<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
	<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
		<channel>
			<title>同行二輪</title>
			<description>神社仏閣、名所旧跡をバイクで訪ね歩く、神仏混肴と古代史好きの中年おやじの紀行文です。
主に山陰を中心に行き当たりばったりで走っています。訪問地の感想と印象とそしてほんの少しの考察と。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>同行二輪</title>
			<url>https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif</url>
			<description>神社仏閣、名所旧跡をバイクで訪ね歩く、神仏混肴と古代史好きの中年おやじの紀行文です。
主に山陰を中心に行き当たりばったりで走っています。訪問地の感想と印象とそしてほんの少しの考察と。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011</link>
		</image>
		<item>
			<title>黄泉比良坂</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/29/53378829/img_0?1362568464&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
伊邪那美命と比婆山　その１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄泉比良坂（平成20年8月3日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊邪那美命（いざなみ）に関した神跡を廻っていて、しかも出雲地方となれば、ここを抜きには出来ないだろうということで揖屋（いや）の黄泉比良坂（よもつひらさか）を訪れた。&lt;br /&gt;
正直なところ、以前に来たことがあり、その時に受けた印象がとても弱くがっかりしたので再訪は考えていなかった。そのため眼と鼻の先の揖屋神社に寄った時も、ここは敢えて素通りしたのだ。&lt;br /&gt;
しかし、あまりにも有名な場所なので一度はこのぶらり周遊でも触れなければと思ったので今回の訪問になった。まあ、別にそこまで考慮する必要もなかったのだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国道9号線の松江と安来の間の東出雲町に揖屋という場所がある。揖屋小学校の東数百メートルの道路沿いに、黄泉比良坂、あるいは伊賦夜坂（いぶやさか）の看板があり、それに従ってJR山陰本線下をくぐる細い道を突き当たりると駐車場がある。国道から1kmあまりの場所だが、周囲には何もなく農道の突き当たりのような場所なので、余所者は看板を頼りに進む以外に辿り着くことは出来ないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄泉比良坂は、あの世とこの世、黄泉と現世、死者の国と生者の国の境にある坂とされる。&lt;br /&gt;
例によって日本書紀と古事記で記述に違いがあるが、黄泉の国を訪問した伊邪那岐命（いざなぎ）が伊邪那美命（いざなみ）と雷神に追われて逃げ帰ったのが黄泉比良坂だ（2006年、伊邪那美命と比婆山その６、揖屋神社）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
駐車場で驚いた。人が来ている。車が2台。しかも、レンタカーだ。以前、もう十年以上前だが、訪れた時は誰もいなかった。そう言えば道も途中からは畦道にようだったのに整備されえいる。随分と変ったものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神蹟の手前には二本の石柱に注連縄が掛けられて、一種の鳥居のようになっている。多分、結界の意味なのだろう。何しろ黄泉の国との境だ。霊的に閉じておかないと大変なことになる。まあ、そこ以外は開けっぴろげな山裾の雑木林で前は駐車場なのだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巨石が右奥にある。巨石といっても人の背を越える程度で圧倒されるような大きさではない。その石の向かって左にもう少し小さな石があり、右手側は少し空いてやはり別の石がある。記紀では伊邪那岐命は黄泉から逃げ帰った時に、黄泉比良坂に岩を置いて黄泉への道を塞ぎ、そこをこの世と隔てる境界にしたとされる。それを千引石（ちびきいわ）と呼ぶのだが、多分、中央の一番大きなのがそうなのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
千引石の前で熱心に、手で盛んに九字らしきものを切りながら、何か呪文か祝詞か祭文か唱えて、時々石に左手で触れている中年女性がいる。この地か千引石か、何か霊的なものを感じているだろう。&lt;br /&gt;
千引石の右隣は人が通れる。別に道を塞ぐように石が置かれているわけでも何でもない。左も歩いて行ける。単に山裾の狭い荒地に石をいくつか置いただけだのものだ。黄泉へ通じる道が物理的に閉じられていないために、霊的に封鎖する儀式でもやっている女性なのかも知れない。&lt;br /&gt;
少し離れて御主人と思われる男性がぼんやりとそれを眺めている。特に邪気は感じていないようだ。個人的にも何も感じるものはない。男は超自然的なものを感じる能力が低いからではないと思う。何故なら、ここが黄泉比良坂のされて整備されたのは最近の事だからだ。記憶に間違いがなければ、昭和の産物のはずだ。そもそも、何もないところに作られた神蹟なので、ここで何かを感じるほうがどうかしている。&lt;br /&gt;
本当の黄泉比良坂はどこか人目の付かない場所にひっそりとあるに違いない。しっかりと千引石が道を塞いで。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古事記によると、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)だと記されている。出雲国風土記に伊布夜社として載るのが、近くの揖屋神社に比定されているために、この近くに伊賦夜坂があったはずだというのが、ここが黄泉比良坂にされた根拠だ。しかし、具体的にこの場所と決定された経緯は全く不明だ。根拠はない。&lt;br /&gt;
出雲国風土記には伊布夜、あるいは伊布、伊夜などの地名は見えない。しかし、社の名前として伊布夜社はいくつか出てくる。そこからは、伊布夜というのが固有名詞というより一般的な名前だったことを思わせる。そうなら、揖屋の地名が出来たのは意外に古くないだろう。その点からもここが伊賦夜坂とするのも少し無理があるかも知れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、書紀では泉津平坂と記されるが、それは特定の場所ではなく、死に臨んで息絶える間際のことを言うとある。結構現実的な説明だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広場に桃の木が植えてある。古来より桃は邪気を祓うとされた。&lt;br /&gt;
伊邪那岐命は逃げる時に色々なものを投げつけて黄泉の軍団を撃退しているが、その内の一つに桃がある。それにちなんで植えてあるのだ。あの鬼退治の桃太郎も悪を打ち払う桃の霊力から名前が取られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄泉比良坂というのだが、坂がない。それどころか道もない。正確には、道はあるのだが、千引石の場所にはない。少し離れた場所に人がすれ違える程度の細い山道がある。近くを通る国道は新しい道なので、もしかすると古代の旧道がこの道なのだろうか。場所的には極近いのだが現在の道と旧道が全く違っていることはよくある。西南戦争の激戦地、田原坂が非常に細い狭道だったことを思い出した。&lt;br /&gt;
この道の途中までの少し上り坂が黄泉比良坂で、その先の下りが伊賦夜坂だという説明もある。あれこれ想像しながら山道を進んでいると、何と、向こう側から若いアベックが歩いて来た。黄泉の国からやって来たことになる。&lt;br /&gt;
最近は古代史や遺跡に興味のある人が多いようだ。ここは古代史ファンには良く知られている。ここに入る場所がわかりにくくて西側からやって来たのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良く考えれば、これがが古代の道のはずはない。旧道の通る揖屋の町は国道を挟んで北にある。この道を通っても行けないのだ。新しい住宅団地には行けるが。&lt;br /&gt;
どう考えても単なる山道のようだ。&lt;br /&gt;
国道9号線にある黄泉比良坂の看板のある場所の方が、よほど坂になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
せっかくやって来たので、いろいろと想像を掻き立てるものがないかと思い、うろうろして空想してみるが、どうにも駄目だ。前回は興味を惹かれなかったが、あれから随分と経ち、様々な場所を巡って来たので、感じ方も変るかと思っていたのだが、やはり、特にそそられるものはなかった。所詮は新しいモニュメントに過ぎないことを知っているからだろうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53378829.html</link>
			<pubDate>Wed, 06 Mar 2013 20:14:24 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>楊瀧山乗光寺</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/90/53372490/img_0?1362304820&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
平家物語　その６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
楊瀧山乗光寺（平成20年8月3日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成20年8月3日、真夏の暑さの中、乗光寺を目指す。&lt;br /&gt;
