしようと思ったが道幅が狭い。バイクでも一度では回れず切り返す必要がある。しかし、坂道なので大型バイクを方向転換するのは難しそうだ。手持ちの道路地図ではこのまま進めば再び県道9号線に戻れるようになっているので、そのまま進むことにした。
急な細い山道を下って行く。心配になり一度停まったところ、バランスを崩してそのまま立ちゴケ。先日は右に、今日は左だ。
平地にならないとUターンもままならないので、仕方なくそのまま進むと、最悪の事態に。両側に轍のある未舗装になった。未舗装路は自分の腕では絶対に走れない。
未舗となる手前がほぼ平地なのでそこで取り回して転回することにしたのだが、気がつかないほどわずかに下り坂だったため、切り返しのためにバイクを後ろに引くが、びくとも動かない。
数十センチづつ前後に動かして、何とか方向転換を終えたときには、息も切れ切れ、汗だくだった。そして、翌日から腰の筋肉痛に数日悩まされることになる。
今度、本宮に挑戦する時は、神社前から歩くことにしよう。

リッタークラスの大型ロードバイクで山の中の狭い道に入って行くのが間違っていると言われればその通りだ。あまり知られていない社寺旧跡などを捜し求めるにはオフロードバイクの方が適しているのはわかっている。しかし、とても残念なことに小柄なためにオフロードバイクでは足が届かない。オフロードバイクはバイクの中でもシートがとても高いのだ。

県道258号線に戻った後は西の比田温泉に下って国道432号線に出て帰った。来る時とは違って道は広く途中には民家が続く。縄久利神社へはこちらのルートが便利だ。結局、神社へのアプローチも悪路を選択していたのだった。

稲城(出西朝妻稲城)

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

稲城(出西朝妻稲城)(平成20年6月7日)

斐川町の西、生姜で有名な出西の久武神社を後に、簸川南広域農道を東へ走る。
久武神社の社伝では素戔嗚尊が奇稲田媛命を隠したとされる稲城の森が近くにあるはずなのだが、事前の下調べで全く所在地が不明だった。

神社から農道を数百mの道端に、「朝妻里と須佐之男命」の説明板を発見した。しかし、道路の周囲は一面の水田で、肝腎の稲城の森はおろか祠の一つも見えない。
それでも周りをを見回すと説明板の遥か後ろ、田圃の向こうに民家が接した小高い丘があり、その裾野の茂みが少し他の樹叢と違っていて何となく怪しい。色々と一般的に知られていない旧跡を巡っていると身に付く勘だ。

細い農道を入って近づいてみる。確かにそこが稲城の森だった。集落の狭い生活道路なので観光で車で入ってくるような場所ではない。そのため広い広域農道に説明が出してあるようだ。

横は民家の裏庭で、稲城の森とはいうものの、森とは程遠く藪と呼んだほうが相応しい。
竹薮の中の狭い一画に取り残されたように巨木があり、周りに小さな石製の祠と石灯籠がある。巨木が何の木かはわからない。その根元にお札や熊手が置かれているのは、古い御札の納め場所としても使われているのだろうか。

八雲立つの歌を詠み、宮を構えたのは久武神社ではなくここだという伝説もある。
しかし、それよりも説明板の話の方が面白い。
久武神社のあった弥山の麓から、素戔嗚尊が稲城の森に奇稲田媛命を妻問に通って、朝になると帰って行った。朝になると妻問から帰る里、ということで朝妻里と呼ばれるようになったそうだ。
古代では、妻問婚が一般的だった事を物語る。

妻問婚と言うのは、夫が妻の元に通う結婚形態のことで、平安時代まで一般的だったと考えられている。天皇は皇后や他の妃などと同居しているし、一般貴族でも夫婦が同居することはあったが、妻に後ろ盾がなかったり、または弱かったりする特別な場合だったようだ。ただ、庶民がどうだったのかは不明だ。
大蛇退治の後に素戔嗚尊が宮を造り鎮座したとするのは、奇稲田媛命との同居だと考えられ、天皇の宮を意識したものだ。それに対して、この朝妻里伝説では素戔嗚尊と奇稲田媛命の関係は普通の貴族社会を模していて、二神を身近な存在に感じさせる役割を果たしていたのかも知れない。

ただ、妻問婚は通常、妻の実家に通うので、隠した女性の下に出かけるのではない。自分で用意した家に住まわせてそこに通うというのは、お妾さんという事になる。ますます人間的だ。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

久武神社(出西八幡久武神社)(平成20年6月7日)

