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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2003

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杵築往還

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○歴史道 杵築往還 (平成15年8月26日)

天候不順ですっきりしない日が続く。平日の真ん中に一日休みをもらっても少しが困るが夏期休暇を取れということなので休ませてもらった。
平成15年8月26日。曇天の中半日ツーリングに出発。雨の降る心配はなさそうだ。

松江から国道431号線で宍道湖を左手に見ながら西へ走り平田市へ入る。
市の南、田圃脇の道端に杵築往還(きつきおうかん)の石碑がひっそりと立っていた。市内で国道から離れて少し迷ったおかげで偶然見つけられたものだ。もう一度行けるかどうか全く自信がない。

杵築往還の存在を知らなかったので帰ってから少々調べてみた。
江戸から昭和初期まで松江と出雲大社を結んだ主要街道で松江から平田までは船で来てそこからは武志、稲岡、高岡、里方、平野、常松、入南、鑓ヶ崎、修理免を経て杵築に至るという。地図で確認すると国道431号線と県道161号斐川出雲大社線の間を通っているようだ。

出雲大社への街道がどうして杵築往還なのか。
現在の出雲大社も出雲大社のある大社町も昭和の新しい名称で古くは杵築という。出雲大社は杵築神社とか杵築大社と呼ばれていたのだ。そのため杵築往還と呼ばれる。
今では出雲と言えば出雲市や出雲大社を連想しその周辺地域を指すようだがこれも昭和に市の名前が付けられてからだ。律令制から江戸時代の出雲国は現在の島根県の東半分。さらに古代の出雲はもっと広い範囲を指していて中心地は松江の南、八雲風土記の丘あたりになる。

島根原子力館

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○道草 島根原子力館 (平成15年7月22日)

松江まで出た後県道37号松江鹿島美保関線を走り佐太神社を通り過ぎて鹿島町へ向かう。山陰、特に宍道湖、中海周辺で鹿島町と言えば中国電力の島根原子力発電所を誰もが思い浮かべる。原発の町だ。

県道から右折して山の上にある原子力館へ登って行く。途中には広大なグラウンドが出現。野球場、テニスコートなどあり照明設備も備わって公園も併設されている。深田運動公園というらしい。町の規模に不釣合いな総合運動公園は中電の寄付金で作られたのは疑う余地がない。貧乏な町を札束で思うがままに従わせているようでどうにも腹立たしい。原発そのものへの賛否の問題ではなくお金にものをいわせるやり方に納得できないだけなのだが。

運動公園を過ぎると広い門があり警備員が立っている。その前でバイクを止めた途端に警備員が二人駆け寄ってきて「ここは立ち入り禁止です。」と高圧的な態度で威嚇する。
門が鉄製の扉で閉じられているので一般人が入れないことは見ればわかる。原子力館がまだ上なのかどうか聞きたかっただけなのだ。
再び走り出してからもこちらをじっと見ている。もう一人は何やらメモしているようだ。どうせナンバーでも控えているのだろう。
それにしてもちょっと立ち止まっただけでこの扱いは何だ。

道を登りきると原子力館に到着。駐車場から発電所が遠くに見下ろせる。入り江となった海岸の浜を全て占める巨大プラントが建っている。多くは無機質な何の飾りもないコンクリートの四角い箱のようなビルだ。
発電所の両側は崖でさえぎられていて道はない。完全に隔離された空間になっている。先ほどのゲートといいここまで人を近づけないようにしているのは異様だ。まるで世界制服を狙う悪の秘密結社の基地のようだ。
原発は安全だとどんなに言い張ろうとこの警備体制を見れば何か隠しているように思われても仕方ないだろう。

どことなく胡散臭さを感じつつ入館をする。入館料は無料だ。気楽に来てもらえることをアピールしているのだろうがやはりかえって何か後ろめたいところがあるので料金を取ってないのではないかと勘ぐってしまう。
そんな若干の不信感を持ちつつ回る。しかし展示は原子炉や放射線なども勉強が出来るようになっていてしっかりしている。原子炉内の模型などはなかなか興味深い。

