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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡拝2008

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尾留大明神旧社地

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

尾留大明神旧社地(平成20年6月7日)

木次(きすき)から斐伊川(ひいかわ)右岸の県道197号線を下る。加茂に入って三代の集落。目指すは素戔嗚尊(すさのお)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出現したとされる旧跡だ。
御代神社の旧社地ということで以前に探したのだがその時は見つけることが出来なかった(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇その3、御代神社)。今回はしっかりと調べて所在地はほぼ突き止めてある。多分見つけられるはずだ。ちなみに、三代も御代は「みじろ」と読むのが正しかった。

県道197号線は途中で折れて、川から離れて高台にある三代の集落を超え再び折れて斐伊川に併走するように北の赤川へ向かう。集落を抜けて下った後、水田の中を走って行くと、道端に「尾留大明神、御代神社」の案内がある。小さい看板だ。小さいだけでなく、板切れに手書きだ。これは前回の時には全く眼に入ってない。
三代の集落のある狭い舌状の丘が途切れる所に向かって行く小道なのだが周囲は水田なので何も目印になるものがない交差点で、土地鑑がなければ間違えずに入るのはかなり困難だ。御代神社を訪れた時にここを走っているが気がつかなかったのも無理はない。

小道に入り集落のある丘への坂道を少し上った所に旧社地はある。
実は、丘の上の尾根上の部分に伸びる三代の部落を抜ける道沿いで、そのまま進めば御代神社に着く。つまり、前回訪れた神社の前の道をそのまま進めばここまで来られたのだ。しかし、たとえ前を通り過ぎても気がつかなかったに違いない。案内板も目立たなかったが、旧社地もそれに負けず劣らず目立たない。田舎の風景に溶け込んで、すっかり同化している。

道の横、畑の一画のような場所に説明板とささやかな碑が建っているだけだ。
一辺2m四方程の低い石垣に、人の背丈くらいの自然石に「御代神社旧社地跡」とある。多分、この石垣が旧社の建っていた跡だろう。そして、その碑の後ろには石製の小さな祠がひっそりと建っていて、神社があったことをしのばせている。

かつての御代神社は斐伊川の氾濫で流されたため、ここから現在地に遷ったという。確かに、川沿いの水田の広がる平地部分は昔は容易に氾濫が起こっただろうが、しかし、三代の集落があるのは高台になった場所で、この旧社地はその上り口なのだが、それでも下の水田からは結構な高さがある。けっして低い場所ではない。
ここまで水で押し流されたとなると、大変な水位だ。全国的にも有名な天井川の斐伊川なのでそれ程の洪水もあったのかも知れない、などと勝手な想像していたが、説明板で謎が解けた。
今は畑になっているらしいが、元々は御立藪(おたてやぶ)という所を尾留大明神として祀っていたらしく、そこが斐伊川の氾濫で流され、永享元年(1744)にここに移転した。そして、明治に御代神社と改称し、大正になって日吉神社の地に移転合祀して今の御代神社になったそうだ。
さすがにこの高さが水で流されたのではなかったようだ。

本来の御立藪はここから北に約200mの場所だったらしい。ささやかな「尾留大明神入口」の案内があった道の反対側あたりだろうか。御立藪という名前から、多分竹やぶだったと想像される。
素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後、尾から出てきた太刀が天叢雲剣、別名、草薙剣(くさなぎ)で、三種の神器の一つとされている。剣の出現地の具体的な場所は、当然だが記紀には記されていない。良く知られているのは島根県と鳥取県の県境にある船通山(せんつうざん)で、その山頂には天叢雲剣出顕之地の碑がある(素戔嗚尊と八岐大蛇その5、船通山)。いくら何でも山頂に尻尾があるとは八岐大蛇が大きすぎないか。そんな巨体だと、たとえ眠っていても剣くらいでは致命傷を与えられそうもない気がするが、神である素戔嗚尊は当然だが神業が使えたのだろう。

強い酒で酔った大蛇が枕にして眠った草枕山はここから1km足らずの距離にある(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇その3、八口神社)。長さがおよそ1kmとは確かに巨大だが、それでも標高1142mの船通山頂に尾があったという大きさと比べると、まだ想像の範囲に収まるサイズだ。こちらの、尾留大明神が天叢雲剣の出現地であることは、あまり知られていないが、大蛇の大きさは何となく落ち着く。
まあ、船通山頂に及ぶ巨体が納得できないのは想像力が足りないからだといわれればその通りなのかも知れない。

