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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡拝2008

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田和山遺跡公園

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山陰に弥生の光芒 その3

田和山遺跡公園(平成20年6月1日)

6月1日、松江市立病院を目指す。別に病気で受診するわけでも見舞いに行くわけでもない。
国道9号線松江道路を走っていると新しい大きな病院の隣に遺跡公園が見える。老朽化に伴う市立病院の移転に際して予定を大幅に遅らせると同時に少し建築予定地を移動させることになったのが、田和山遺跡だ(たわやま)。

駐車場は遺跡公園の西にあるのだが、この時は知らなかった。もっとも、砂利敷きなのでどうせ大型ロードバイクで入る気になれない。

病院救急入り口近くに、遺跡公園入り口の標識がある。もちろんそこには駐車場はないが、歩道の隅に停めさせてもらった。

史跡公園見学の案内パンフレットの入った箱がある。こうしたパンフレットはなくなっていることが多いが、開けると中にある。公園が新しいためか、それとも見学客が来ないためか。多分両方なのだろう。

遺跡自体は病院横の小山全体だ。頂上へ向かって登り始めると入院病棟がはっきり見えてくる。もちろん病院側からも遺跡が良く見えるはずだ。史跡を眺めながらの入院生活というのは良い環境だと思うのは少し変だろうか。

山頂標高は約46m。頂上部の主要な遺構は9本柱遺構、5本柱遺構などの柱跡だ。柱跡を示す円柱が立っているだけで建物などはない。たいして広い空間ではない。建物遺構だけで一杯になる。
田和山遺跡には謎が多い。謎が多いというよりも、遺跡自体が全て疑問だらけといっても良い。議論の多いものの一つが、この頂上に残る柱跡だ。
柱は太いものでもせいぜい20-30cmしかないので、当然太さは全然違うが、柱の跡の列が並んでいるのは三内丸山遺跡(さんないまるやま)の巨大柱跡を思い出させる。
物見櫓という説がある。確かに宍道湖が目の前に見えるし眺めは良さそうだ。しかし、頂上部自体が眺めが十分良好な小さな丘の上なの、そこに更に櫓を構える必要はない気がする。
9本柱は出雲大社に代表される大社造の構造の原型で、神を祀る社のような建物だったのではないかともいわれる。
建物遺構ではなく柱しかなかったのかも知れない。祭祀用の心御柱(しんのみはしら)や依代(よりしろ)のようなものだ。三内丸山の巨大木柱も諏訪神社(すわ)の御柱(おんばしら)の様に天高くそそり立っていただけという説もある。もっとも三内丸山では、櫓を復元している。わからないものはわからないと無理に復元しない、ここの様な姿勢も大切なのではないだろうか。
ただ、実際は、復元と称した建造物を作る費用がないだけなのかも知れないが。

頂上から少し下った場所には定番の竪穴式住居や高床式倉庫などが復元されているのが見える。建物は新しくまだ傷みが少ない。どの遺跡公園でも同じだが維持が十分出来なくなり、どんどん廃墟と化すのだろうが、今はまるで人が住んでいるようだ。
その向こうに広がる水田などと復元住居は妙にマッチする。今でも田植えに弥生人が出てきそうな農村風景に見えないこともない。水田の広がる風景が日本の原風景ということを実感させる。
ただ、すぐ横をバイパスの高架が貫いているのが興ざめだ。

この遺跡の大きな特徴は山頂をめぐらせる三重環濠だ。三つの空掘りで山頂が囲まれている。平野にある小山の頂上を、ここまで厳重に守らなければならなかったものは何だろうか。
単純に考えれば他のムラとの戦のための防備ということだ。しかし、これには妙な点が多すぎる。
環濠の中にはつぶて石とよばれる石が沢山発掘された。もちろん投げるのに丁度いい大きさなのでつぶて石と呼ばれるのが、立てこもって濠の外の敵に投げたとは思えない。溝の中あっても役には立たないからだ。堀の内側に置いてなければ投げられない。
さらに、環濠も完全には一周してないことが明らかで、尾根筋には溝が掘られてない。そこから山頂に侵入しようとすれば簡単に入れたはずだ。
何といっても、三重環濠で囲まれた頂上部が狭すぎる。集落を構えるような広さはない。第一、住むには水がない。
防御施設とすれば、戦国時代の天守閣と城のような位置付けになるだろう。山城(やまじろ)といったところか。しかし、この狭い場所に避難しなければならなくなったら、もう勝敗は決している。水もないので篭城も出来ない。しかも、濠のない場所もある。
ここに立てこもって耐えようと考える人はいだろう。