安来と松江の中間あたり、国道9号線から分かれて県道324号上意東揖屋線を南に向かうと、3-4kmで道の右手に現れる。県道は主要道ではないので土地鑑がないとなかなか入れないかも知れない。黄泉の国の入り口とされる黄泉比良坂（よもつひらさか）の近くにある道だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんど山裾に突き当たったような谷の山間にある田舎にひっそりとたたずむ寺だ。周囲には民家がちらほらとあるだけで、他には水田しか見えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道路から少し高い位置にある山門を見上げると、その向こうに銀杏の巨木が聳えるのが印象的だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
境内に入ると、お盆が近く、どうやら法事のようで大変に忙しそうだ。本堂に大勢人が集まっているのが分かる。こんな時に檀家でもない物見遊山がお邪魔してよいのか迷ったが、厚かましく庭園拝観をお願いすると、奥さんが快く受けて下さった。&lt;br /&gt;
「お盆前で手入れもしてませんし、刈り込んだ後ですから植木が醜くなってまして。こんなですがどうぞ。」&lt;br /&gt;
相手が出来ない事を申し訳なさそうにしておられて、かえってこちらが恐縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
庫裏へ上がらせていただき、縁側に腰を下ろして裏の庭園を眺める。&lt;br /&gt;
寺が山裾にあるため、裏山の斜面を利用して作庭してある枯山水の庭だ。正面に石組みとサツキと思われる刈り込みで構成された小高い部分が作ってある。全体で蓬莱山か須弥山を表わしているのだろうか。その左右に植木がいくつかあるだけで、思ったよりも小さな庭園だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山陰の名園とされるので、もう少し華麗で規模の大きな庭を想像していたのだが、その点では少し期待外れだった。しかし、がっかりしたという訳ではない。確かに京都などの風流な庭と比べると見劣りはするが、寺だけでなく周囲の風景を含めて環境がとてもゆったりとした長閑な感じで、実に落ち着いた雰囲気のある庭なのだ。気持ちが落ち着く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この庭は悪七兵衛景清（あくしちべいかげきよ）の築庭という伝説を持つ。景清は月山富田城（がっさんとだ）を作ったともいわれている（2007年、平家物語、その３）。怪力無双の武将なので城は似合うが、築庭はイメージがつながらない。&lt;br /&gt;
城のある広瀬は寺の前の山を越えた所だ。この近い距離関係が景清伝説の元になっているような気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乗光寺そのものは開基創立の年代は明らかではないが、平安末期には、南の山上にある星上寺と関係して多くの末寺を持った真言密教の道場となっていたらしい。&lt;br /&gt;
星上寺は星の神が天降ったとされる山だが、その星上寺の山号は安徳山と称される（2003年、星の降る夜は・・・、安徳山星上寺）。安徳天皇の病気平癒を祈願したところ全快されたので勅命で安徳山星上寺となったという伝説を持つ。&lt;br /&gt;
安徳天皇といえば平清盛の娘、建礼門院の産んだ天皇で、平氏一族と共に最後は壇の浦の海の藻屑となった。平家落人伝説の主人公でもある。&lt;br /&gt;
この近くに落人伝説は聞かないが、平氏の奉じた安徳天皇の名を持つ星上寺と、その山の北の麓の乗光寺と東の麓の月山富田城に残る平景清の伝説。これが無関係だとは思われない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
偶然にしては平氏関係の伝説が集まっているのだが、それがどの様な経緯で発生したのかは、今のところさっぱり見当も付かない。&lt;br /&gt;
本堂前にある樹齢数百年の大銀杏も、寺の歴史の古さを示すだけで他は何も語ってくれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寺を後にしてから、寸志を忘れたのに気がついた。忙しい中、親切にしていただいたのに、なんという失態。再訪の折には寸志を忘れないように肝に銘じた。&lt;br /&gt;
花の季節で法事の忙しくない時にのんびりと訪れたい寺だ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53372490.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Mar 2013 19:00:20 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>熊野神社（比婆山熊野神社）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/07/53361907/img_0?1361878903&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
伊邪那美命と比婆山　その９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野神社（比婆山熊野神社）（平成20年8月2日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国道180号線からJR比婆山駅の近くの県道254号線で入り、どん詰まりのような山の奥深い場所に背後に比婆山系を従えるように大鳥居が建つ。実際は道はそのまま続いて広島県民の森へ続く県道256号比婆山県民の森線につながる舗装林道となっているらしい。あちこちに林間公園が整備されるのは、トレッキングやハイキング好きにはうれしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大鳥居には「比婆大社」の額。鳥居の向こうに聳える三角形の山頂が比婆山御陵で、この神社が御陵の遥拝所の役目を果たしているはずだ。そう思っていたのだが、後で地図を眺めると、どうも後ろの山は竜王山で御陵を仰ぎ見るのはこの位置では難しそうだ。&lt;br /&gt;
遥拝所と言うからには眺められなければならない気がするのだが、直接拝めない遥拝所は多い。以前はそれを不思議に思っていたが、昔の人は遠くから仰ぎ見る場合でも、直接だと畏れ多いと感じていたため、わざと見えない場所を遥拝所にしたのではないかと考えるようになった。まあ、直接見えなければならないと決めるのが現代人の思考なのかも知れない。神聖さとは心の中にあるものだから、見えようと見えまいと関係ないのだろう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
境内は山の斜面にあるため参道は鳥居から登って行く形になる。&lt;br /&gt;
両側に巨大な杉並木が迎えてくれる。県の天然記念物、熊野神社の老杉群だ。幹周囲が、5m以上が11本、4m以上のものでも55本もあり、中には8mを越える巨木もあるそうだ。樹齢1000年を越えるものもあるとされ、さすがにその迫力と生命力には圧倒される。&lt;br /&gt;
深い山懐に周囲を杉の巨木とそれを囲む森は静かで深遠な気配が漂う。人の気配が全くなく、鳥やセミの鳴き声しか聞こえてこない。深い社叢で陽も差し込まない木陰の中。まさしく神域と呼ぶに相応しい場所だ。最近流行のスピリチュアル好きだと何か感じるのかも知れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
途中の右手には玉垣に囲まれた他と比べてもいっそう太い杉があり「天狗の休み木」と呼ばれている。天狗とのつながりは熊野ではなく鞍馬のほうが強いと思うのだが、高い枝に天狗が立っていても不思議ではない雰囲気はある。説明には、地元では別の巨杉を天狗の休み木と伝えているともあり、どの杉の木で天狗は休んでいたのか正確には分からないようだ。ただ、どの杉も幹は太く、どれでも好きな枝で大丈夫だろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それにしても誰一人として見かけない。何年か前に比婆山をトレッキングをした際に立ち寄った時には登山者など、もっと多くの参拝者が歩いていたのだが。そういえば、駐車場の前の茶屋も閉まっていた。季節的には閉店時期ではないと思うのだが、一体何時賑わうのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拝殿手前の隋神門には神像はなく幣が納められているだけだった。&lt;br /&gt;
更に石段を登る。拝殿はそれ程特徴のない平入りの建物。ここの額は熊野大権現。&lt;br /&gt;
後ろの本殿は拝殿より一段と高い石垣の上にあり、拝殿から長い登廊でつながっている。登廊は橋のように高架状に架けられていて、その下には御神水がちょろちょろと湧いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
左手に背後の山へ登る小道が続く。そちらに進んで横から本殿を眺めると、本殿だと思っていた建物の後ろに小さな社が更につながっている。どうやら、それが本当の本殿で、その前は幣殿のようだ。造りの複雑さが古来よりの格式の高さを思わせる。&lt;br /&gt;
本殿は基本的には大社系の造に見える。やはり、熊野や比婆山、伊邪那美命となると大社系が相応しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
案内があり、比婆山御陵まで7km。鳥尾の滝、別名、那智の滝700m。滝までもそれなりの登山道になるので、さすがにちょっと遠すぎる。しかし、途中の道沿いに小さな社があるはずなのでそれを確認するため、少しだけ登ってみる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
杉林に囲まれた道をゆっくり進む。植林されたものも混じっているのだろうが、巨木が多い。杉は比較的育つのが早いので想像するほど古くはないのかもしれないが、それでも神社の歴史を感じさせるには十分だ。&lt;br /&gt;
登山道へ進んで行く。鳥居があってまず出現するのが三宝荒神社と牛馬荒神社の小さな祠だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に登ると二宮神社が見えてくる。その手前には一辺がは4-5mで高さは3m弱の巨大な箱型の四角い巨石がある。岩の前に金蔵神社（金倉）と書かれた祠がある。岩境として祭祀されていたとのことだ。典型的な磐座信仰の霊地だ。原始の祭祀場だったようだ。ここから出発し熊野神社が発展したと考えられそうだ。&lt;br /&gt;
