同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2003

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那富乃夜神社

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○星の降る夜は・・・(星上山伝説を考察する) 那富乃夜神社 (平成15年9月7日)

星上寺の奥が那富乃夜神社(なふのや)。出雲国風土記の奈富乃社として記される神社だとされる。
祭神は星の神様である香香背男命(かがせおのみこと)と伝えられている。香香背男は天津甕星(あまつみかぼし)、天香香背男(あめのかがせお)とも呼ばれるらしい。

天津甕星の話は日本書紀の葦原中国平定の最後、いわゆる国譲り神話の後に付録のように語られる。実は今回調べるまで全く記憶になかった。
経津主神と武甕槌命は出雲を征した後、他の国津神だけでなく草木や石に至るまで皆平げたが星の神の香香背男だけは従えることが出来なかったので倭文神建葉槌命(しとりがみたけはづち)を遣って服させた。
また一書では経津主神、武甕槌神を葦原中国の平定に遣らせる時に天にいる天津甕星、別名天香香背男という邪神を除いてから降って葦原中国を平げさせて欲しいといった。このとき天津甕星を征する斎主を行う主を斎の大人といってこの神はいま東国の香取の地に鎮座すると書かれている。
斎の大人というのはよく理解できないが香取の神ということで香取神社に祀られている経津主神とされるのが一般的だ。何とも不思議で妙な話だ。

何故か日本には星や星座と関連した神話や説話が非常に少ない。七夕は有名だがこれは中国から入って来た話で日本古来のものではない。どうやら大和朝廷を中心とする古代日本では星への興味が薄かったようだ。星の説話に乏しいことは天体観測が盛んでなかったことを示すと考えられる。つまり天文学が発達してなかったといえる。このことは地図や海図を含む方位と暦法にとっては致命的だ。
天照大神は太陽神とされているので大和朝廷でも太陽信仰は盛んだった。もちろん地球は太陽の周りを回っているので太陽の運行を精密に観測できれば方位も正確な暦も作ることは可能だが古代の技術では困難なのだ。太陽は直接見にくく動きを正確に観察しにくい上にかなりの大きさがあるので位置を一点として把握することも難しい。天体観測には星の方が適している。

天体観測の技術に弱いと方位と位置の確定が難しい。これは目標の何もない外洋を自由に航行するのが難しいということだ。北極星で方位を知るだけでなく他の星座や星の動きの観測で現在の緯度と経度を確認して自分の位置を知って船の向かう方角を決めるといったことができないからだ。星の観察の出来ないものは目視できる島伝いでの航海しかできない。

天津甕星はよく分からない正体不明の神だ。葦原中国平定の段に記されていることから大和の勢力拡大に伴い星を崇めていた一族を征服したことをあわらすのではないかという説がある。大和朝廷を建てたのは朝鮮半島を渡ってきた北方騎馬民族だという説があるが彼らが南方系の外洋航海術を持つ一族を平定したことを暗示するのだろうか。

星の観測を続ければその動きから一年を知ることができる。暦を作ることができる。
古代日本には十分な暦を作る技術がなかったことは暦が中国からもたらされたことを日本書紀などがはっきり記していることで知れる。
日本は前史より農耕で生活し弥生時代から稲作を行っている。暦が不十分な状態でどうやって農作業の予定を立てたのだろう。田植え一つにしてもいつが時期なのかどうやって知っていたのだろう。
多分山川草木の四季の移り変わりを目印にしていたのではないだろうか。大陸では季節の変化が弱いというが日本は春夏秋冬がはっきり分かれている。それぞれの季節にそれぞれの草木の花々が咲くし木の葉も芽吹き紅葉もする。渡り鳥などの動物の行動も参考になるだろう。日本では四季の移ろいをそのまま暦として利用して来たのではないだろうか。そのために暦法が不十分でもやっていけたともいえる。

ここの本殿は神明造りでこの地方では珍しいらしい。確かに出雲地方は大社造りの社が多い。小さな社だと神明造りや流造が少なくなさそうだがどうなのだろう。あまり気にしたことがなかった。これから少し注意してみようと思う。
実はここの祭神は経津主神、武甕槌神とする説もある。しかし、これでは天津甕星を征した神になり逆だ。また妙見、八幡とする古書もあるらしい。天津甕星は星の神で北極星の妙見菩薩と同一ともされるため妙見という説が出てきてもおかしくはないが八幡とのつながりはどこにあるのか。
地元では天神さんとも言われるらしいがこれは菅原道真ではなく天の神という一般名のことだろう。
さらに天津甕星に関しても金星のこととされる説は有力だし、葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方と同一神とされることもある。
これは全く収拾がつかない感じだ。祭神に関しては理解の範囲を超えている。

神社の奥に進むみ雑木林を抜けると展望台がある。中海安来方面から島根半島や大山まで見渡せて眺望は抜群だ。
星上山の頂上へすぐに行けるはずなので道を探すが何故か見つけることは出来なかった。

神社の後側の雑木林をしばらく下ったところに池というか小さな水溜りがある。これが星の池だろうか。神聖な池で三つあったうちの一つが残っているらしい。
観音菩薩が出てきた伝説の池なのか。おせじにもきれいとはいえないが。