木次から斐伊川沿いを川の流れと共に川下に走ると、周囲の風景が広がり出雲平野に出る。出雲市の東だ。
簸川南広域農道の付近から県道197号線の南の山側の集落を抜ける生活道路に入り、斐伊川から東へ1kmほどの場所に神社が見える。それが久武神社(くむ)。
背後は山だが境内周辺は開けているので明るい神社だ。境内も広い。

標柱が左右にあり、向かって右に久武神社、左には出西八幡宮(しゅっさい)と刻まれている。一つの神社に二つの社名があるのだが、その理由は、同じ境内に二つの神社があるためだ。全国どこでも神社の合祀は多い。その場合、境内に小さな社が建つ形式はよくあるが、ここのように並立で神社名もそのまま残るのは珍しい。

ここは風土記の久牟社(くむ)に比定されている。旧社地は背後の山上で、何度か遷った後、最終的に江戸時代中期にこの地に遷座したらしい。
由来では、素戔嗚尊(すさのお)は奇稲田媛命(くしなだひめ)をこの近くの稲城(いなき)にかくまい、八岐大蛇退治に出かけた。この郷に帰って奇稲田媛命と再会した時に、祝福に沢山の雲が湧き上がって幾重にも二神を囲んだので、喜んだ素戔嗚尊があの八雲立つの歌を詠んだとされる。
神社名の「クム(久武)」もこの時湧き上がった「クモ(雲)」から付けられたのだという。
正確には、旧社地のあった弥山(みせん)という山の麓が、その場所らしい。現在も素戔嗚尊の祠が祀ってあるのだそうだ。多分、久牟社が山頂から里に降りたときの社地だろう。
弥山が実際にどの山なのかは不明だ。南に聳える出雲国の四つの神奈備(かんなび)の一つ、仏経山(ぶっきょうざん)のことだろうか。それとも、背後の低い山並の一つなのだろうか。

ちなみに、八雲立つの歌は
「八雲立つ 出雲 八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」
あまりにも有名だ。
それにしてもこれが詠われた地と伝わる場所は多い。
縁結びとして圧倒的人気の八重垣神社(やえがき)。更に、その南にある熊野大社(くまの)も歌碑を立てて発祥地を主張している。調べてもはっきりはわからなかったが、先に廻った加茂町の布須神社(ふす)も多分そうだろう。記紀の記述からは須我神社(すが)がやはり一番の候補だ(2003年、素戔嗚尊と八岐大蛇1、須我神社)。
各神社が百家争鳴といった感じだが、現在、本家争いは宣伝効果で知名度を上げて若い女性の心を掴んだ八重垣神社が独走中といったところか。もっとも歴史的にも伝説的にも八重垣神社は八雲立つの歌とは何の関係ないらしいが。

境内の中央に拝殿があり、背後の山の斜面に石段が続き、その上に久武神社本殿が建つ。
方一間の大社系の造だが、前に千鳥破風のように屋根を付けて庇のようにしている。
本殿は境内や拝殿の大きさに比べて不釣合いなほど小さい。しかも、境内から登った場所にあり、拝殿と少し離れていて、まるで摂社のようだ。
原因はどうやら明治政府にありそうだ。由来書によれば、室町末期に氏神として八幡を勧請して祀ってきたが、明治政府の命令で式内社の久武神社を氏神にしたのだそうだ。

久武神社は江戸時代にここに遷ったとされている。明治までは八幡が地元の氏神だったことから、遷宮してきたとはいっても久武神社はあくまでも八幡宮の摂社、末社のような扱いだったはずだ。八幡宮内の境内末社だった久武神社が、明治にそのまま本殿に格上げあされたことが窺える。

久武神社と出西八幡宮と標柱が二つあるのは、本来は八幡宮が主体なのに久武神社にさせられた氏子の意地なのだろうか。

本殿は久武神社と出西八幡の二つあるが、拝殿は一つしかない。久武神社本殿は拝殿の背後の山裾の上にあるが、八幡宮の本殿は拝殿の横にある。拝殿に向かって左で、その正面は拝殿に向かっている。八幡に向かうには拝殿から真横を向かなければならない配置だ。あくまでも拝殿は久武神社のものということで、八幡は末社扱いだ。
しかし、社殿は二間社流造で久武神社本殿よりも遥かに立派だ。
拝殿の位置は八幡宮の拝殿として相応しい場所にある。八幡宮の拝殿を久武神社の拝殿にするために明治に90度向きを変えたような気がした。
境内のどこを見ても本来の社殿配置は八幡を中心にしている。

このあたりは出西(しゅっさい)という。難読地名だ。素戔嗚尊や奇稲田媛命などの出雲神話より、出西生姜の産地として名高い。

水越峠

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

水越峠(平成20年6月7日)