もしかすると、比婆山頂の伊邪那美命御陵とされる磐座の遥拝所として里宮としての機能も備えていたのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そばには、別伝の天狗の休み杉がある。拝殿までの参道にあった杉でもこちらでも、どちらも大きな杉なので、天狗は好きな方に腰掛けて休める。その時の気分で休む場所を変えたのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に100mほど上に三宮神社がある。鳥尾の滝は更に500mはあるだろう。完全な軽登山、あるいはトレッキングになるので、今回はここで引き返した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊邪那美命の御陵、比婆山、熊野神社はセットとなって何度も出現している。しかし、実は本家の紀州熊野には比婆山はないし、熊野三山も伊邪那美命を主祭神として祀ってもいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安中期には法皇や上皇の行幸が盛んで、蟻の熊野詣と称された熊野参詣。そして現在、その道は熊野古道として世界遺産になっている。&lt;br /&gt;
熊野詣の一番の目的は熊野神社、つまり熊野本宮への参詣だが、熊野信仰は熊野本宮だけでなく主に三つの霊地で成り立っている。それは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社で、総称して熊野三山と呼ばれる。三山と称されるように仏教的な要素が強く典型的な神仏混肴の信仰で、吉野金峰山寺と高野山金剛峯寺とを結ぶ修験道の道を抜きにしては存在しない。しかしそこには伊邪那美命の出番は全くない。主祭神としても登場しない。&lt;br /&gt;
本宮は家都御子神（けつみこ）、速玉大社は熊野速玉神（はやたま）、那智大社は熊野夫須美神（ふすみ）を主祭神とする（2006年、伊邪那美命陵と比婆山比定、その５）。&lt;br /&gt;
ここには、本殿の他に二宮、三宮があるので、それぞれ熊野三山に対応しているのかと思ったが、違った。本社は伊邪那美命、二宮は速玉男神（速玉之男神）、三宮は黄泉事解男神（事解之男神）。速玉男神と黄泉事解男神は、日本書紀によれば黄泉の国から追われた伊邪那岐命が厄を祓った時に出現した神だ。大本の熊野三山とは速玉之男神しか一致してない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野神社と称する限りは、紀州の熊野三山に対応した神々を祀るのが本筋なのだが、実は、伊邪那美命や比婆山とセットになっている熊野神社の場合は対応してないことも多い。そもそも、紀州の熊野三山が伊邪那美命とほとんど関係していないので、どうしようもないのだ。&lt;br /&gt;
全国にある熊野神社は、熊野三山が知れ渡り熊野信仰が広がった結果で、伊邪那美命から出てきたものではないことが良く分る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社伝によると、「創建不詳、和銅6年(713)までは比婆大神社と称し、嘉祥元年(848)社号を熊野神社と改称す｣とのこと。もちろん、比婆山にあるので比婆大神社ということだろう。しかし、天平5年（733年）に完成した出雲国風土記には、備後国今の広島県との境としての山の名前に比婆山は登場せず、比婆山系の一つ、烏帽子山が遊託山（ゆたやま）と記されるのみなので、失礼ながら神社のこの由来は信じられない。比婆山は古名が美古登山だということも知られていて、比婆山と呼ばれるのがそれほど古いことではないのだ。社伝の説明には少し無理があるようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比婆山系が現在のように比婆山と呼ばれるようになった後に記紀の影響で伊邪那美命の葬られた場所の記載から熊野という名前と結びついたと今まで考えていたが、ひょっとすると逆かも知れないとの思いが浮かんだ。&lt;br /&gt;
熊野という地名が先にあって、伊邪那美命と結びつき、その影響で後ろの山系が比婆山と見なされるようになったのではないだろうか。それなら出雲国風土記に比婆山の名前も伊邪那美命の話も登場しないのも納得できる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53361907.html</link>
			<pubDate>Tue, 26 Feb 2013 20:41:43 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>比婆山</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/10/53351210/img_0?1361448330&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
伊邪那美命と比婆山　その９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比婆山（平成20年8月2日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊邪那美命御陵として一部の古代史ファンに人気の比婆山から、世間で広く受け入れられている比婆山に向かう。もっとも一般的な知名度では、ヒバゴンの里のほうが高いかも知れない。&lt;br /&gt;
安来から向かう主要ルートは国道180号線に出て生山（しょうやま）から183号線で広島県に入る道だろうが、土地鑑を利用して県道を使い、少し近道をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安来の久米神社を後に、そのまま県道9号安来伯太日南線をひたすら南下。山間の村々を継ぐ典型的な田舎道。所々狭い場所もあるが車の往来は少ないのでのんびり流すのも悪くない。最後に急なヘアピンの坂を下ると国道183号線に合流する。&lt;br /&gt;
県境を越え、備後落合を抜けて比婆山へのアクセスである県道254号比婆山公園線に入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比婆山は島根、鳥取、広島の県境にあるが、北側からのアプローチはあまり便が良くない。良く整備されている南の広島県側に大きく回りこむため山陰からは意外に遠い。ちょっとそこまでのつもりが勢いで結構なツーリングになってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県道に入った後は、川に沿うように山の中へ入って行く。もっとも国道からの入り口も既に中国山地のど真ん中なのだが。&lt;br /&gt;
川の名前は熊野川と言う。ここでも比婆、熊野、伊邪那美命の組み合わせが揃う。記紀が広まるにつれて、どこでもこの三つのセットが類型化しているのが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
途中の看板に「比婆山陵」と書かれている。伊邪那美命の御陵ということを意識した表示だ。&lt;br /&gt;
比婆山は単独の独立峰ではなく連峰の総称だ。最高峰の立烏帽子山（たちえぼしやま）の他に竜王山、池ノ段、烏帽子山などからなる。烏帽子山の南の峰に伊邪那美命の御陵とされる場所があり、その峰を特に比婆山御陵と呼ぶことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「伊邪那美命（いざなみみこと）は出雲国（いずものくに）と伯伎国（はくきのくに）との境比婆の山に葬（かく）しまつりき」と古事記に記されている。出雲国は現在の島根県東部、伯伎国は旧国名の伯耆国で今の鳥取県西部。要するに島根県と鳥取県の境にある比婆山に葬ったということだ。そこでここの比婆山が伊邪那美命御陵とされるようになった。&lt;br /&gt;
厳密には比婆山は島根県と広島県との境界で鳥取県との境界ではない。しかし、古代の国境は現代の県境とは一致しないし、何時の時代でも同じで固定していたわけでもないので、大体の位置さえ合えば問題ないのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比婆山は連峰で峰が連なるため登山道はいくつかあり、伊邪那美命御陵へのルートも複数ある。一般的なのは烏帽子山の東山麓の広島県民の森から登る道だ。登山道は良く整備されていて危険は全くないのだが、比婆山連峰は標高1200m台なので登頂はそれなりに疲れる。&lt;br /&gt;
しかし、この熊野川沿いの県道を竜王山登山口の方向に進むと、何と立烏帽子山の山頂へ標高差が100mもない場所にある小さな駐車場まで到着出来る。竜王山まで行くと数十メートルの高低差で頂上に達する。&lt;br /&gt;
立烏帽子駐車場を使うと、尾根沿いにハイキング気分でブナ原生林を抜けて伊邪那美命御陵へ歩ける。途中には黄泉の国から伊邪那岐命を追いかけてくる伊邪那美命と雷神たちを防いだと古事記に記される千引石（ちびきいわ）などもあり、山好きにも、原生林好きにも、そして古代史好きも楽しく過ごせる。&lt;br /&gt;
比婆山を探訪し御陵を見たい人には実にラクチンなアプローチだ。駐車場までの道が険しく車同士の離合が困難だという点を除けば。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
問題の御陵だが、以前の記憶とその時のスナップによれば、前には小さな祠があり、その後ろにブナ林と笹林に埋まる円形の小高い高まりにあるイチイの老木に囲まれた巨石で、周囲は鎖で囲まれている。さすがに宮内庁の管轄ではないらしいが、むやみに笹林に踏み込む人はいないようだった。&lt;br /&gt;
かなり昔なので記憶があやふやになっているが、約60mの円墳ともされるが、古墳というより磐座（いわくら）にしか見えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、比婆山が伊邪那美命御陵と見なされるようになったのは古代からではないらしい。現在の比婆山系が比婆山と呼ばれるのはそれ程古くは溯れないのだ。&lt;br /&gt;
古くは伊邪那美命の御陵があるので美古登山（みことやま）と呼ばれたとされるが、多分順番が逆だろう。「みことやま」の名前から伊邪那美命に結びつき比婆山となったはずだ。初めから御陵があったのなら山の名前は比婆山だったはずだからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何時頃から美古登山や比婆山と呼ばれるようになったのか、手がかりはあまりないが、少なくとも記紀が完成した頃ではないはずだ。&lt;br /&gt;