三重環濠はどうも戦のための防備だったわけではないようだ。
宗教的な境だったという説もある。みだりに近づいてはいけないということだ。頂上の柱群は祭祀施設だったのかも知れない。

小学生低学年くらいの子供を連れた家族連れがお弁当を持って登ってきた。ちょっとしたピクニックには良い場所だ。

青谷上寺地遺跡展示館

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山陰に弥生の光芒 その3

青谷上寺地遺跡展示館(平成20年5月3日)

三朝(みささ)から少し主要道から離れた民家の少ない山間ルートを選択して駆け抜ける。
県道29号三朝東郷線(とうごう)を北上する。そのまま走れば東郷湖畔から国道9号線へとつながるのだが、途中から県道51号倉吉川上青谷線へ入って狭い峠越えの道を走る。距離的には遠回りになり、景色はただの田舎の山地で、特別に良いわけではない。それに、ツーリングに適しているわけでもなのだが、交通量が少なく道も悪くないので走りやすい。民家も少ない山間の細道をトコトコと流すのが好きなのだ。

青谷羽合道路(あおやはわい)の高架を過ぎると青谷の中心地。市街地といっても田舎の小さな町で華やかな商店街や繁華街などはない。
迷子になりながら、なんとかJR青谷駅前に出る。そこから一番のメインと思われる道路を北東に100mあまりで青谷上寺地遺跡展示館(あおやかみじち)。隣には地元特産品売り場、青谷ようこそ館。どうやら町の観光拠点という位置付けのようだ。

遺跡展示館は予想よりはるかに小さな施設だった。
さすがに吉野ヶ里や三内丸山のようなものは考えてなかったが、それにしても小さい。
まあ、吉野ヶ里はともかく、三内丸山は縄文遺跡で弥生時代ではないので比べるのは間違っているのだが。
知名度はともかく、発見される遺物の多さから弥生の博物館といわれこともある。日本でも有数の出土物を誇る遺跡の展示施設が、平屋で一見仮設に見えてしまうような建物とは思わなかった。

中に入っても展示物は多くない。
しかし、出土状況を見るとすごい。特に木製品の多さには眼を見張るものがある。家が丸ごとそのままつぶれたような形で出てきたりしている。確かにその出土状態は宝庫と呼ぶにふさわしい。しかし、木片が主体では華やかに見せようにも、展示の工夫も難しいのも間違いない。

木製品以外に人骨の多さも特徴だ。100体以上の人骨が出土しているらしい。また、単に数が多いだけではない。古代史に問題を投げかけたり、弥生人の生活がどうだったかを示すような骨が出ている。
中国の後漢書東夷伝(ごかんしょとういでん)に卑弥呼(ひみこ)より1-2世代前の倭国大乱(わこくのたいらん)と呼ばれる記事があり、武器で傷ついた人骨が多数出てきているのはそれを示唆させる。また、結核による脊椎カリエスと思われる変形した胸椎も見つかっていて、日本最古の結核例とされる。
しかし、何よりセンセーショナルだったのは、三体から弥生人の脳の一部が発見されたと報告されたことだ。これで一躍注目をあびた。もちろん古代人の脳が見つかったのは国内で初めてのことだ。もちろん世界的にも非常に珍しい。その一部が展示されているのが一番のメインだ。
そんな、弥生人の脳なのだが、下手なロウ細工の大きなクルミのようなものが展示ケースに収まっているだけだ。約2000年前の脳なのだが、感動が薄い。元々地味だし、単に展示物の一つだからだろう。もう少しショーアップした展示方法を考えないと、中には見逃してしまう人がいるかもしれない。まあ、この施設に入場する人が見逃すとは思えないが。

