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平家物語 その5
平家一門の墓(中津平家一門の墓)(平成20年5月3日)
山陰は源平の合戦とあまり関係がないので歴史的な検証に耐えるような縁の地は少ない。しかし、平家の落人伝説は存在する。比較的知られている場所は鳥取県東部に集中するが少し遠いので今のところ訪れる予定はない。
倉吉(くらよし)から三朝温泉(みささ)へ。そこから県道33号線をひたすら進む。小鹿渓(おしか)から先は道は狭くなる。交通量は少ないがブラインドカーブの連続で地面には枯れ枝や枯葉などもあってスピードは禁物だ。渓流沿いを走る山道でトコトコゆっくり流すには清々しい気持ちの良い道だ。走りながらの森林浴が出来る。
渓谷を抜けると貯水池になりあたりが開ける。開けたといっても渓谷がなくなっただけで、川の両側から山が迫る狭い土地なのだが。そこにひっそりとあるのが中津(なかつ)という村だ。
この集落より先に地図上では道があるが、通り抜けても人の住む山村まで相当遠く、利用者がいるとは思えない。もちろん通ったことはないし、行ってみようという気にもならない。道が舗装されているかどうかも知らない。
小鹿渓は降雨量によっては通行止めになるが、その時でも何とか陸の孤島となり隔絶するのを免れるための道としての利用しかないのではないだろうか。
そんな、山間の村、平家の隠れ里として相応しい。
村の入り口の右手側に墓地があり、その一番奥の山裾に平家一門之墓の碑が建っている。
新しい。新しすぎる。
碑の裏には由来がある。要約すると、平清盛(たいらのきよもり)の庶子である平保道という人物が、一ノ谷の合戦の後、ここに安徳天皇(あんとく)と二位尼を守って落ち延びてきたということらしい。
そして、昭和32年、林道開発でここに墓を移したと、21代当主、平嘉人という人が昭和46年に記したことになっている。
碑のまわりには自然石が散乱しているので、それが古い平氏の墓石なのかと思って見たが、ここは新しく作られた墓地なので、そうでもないようだ。
碑文にあった、安徳天皇が一ノ谷の合戦の後に早々と平氏軍から離脱したという説は珍しい。
広く知られる安徳天皇生存伝説では壇ノ浦の合戦で源氏に敗れた後に平氏の残党に守られて密かに落ち延びたとされるのが普通だ。わずか八歳の安徳天皇を抱いて二位尼が入水したのは身代わりだったということなのだが、この場合説明に苦心するのは、本当の天皇と二位尼はどうやって戦場から脱出したのかということだ。その点、既に一ノ谷の合戦後に身代わりと入れ替わっていれば全く問題はない。意外だが合理的だ。盲点を突かれたような気がする。
平家一門之墓の前の墓地の中に小椋性を見つけた。一般に、山間の平家落人部落は木地師と関係が深いことは民俗学的に指摘されているが、やはりここもそのようだ。小椋性は木地師に多い。
今は農村だが、この山奥深い村は昔は木地師集落だったのだ。
木地師というのは木を削ってお椀やお盆などを作る職集団で、作られた白木のお椀などに漆を塗師が塗って漆器となる。更にその上に蒔絵師などが装飾を施す。完全に分担作業でそれぞれが専門職となっている。
平安前期、文徳天皇(もんとく)の後を継いだのは第一皇子の惟喬親王(これたか)ではなく第四皇子の惟仁親王(これひと)だった。惟喬親王の母は紀名虎(きのなとら)の娘の静子で一方の惟仁親王の母親は藤原良房(よしふさ)の娘の明子(あきらけいこ)。母親の後ろ盾が違う。右大臣で政治の中枢にいた良房に紀氏では争いにならない。そのために惟喬は涙を飲んだのだ。惟仁親王は9歳で即位して清和天皇(せいわ)となり、良房は外戚として政治の実権を掌握し藤原家繁栄を確実にする。
惟喬親王は清和天皇即位前から中央政権より遠ざけられ、その後若くして出家し隠居する。天皇の第一皇子ながら日の当たる場所に登場出来なかったのは残念だったろうが、暗殺されなかっただけでも運が良かったともいえる。
比叡山麓小野の里に隠棲した惟喬親王は釈迦四門出遊の故事に触発されて数人の伴を連れて東へ旅立った。そして、滋賀県愛知郡東小椋村、現在の東近江市の山奥に入って庵を結び経を読んで過ごしていたが、ある日、法華経の巻物を開く時に巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案し、椀や盆など作る轆轤の技法を里人に広め伝えたとされる。そのため、木地師の間には、祖は惟喬親王という伝説があり、彼らの多くは親王に従って来た公家の子孫または親王そのものの末裔と称していた。後胤説の一種だ。また、親王が隠棲した地にちなんで木地師は多くが小椋や小倉性を名乗った。
木地師と平家落人伝説が結びつくにはもうワンステップ必要だ。
木地師は材料の栃の木を伐りつくすと部落全体が集団で新しい山に移動する。里の人たちには、転々と移動すること彼らを平家の落人だと考える見方が生まれた。中には惟喬親王伝説が希薄な集団もあり、彼らは平家落人伝説を受け入れた。
平家物語を琵琶法師が語り歩き、落人伝説には安徳天皇が付いて回っていた。天皇や平氏の末裔と呼ばれることは木地師達も悪くは思わなかっただろうし、一種の優越感で受け入れていったという説が有力だ。
定住できず移動が宿命の木地氏らと里の住民に交流は生まれない。むしろ、土着の住民は他所者が入ってくることを嫌ったはずだ。お互いに争いもあっただろう。また奥深い山での生活も楽ではなかったはずだ。そんな彼らの精神的支えは専門技術職という自負であり、親王や天皇に連なる血統という誇りだったのは間違いない。
木地師たちは朝廷や藩から移住と山林伐採の特権を与えられていたが、その根拠は御落胤(ごらくいん)という言い伝えが大きい。現実的には御落胤説は先住の農村民達との争いを避けるのに役立っていたことになる。
墓地に墓石の他に円柱の塔のようなものが立っている。高さ1m余の土管を立ててその上に円錐の屋根を載せたようなものだ。見たことがないが、何だろうか。
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