記紀とほぼ同時代の出雲国風土記には国境の山の名がいくつも記されるが、比婆山も美古登山もない。記紀と出雲国風土記には記される伝承にほとんど重なりがないことは有名だが、さすがに地名として伯耆国との境に比婆山があれば載せるだろう。&lt;br /&gt;
風土記に載る山で、伯耆、つまり鳥取県との境で一番大きなのは鳥上山（とりかみ）で、現在の船通山とされる。これが古事記に記される伊邪那美命が葬られたとされる比婆山の位置に一番近いのだが、記紀では鳥上山は素戔嗚尊の八岐大蛇退治という別の場面で登場する。&lt;br /&gt;
古代の国の境界が厳密でないので、島根、鳥取、広島との県境あたりまで範囲を広げてみると、風土記の室原山は三国山と考えられ、鳥取、島根、広島の県境にあるが、比婆山より少し東になる。御坂山（みさか）は少し西で島根県と広島県の境の猿政山に比定される。&lt;br /&gt;
一応、風土記の遊託山（ゆたやま）が烏帽子山に比定されていてこれが現在の比婆山系ということになるのだが、風土記にはどこにも比婆山も美古登山も出てこない。もちろん伊邪那美命の伝説の述べられない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
簡単な記述はあるが、その記される場所にはそのものはない、と言うのは、どこか邪馬台国にも似ている。まあ、歴史書の記載と神話を同じレベルで考えるのは乱暴だが、十人十色の説が飛び交っている。百家争鳴と言うよりも、各自勝手に自説を展開しているといったところだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
峰にある磐座の巨石が何時しか貴人の墓所であるとされ、某「命（みこと）」の墓ということから美古登山となり、記紀の周知によって位置的に近い伊邪那美命が葬られた比婆山へと変ったということだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すっかり山中の細い道となった熊野川沿いの県道から、比婆山陵と熊野神社への案内板の分岐を折れると間もなく巨大なコンクリートの鳥居の神社、熊野神社が現れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比婆山御陵まではここからもアプローチできるが、今日は登る予定はない。思わず遠くまで来てしまい時間もない。それに御陵まで行くなら立烏帽子山駐車場を使う。軽登山やトレッキングは好きだが、交通機関が使えるところはフルに利用する手技だから。&lt;br /&gt;
実際の現地確認を第一としている立場としては、古い記憶だけで比婆山のことを考えたりするのは少しずるく後ろめたい気がするのだが、時間と体力の関係上仕方がないと、自分を言い訳のように納得させるのだった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53351210.html</link>
			<pubDate>Thu, 21 Feb 2013 21:05:30 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>久米神社（比婆山久米神社）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/59/53347259/img_0?1361273474&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
伊邪那美命と比婆山　その９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久米神社（比婆山久米神社）（平成20年8月2日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成20年8月2日、夏真っ盛りの中、安来から南へ県道9号安来伯太日南線（やすぎはくたにちなん）を走る。長閑な農村風景と田舎町が交互に現れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊邪那美命（いざなみ）の関連地を訪問しながら今まで足を向けてない場所がいくつかある。その中の二ヶ所は比婆山候補地として最も有名な所だ。どちらも意識的にではないが、目を逸らして来た所もあるのも確かだ。それは、以前に訪れたことがあるし、本当なら最終的には山の頂上にまで行く必要もあり、多少面倒だからだ。&lt;br /&gt;
しかし、避けてばかりもいられないので、ここらで一度訪ねてみようと言う気になった。&lt;br /&gt;
先ずは古代史ファンにとって最も人気のある能義郡伯太町（のぎ）、現在の安来市にある比婆山と久米神社に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安来から15km程中国地方へ向かって進むと伯太町横屋と言う集落になる。右手の山裾に鳥居があり、そこが久米神社だ。大きな案内標識も看板もないので、知らないと通り過ぎてしまう可能性が高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県道から外れて鳥居前に停める。&lt;br /&gt;
神主さんと親子三代らしき着飾った人たちがいて、どうやら七五三か宮参りのようだ。いつもの田舎の神社巡りにように誰もいないと思ってやって来たので少し戸惑った。&lt;br /&gt;
参拝は終わりに近いようなので邪魔をしては悪いので、しばらく待つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥居扁額には比婆山大宮の文字。神社神紋にも「比」と書かれている。比婆山久米神社と称されているからだ。&lt;br /&gt;
神社の建つ背後の山が比婆山で、山頂に伊邪那美命御陵と伝わる古墳と久米神社の奥宮がある。奥宮は地元では上の宮と呼ばれ、ここは下の宮とのことだ。典型的な本宮と里宮の関係になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古事記によれば、伊邪那美命は亡くなった後に出雲国(いづものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境にある比婆之山(ひばのやま)に葬った、と記されている。伯伎国というのは伯耆国のことだが、出雲国と伯耆国、つまり現在の島根県東部と鳥取県西部の境界には比婆山と呼ばれる山はない。そのため各地に比婆山や伊邪那美命陵とされる所がある訳だが、その中でもここはかなり知れている。それは本居宣長が古事記伝の中でここを比婆山と推定していることも大きい。もっとも、古事記伝には他の地も紹介されているらしいので、どの程度ここを比婆山と想定しているかは知らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここは島根県、旧国でも出雲国の中なので正確に言えば出雲国と伯耆国の境ではない。ただ、昔の国境と今の県境とは必ずしも一致している訳ではないので、ここが出雲国と伯耆国の境にかなり近い事は確かだ。場所的には多くの比婆山候補地で最も古事記の記述に近いだろう。本居宣長の説もあり、ここで決まりかと言うと、そう簡単でもないようだ。&lt;br /&gt;
そもそも神話を現実に当てはめようとするのに無理があると言ってしまえば実も蓋もない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、この神社は由来がはっきりしない。出雲国風土記の久米社に比定される事もあるが、確かではない。別名、熊野神社とも呼ばれるらしく、古くはそう称されていたことが明らかなのだ。「熊野」は「久米」がなまったものだとする説明もよくあるが、逆かも知れないので、これもあまり根拠にならない。久米から熊野でも、熊野から久米でも、どちらでも良さそうだが、神社の起源が風土記の時代にまで溯る由緒があるかどうかの問題があるのだ。&lt;br /&gt;
風土記の久米社は現在の熊野大社に合祀されたとの説はかなり有力だ（2006年、伊邪那美命と比婆山７、熊野大社元宮遥拝所）。そんなことなどから、ここは元々は熊野神社だったと考えるのが正しそうだ。&lt;br /&gt;
もちろん風土記の熊野社は祭祀の古さなどから考えて松江の南の旧八雲村の熊野大社に間違いはないので、ここは風土記社ではないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元が熊野神社だったとすると、記紀の記述から伊邪那美命や比婆山と結び付いても不思議ではない。何しろ、熊野のある所には伊邪那美命も比婆山もあることが多い。&lt;br /&gt;
背後の奥宮がある山も古くは熊野山と呼ばれていたそうなので、ひょっとすると山の名前が比婆山に変わって伊邪那美命陵とされるようになったのは意外に新しいのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拝殿の後ろは石段になっていてその後ろ奥の高みに本殿が建つ。拝殿の背後も扉で開くようになっていて、開け放つと拝殿からも本殿が直接拝める様になっている。&lt;br /&gt;
意外なことに本殿は神明造だ。しかも、伊勢神宮の唯一神明造と同じく棟持柱が壁の外にある。&lt;br /&gt;
正面から見ると扉が中央にあるが、建物としては2間しかない。変わった造りの社だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山に囲まれた斜面に建つ社だが周囲は明るい。道に面していて後ろにしか社叢がないからだ。&lt;br /&gt;
鳥居をくぐって直ぐ右手に山に向う石段があり、それが登山道かと思ったが荒神だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
登山道は境内横を流れる川沿いに細い道が続いていてそこだ。山頂まで1050mの表示がある。標高は300m余なので、どんなにゆっくりでも1時間はかからない。しかし、夏草が生い茂っている。&lt;br /&gt;
例祭に合わせて草が刈り取られるので、登るならその前後との情報があったが、その通りの様だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県道に戻って更に2-3km上流に向かうと比婆山登山口の案内板がある。頂上へ登るだけならこちらが近いはずだ。&lt;br /&gt;