「とっとり弥生の王国の謎を解く論文、アイディア」の発表がされている。論文やアイデアを一般公募したようだ。
論文テーマは、弥生時代鳥取にはどんなクニが存在したのか?
アイデアの方は青谷上寺地遺跡で発見された遺物の謎が三つ。格子状の木製品の謎、青谷渦巻模様のある木製品の謎、土器の破片に描かれている絵の謎。
それぞれ、高校生以上の一般部門、中学生と一般の共通部門、小中学生部門となっている。
こういうアイデアはなかなか良い。費用もかからないし、それなりに宣伝になるし。何より正解があるわけではないので何時でも使える。

続いて実際の遺跡へ足を運ぶ。
くぐり抜けてきた青谷羽合道路の青谷ICから西側の高架下がその中心のはずだ。遺跡は埋め戻されているので今は単なる雑草が生い茂った空き地に過ぎない。フェンスに囲まれた一帯が発掘場所と思われる。何もない場所をフェンスで立ち入り禁止にすることはないだろうから。

弥生時代には入り江になった海岸線が遺跡の近くまであり、舟を利用した交易も行っていたと推定される。このあたり広い一帯が全て遺跡のはずだが、発見の発端は道路工事によるものなので、一部の細長い範囲が発掘されただけだ。しかも、埋め戻された後空き地として残っているのは、高架下のみ。
公園化の考想もあるようだが、今のところ利用できるのは高架下の保存部分だけだ。

青谷上寺地遺跡の資料館はパンフレットは充実している。展示物が少なく小さな建物ということからか入館も無料。無料なのはうれしのだが、やはり、有料でも良いのでもっと規模を大きくして欲しい。ジオラマを作ったり、映像館を併設したり。
しかし、それで維持経費が稼げるほど入館者があるかといえば、多分無理なのだが。

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平家物語 その5

神倉神社(小鹿神倉神社)(平成20年5月3日)

県道33号線を小鹿渓(おしか)から三朝(みささ)へ向かい2kmほど戻ると、道のそばに冠巌展望駐車場(かんむりいわ)がある。
ゲートボール場となっている広場と小さな建物があり、その小公園の駐車場と兼用だ。
建物は公園のトイレかと思ったが、紅葉の館という茶店だ。閉じられている。秋のシーズンだけの季節営業なのか、それとも既に閉鎖してしまったのか。村のイベントの時に店舗として使われるだけなのかも知れない。少なくともGWに営業してないところを見ると、商売をやる気がないのは確かだ。

後ろを振り向くと巨大な岩山が見える。神倉山(かんのくら)だ。その頂上付近の巨岩が冠巌と呼ばれる。

神倉神社社叢という説明板が地に落ちている。直す気はないようだ。どこを指すのか示されていないので、どれがそうなのかさっぱりわからない。少なくとも駐車場近くには社叢はない。

駐車場は谷の下に作られている。少し息を切らせながら神倉山に張り付くような集落まで登ると山の斜面の上に神社が見える。
公民館と保育園のような建物の間に鳥居がある。形式は厳島鳥居(いつくしま)だ。小さな山間の村には珍しい。そこから上に一直線に参道が続く。村自体がかなりの急斜面にあるので、参道も急だ。

100m足らずで境内に到着した。
本殿は方一間大社系の造りで、屋根を前に伸ばしてさらに唐破風で装飾してある。想像よりしっかりした、新しい社だ。
本殿屋根の寄進名簿があるが、ここもやはり小椋性が多い。しかし、氏子の経済力が中津とは少し違うようだ。名簿には店もあるし、工場もある。

肝心の社叢だが、参道脇の杉並木のことだろうか。手入れしてあり木陰になっていて、涼やかな印象をうける神社だ。

この神社は、下から見えた山頂の冠巖と呼ばれる巨岩が御神体なのは間違いないだろう。
神倉は「神のいます座(くら)」の意味でつけられたという説もある。文字通り磐座だ。
また、ここは丁度、三徳山三仏寺(みとくさんさんぶつじ)の裏側にあたり、三仏寺との関連も深い。
三徳山三仏寺は山陰を代表する修験道の寺だった。山を越えて行者が往来したとされる。ここが中世では三徳山領に含まれていることが関係の深さを示している。
三徳山とは冠巖で結ばれていた。冠巖は御神体であると同時に山伏の行場でもあったはずだ。事実、冠巌周辺には修験道の祭祀遺跡が残されていて、近くには建物の跡と思われる平地などがあるという。