二階には子供の遊戯道具と発電と電気をテーマのちょっとしたゲーム機が置いてある娯楽スペースになっている。子供連れが多い。館内には休憩所もあるしそこで弁当を食べたりも出来るので家族で来るとお金をかけずに半日以上過ごせる。近隣には便利な場所だ。

外へ出ると原発見学の周遊バスが出るのでどうかと係員に誘われる。1時間はかかるといわれたので遠慮したが後から行っておけばよかったと少し後悔した。

もう一度はるかに聳える原発施設を眺める。
素盞嗚尊は荒れすさぶ神。
母の伊邪那美命が亡くなったとき激しく泣き叫びその声で、古事記では山は枯山となり海は干からび、日本書紀では多くの人々が死んだと記される。さらに高天原を訪れるときには山川国土全土が鳴動したとされる。
高天原では田圃の畦を壊し、溝を埋め、斎場を汚物で汚し、機織(はたおり)場に生きたまま皮を剥いだ馬を投げ入れるなどの悪行三昧で結局下界へ追放になって出雲国へ下される。
一方、地上では八岐大蛇を退治したり木々や穀物の種子を人々に与えたりし豊饒をもたらす神として表される。
電力を供給し市民に豊かで快適な生活を与えるが、一度大事故になればまさしく山の木々は枯れ海も干上がる事態を引き起こすであろう原発。
原発は現代の出雲に降り立った素盞嗚尊かも知れない。

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須我神社

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○素盞嗚尊の足跡 その1 須我神社 (平成15年7月22日)

県道48号阿毘縁宮沢線をさらに中国山地へ向かい県道108号線で県境を越えて横田町へ入る。一部に狭い道が残るが総じて快適なツーリング道路だ。さらに大仁広域農道を使って松江方面へ快走し県道24号松江木次線に出る。数個の峠を越えるアップダウンに適度なワインディングで景色は今ひとつだが楽しい道だった。

県道を北に走っていると大きな石の鳥居が見えて来る。そこから旧道に入ればすぐに須我神社がある。
思ったよりも小さな社域で少し意外だ。出雲大社ほどではないにしろ有名な伝説の社なのでかなりの規模を想像していた。
日本初之宮、和歌発生の地の遺跡の碑が参道石段脇に誇らしげに立っているのが目につく。

古事記によると、あまたの乱暴狼藉によって高天原を追放された素盞嗚尊は八岐大蛇を退治して生贄となっていた奇稲田姫を娶りこの地へやって来た。そして、「この地に来て我が心、すがすがし。」と言って宮を建て、さらに「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を」と歌を詠んだ。
すがすがしいと言ったことからここを須我と呼ぶようになり、建てた宮が須我神社の起源であるという。
このことから日本で初めての宮とされさらに和歌発生の地とされるのだ。

宮の伝説はともかく和歌は出来すぎている。内容は陳腐だが形式が完成しすぎているのだ。万葉集などの研究から和歌の五七五七七の体裁が確立するのはかなり時代が下ってからなのがわかっている。かなり後世に創作された話のようだ。

石段を登ると大きな注連縄を飾った隋神門があり広々とした境内になる。さらに石段があり高くなっていてもう一段境内があり、そこに本殿が建つ。本殿は立派な大社造り。
本殿の向かって右手に荒神社、依代と思われる岩、さらに小さな社などが並んでいる。

どうやら旅行客と思われる御老人が帰るところにすれ違った。他には人気(ひとけ)がない。社務所も静かだ。実は素盞嗚尊と奇稲田姫が新居を構えたとされる神社がもう一つある。松江の八重垣神社で今ではそちらのほうが有名なようだ。鏡の池での結婚占いなど縁結びの神社として圧倒的に若い女性に人気がある。
こちらは少し寂しい。須我神社のほうが由緒は正しいというのに。

印賀宝篋印塔

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○文化財点描(1) 印賀宝篋印塔 (平成15年7月22日)

平成15年7月22日、国道180号線から県道48号阿毘縁宮沢線に入り4km程で案内板が現れる。少し迷うが畑の中の道を進み車を停められる場所に着く。そこから小高い丘に向かって林の中を歩いてゆく。小道は枯葉が折り重なって積もり人の歩いた跡がない。かなり寂しい。旅行客は来ないのだろう。本当でここでよいのか少し不安になりながら登ると丘の上に覆屋がありそこに石塔がある。
雨露をしのげるように屋根が作られているとは思いのほか大切にされている。覆屋は明らかに最近整備されたものだ。県指定の文化財だけのことはある。