久米神社は初めてではないが、山頂へは未だに足を伸ばせないでいる。いつかは登って伊邪那美命陵を自分の目で確かめないと。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53347259.html</link>
			<pubDate>Tue, 19 Feb 2013 20:31:14 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>伝宇牟加比売命御陵古墳</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/54/53340954/img_0?1361007985&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
大国主命の舞台　その６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝宇牟加比売命御陵古墳（平成20年7月6日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
松江城の北、2km足らずの新興住宅地にある法起神社（ほっき）の主祭神である宇牟加比売命（うむがひめ）の名を持つ宇牟加比売命御陵と言う古墳へ向かう。神社の前の道をそのまま北の山側に向かって上って行くと、うぐいす台という住宅団地がある。この辺りは、法吉神社の由来書にあったように以前は鶯谷と呼ばれていたのだろう。鶯谷の少し高台にあるのでうぐいす台と言う名前になったと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うぐいす台の住宅地は斜面に造成されていて、道の勾配は少々きつい。大都会と違って周りが住宅で建て込んでいる訳でもない。もう少し平坦な場所を利用すればよかったのだろうが、当時の関係者に様々な思惑があったことが容易に想像できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
団地の正面を通るメインストリートを真っ直ぐに山に向かって上ると御陵古墳があった。&lt;br /&gt;
見つけるのに少々苦労したが着いてみれば迷うような場所ではない。あらかじめ精確な場所が分かっていれば簡単なのだが、といつも思う。&lt;br /&gt;
閑静な住宅街の中を左右を探しながらバイクで走ると、どうにも音が騒々しい。マフラーの交換などはしないので、ごく普通の市販車の状態なのだが、バイクの音はどうして車よりこんなに大きいのだろう。&lt;br /&gt;
キョロキョロと左右を窺いながらゆっくりと住宅街の中を流す見知らぬバイク。不審者と思われても仕方がない。まさか古墳を探しているとはだれも思わないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宅地の一番上の山の斜面が法面で固められて、その上が公園風に整備されている。&lt;br /&gt;
階段を登ると確かに方墳になっている。頂上部は10m四方前後。中央に石槨の跡が石で表示してある。そして、何故か少々朽ちているベンチが二つ。妙に心寂しい。&lt;br /&gt;
他には特別見るべきものもない。下に説明板がなければ不便な場所にある妙に狭い公園としか思われないだろう。ベンチもなければ公園とも思われないかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小高い場所にあるため眼下には住宅街の屋根が並び、眺めは悪くないが谷の横に位置するために展望は限られる。土地もかなり急な斜面だ。古墳を造成するには適しているとは思えないが、まさか、古代人も土地に困っていた訳ではないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
駐車場などはないし、道も住宅街の中に生活道路なのでそれ程広くはない。車で来ると少し迷惑になってしまうだろう、などと考えながら降りるが、この古墳をわざわざ見学に来る人がいるとは思えない事に気づく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古墳の見学をあっさり終えたのには理由がある。実はこの古墳の発見は新しく、宇牟加比売命（うむがひめ）の御陵と言う伝説も存在しない。団地造成が平成5年に行なわれた時に、その工事中に見つかった古墳なのだ。壊されずに保存されているだけでも評価に値すると言って過言ではない。&lt;br /&gt;
発見された後に、宇牟加比売命が法吉鳥になって飛んで来たので、この地を法吉と呼ぶ様になったと言う出雲国風土記の記述から古墳名が付けられたのだ。&lt;br /&gt;
伝宇牟加比売命御陵古墳、命名者のセンスはすばらしい。これから百年もすれば本当に宇牟加比売命の御陵と言う伝説が出来るかも知れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
被葬者が誰かは全く分らない。もちろん宇牟加比売命の可能性だってある。誰にせよ、まさか1400年も後に周囲を住宅で囲まれるとは思いもしなかっただろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この近くには、本当に宇牟加比売命の伝説のある法起神社旧社地があるらしい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53340954.html</link>
			<pubDate>Sat, 16 Feb 2013 18:46:25 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>法吉神社（松江法吉神社）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/61/53336761/img_0?1360841139&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
大国主命の舞台　その６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法吉神社（松江法吉神社）（平成20年7月6日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宍道湖の北岸、国道431号、通称湖北線を東に走り松江市内に入る。いつもながら松江の街は迷子になってしまう。中心が宍道湖から中海に流れ出る大橋川で南北に区切られているからかも知れない。何故か何時までも道が全く覚えられないのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
松江城の隣にある武家屋敷や小泉八雲旧居などを横目に県道37号線を通り抜けて行くと黒田町の交叉点に出る。そこから佐太神社などのある鹿島方面に向かい北上すると1km足らずで、松江市街の北を東西に走る道路と交差する。それを東に向かうと道沿いに大きな須賀神社があるので、そこの交叉点を北に進むとうぐいす台と言う住宅団地に行く。その途中に法吉神社がある。&lt;br /&gt;
こうして文章で書いても分り難いが、実際も迷子になりながらようやく到着した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥居前の道端に小さいが駐車場がある。神社は道沿いの山の斜面に建てられている。周囲は新興住宅地で、その中にポツンと残っている感じだ。実際は、奥にあるうぐいす台と言う住宅団地を造成する時にここに移設されているので新しい。そのため境内は明るい。社叢がないからだ。知らない場所の神社を遠くから見当を付けて探す場合にこんもりとした森を目指すのが常道なのだが、社の森のないこういう神社は見つけにくい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
由来は古い。出雲国風土記、島根郡法吉郷の法吉社（ほき）に比定されている。出雲国風土記によると宇武加比売命（うむがひめ）が法吉鳥になって飛んできて鎮座したため、この地を法吉と呼ぶ様になったと言う。&lt;br /&gt;
法吉鳥と言うのはウグイスと考えられている。「ほほき」と読んでいたらしいが現在の神社名は「ほっき」で、地名も同じだ。神社の由来では、宇武加比売命が法吉鳥、つまりウグイスに化して渡ってこられたので、古来より宮の地を鶯谷と呼ぶとある。&lt;br /&gt;
法起と言うと、奈良斑鳩の法隆寺に近い場所にある法起寺がすぐに思い浮かんでくるが、もちろん関係がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宇武加比売命（うむがひめ）は古事記で八十神（やそがみ）の大国主命（おおくにぬし）への迫害に登場する蛤貝比売命（うむぎひめ）と同一神と考えられている。&lt;br /&gt;
八上比売（やかみひめ）の求婚の相手に選ばれた大国主命は、それを根に持った八十神の姦計に堕ちて真っ赤に焼けた岩で焼け死んでしまう。それを哀れに思った母神の刺国若比売は神皇産霊尊（かんむすび）に頼み、枳佐加比売命（きさかひめ）と蛤貝比売命（うむぎひめ）が大国主命を生き返らせる（2008年、大国主命の舞台３、赤猪岩神社）。大国主命の命の恩人と言う訳だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
枳佐加比売命は蚶貝比売とも記され「きさがい」とも読まれる。赤貝を神格化したものとされる。蛤貝比売命は文字通りハマグリの神様だ。古事記の文章から、赤貝の殻を蛤の汁で溶いて練ったものが火傷の治療として用いられたのだと言う説もある。今でも漢方では牡蛎などの殻が使われるし、シジミは肝臓に良いらしい。貝が薬として使われていたことは十分にありそうだ。&lt;br /&gt;
赤貝や蛤は海で採れるが宍道湖は汽水湖だ。多分関係はないだろうが宍道湖はシジミで有名で出荷量日本一だ。しかし、貝と言う点で少し気になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それにしても、出雲国風土記の説話は奇妙だ。法吉鳥がやって来たので法吉と呼ばれる様になったのは分るが、何故、赤貝の神がウグイスに化身するのだろう。風土記の記述は極端に簡略化されているため、前後関係や意味が通じにくい話が多い。この説話も何か物語がごっそり抜けている気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大社系の本殿で千木が内削になっている。女神を祀る神社に内削が多い事から、そうなっているのだろう（2006年、美保神社境外末社参り２、美保神社）。境内の左右には小さな稲荷社と摂社があるが、伝説を伝えるものは何もない。説明板や由来書の類も一切ない。&lt;br /&gt;