三徳山に修験道の一大道場、三仏寺があるにもかかわらず、こちらには目立った寺院がない。多分、神倉神社が本来は神仏習合で修験道場の役割を担っていたはずだ。現在、神社には平安時代製作とされ元々は冠巖で祀られていたという伝承がある一木造りの阿弥陀如来や天部が納められていることが、神仏習合の神社だったことを示している。

小鹿渓もそうだが、ここ神倉神社も名前以外には平家物語とは直接関係がない。しかし、平家落人伝説の集落近くに神倉という名の神社があるなら、関係はなくても立ち寄らなければすまないだろう。

神倉神社といえば、普通は紀州熊野の熊野速玉大社(くまのはやたま)の摂社を指す。御燈祭(おとうまつり)という、長い石段の参道を松明を手にした男たちが駆け下りる勇壮な祭りで有名だ。
そして平家物語では熊野は関わりが深い。

平清盛(たいらのきよもり)の権勢を確立した平治の乱は、彼が熊野参詣に出て京を留守にした隙に勃発している。関ケ原の戦いの時に徳川家康が西軍を誘き出すために会津上杉征伐と称して江戸へ向かったように、清盛もわざと軍事的な空白を作って乱を誘導したという説もある。偶然かもしれないが、考えられることだ。
また、熊野といえば、熊野別当湛増(たんぞう)は熊野水軍を率いて源氏に付き勝利に貢献した。源平両軍から助力を求められた湛増は新熊野権現で紅白の闘鶏を行ってどちらに付くか占い、白い鶏が勝ったので源氏に付くことを決め壇の浦に出陣したのは良く知られている。現在の田辺市の闘鶏神社がその場所とされる。ちなみに、紅白の鶏というのは源氏の旗印が白で平氏が赤だったからだ。

平家物語、熊野、神倉という連想で寄り道してみたが、なかなか興味深い神社だった。

ここに、三徳山信仰の修験道場神社があるということは、平家一門の墓のあった中津にも影響を及ぼしていたと思われる。中津のお堂は山村には不釣合いなほどの大きな寺があったことがうかがわれたが、その理由が少しわかった気がする。

小鹿渓

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平家物語 その5

小鹿渓(平成20年5月3日)

「おじか」ではなく「おしか」と読むらしい。案内板にそう書いてある。知らなかった。

県道33号線、三朝へ出る中津集落の人たちの生命線だが、その中津の手前の渓谷が小鹿渓と呼ばれる。紅葉が有名だ。約4kmにわたる渓谷は国の名勝に指定されている。

渓谷はとても綺麗で、川の崖に沿う県道をのんびりと走り抜けるだけでも十分に自然を満喫できるが、やはりここは整備されている1kmほどの遊歩道を歩きたい。
巨岩奇岩が連なり、所々の淵は濃い青緑が美しい。紅葉の名所なので、秋には多くの観光客がやってくるという。確かに赤く染った木々の葉と渓流の対比は見事だろう。
初夏のこの季節もしっかりと芽吹いた緑が眼に鮮やかだ。四季を通じて楽しめると思われる。もっとも、冬は雪が深くて近寄れないだろうが。

川底まで少し降りて、ゆっくりと歩く。森林浴が気持ちいい。川の流れもさわやかだ。
遊歩道はよく整備されている。歩道沿いにはそれぞれ巨岩に付けられた名前などの看板もあり退屈しない。単なる遊歩道沿いのネーミングというだけでなく、上流の中津に平家落人伝説があるので、それなりの伝説のある岩もあるのかも知れないが、説明がないために不明だ。

道は途中に階段が多くアップダウンは大きい。距離は短いがそれなりに歩く覚悟は必要だ。
どうやら一番の見所は雄淵、雌淵という二段になった淵のようだ。エメラルドグリーの深い色の水をたたえている。

秋に観光客がどの程度なのかは不明だが、狭い道沿いには駐車場がほとんどないため、数十台で大混乱しそうだ。

県道は谷の崖を削って付けられている。昔はまともな道はなかっただろう。中津の集落は他との交流がほとんどなかったことが想像される。

安徳陵(中津安徳陵)

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平家物語 その5

安徳陵(中津安徳陵)(平成20年5月3日)