宝篋印塔とは中に宝篋印陀羅尼を納めたことに由来する。この陀羅尼を誦すると祖先も現世も皆こぞって救われるというまことにありがたい呪だということだ。木製の塔には実際に陀羅尼が納められたこともあるが、ここのように石製だと中には何も入らないだろう。それとも中は空洞になっているのか。
一般に宝篋印塔というのは独特な形をしていてるものを全て指し陀羅尼とは無関係に供養塔として用いられることが多い。塔の一形式を表す名称として使われている。

宝篋印塔という形が珍しいというのではなく、願文がわかるのが資料的な価値が高いということらしい。

塔の保存状態は非常に良い。箱型になった塔身の角なども崩れることなくしっかりと残っていている。
周りは雑木林で薄暗い。丘の向こうには木々の間に古市の部落が見えている。
そして何もない。寺の跡にでも建っているのかと思っていたが純粋に塔だけのようだ。訪れる人がほとんどいないようだと想像したがその理由がわかった。これだけしかないのでは人を呼べない。
薮蚊がひどいので早々に退散する。

母塚山

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その1 母塚山 (平成15年6月21日)

国道180号線を米子から南下して7kmほどのところに福成という場所がありそこに母塚山(はつかさん)への案内板がある。あまり大きなものではないし古ぼけていて注意しないと見過ごしててしまう。ここが伊邪那美命御陵の地元伝承があることを偶然知って興味を持ち訪ねてみることにした。

平成15年6月21日。数日前に台風が通り過ぎ晴れ間が広がっている。

古事記によれば「其の神避りし伊邪那美神は、出雲国と伯岐国との堺の比婆の山に葬りき」とある。要するに出雲と伯耆の国の境の比婆山に葬ったということだ。日本書紀では一書によると今の三重県熊野市有馬の花窟ということになっている。全然違う場所なのだが神話の話なのでこんなものだろう。
記紀では出雲と紀州熊野が黄泉の概念で強く結び付けられているという説は結構有名で、埋葬されたとされる地が出雲と熊野の両方にあることがその根拠の一つになっている。

登山口とされる場所から入ってゆくと住宅地を抜けてすぐに道は狭い林道となる。舗装はされているが一車線道路で対向車とはすれ違い出来るかどうか。
1.5kmほど山道を登ると行き止まりになる。鉄塔とコンクリートの小屋があり電話の中継基地のようだ。脇をさらに道らしい踏みしめられた跡があるが夏草におおわれた獣道で入って行く気にはなれない。

少し戻ると展望広場が作られている。しかし特に何もない。ここは200数十メートルの山だが大山が正面に聳えて見晴らしは抜群だ。大変に景色は良くて気持ちはいいのだが絶景以外には興味を引くものがない。古代を感じさせるものが皆無なのだ。
古墳があるとは思ってなかったが磐座ぐらいはあるかと少し期待していた。まさかここまで何も古跡がないとは。

全国各地にある伊邪那美命陵伝承地のなかでも賛同者が最も少ない部類だろう。唯一の拠り所は出雲と伯耆の国境にあるということだけだ。逆に考えれば場所が合うので誰かが御陵と言い始めたと考えるのが自然だ。母塚山という字も後からあてたものだろう。読み方からすれば元は「二十日山」だろうか。

神話の世界の伊邪那美御陵が本当にあるとはもちろん思っていない。ただ古事記に記された比婆山のモデルとなった場所はあるのではないだろうか。
一般的には広島県民の森のある中国山地の比婆山がそうだと言われている。しかし場所が島根と広島の県境にあたり旧出雲と備後の境になる。出雲と伯耆の境からはかなり離れているのだ。多分本当にぴったりの地がないから様々な説や伝承があるのだろう。
ここ母塚山に来て他の伝承地への興味がわいた。

それにしてもここは一応公園ということになっているしそれなりに広場として整備されているが、ここに来て憩いの時間を過ごす人がいるのだろうか。

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