碑の背後の小さな祠には「元御代神社」と彫られている。その背後に小さな横穴が見えている。何も書かれてないが自然のものではないようだ。防空壕にしては狭すぎる。もしかすると古墳の石室の一部か。
石碑のある一画のすぐ横は畑で、旧境内と思われる場所も狭く、社の規模も碑の建つ石垣から考えて人が中に入れない大き目の祠程度の大きさだ。三種の神器の一つ天叢雲剣出現を祀った社にしては、小さ過ぎるというか慎ましすぎる気がしていたが、ここに古墳があったのなら古来より祭祀が行なわれる神聖な場所として信仰を集めていたとしておかしくない。本当のところはどうなのだろうか。とても石室にも見えないのも確かなのだ。

ところで、ここは集落内を通る細い坂道の途中で、駐車場どころか車を停めておける路肩のスペースもない。駐車してしまうと地元住民の通行に非常に迷惑になる。自家用車の場合は、案内看板のある県道などに停めて歩くのがよさそうだ。
もっとも、車はめったに通らないし、尾留大明神の碑を見学して説明板を読むだけなら数分もあれば足りるので、一瞬道端に停めてさっさと見てしまうことは可能だ。多分、多くの見学者がそうしていると思われる。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

産井戸の跡(熊谷さん)(平成20年6月7日)

河辺神社で老人に教わった通りに、斐伊川(ひいかわ)の左岸の道を木次(きすき)に向かって熊谷(くまたに)を走る。
国道314号線に熊谷大橋で合流するが、そこから川沿いの旧道へ入る。河辺神社へはこちらからの方がわかりやすかった。
しばらく進むと道端の法面を削ったような所に、説明板と妙なものがあった。一見しても一体何だかわからないが、これに違いない。

建物はない。もちろん社らしい姿は微塵もないし、肝心の井戸もない。あるのは直径が1m余の円形で高さが数十cmの土管のようなものに円錐の銅板の蓋が被せてあるものだけだ。どうやら、井戸を補修して蓋を付けた物らしいが、風情のないことこの上ない。蓋の銅版も作りが雑だ。いくらなんでもこれは酷いだろう。そもそも、井戸であることすら分らない状態になっている。
後ろと横の崖と地面はコンクリートで固められたゴミ置き場に、ポツンと銅製の三角錐の蓋が置かれているように見えてしまう。少し悲しくなってしまった。

見るべきもののも、参拝するべきものもないので、説明を読む。基本的には河辺神社にあったものと同じで、出雲国風土記の熊谷の地名説話が書かれた後、この井戸の説明がされている。
奇稲田媛命(くしなだひめ)がこの地でお産をするときに使った産水を汲んだ井戸で、安産の神として信仰され近隣の妊婦は井戸の水を飲んだらしい。昭和38年頃まで使われていたそうだが、今は跡地のみだという。
しかし、ここは街を迂回して山陰道のICへアクセスするために新しく作られた国道の法面だ。本当に元々の場所がここなのか。

説明板の内容には微妙な点がある。
奇稲田媛命がここに来たのは、八島士奴美神(やしまじぬみ)を生むためと書かれているが、それはともかく、八島士奴美神に括弧が付いて大国主命(おおくにぬし)となっている。
風土記には熊谷の地名説話だけで、奇稲田媛命がここで生んだ子供の名前は載ってない。ただ、古事記では八岐大蛇退治をした後、素戔嗚尊(すさのお)と奇稲田媛命の間に生まれた御子として八島士奴美が記されている。そして系譜が述べられて6世の孫に大国主命が書かれている。要するに一般的には、八島士奴美神は大国主命の祖先ではあるが同一神とはされていない。
説明文を書くときにどこかで間違ってしまったのだろうか。
ただ、先代旧事本記では八島士奴美神が大国主命の別名として載っている。そちらを参考にしたのかも知れないが、それなら何故、敢えて古事記の説を採らなかったのだろう。一度、ここの文章を作った人に聞いてみたいものだ。

ちなみに、八島士奴美神は出雲国風土記の国引き神話で有名な八束水臣津野命(やつかみずおみずのみこと)とする説もある。しかし、古事記には素戔嗚尊の御子の八島士奴美の孫、大国主命の祖父に、淤美豆奴(おみづぬ)神と言う神が載っていて、こちらが一般的には八束水臣津野命の事だと考えられている。

神様の系譜も名前も伝わる間に混乱が起きている。あまりに古い時代のことなので仕方がない。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

河辺神社(熊谷河辺神社)(平成20年6月7日)