中津の村の入り口、平家一門の墓と道を隔てて反対側にお堂のような建物がある。建物を囲むように境内に水仙が植えられ今盛りに咲いている。近くには小さな山桜も花を添える。

狛犬がいるので、元は神仏混肴の寺と社があったということだ。
軒下に普賢堂と書かれた板が置かれている。閉められているが格子から中をのぞくと正面に白像に乗った普賢菩薩(ふげんぼさつ)が安置されていた。像高は50cm位。全高も1mはないと思われる。遠く暗いがこんな所にこんな像がと意外な感じさえ受ける美しい像だ。
壇前には密教法具も置かれている。お勤めが日常的に行なわれているようだ。
壁に穴が開いててもおかしくないような傷んだお堂一つ。これが今でも機能しているというのが驚きだ。

境内の一番端、それは道と区別つかないが、そこに「中津の大紅葉」というさりげない看板がある。町指定の銘木ということだ。隣の杉がかなり太いので、古くは大きな寺で伝統があったことを想像させる。
そして、その前の小道の反対に安徳陵(あんとく)があった。

全国に平家落人伝説とともに安徳天皇陵と称するものが沢山ある。そのいくつかは有名で、中には宮内庁の陵墓参考地に指定されている場所もあるが、ここは知る人もほとんどない伝承地だ。そのため、事前にかなり調べたが、場所が特定出来なかった。平家一門の墓の近くという情報だけで、見つけられるかどうか心配だったが、こんなに簡単に見つけられるとは思ってもいなかった。

周囲には何の案内もない。剥げた安徳陵の看板が落ちているのでようやくそれがそうだとわかる。小さな自然石の墓石の前に竹の花立、どう見ても道端にある一基の墓だ。ただ、墓石に何も彫られてないのが妙だが。
その背後は雑木と枯れ枝と夏草に覆われているが、巨石が見える。どうやら安徳陵はそれらしい。道端の墓石は遥拝所ということだろうか。

高く繁った雑草をかき分けて入る。朽ち果てて錆びた賽銭箱が隠れていた。少し寂しく悲しい。いくつかの巨石で庇状になっていて、左右も囲まれ、ちょっとした窟のようになっている。しかし、人の手で組上げたものではなく自然のようだ。
巨石で作られた窪みのような空間は祭祀を行うのに丁度良い。前にあるお堂の存在を考えると、磐座だったとするのが正しそうだ。少なくとも古墳とは思われない。

あくまでも伝説で、本当の墓ではないにしろ荒れ方が酷すぎる。あまりといえばあまりな有様だ。もちろん宮内庁とは関係がないので自由に近寄れるのは有難いのだが。

集落は絵に描いたような典型的な過疎の村だ。安徳陵を整備する余裕はなさそうだ。普賢堂の隣には本当に落ち武者が出てきそうな朽ち果てた中津荘という廃業した旅館がある。売り家の看板も地に落ちている。誰も買うとは思えない。
ここは間違いなく限界集落だろう。それを感じさせる出来事は次にも待っていた。

引き続き、二位尼の墓所を探して村の奥に進む。道端では今満開となった山桜迎えてくれる。その桜の花の向こうの山裾、森の奥に小さな社が見えるたため、手がかりを求めて足を伸ばしてみた。

残念ながら扁額の文字が綺麗に消えていて社名がわからない。もちろん説明板などはない。
倒れてもおかしくないようなかなり傷んだ拝殿があり、その後ろに回ってみると驚いたことに本殿がない。拝殿と本殿が分かれてないお堂なのかというとそうでもない。
礎石や土台がむき出しになっていて、明らかに本殿が建っていたことを示している。倒れた後に再建出来てないのだ。氏子の経済的な力の問題だろう。
いずれ建て直される具体的な予定があるのだろうか。失礼だが、そのうちに拝殿も倒れそうだ。最終的には小さな祠か神社跡だけになる可能性のほうが高いような気がする。しかも、そう遠くない日に。

結局、二位尼の墓はわからず仕舞いだった。どうやら平家一門の墓の東の山裾あたりにあるらしかったことが後に判明した。ただ、再訪する機会はない気がする。
神社の名前は今もわからない。地域名からすれば中津神社なのだろうが。


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