出雲市の南東、平成の市町村合併で雲南市(うんなん)の一部となった加茂町、そこを東から西へ流れる赤川が斐伊川(ひいかわ)に合流するあたりは長閑な農村風景が広がり、素戔嗚尊(すさのお)と八岐大蛇(やまたのおろち)の伝説が沢山残る。
加茂町の布須神社(ふす)のある延野(のぶの)の集落から戻った県道157号線周辺も、区画整理された水田が一面に広がっている。
以前は池があったのだが、昭和39年の水害で赤川の堤防が決壊し土砂が流れ込んでその後、現在のように田圃になっているらしい。今は池の痕跡は跡形もない。

消えた池の名前は、赤池。別名、血の池と呼ばれていたそうだ。
素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後、切り刻んだ十拳剣(とつかのつるぎ)をその池で洗ったため大蛇の血で赤く染まったので、そのような名前が付いたとされる。
前を流れる川の名前が赤川なのも、大蛇を退治したときの血で川の流れが真っ赤になったことから呼ばれるようになったと伝えられる。
赤川に赤池。鉄鉱石で川底や池の土砂が赤茶けていたのではないかと考える人もいる。

中国地方、特に島根県東部と鳥取県西部は古来より踏鞴製鉄(たたら)で有名だ。明治以降西洋式の溶鉱炉による製鉄が広まるまでは全国一の産鉄地として知られた。その理由は、踏鞴製鉄の原料となる良質な砂鉄が豊富だったからとされている。
古代出雲を鉄の国と考え、国譲りを鉄を求めた大和朝廷の出雲侵攻とする見方は結構知られている。退治した八岐大蛇から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出たこともそれを示唆するという。多分、赤川や赤池を岩肌が赤褐色の鉄鉱石の露出とする見方は、そういう古代出雲を鉄と深く結びつけた考えから来ているのだろう。鉄鉱石がごく身近にあったので製鉄に便が良かったのだと。
しかし、古代出雲、踏鞴製鉄、鉄鉱石、赤褐色の岩肌、といった連想には問題がある。踏鞴製鉄の原料は砂鉄で鉄鉱石ではないからだ。砂鉄には黒い正目(まさめ)と褐色の赤目(あかめ)といった種類があったようなので、赤褐色の砂があっても良いのだが、踏鞴で用いられた赤目は赤くない。黒い正目が主な原料で赤目は質が劣る砂鉄を称したようで、本当に赤褐色の砂鉄は使われていない。少なくとも中国地方の踏鞴製鉄が盛んになった以後は。
また、岩の赤褐色は必ずしも鉄鉱石を意味しない。川や池、または滝などで赤褐色になっているのはバクテリアによることが圧倒的に多い。鉄バクテリアの沈殿物で鉄鉱石ではない。もちろん砂鉄でもないので、そこからは製鉄は出来ない。鉄ですらなく、単なる赤、褐色などの色素を産生するバクテリアのことも少なくない。

古代出雲を鉄の国と見なすことには以前から少しひっかかるものを感じていて、考えれば考えるほど、踏鞴を知れば知るほど疑問が大きくなっているのだが、長くなるので、それはまた別の訪問地で想像することにした。

赤池のあったと思われるあたりから延野の集落の後ろに控える小高い山を眺める。真っ直ぐ伸びる車道は途中でなくなるがトレッキングなら鞍部を越えられる山道があるらしい。越えた先には加茂岩倉遺跡(かもいわくら)がある。その峠を水越峠(みずこしとうげ)と呼ぶ。
退治された八岐大蛇が横たわり斐伊川が堰き止められて川の水が溢れ、ついにそこの峠を越えたので水越峠と呼ばれるようになったと言い伝えがある。
古事記によると八岐大蛇は、八つの頭に八つの尾があり、その身には苔(こけ)や檜(ひのき)、杉が生え、長さは八つの谷、八つの峰(みね)にわたる、とある。これだけ巨大なら確かに斐伊川を堰き止められそうだ。
それにしても峠の標高は100mはありそうなので、大変な大洪水だ。大蛇が要求していたのは生贄の娘だけだったようなので、もしかすると、近隣住民にとっては大蛇の被害より甚大な災害となったかも知れない。スケールの桁外れな巨大生物を退治する時は色々と考慮しなければならない事が多そうだ。

消えて水田と化した赤池の近くに巨大な高い橋脚が立ち松江自動車道が南北に伸びる。今では車が水越峠の横を越えてゆく。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

布須神社(加茂布須神社)(平成20年6月7日)