山の頂上に出た明かりの伝説について、月が池に反射し霊火が出ることがあると科学者が解明したとする文章を見つけたがどのような現象なのだろう。
隠岐島島前の西ノ島にある焼火神社(たくひ)にも大しけの時神の導きの光明が現れると言う故事がある。山頂の不思議な発光現象と考えられる伝説は珍しくないということだろうか。
隕石の落下を見たのではないかという説もあるが少なくともクレーターはなさそうだ。

ここの寺と神社の創建は風土記に記されることから明らかに神社が先と考えられる。普通山の上に造られる古い神社は磐座信仰から始まることが多い。しかしここには依代とされるべきものが見当たらない。池はあるが池が依代や御神体となることは一般的でない。
神社の起源も謎に包まれている。

星上寺

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○星の降る夜は・・・(星上山伝説を考察する) 星上寺 (平成15年9月7日)

平成15年9月7日、広瀬から国道432号線で松江に向かう途中の分かれ道を星上山へ走る。星上山スターパークというレジャー施設へのアクセス道路なのだがかなり狭い山道だ。大きなRV車同士のすれ違いは難しい。1km余り登ると山頂近くの駐車場に着く。

星上山とはロマンチックな名前なので以前から気になっていた。星の神が天下られたところなのでそう呼ばれるとされる。古老によれば近隣住民は星からやって来られた神の子孫なのだという。ここらの氏子はどうやら宇宙人の子孫らしい。

星から来た神といえば京都の鞍馬寺が思いつく。鞍馬寺に祀られている魔王尊は650万年前金星から地球に降り立ったとされている。650万年前とは想像も出来ないがどうやら進化上猿と人類の分岐点近くで猿人が直立歩行を開始した頃らしい。魔王尊は救うべき人間が登場するまで進化をじっと眺めてきたことになる。それとも魔王尊の助けでホモサピエンスが誕生したのか。

スターパークの駐車場から更に数百メートル進むと雑木林が開けた場所に出る。そこに星上寺と那富乃夜神社が並んで建っている。山の空き地に建つお堂といえばわかりやすい。そこらには雑草が生えているし他には堂宇がないため村の鎮守といった風情だ。建物自体は寒村のお堂よりも規模はあるが残念ながら立派な感じはしない。

手前にあるのが星上寺。由来によると、聖武天皇の天平2年(730)、夜中に海で漁の最中しけに遭った漁師が仏に祈ったところ山の頂上に星の光が輝き暗闇を照らして助かった。翌日山頂付近の池に十一面観音菩薩の現れているのを見つけて寺を建立し星上寺としたということだ。
十一面観音は行基作という話も伝わっている。だから聖武天皇の時代になるわけだ。ただし全国各地の行基作と伝えられる仏像はほぼ後世の作なので真偽の程は不明だ。
また安徳山星上寺という山号を持っている。安徳天皇が病気のときここの観音菩薩に祈願し全快されたので勅命で安徳山星上寺となったという。

安徳天皇の縁を持つ寺は少ない。幼帝であったし壇ノ浦で平氏一門と亡くなったので縁起に関連する機会が乏しいからだ。あるのは平氏の落人伝説とともに実は密かに落ち延びてかくまわれていたという伝説がほとんどだ。
ひょっとするとこの近辺には平家部落伝説でもあったのかも知れない。

この寺は出雲三十三観音霊場の第十七番札所になっている。白衣と菅笠の老夫婦がタクシーでやって来た。スターパークからは道が良くないが寺の直前まで入ってこることが出来る。
本堂前で経をあげて帰られた。ここは無住のはずだがわざわざ足を運んだのだろう。気持ちに良い光景に出会った。去ってゆく御夫婦に心の中で手を合わせた。

武内神社

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○神社紀行 武内神社 (平成15年8月26日)

松江まで戻り国道9号線を東へ向かう。くにびき大橋はから4-5km行くと右手に武内神社がある。
交通安全の神様として有名らしく松江周辺では交通安全武内神社のステッカーを貼った車を良く見かける。

参道正面に駐車場があるのでそこへ停める。大きな鳥居をくぐるときれいに整備された石畳の参道になる。続いて石段を登ると正面に拝殿が建っている。
主祭神は八幡神とのことだ。武内神社という名前から武内宿禰が祀ってあるのかと思っていたので来たのだが予想外だった。
大きな神社で武内宿禰が主祭神となっている代表は鳥取にある因幡一宮の宇部神社だが全国的に多くない。そのためここが数少ない武内宿禰の神社で何か興味ある由来があるのではないかと期待していたがどうやら違ったようだ。

大きな規模の神社だが社殿の形式も平凡な流造の本殿で特に変わったところはない。
八幡神社ということで思惑が外れた。何の予備知識もなく名前を知っていて道沿いにあるので場所も知っていたというだけで立ち寄っただけなので見るべきポイントもしぼれていない。
なんとなく一通り散策しただけで帰ることになってしまった。しかし、もう少しきちんと観察しておけばよかった。