ひょっとすると、近隣や氏子にも伝説を知らない人がいるのではないだろうか。もし、そうなら、ちょっと残念だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法吉の古称「ほほき」は「ほふき」とも読むらしく、ウグイスの鳴き声を表わしているとされる。今では誰でも「ホーホケキョ」を思い浮かべるが、これは仏教伝来以後に定着したものだ。「法、法華経」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
住宅地に開発された周囲にはウグイスの声は聞かれない。車の騒音だけだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53336761.html</link>
			<pubDate>Thu, 14 Feb 2013 20:25:39 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>大野津神社（津ノ森大野津神社）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/81/53334681/img_0?1360752805&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
素戔嗚尊と八岐大蛇　その１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大野津神社（津ノ森大野津神社）（平成20年7月6日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出雲市を後に、宍道湖の北岸、国道431号線、別名宍道湖湖北線を東へ向かう。道の南には宍道湖が広がり、北側には一畑電鉄が並走する。天気は良いが湖面を吹いてくる風は少し強い。宍道湖を横目に眺めながらのコースで心地よいルートなのだが、道に変化がなく少し退屈になるのが欠点だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平田市街と松江市街の丁度真ん中辺りに一畑電鉄、津ノ森駅があり、その湖畔に大野津神社がある。津ノ森神社とも呼ばれるようだ。&lt;br /&gt;
湖畔沿いを走る国道と宍道湖の間に挟まれた場所で境内は狭い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拝殿本殿は何故か東向きに建っている。&lt;br /&gt;
本殿はいつものように大社系。それ程大きな社ではないが小奇麗で、境内の清掃が行き届き氏子の信仰は深そうだ。境内に向かって左奥、湖に近い方に祭祀の小さな木立があり注連縄が張ってある。荒神と言うより雨乞いの龍神ではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここは非常に特色のある雨乞い神事で有名だが、最近では昭和9年と14年に行なわれたのが最後とのことだ。潅漑治水技術の発達で旱魃被害に遭うことがなくなったことがその理由らしい。&lt;br /&gt;
神社に伝わる「蛇骨」と呼ばれる一種の御神体を船で宍道湖の真中に運ぶ特殊な神事だそうだ。&lt;br /&gt;
由来書をまとめると次の様に行なわれる。&lt;br /&gt;
先ず3日間、蛇骨に神職が祈願する。3日目の朝に蛇骨を竹籠に入れ鳥居の付いた台に乗せて、それを船に移す。太鼓や笛の音、漕ぎ手の勇ましい掛け声と共に、蛇骨が安置された船は南西に向かい、宍道湖の南北にある4つの山を結ぶ線上で、湖底に石の鳥居があると伝えられる場所に停泊する。&lt;br /&gt;
そこで蛇骨の入った籠は細長い白木綿に結ばれて湖底に下ろされる。&lt;br /&gt;
その後、一同は裸になって、付き従っていた若者たちは船を神職の船に寄せて水桶で水を激しく浴びせ掛け、神職の船は逃げ回る。興奮が最高潮に達すると水掛は終了し、再び一同が装束を調えて、来た時とは違って無言で神社へ帰る。&lt;br /&gt;
神社の横に到着すると若者は今度は見物人に水を掛け、人々は大騒ぎしながら逃げ散ってしまい、その後静かになった本殿に蛇骨は戻されて、神職の祝詞が奏上される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
境内の宍道湖の岸辺には水面に続く石段があり、それが雨乞い神事での船着場のようだ。湖面や海面に向かう神社によくある船での参拝の参道かと思ったがどうやら違うようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神社は出雲国風土記の大野津社あるいは大野社に比定される古社だが、雨乞い神事は江戸初期までしか遡れない様なので、神事の内容は古式を伝えるものではないのだろうが、なかなか興味深い点が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇骨とは言う名前だが、蛇ではなく龍の骨と考えられている事は間違いない。中国から龍が伝わった時に日本では大蛇とイメージが重なり結びついていて、ほぼ同義に使われる事が多いからだ。そして、龍は雲を呼び雨を降らせる水神の性格を持つので、雨乞いには欠かせない。&lt;br /&gt;
水神への祈願の神事である事が分る。神事は、蛇骨、つまり龍の骨を竜宮に送り届る儀式だといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神具である蛇骨を竹籠に納めて鳥居のあるとされる海底に降ろすのは、山幸彦の海神宮（わたのみや）訪問と重なる。&lt;br /&gt;
記紀によれば、兄の海幸彦の釣り針をなくした山幸彦は塩椎神（しおつち）の助けで海底の海神の住む宮へ行くのだが、その時に乗ったのが、无間勝間(まなしかつま）と呼ばれる籠なのだ。書紀では無目籠(まなしかたま)と記されるように、目がないほど細かく編んだ籠船と考えられている。&lt;br /&gt;
籠船と言えば、祭りで曳かれる飾り付けた船型の山車の事が一般的で、実用的な船ではないと考えがちだが、多分、古代では実際に用いられていたはずだ。&lt;br /&gt;
竹で細かく編んで造った船は今でも東南アジアで使われている。もちろんそのままでは浮かばないので、編み目を漆や泥やコールタール、家畜の糞などで塗り固めて防水処理をするらしい。また、古代日本では船の帆も竹で作られていた。必ずしも編んだものではなく短冊形に並べたものもあったようだが、網代帆（あじろほ）と呼ばれる。遣唐使船も布の帆以外にこの帆も使っている。竹が船の諸材料として用いられるのは普通だったようだ。&lt;br /&gt;
山幸彦の物語はもちろん浦島太郎の話の原型でもある。それは、海の彼方に神仙境があるという伝説から発生している。その類型の話は東南アジアの海洋民族に広がると言われる。もちろん海神の宮殿へ行く船はその地方の身近な籠船だろう。&lt;br /&gt;
日本では実用的な籠船は使われた形跡がない。伝説だけが伝わった時に、海神の元へ行けるのは籠の船と言う奇妙な乗り物だと解釈される様に変ったのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浦島太郎が訪れるのは竜宮城で、海神ではなく龍の住む宮殿とはっきり明記される。龍は水神であり水を司るので海神でもあるからだ。しかし、何故か住んでいるのは乙姫さまだ。山幸彦の物語では海神宮で綿津見神の娘、豊玉比売（とよたまひめ）を娶るので、これが乙姫さまなのは間違いない。&lt;br /&gt;
父親の龍神は影が薄い。本当は主人のはずなのに気の毒だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では籠は神を招きよせる神籬（ひもろぎ）や依代（よりしろ）を納める神聖な器と考えられているが、それは、こちらの世界と海の彼方の神仙境と往き来できるのが籠船だったことから、籠は神が乗る神聖な物と見なされるようになったのではないだろうか。山車の籠船は神をお迎えした籠を乗せる船なのだ。&lt;br /&gt;
京都、丹後の日本三景の一つ、天橋立の近くに国宝海部氏系図（あまべしけいず）の伝わる古社、籠神社（この）がある。祭神の天火明命（あめのほかかり）が「籠」で常世と行き来したことから社名になったとされる。この籠も无間勝間なのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神事で蛇骨を籠に納めるのは海神の住む海底の宮へ送り届ける竹で編んだ籠の船と言う意味もあるが、沈めるのに便利だと言う理由も大きい気がする。湖に沈めないと海底の宮に送れないから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇骨を沈め納める海底には石の鳥居があると伝えられているようだが、海神の宮、竜宮城の入り口と言う事だろう。石の鳥居は伝説ではなく実際にあるかもしれない。&lt;br /&gt;
宍道湖の水深は平均で5m程、ほぼ平らな湖底で最大深度も6-7m程度とされる。松江に近い湖上に嫁ヶ島と言う島があるが、湖岸から湖底に石を連ねた参道があり時々行事の時などに歩いて渡る事が行なわれる。ただし一番深い場所は1m以上になるのでそれなりの準備が必要だ。&lt;br /&gt;
かなり浅い湖なので、鳥居を海底に作ったとしても不思議ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
興味深いのはその場所だ。正確な場所は書かれてないが宍道湖の南北にある四つの山を結ぶ線上にあると言う。由来書には山の名前は記されてないが、宍道湖を囲む四つの聖なる山と言えば風土記に記される四つの神奈備山しかないだろう。松江の北西の朝日山、八雲立つ風土記の丘にある茶臼山、宍道湖西岸平田の北の大船山、そして荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で一躍有名になった仏教山。これらが風土記の四つの神奈備に比定されている。この四つの山を結ぶと確かに宍道湖の中で交わるのだ。&lt;br /&gt;
正確には交わる点は津ノ森より随分と東なので、神事で漕ぎ出す南西ではない。しかし、昔の地図の不正確さから考えると誤差範囲だ。神事が行なわれるようになった江戸時代でも神奈備山が聖なる山として信じられていたことが窺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雨乞い神事には美保関神社に伝わる諸手船神事（もろたぶねしんじ）と青柴垣神事(あをふしがき)が大きく影響している気がする。この二つは国譲りでの事代主神（ことしろぬし）に由来するものとされる。&lt;br /&gt;