木次(きすき)の斐伊川土手にあった八岐大蛇公園で少々脱力に襲われたが、気を取り直して次に向かう。

斐伊川(ひいかわ)を少し溯る。国道314号線から対岸の左岸に渡るのだが、場所を間違えて1km程川上で国道が川を渡った木次から4km程の所から川を右手に見ながら下ることになった。
途中に「熊に注意」の看板を発見。背後の山はとても熊が生息できそうな大きさと森の深さには見えないし、あまりにも民家に近いが、注意があるからには熊が出るのだろう。
もう過ぎた事だが室山は大丈夫だったのだろうか。向こうの方がずっと山が深い。今更ながら心配になった。これからは熊除けの鈴も持ち歩くことを考えよう。

木次の南に斐伊川が大きく東に蛇行した部分がある。そこに上熊谷(かみくまたに)の集落があり、集落の手前に分かれ道があるが、そのまま川に沿うような細い道に入る。300m程進むと河辺神社(かわべ)の前に着く。
すぐ近くを斐伊川が流れている。以前、洪水で社殿が流されて少し川から離れたのだそうだ。場所的にも斐伊川の蛇行を考えて洪水が頻繁にありそうな場所だ。

遷座した社なので森もなく、新しく開放的な雰囲気の社だ。境内にあるこじんまりとした摂社、荒神、社日なども小奇麗で、残念ながら歴史は感じられない。

境内をのんびりと散策していたら老人に話しかけられた。
「鳥取から来なったか?」
バイクのナンバープレートを見たらしい。神社巡りをしている事を話すと、尋ねもしないのに親切に色々と教えてくれた。ありがたいことに高齢にしては出雲弁が目立たないためよくわかる。
ただほとんどは境内の由来に書かれている内容だった。
ここが稲田姫(いなたひめ)、つまり奇稲田媛命(くしなだひめ)の社であること、洪水で流されて新しくなったこと、元の社殿は今よりずっと川に近い場所だったこと、上、中、下熊谷それぞれの集落にあった三社がここに合祀されたことなど。
そして、熊谷(くまたに)の説明も受けた。
由来によると社殿が流されたのは明治の始め頃だが、それを、まるで見たかのように話すのを聞いていると、何だかほのぼのとした気分になる。わざわざ尋ねて来た余所者に対する、地元の社の自慢半分、それともてなし半分なのだろう。

出雲国風土記によれば、久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)が妊娠して子供を生む場所を求め、当地に至り、「甚く久麻久麻(くまぐま)しい谷なり」と言っので熊谷と言う、と説明されている。
「くまぐましい」と言うのは、奥まって、隠れた、暗い、静かなといった様な意味だ。安心して出産できる所を探していた様子がうかがえる。
久志伊奈太美等与麻奴良比売命というのが奇稲田媛命の事だとされるのだが、同じにしては少し名前が長すぎないか。

一般に神名は修辞が沢山付いて立派に長くなる。例えば、高天原(たかまがはら)から天降った瓊瓊杵尊(ににぎ)は天津日高彦瓊瓊杵尊(あまつひたかひこににぎ)で、饒速日尊(にぎはやひ)は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはや)だったりする。読めないし、読んでも舌を噛みそうだ。
これらの仰々しい修辞語は名前の頭に付くのが普通だ。ところが、久志伊奈太美等与麻奴良比売命では「くしなだ(奇稲田媛命)」の後ろに付いている。立派にするための修辞としては少々妙な気がする。良く見ると何となく二つの名前がくっ付いたもののような印象だ。
古語は全く不得意だが少し考えてみた。

久志伊奈太美等与麻奴良比売命、くしいなだみとよまぬらひめ。どこで区切れるのか。
「くしいなだ」は奇稲田媛命の「奇稲田」で間違いなさそうだ。
「とよ」は古代神名などに良く用いられる「豊」で良いだろう。立派なといった意味だ。

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、われても末に逢わむとぞ思ふ」
小倉百人一首、崇徳院(すとく)の歌。この「瀬をはやみ」の「み」、これは接尾語だとされる。
風土記とは時代が全く違うが、「み」が接尾語で良いなら、久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)は、麻奴良比売命(まぬらひめ)に「奇稲田」と「豊」の修辞が頭に付いた名前と考えられる。

奇稲田が修辞というのは不自然ではない。「奇稲田」自体が、奇しき稲田、つまり霊力のある真正な水田という意味で、それを神格化してそのまま名前にしたのが奇稲田媛命だ。つまり固有名詞というより一般名に近いからだ。

