龍應山「西明寺」は湖東三山で一番北に位置する天台宗の名刹です
五木寛之さんの「百寺巡礼」第三十四番に書かれた寺でもあります
西明寺は、今はそれほど大きな寺ではない
だが、かっては三百にのぼる僧坊が存在していたという
もちろん、当時の面影はすでにない
だが、石段を歩いていると、その両側に立ち並んでいたであろう
三百の僧坊のすがたが、浮かんでくるようだった
その石段がすばらしい
最近は、寺へ行くとまず石段に目が向いてしまう
室生寺の鎧坂という石段も好きだが
この西明寺の石段も非常に風情がある
五木寛之著「百寺巡礼」より
信長の比叡山焼き討ちは有名な話ですが
近江でも焼かれた寺は数多くあったようです
この西明寺もその一寺ですが、
二天門、本堂、三重塔は今も残っています
僧侶と地元の農民たちが協力して、寺を守ったのだそうです
彼らは策略を練って、二天門の下に薪を積んで自分たちで火をつけた
そして、攻め込んでくる武士たちに
二天門より上は全部燃えてしまった、と見せかけたという
・
・
おそらく武士たちは気づいていたのだろう
けれども
当時は神仏に手をかけると地獄に落ちる、と言われた時代だ
彼らも本心では寺の焼き討ちなどしたくなかったにちがいない
五木寛之著「百寺巡礼」より
堂の中は「仏像ミュージアム」と表現されるくらい
あらゆる仏像が安置されています
たくさんの仏像の中に親鸞聖人の小さな座像がありました
法然に帰依し、比叡山に反旗をひるがえした親鸞の像が
なぜ天台宗の寺「西明寺」にあるのか
伝承では越後へ向かう途中に西明寺に立ち寄ったという
そのためここに親鸞の木像があるということです
延暦寺の側では、反旗をひるがえした人物というより
俊英の宗教者の一人として親鸞を認めてきたのだろう
・
・
延暦寺には、自分たちこそ仏教の総合大学であり
日本の仏教の母胎だ、という自信があったのだと思う
だからこそ、その系列の「西明寺」に
こうして親鸞の像があるのではないか
私はそこに、トレランスというか、信仰上の寛容さ
懐の深さとというものを感じるところがあった
日本の仏教の始祖ともいえる聖徳太子は
「和を以て尊しと為す」と宣言した
これもトレランス、寛容の精神を説いたものだろう
五木寛之著「百寺巡礼」より
目を見張る美しい紅葉の「西明寺」を訪れて
思いもよらず親鸞聖人の小さな足跡を見つけました
|
*浄土宗総本山「知恩院・本堂(御影堂)」*
その日から範宴(親鸞)の新しい生活がはじまった
雨の日も、風の日も、ひたすら吉水の法然の草庵に通う
人びとにまじって念仏し、法然の語る言葉を聞く
範宴のこころをとらえてはなさないのは
念仏の意味や、本願の説明ではなっかた
法然の声や姿がおのずと発するなんとも言えない気配だった
大きくて、あたたかい
そして、この人の言葉に嘘いつわりはかけらもない
という信頼感であり、安心感である
中略
つまるところ、人格、ということか
小説「親鸞」より
こうして範宴は吉水草庵・法然のもとに連日通った
そして100日を過ぎた時
・・・きょうからそなたを、この法然の仲間の一人として
吉水に迎えよう。よいか」
いま自分はほんとうの師とめぐりあったのだ、と範宴は思った
小説「親鸞」より
法然の説く「他力本願」
浄土宗・浄土真宗の基本となる考えで
「南無阿弥陀仏」と称えれば
だれでも極楽に救いとられる・・・という教え
他力とは阿弥陀仏の本願力のことであり
自分の力で悟りに近づこうとするものではない
「・・・十悪五逆の悪人も南無阿弥陀仏ですくわれるなら
五つに障りがあるとかいう女子がすくわれるのは
当然ではありませんか。そうでしょう」
小説「親鸞」より
来年は法然上人800年大遠忌で
浄土宗あげての法要がなされるようである
知恩院奥にある勢至堂(法然上人御廟)には