諸手船神事と言うのは、出雲国の国譲りに際して大国主命（おおくにぬし）の御子の事代主神に伺いをたてに行くのを再現したとされる。二艘の船に乗った氏子の若者たちが互いに威勢良く水を掛け合うのが祭りのクライマックスとして呼び物になっている。&lt;br /&gt;
記紀では、高天原からの使者である建御名方神に迫られた事代主神は国譲りを承諾し、自らは船を青柴垣(あをふしがき)に変化させて中に入り海中に隠れたと伝えられる。&lt;br /&gt;
青柴垣と言うのは榊などの枝で囲ったもので、一種の神籬だと考えられるが、見方によっては竹の籠にも通じるような気がする。青柴垣神事の主要な部分は船上で行なわれる秘儀のため詳しくは分らない。しかし、青柴垣で囲まれた事代主神が海中に隠れると言うのは、雨乞い神事で籠に納めた蛇骨を海底に降ろすことと同じではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神霊の行幸、神幸には賑やかな祭りと厳粛な無言の儀式とどちらもあるが、漕ぎ出す時は賑やかで帰りは無言。どっちも使っているのが興味深い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇骨と言うのは数個伝わり、長さ5-6寸（15-18cm）、太さ１尺（30cm）位のものらしい。蛇骨は龍の骨と思われるので、いわゆる龍骨と同じではないだろうか。&lt;br /&gt;
龍骨は文字通り龍の骨と考えられて、漢方では薬として用いられる。虚弱で神経質体質、自律神経失調症や精力減退に用いられる桂枝加龍骨牡蛎湯（けいしかりゅうこつぼれいとう）が有名だろうか。因みに、やせてない人の精力減退には柴胡加龍骨牡蛎湯（さいこかりゅうこつぼれいとう）だ。&lt;br /&gt;
残念ながら実際は龍の骨ではなく大型哺乳類の化石とされる。中には恐竜の化石もあるらしいので、「竜」には違いないか。&lt;br /&gt;
もちろん中国三千年とも四千年とも言われる歴史。しかも、その奥地には前人未踏の秘境もあるかも知れない。そこには龍が生息しているかもしれないし、太古にはいたかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全然関係ないが、化石と牡蛎（かき）の貝殻の粉末を加えものが、バイアグラの代わりになるとは到底思えないのだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇骨には伝説がある。&lt;br /&gt;
素盞嗚尊（すさのお）が八岐大蛇をを退治した時、その角と骨がここに流れ着いたので「角森」と呼ばれていたのが、後に「津ノ森」となったと言う。説話としては面白いが、この話が全く成り立たないのは残念だ。&lt;br /&gt;
実際は、中世には大野荘と呼ばれた大野氏と言う豪族の根拠地たったらしい。今では全く港らしさはなくその面影もないが、宍道湖の海上交通で栄えた場所だったらしい。&lt;br /&gt;
港のことを津と呼ぶ。大野の津なので大野津。そして、津にある森なので津ノ森と言う事のようだ。&lt;br /&gt;
しかし、地名の由来以上に問題なのは、ここに八岐大蛇の骨は流れ着く事が出来ないと言う点だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斐伊川は古来より幾たびも洪水を繰り返す暴れ川だった。そのために治水工事が行なわれている。一番大きな規模のものが寛永12年(1635)の洪水の際に行われた。それまで河は西に向き日本海に注いでいた。河口は巨大な潟湖を形成して現在の神西湖がその名残になる。その河口を東へ曲げて宍道湖に注ぐように川の流れを変える川違えを行なったのだ。&lt;br /&gt;
素戔嗚尊が八岐大蛇を斐伊川上流で退治した頃は、斐伊川は宍道湖に流れ込んでないのだ。倒された八岐大蛇の骨は日本海に流れ出てしまう。&lt;br /&gt;
蛇骨が八岐大蛇の骨であると言う伝説は、ずっと新しいことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雨乞い神事が始められたのは、由来書によると1635年とある。斐伊川の川違えの年と奇しくも同じだ。まさか、雨乞いの霊験あらたかが、程度が過ぎて雨が降りすぎて大洪水になったということはないだろうが、無関係ではなさそうな気がする。&lt;br /&gt;
その時点で既に蛇骨と呼ばれていたらしいので、大蛇の骨と言う伝説はあったのだろうが、流れ着いたとはされてなかったはずだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
列車の音が聞こえる。一畑電鉄の津ノ森駅に二両編成の電車が入ってくる。&lt;br /&gt;
風が強い。振り向くと少し濁った宍道湖から波が岸に次々と押し寄せてくる。こんな波に西から骨が吹き寄せられたのだろうか。そんな事はないと分ってはいるのだが。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53334681.html</link>
			<pubDate>Wed, 13 Feb 2013 19:53:25 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>雲根神社（出雲大津雲根神社）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/08/53325208/img_0?1360398882&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
素戔嗚尊と八岐大蛇　その１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雲根神社（出雲大津雲根神社）（平成20年7月6日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成20年7月6日。ここのところ急に暑くなった、梅雨明けはまだ発表されていないが昼間は連日30度を超えて、夜も熱帯夜になっている。夏本番に一気に突入したようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国道9号線を西へ走り、斐伊川を越えて出雲市街地へ入って行く。橋を渡って直ぐに右手に見える小学校の交叉点を入る。学校の裏手の細い路地は車は一台しか通れない幅だが、他に行き方が分らないのでそこを入ると鳥居前に出た。道は間違ってなかった様だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雲根神社（くもね）は、周りは農地と住宅街が入り組んだ場所で社叢はなく境内を含めて明るい。直ぐ西は堤防でそこを斐伊川が流れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥居を抜けて進むと、南面する拝殿正面。鈴がない。本殿は大社系の造り。&lt;br /&gt;
拝殿の扉は鍵が掛かってないので、失礼して中に入らせてもらい参拝する。&lt;br /&gt;
拝殿内は土間で特別威厳のある風情はなく、むしろ事務所的な感じさえする。新しいからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここには周辺の氏神や祠が沢山合祀されている。現在でも堤防の隣で、斐伊川が暴れ川だった昔はこの辺りは氾濫に何度もあっているはずだ。明治の合祀令だけでなく、洪水に流れた神社も多かっただろことも合祀を進めたはずだ。社地も移動しているだろう。社叢が残っていないのも多分その様なことが関係しているに違いない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社は新しいが神社の歴史自体は古いようで、風土記社の一つに比定されることもある。&lt;br /&gt;
由来によれば、斐伊川の中州の住民が開拓祖神として「ヒメ神」を祀ったのが始まりだとされる。その後、祭神が奇稲田媛命（くしなだひめ）と見なされるようになり稲田姫社（いなた）とか稲田神社と呼ばれていた。そして、近くにあった石塚社を合祀して石の異名である雲根を社号にしたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
合祀された石塚社は石神社、石塚明神とも呼ばれ、素戔嗚尊（すさのお）と八岐大蛇（やまたのおろち）の伝説がある。&lt;br /&gt;
素戔嗚尊に退治された大蛇の頭がここへ流れ着き、それを哀れに思ったのか村人が埋めて石で塚を作り祀った。しかし、その後、塚から毎晩怪火出るようになり、恐れて困った村人が素盞鳴尊の神霊を祀ったところ、怪異がおさまったという話だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古事記や日本書紀の本文では、素戔嗚尊は八岐大蛇を斬り刻んだように書かれている。頭を斬り落としたかどうかは不明だが、書紀の一書には頭を切ったと、はっきり記されているので、あながち間違いではないだろう。それに、ビジュアル的にはやはり首を斬って頭を飛ばして欲しい。&lt;br /&gt;
具体的にはどこで八岐大蛇が討たれたのかは分らないが、斐伊川が血となって流れたらしいので、斐伊川の上流だ。それなら、首が下流のこの地に流されてきても不思議ではない。&lt;br /&gt;
血生臭く真っ赤に染まった斐伊川から巨大な大蛇の首が流れ着いたとすると、かなり怖い。これは丁寧に祀らなければ祟られると、村人が思っても不思議ではないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
素戔嗚尊と大蛇の伝説があったからなのかどうかは確かではないが、石塚社の方が稲田姫社より住民の信仰に及ぼす影響が大きかったようで、合祀された石塚社が社号を取ってしまった格好になっている。それは、石塚社が有名になってこの辺り一帯を石塚と呼ぶようになっていたからだとされるが、どうも逆の気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元々、この地域は石塚と呼ばれていて住民の氏神である石塚社があった。古来から斐伊川河口付近は氾濫と洪水に何度も遭っていて、当然ここも例外ではない。その度に社が流されただろう。再建するときに近くにあった稲田姫社に社地を移して雲根神社と号したとのことだが、稲田姫社に石塚社が合祀されたと言うよりは、稲田姫社の境内と社殿を石塚社が乗っ取ったと言う方が事実に近い気がする。&lt;br /&gt;
石塚の地名も、斐伊川からの堆積地だったため中には巨大な岩があったことから付けられたのではないだろうか。多分、その大岩なども度重なる洪水で流されてしまったのだろう。&lt;br /&gt;