後日、文化財の案内で確認した。石清水八幡宮を勧請し出雲最古の八幡とされる。そして境内の正面が平濱八幡宮と呼ばれる神社で向かって左にあるのが武内神社とのことだ。どうやら武内神社は平濱八幡宮の境内社の立場らしい。それなのに何故武内神社と呼ばれるのか。
不思議な神社だ。是非再訪しなければ。

猪目洞窟

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○風土記を旅する 猪目洞窟 (平成15年8月26日)

出雲大社の駐車場横から大社と神楽殿に挟まれた道を北へ向かう。一応県道23号斐川一畑大社線だが鬱蒼とした山の中の林道だ。途中の分岐を右にとって島根半島の北岸へと進む。海に出たところが猪目という港町だ。

出雲国風土記によれば島根半島に脳の礒(なづきのいそ)という洞窟があり、夢でその礒の岩窟のあたりに行くと必ず死ぬため、黄泉の坂とか黄泉の穴と呼ばれると記されている。その洞窟とされるものがこのあたりにあるはずなのだ。
伝説以外に猪目洞窟からは古代の生活をうかがわせる遺物が発見されていて考古学的にも重要な史跡だ。

海辺まで着いてはみたものの寂しい寒村で案内など何もない。T字路にぶつかってどちらへ行けばいいのか見当もつかない。しばらく呆然としていると通りかかった犬の散歩中のおじさんが話しかけて来た。猪目洞窟を探していることを伝えると左に行くとすぐあるとのこと。

洞窟への入り口には一応解説板も立てられているが旅行客などは当然誰もいない。
小道を下ると海に向かって巨大な洞窟が口を開けている。岩がえぐれたと言うより大きな平べったい岩盤が斜めに倒れてひさし状になり洞窟になっているように見える。
そして意外なことにそこは船置き場となっていた。小船や漁具が雑然と置かれている。
奥に向かうと急速に天井は低くなる。洞窟内には小さな祠が祀ってあり、さらに石柱が立てられている。いわれは不明だ。
地面は濡れていてじっとりしているので多少の薄気味悪さは感じるがそれは単に一人ぽっちの不安に過ぎないようだ。
黄泉の入り口とされているところへ一人で来るのは少し勇気が必要だったが来て見れば船置き場。ホッとするやらがっかりするや。

道に戻ると先ほどのおじさんに再び出会った。柴系の犬はバイクが珍しそうだ。
「ここは何にもないけんな。」
おじさんの話によると船置き場として洞窟を使おうと整備を始めたら偶然遺跡が出たらしい。しかし、他に船置き場を作る場所もないために発掘の後は当初の目的通り船置き場となって今も使われているとのことだ。
「荒神谷や加茂岩倉が有名になってから時々ここにも人が来るようになったけど、何にもないけえなあ。気の毒でなあ。」
本当に情けなそうだった。でもそんなに気にしなくてもいい。観光案内にも載ってないここにやって来るのはそれなりに変わり者だから。

解説によると、昭和23年、漁港の修築工事に際して堆積物を取り除いた時に人骨10数体と多数の遺物が出土した。ゴホウラ貝の腕輪をした男性の骨、弥生後期の甕形土器片、丹塗りの高杯、丸木船の残片などが発見され、弥生時代から古墳時代にかけての生活様式を知る上で貴重な資料であり、遺物包含層は昭和32年7月27日に国指定史跡となった。
発掘はおじさんが中学生の頃で学者も沢山来て一時ずいぶん賑やかだったという。

稲佐の浜

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○大国主命の舞台 その1 稲佐の浜 (平成15年8月26日)

出雲大社を通り過ぎて西へ進むと海岸にぶつかる。白い砂浜が広がり沖に屏風岩が見えている。ここが記紀においては国譲り神話の舞台であり、一方風土記によれば国引き神話の舞台となる。そしてまた神在月の神迎え神事の場でもある稲佐の浜だ。

これほど重要な地であるのも関わらず今まで通り過ぎるだけで実際に砂浜に立ったことは一度もなかった。
海水浴場なのだが8月も終わりに近いし暑さもそれ程でなく曇った天気ということもあって家族連れがちらほらといるだけで人気(ひとけ)は少ない。

今回は一応国譲りを偲ぶ訪問ということにしておく。

日本書紀によれば天照大神は息子の忍穂耳尊に地上の国を治めさせるにあたり、地上の国が騒がしいため、出雲国に国譲りを迫る使者として武甕槌神と経津主神を派遣する。この使者と大国主命が対峙したのが稲佐の浜とされる。
古事記では武甕槌神は剣を波の上に逆さに立て切っ先にあぐらをかいて座り国譲りを迫る。実に勇ましく描かれ有名な場面だ。
大国主命と息子の事代主神はあっさりと承諾するがもう一人の息子である建御名方神は武甕槌神に力比べを挑み敗れて信州の諏訪に逃げ込み、以後そこに隠れて外へ出ないことで許され、国譲りは終了する。

国譲り神話は出雲勢力が大和の軍門に下ったことを意味しているといわれることが多い。その舞台の地に日本全国八百万の神が一年に一度出向いてくるという神迎え神事が行われるのは何か因縁を感じる。

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