適当に推測を始めたが、意外にスッキリと結論に至ってしまった。いかにも本当らしく聞こえる。
最後に残るのは、麻奴良比売命(まぬらひめ)が何かだ。
多分「ら」は接尾語なので、一番重要なのは「まぬ」だろう。さて、「まぬ」とは何だろう。
「奇稲田」の接頭語が付いている以上は農耕にや水田に関係すると思われるが。
ひょっとるすと「真野(まの)」、あるいは「真沼(まぬ)」か。豊かな実りをもたらす湿地の水田のことで、ここでも意外にぴったりな言葉が出てきた。

素戔嗚尊(すさのお)と八岐大蛇(やまたのおろち)の話は記紀編纂時に物語のほとんどが作られていると思っているが、確かにここでの奇稲田媛命は素戔嗚尊とも八岐大蛇とも全く関係ない。それどころか、これまでの推測が正しいなら、記紀の奇稲田媛命と風土記の久志伊奈太美等与麻奴良比売命は違うということになりそうだ。
これまでいくつも尋ねて来たが、素戔嗚尊と八岐大蛇伝説は何故か斐伊川の右岸に集中している。多分、後世に話が沢山付会したのだろう。しかし、ここは風土記の話なので素戔嗚尊などとは全く関係がない。珍しく斐伊川左岸にあるのもそれを裏付けそうだ。

「くま」ついでに、道端にあった「熊」注意について尋ねてみた。最近確かに上熊谷の方で養蜂の蜂蜜を狙って出て来たらしい。「くまぐましい」の言葉につられて出て来たのではないようだ。
しかし、こんな里山で熊が生息できるのだろうか。やはり不思議だ。まさか、熊の着ぐるみの蜂蜜泥棒だったということはないだろうが。

伝説では稲田姫がお産の時に使った、産湯の井戸があるはずなのだが見つからない。老人の話から、稲田姫と直接関係しているのは下の社で、そこには産湯の井戸があると教えられる。小さな社だったが今は建物はないと言う。ここで探してもないはずだ。
産湯の井戸の情報があまりなかったので、偶然に知りたかっことが分ってしまったのは幸だった。

どうやら、ここは駒形大明神、駒形神社とも呼ばれていた社で、奇稲田媛命とは直接の関係はなかったようだ。合祀した時に主祭神になったのか。

八俣大蛇公園

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

八俣大蛇公園(平成20年6月7日)

国道54号線に国道314号線が合流する所が木次。斐伊川沿いの町だ。大きな町ではないのだが目的地が実にわかり難い。

町を通り抜ける県道45号線から県道271号線へ入り斐伊川の支流を渡って、斐伊川の本流にかかる簸川橋の手前で土手に入る。対岸が春には美しい桜並木の土手だ(2007年、桜散る、木次斐伊川堤防、桜トンネル)。

すぐに小さな公園があり、そこが八俣大蛇公園だ。
土手の空き地を無理やり公園化したとしか思えない。石碑とモニュメントがあるだけで、実に風情がない。しかも、まるで民家か公民館のようなシルバー人材センターの塀が石碑のすぐ後ろにある。歴史も何も感じられない。

古事記によると、素戔嗚尊が高天原を追放されて出雲国斐伊川の鳥髪に降り立ち、箸が流れてくるのを見つけ、川上に人が住んでいると考える。訪ねて行き、奇稲田媛命親子に会い、そして八岐大蛇退治をすることになる。

公園に建っているのが「箸拾いの碑」。素戔嗚尊が箸を拾った有名な場所はない。むしろ、今までどこも名乗ってこなかったというべきか。もちろんここも言い伝えがあったわけではない。しかし、こうして碑を建ててしまうと、今後はここが定説になるかも知れない。

その碑を挟んで八岐大蛇と素戔嗚尊の石像があり、対決を再現してある。まあ、実際には再現するというのは無理があるだろう。何しろ、酒で酔わせて寝込みを襲ったのだから。
それにしても石像が今ひとつだ。八岐大蛇が頭が一つしかないのは予算の関係で仕方がないとしても、どうしても龍にしか見えない。大蛇がどんな姿形なのかは知らないが、それでも龍でないことは確かだろう。
対峙する素戔嗚尊も八岐大蛇に負けず劣らずひどい。頭が妙に大きくて出来の悪いSDガンダムの様だ。その上、剣を構える姿もさまになっていない。左バッターボックスに入った少年野球の子供かと思ってしまう。