稲田姫社の元の祭神の「ヒメ神」も、一般名としての「姫神」や祖先神ではなく、斐伊川を女神と見なして祀る社だったのではないだろうか。水の恵をもたらす神が暴れ洪水を起こさないように鎮めを祈願する社として。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本殿に向かって左には小さな速玉社という祠とお稲荷さんがある。&lt;br /&gt;
反対側である向かって右には荒神と思われる樹木と狛犬、さらに小さな石の祠や昭和荒神社、社日石標などが並び、その横に石神社の跡がある。&lt;br /&gt;
これが遷された石塚明神のようだ。石柱には、「石塚の社の神跡」、「八岐大蛇荒魂」などの文字も見えるが、その他は摩滅もあって読めない。八岐大蛇荒魂と言うのは、納められたのが頭ではなく荒御魂だったと言う話も伝わっているからだろう。&lt;br /&gt;
並びの中で一番大きなものは狛犬を従える荒神だ。一番端の石神はかなり小さい。この石が元々、石塚社にあったものだろう。石は大蛇の鎮めに置かれたはずだが、この石の大きさでは大蛇の頭を埋めた後に乗せても押さえ鎮められそうもない。怪しい妖火が毎晩出るようになった時に、石を大きなものにしようと思わなかったのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
合祀された社が多いが、その由来などは拝殿横の倉庫に説明板が掲げられていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神社名の雲根というのは「石」の意味だそうだ。&lt;br /&gt;
古代中国では「雲は石間より生ずる」とされ、雲は岩から湧き出したものだと考えられていた。石は、雲の元、つまり「根」であることから、石の異名を雲根と言ったのだそうだ。&lt;br /&gt;
新たに社号を付けた人は博識だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石塚社の旧社地は明治初年まで残っていたが、今は斐伊川の河川敷に出来た出雲ゴルフ倶楽部に埋まっているらしい。&lt;br /&gt;
ゴルファーはクラブを抱えて八岐大蛇の頭を地に踏みしめてプレーするのだろうか。それとも小さな碑でもあるのだろうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53325208.html</link>
			<pubDate>Sat, 09 Feb 2013 17:34:42 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		<item>
			<title>大国主命の舞台　その５</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-63/kannon1011/folder/1604797/58/53317458/img_0?1360064764&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
・・静の岩屋（平成20年6月28日）&lt;br /&gt;
お岩さんを過ぎ、粟嶋の小山に沿って中海側に回り込むように更に進む。少彦名命の伝説をだけでなく　八百比丘尼（やおびくに）の伝説も残る。複数の伝説が残るのは島全体が御神体として信仰されていたためだろうか。&lt;br /&gt;
八百比丘尼の岩屋へ向かう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
島の原生林がそのまま麓ぎりぎりまであるため日は遮られ、元々海上にあった島なので地面は湿気が多くてシダに覆われて、人の気配もないため少々寂しい。&lt;br /&gt;
島と反対側は湿地となっているようで、一面、葦のような植物で覆われている。茎の先に茶色いフランクフルトのような穂があるので、蒲かも知れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
粟嶋神社への参道石段の反対側あたり、頂上境内の出雲大社遥拝所があった場所の下あたりか。少し開けた場所に赤い鳥居があり隣には八百比丘尼の赤い幟。&lt;br /&gt;
ここが静の岩屋（しずのいわや）、八百姫宮のようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥居奥には崖に岩の裂け目がある。中は暗いが目を凝らすとどうやら下には水が溜まっている。海水が地面から湧き出しているのではなく、水が滴る音がするので、洞窟内の岩から水が染み出していてそれが滴り溜まっている様だ。周囲数百m、高さ30m余の小さな岩山から水が染み出すというのも不思議だ。最近、雨が降っただろうか。思い出せない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八百比丘尼の伝説は若狭が良く知られているが、全国各地に広がっている。&lt;br /&gt;
昔、粟嶋神社の氏子の猟師が講を作っていたが、ある時一人の猟師が引っ越してきて講の仲間に入れてもらった。その猟師が講の当番になった時に、世話になったお礼といって皆を船で竜宮の様な場所に連れて行き歓待し、最後に人魚の料理が出された。誰も気味悪がって食べなかったが、袂に隠して帰った猟師の娘が偶然見つけて知らずに食べてしまったところ、18歳のままで年をとらなくなってしまった。何時までたっても年をとらなかったが、最後は世をはかなんで、洞穴に入り干し柿を食べつつ鉦を鳴らしながら生き絶えた。&lt;br /&gt;
その時に娘は800歳になっていたので、村人は哀れんで、八百比丘尼とか八百姫とか呼んで祀った。長寿の御利益があるという。&lt;br /&gt;
どこの伝説も内容はほぼ同じで、人魚の肉を食べた娘が年を取らなくなり800歳まで生きた、というものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不老不死になった娘が絶食だけで命を絶てるのも妙な話だが、これには、即身仏（そくしんぶつ）の伝承が重なっているのは間違いない。死ではなくあくまでも成仏、入定なので、不老不死でも息絶えられるのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
即身仏というのは仏教で僧が僅かな飲食だけで瞑想しながら半絶食状態で命を絶ち自然にミイラ化したものをいう。そしてその僧侶のミイラは仏として手厚く祀られる。&lt;br /&gt;
思想の背景は単純ではないが、苦行の末に現世の姿を保ったまま仏になる、成仏するという事のようだ。東北に多く残されていて、湯殿山は良く知られている。各地で公開されているので幾体か拝観したことがあるが、現在の感性からは崇拝対象としては少し違和感がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトのミイラの様に加工するのではないため、生前から死後の腐敗を防ぐ工夫が必要になる。先ず、筋肉、脂肪などを極限まで減らすために、穀物を絶ち水と木の実や根などの僅かな食物で過ごす木食修行（もくじき）というものを行なう。そして、地中にこしらえられた小さな部屋に埋められ、読経したり鉦や鈴を鳴らしたりして禅定する土中入定というものを行なう。空気穴として地上に出した竹から音が聞こえなくなったことで入定した事を知ったそうだ。&lt;br /&gt;
ミイラ化するのには時間がかかるので地下室を掘り起こすのはずっと後のことになる。&lt;br /&gt;
もちろん、ミイラ化するかどうかはその時の環境や偶然の要素が大きいので、腐敗してしまった場合の方がはるかに多かった。&lt;br /&gt;
また、掘り起こされずにそのままにされた土中入定も相当数あるのではないかと考えられている。忘れられたのだろうか。もし、そうなら何だか悲しい。僧は死を賭けて即身仏になろうとしたのに。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
因みに、即身成仏（そくしんじょうぶつ）という似た言葉もあるが、これは即身仏とは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この洞窟は静の岩屋と呼ばれる事から想像できるように、八百比丘尼の他にもう一つ伝承がある。大己貴命（おおなむち）と少彦名命が国造りをする時に、仮宮とした志都の石室だとする伝説だ。&lt;br /&gt;
大田市の静之窟は大きかったが、ここはかなり狭い(2008、大国主命の舞台４、静之窟）。&lt;br /&gt;
岩に開いている洞窟は中は少し広そうだがそれでも人が入るには狭過ぎる。多分、埋め立てられて地面が元の海水面より上がっているのだろう。洞窟は山形で上になるにつれて狭くなっているようなので、海に開いていた時は地面が低く、もっと裂け目は大きかったと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここの八百比丘尼の話は江戸の元禄ごろには知られるようだが、少彦名命の伝説はそれより古いだろう。粟嶋の名前から少彦名命と結びついたのが早いことは間違いない。後に静の岩屋とされるようになったはずだ。しかし、何故、八百比丘尼の伝説が生まれたのか不思議だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洞窟前は湿地になっていて八橋が架けてあり歩いて渡れるようになっている。隣の水鳥公園からの遊歩道の続きで、トンボ公園と呼ぶ場所らしい。水辺がトンボの生息地になっているようだ。&lt;br /&gt;
そこから見ると、粟嶋は湿地に浮かぶ原生林の小島だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水鳥公園に向かうと大変な遠回りになるので、もと来た道を帰る。&lt;br /&gt;
それまで人の気配が全くなかったのだが、立派なカメラを抱えた男性や、観光客風の若い女性など、三々五々と人がやって来るのには驚いた。意外に人気がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
途中に万葉集の歌碑がある。&lt;br /&gt;
大汝（おおなもち）、少彦名のいましけむ、志都（しつ）の石室（いわや）は、幾世経にらぬ（巻3-355）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kannon1011/53317458.html</link>
			<pubDate>Tue, 05 Feb 2013 20:46:04 +0900</pubDate>
			<category>旅行</category>
		</item>
		</channel>
	</rss>