信者の参拝があとをたたない
|
東山・吉水草庵
六角堂で聖徳太子の夢告を受けた範宴(親鸞)
百日参籠を終え、東山・吉水草庵へ
範宴はあえぐようにいった
「これは頭で考えてきめたことではありません
自分の計らいでもないのです
見えない大きな力、どこからともなく聞こえてきた声が
わたしを吉水へむかわせるのです
それを運命の声、といってしまえば安易にきこえましょう
しかし、わたしはいま、その大きな掌に
自分のすべてをゆだねる気持ちになっております
吉水へいけ、その声はいった
わたしは新しい第一歩を、
そこからふみださねばなりません
小説「親鸞」より
吉水草庵の地とされる「安養寺」
東山・吉水に草庵を開いていた法然は
連日、老若男女、あらゆる階層の人びとを相手に
念仏を称えればだれでも救われ往生できるという
いわゆる「専修念仏」を説いていた
範宴はこの草庵に百日間通ったという
「選択」・「本願」・「念仏」
多くの世の母親の中から
ただ一人の自分の母と出会う幸せを
「選択」(せんちゃく)という
そして、この世のあわれな者を
一人のこらずすくうぞ、という阿弥陀仏の誓いを
「本願」という
そのみ仏の本願を信じて
思わず体の奥からもれでる声
それが「念仏」というもの
小説「親鸞」より
|
六角堂に百日参籠
範宴は比叡山を下りて六角堂に参籠したとされているが
「小説・親鸞」では比叡山から通ったとしている
物乞いの家族たちが寺の軒下にうずくまっている
筵をかぶって回廊にふせっているすがたも見える
本堂からは経を合唱する声が流れてくる
それらのざわめきをよそに
合掌しつつ頭をたれている参籠者もいた
大半は浮浪の者と思われる貧しい人びとだが
なかには供をつれた身分の高そうな老人の姿もあった
範宴はそんな雑然とした寺の一角に身をおいて
ふしぎに心が落ち着くのを感じた
聖徳太子ゆかりの寺というのは、こうであって当然だ
小説「親鸞」より
参籠をはじめて九十五日目
聖徳太子の本地である救世(ぐぜ)観音が示現し
「六角堂の夢告」といわれるお告げをうける
「六角堂の夢告」
範宴が宿縁によって女性と交わることがあるなら
この救世観音が玉のような美しい女性となり
関係を持ちましょう
生涯修行者の人生を飾り
臨終のときには
極楽浄土に連れて行ってあげよう
(このようなお告げであったといわれてる)
救世観音は聖徳太子を写した観音像とされており
法隆寺・夢殿の救世観音は等身大といわれており
四天王寺・金堂の救世観音像は半跏像である
|
磯長で聖徳太子の夢告をうけてから十年
いくら修行を積んでも仏心をみいだすことができず
範宴には自らの煩悩を消すことができなかった
物欲や食欲などあらゆる煩悩は存在するが抑制はできる
性欲は抑制をしてはいるが本能として存在する
不邪淫戒を背負う僧侶・範宴にとって
超え難いもっとも苦しむ煩悩の一つであった
これらの煩悩を一掃できない自分に
人を救済することができるのか
夢の中でその人の声がきこえた
いま、まさに汝の人生は終わった
新しい命を求めるならば
私のところへくるがよい・・
・
・
・
夢の中できいた聖徳太子の声を範宴はくり返し考えた
私のところへくるがよい・・とはどういう意味だろう
・
・
・
「私のところ」とはどこだろう
磯長の太子廟だろうか
それとも、法隆寺か。四天王寺か
「六角堂だ」 と、範宴は思った
南都北嶺の名刹・大寺とちがって
六角堂は巷の庶民たちの集う寺として知られていた
「ここへこい」
と、あの太子はいわれたのだと彼は直感した
小説「親鸞」より
二十年間修行した比叡山・延暦寺と決別した範宴は
師・慈円のもとをはなれ
六角堂(紫雲山・頂法寺)で百日間の参籠をはじめる
写真は2008,01参拝時のものです
|