公園と呼ぶには狭すぎる一戸建ての住宅地程度の空き地に、言い伝えもない碑やモニュメントをわざわざ作る必要があったのか。
あまり知られることのない伝説地などを訪れていると、草むらに碑が一つなどということは珍しくもない。たとえそんな場所でも結構楽しいのだが、ここはどうにも感情移入出来ない。全く新しく無理に作ったといった印象があるからだろうか。しかも、それがかなりちゃちなものだから尚更だ。
世にはがっかり名所と呼ばれるものがあが、ここは脱力系だ。ただ、あと百年もすれば、それなりに重みのある名所になるのかも知れない。

下の河原は桜祭りの時に臨時駐車場になるが、今はもちろん人は誰もいない。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

c(平成20年6月7日)

雲南木次の室山の麓の細い道を釜石、布須神社と見て回り、そのまま走ると佐世小学校前の道に出る。そこで、佐世川沿いの道と交わる所に佐世神社がある。

道端に鳥居らしき石柱があり、荒れた石段が小山に向かって延びている。何かの整備中のようで、参道横の木が一部伐ってある。そのために道は枯葉と泥で埋まっていて、とても石段とは思えない状態だ。

登りきると低い丘の尾根に出る。雑木林の中を道が一本続いている。途中に左に曲がる参道らしい石段があったので登ってみると平地になった。しかし、社殿がない。
枯葉の敷き詰められた空き地の中央に2m程の四角い土台だけが残っている。社殿の改築中なのだろうか。それとも、このまま無くなったままなのだろうか。
中津で見た本殿のなくなった社といい、今年は社殿のない神社に縁があるようだ。

参道へ戻る。道はそこから広くなる。そのまま林の中を歩いてゆくと広い空き地と大きな鳥居が見えてきた。奥には社殿がある。
神社は八幡神社となっている。名前が佐世神社ではないのは合祀されたからだ。

ここには、車で上って来られる道があり、空き地は駐車場として使われているようだ。ただ、道幅は狭く、車同士のすれ違いは難しいし、最後はかなり急な坂道なので、車で来るにはそれなりの勇気が必要となる。
登ってきた参道入り口横には「佐世神社森の入り口」の看板、「佐世の森」の説明板があったが、どうやら現在は脇参道となっているようだ。入り口、石段横に森に向かう細い道がここにつながっている。それは、後で知った。

本殿はよくある大社系の造り。境内の向かって右には武内神社。武内宿禰が祀ってあるのだろう。八幡なので武内宿禰は応神天皇と神功皇后とセットで祀られることが多い。
そのすぐ近くには苔むした岩に注連縄がしてあるが、いわれは不明だ。

本殿の右手に来た参道とも車道とも違う別の参道があり、そこを数メートル降りると石段横に注連縄で囲まれた巨木がある。
幾本もの枝が古い幹から四方に伸び、相当な樹齢のようだ。佐世の森の標識がある。佐世神社で、これだけは見なければならない椎の木だ。
出雲国風土記に素戔嗚尊の伝説がある。
素戔嗚尊が佐世の木の葉を頭にさして踊った時に、葉がこの地に落ちたので佐世と呼ぶようになったと記されている。
その落ちた葉から芽吹いた巨木が佐世の森だ。枯れては芽を吹くことを繰り返し、現在は5代目とのことだが、かなりの古木になっている。さすがに、素戔嗚尊の時代芽吹いた木ではないようだ。
実は、佐世がどの様な樹木を指していたのかは不明で定説はないそうだ。ここでは5代目と代数も数えられているので、それを素直に受け入れれば椎の木で良いのかも知れない。

素戔嗚尊が佐世の木の葉をかざして踊ったのは八岐大蛇を退治した後だと書かれている案内書を時々見るが、それは全く違う。風土記では単に踊ったとされるだけで、八岐大蛇との関連は述べられない。それも当然で、出雲国風土記には八岐大蛇退治の話はどこにもないからだ。
記紀では大活躍の素戔嗚尊だが、出雲国風土記では出番が少ない。少ないというよりほとんどない。しかも、風土記には大神と呼ばれる神が四柱記載されるが素戔嗚尊はその大神でもない。
出雲国風土記では注目度の低い素戔嗚尊だが、ここでの伝説も些細な話だ。風土記での扱いを考えると、素戔嗚尊と八岐大蛇の伝説は起源が地元に根付いたものではない気がする。

神社の横に来る車道はそのまま社殿がなくなっていた小さな境内へ真っ直ぐに向かう参道続く。八幡神社へは空き地で後ろを振り向くような格好で参拝方向を変えなければならない。車道参道が新しいからなのか、八幡を勧請したて合祀する過程で変化したのか。


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