出雲大東から県道157号線に並行して東から西へ斐伊川に注ぐ支流がある。赤川。素戔嗚尊が八岐大蛇を切り殺した時に流れ出した血で川が真っ赤に染まったことから名付けられたとされる(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇3、八口神社)。
その赤川が斐伊川と合流する近く、川の右岸に延野と言う集落があり、そこに布須神社がある。

山裾の小さな村落で、神社を探しながら走っていて行過ぎてしまった。そこで、停まって切り返せばよかったのだが、Uターンしようとして失敗し転倒してしまった。その際に右足が挟まれて押しつぶされるかと思ってしまったが、幸に怪我はなかった。右足がクッションになったためか車体へのダメージもほとんどなく、良かったのか悪かったのか。
それにしてもCB1300SFは重い。想像以上の重さだ。ほんの少しでもバランスを崩すと足で支ささえるのは不可能で確実に倒れる。

集落への道の左手の小山の中腹の少し高い場所に社があり、参道が真っ直ぐに伸びる。その先、鳥居の向こうは階段になっている。
近づいてみて驚いた。階段が鉄骨製だ。まるで古い非常階段だ。今までいくつもの山裾の斜面に作られた急な石段の参道を見て来たが、鉄製の非常階段は初めてだ。
かなり急な斜面なのだが、参道は石段でも作れそうだ。何故、鉄製の階段なのだろう。
少し錆が浮かんでいる。そのうちに新しくする必要がありそうで、石段の方が長く使えそうな気がする。

下から眺めた時は、真っ直ぐな参道の先の社で、立派な印象だったが、拝殿の前まで来ると、意外に小さい。
拝殿の注連縄は巨大だが、本殿は大社系の大きな特徴はない神社だ。村の鎮守、氏神なのだろう。

ここは出雲国風土記の布須社に比定される神社の一つとされる。ただ、一般には木次の室山にあった同名の布須神社がそれに当てられている(2008年、素戔嗚尊と八岐大蛇8、布須神社)。
室山の布須神社は古代祭祀の歴史を持つ社のようで、拝殿のみで本殿を持たない、など興味深いものがあったが、失礼ながらこちらは取りたてて特徴のない大社系の社だ。珍しいのは鉄製階段の参道くらいのものだ。しかし、こちらに歴史がないかと問われると、あながちそうともいえない。元々が村の鎮守や氏神なら神社名は、そこの地名になるはずなのだが、ここは違うからだ。古来より何らかの祭祀の社があった可能性は高い。
残念ながら、由来記のようなものは見当たらない。

ここは、先に見学してきたが、八岐大蛇が退治された後に天叢雲剣の出てきた尾留大明神旧社地と赤川を挟んで直線でおよそ1km。その間には八岐大蛇が用意された酒を飲んで酔っ払って寝てしまった草枕山や、素戔嗚尊に矢で射られた八口神社もある(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇3、八口神社)。つまり、大蛇退治の最後の舞台が多く集まっている。そのためだろうか、ここでは室山の布須神社に伝わる話と少し違う。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後に奇稲田媛命と居を構えた場所がこの布須神社だそうだ。素戔嗚尊と奇稲田媛命の最初の宮として一般的に良く知られている八重垣神社や須我神社は、ここから移ったのだとされる。
室山の布須神社は酒を醸すのに使われたという伝説だった。

室山の「ふす」は、頂上に磐座があり、山が聖なる古代信仰の御神体考えられていたことから、多分、遥拝の、伏し拝む意味の「伏す」だったのではないかと思う。
それでは、ここの「ふす」は何だろうか。隠すと言う意味の「伏す」ではどうだろう。奇稲田媛命を隠したということで。それなら館跡とされても不思議ではない。
想像を膨らませると、隠したのは姫ではなかったかも知れない。

出雲国風土記の大原郡の記事に、神原(かむはら)の郷は古老の伝によると、所造天大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御財(みたから)を積み置かれた場所で、そのために神原と呼ぶ、とある。所造天大神は大国主命のことだ。
この神財(かむたから)は、以前は川向こうの神原神社境内の遺跡から出土した三角縁神獣鏡ではないかと考えられていた(2006年、卑弥呼の鏡、神原神社)。何しろ卑弥呼の鏡との説のある景初三年銘の入った銅鏡だからだ。しかし、最近では山を挟んで反対側の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡を神財と見る説が人気だ。それら、どの意見にも個人的には今ひとつ納得できないが、前を流れる赤川の対岸のやや東には神宝があるとされていたのは確かなのだ。隠すという意味の「ふす」はそれと関係してないだろうか。


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