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秋色・高野山(2)金剛峰寺〜奥の院
『金剛峰寺』
『奥の院・参道』
『英霊殿』 『護摩堂』
四国のお参りは、三弘法詣(東寺・仁和寺・神光院)のあとに
はじめます。ぼちぼち周ろうと思っています。
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高野山参拝記
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秋色・・・高野山(1) 壇上伽藍〜霊宝館
11月1日、雨空を眺め、ちょっと躊躇しましたが高野山に
行ってきました。
今回は「もみじ狩り」が目的ではなく、四国巡拝の準備です。
「お参りに行ってきます」のご挨拶と、道中無事に廻れます
ようにの祈念です。
とはいえ、高野山は全山紅葉真っ盛り!
雨の中の「秋色高野山」を見てください。。。
『壇上伽藍』
『霊宝館』
「秋色・高野山(2)金剛峰寺〜奥の院」へつづきます
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雪の高野山。。。奥の院〜壇上伽藍
ぶそうです。「魚氷に上がる」・・・(暖かくなって湖
の氷が割れ、魚が跳ね上がる頃)季節だそうです
とはいえ、「毎日寒い日がつづきますね〜」
そんなこんなで、ヤケクソではありませんが、「雪
の高野山」をUPします。この寒さもなんのその、団 体さんや四国巡礼のお礼参りの人々も多く、奥の 院への参拝者はふだんと変わらずでした。
正面が「奥の院」です。
この橋から先は、撮影厳禁です。
「奥の院」から「壇上伽藍」へ・・・
この頃には雪は止んでいました。
壇上伽藍から、高野山真言宗・総本山 『金剛峯寺』 へお参りです。
1月26日の参拝記録です。
今日あたり、高野山はすっぽりと雪の中かも。。。
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新緑の高野山(2)・・・大石順教尼の記念館
この日は南海電鉄高野線・九度山駅で途中下車、真田のみちを歩きました。
目的は・・・
「さかなさん」が紹介されていた「大石順教尼の記念館」です。
九度山は言うまでもなく「真田幸村」の里です。また、高野山への表参道の出
発地点でもあります。
(大石順教尼のおさらい)
堀江のお茶屋「山梅楼」の芸妓「妻吉」(大石順教)。 明治38年、養父の萬
次郎が内縁の妻に対する邪推から楼内で刀を振るい、6人を殺傷。世に言う
「堀江六人斬り事件」である。この事件に巻き込まれた妻吉は両腕を切断さ
れながらも、一命をとり止める。
その後、二代目三遊亭金馬の一座などに入り旅の巡業をはじめるようにな
った。
その間、彼女は口で字を書く技法を習得、明治45年、日本画家山口草平と
婚、長男、長女をもうける。
昭和2年、夫と協議離婚し、身体障害者の相談を始める。
昭和8年、妻吉は出家得度し、名を「順教」(じゅんきょう)と改め、以来、仏道
の毎日を送る傍ら自分と同じ立場の身体障害者の世話をする福祉活動をは
じめる。
昭和22年、勧修寺の協力で佛光院を建立、昭和40年には勧修寺境内に「可 笑庵」を建立した。長年培われてきた口筆による書画は、ミュンヘン美術館で 個展を開催、多大の感銘を与える。
昭和28年、高野山奥の院に「腕塚」を建立、落とされた両腕を納骨
慈手観世音菩薩
生涯にわたり兄妹以上の付き合いを重ねた順教の一番長い生涯の友(マン
ガから)「柳家金語楼」さんの「落書き塚」が「腕塚」と並んでありました。
このクリンソウは奥の院の山裾に咲いていました。
御廟の橋から奥は撮影禁止ですが、どうしても「腕塚」にお供えしたく、一枚
撮らせて頂きました。
大石順教尼が福祉活動の本拠地としていた「勧修寺」です。
ここ「勧修寺」は京都で一番多く「水鳥」がやってくるお寺だそうです。
鳥がくちばしで小鳥に餌をやっているのを見て、口で字や絵を描くことをは
じめたという順教尼。
ここに飛来する鳥と同じように「勧修寺」に導かれたのかも知れない・・・2年
前に行った「勧修寺」の写真をみながらそんな事を思いました。
「身体には重い障害を負いましたが、心には何一つ障害を作りませんでした」
その言葉が今も心に響いています。 |
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新緑の高野山(1)・・・一の橋から奥の院へ
久しぶりに高野山を訪ねました。
私用も兼ね、5月27日と6月2日の二日、新緑の高野山を歩きました。
この日は千手院橋でバスを降り、一の橋からバス通りをはずれ石畳の参道
を通り奥の院へ・・・
片道歩いて約1時間の距離です。
三人の子供を連れた若いお母さんとすれ違いました。
四国八十八ヵ所を廻り終えたお礼参りでしょう、輪袈裟を掛けた幼子の後ろ
姿を見送りながら、色々な思いが駆け巡りました。
一の橋の少し手前に『熊谷寺』があります。
源平合戦で活躍し、一の谷の戦いで平敦盛を討った熊谷直実。
討った平敦盛が我が子と同じ歳であった事を悔い、この世の無情を感じ出家
したそうです。
法然上人の弟子になった後、この寺で平敦盛の法要を営んだとされています。 時の将軍・源実朝公は、当時「智識院」と呼ばれていたこの寺を『熊谷寺』を
改称されたそうです。 一の橋から石畳の参道を少し入った辺りから、戦国の世を駆け抜けた武将た ちの供養塔がつづきます。
その中に熊谷直実と平敦盛の供養塔が並んであります。
武田信玄と上杉謙信の供養塔が川中島の合戦さながら死後も対面して眠りに ついているように、高野山では敵味方関係なく弘法大師のもとで眠っています。
高野山を攻略中に本能寺で討たれた織田信長もここで眠っています。
敵をも受け入れる高野山の懐の深さだと教わりました。
熊谷直実・平敦盛から名付けられた「くまがいそう」と「あつもりそう」
阿維さんのブログで両方の花が咲いた阿維さんの庭が紹介されています。
6月2日の帰り、中の橋にかかったあたりで、時ならぬ夕立に遭いました。
雨に煙る参道に幽玄の世界が・・・
新緑の高野山(2)は「大石順教尼と腕塚」の予定です。
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