あの愛しさ、あの激しさで 走り抜けた 遠い日よ… (*徳永英明 「黄昏を止めて」より) 例えば、10代の頃に読んだ本を数年後、数十年後になって読み返してみた時、 あの頃と同じ感情・想いで読み進めることができるだろうか? 同じ件に共感を覚え、あるいは反発し、 再びあの頃に絶対だと思っていた価値観を冒険心を再燃させることは可能だろうか? ある人曰く、青春と呼ばれるものは、 「喪われた“時”を憧憬のうちに思い返す営みに過ぎない」というものであるとすれば、 僕が辻仁成の『ニュートンの林檎』を今、再びこうして読み返す作業は、 「喪われた時」の欠片を海岸沿いの砂浜に書きなぞる作業に過ぎないのかもしれない。 やがては波間にさらわれ、まるでそんな“時”は存在しなかったのだと無言で諭されるまま 日常に戻っていく。 『ニュートンの林檎』−10代の頃に出会った男女二人の永遠の友情と恋慕の物語。 あっという間に駆け抜けた10代・20代。 二人は何度も出会いと別れを繰り返し、時には何年も会うことはないまま、 別々の世界でそれぞれの人生を送る。 けれども、まるでニュートンの林檎が地球の引力に引き寄せられるように 二人の間を誰よりも強い引力によって引き寄せあう。 そんな二人の周りを様々な人々が駆け抜け、 陰謀・憎しみ・嫉妬・悲しみ・裏切り・希望・友情・憧憬が混在し、 一種のカオス的世界を創り上げていく。 舞台も、東京から北海道、イタリアのベネツィア、九州と次々と変わっていき、 空間的な広がりの中で登場人物達の荒々しい「生への渇望」が描かれていく… 学生の頃、10代終わりの頃、僕が初めて『ニュートンの林檎』を読んだ時、 その壮大な世界観に圧倒され、大いに冒険心を刺激されたのを覚えている。 最近になって、古本屋で『ニュートンの林檎』を再び探し当て、 今、こうして読み返しいるのも、僕自身のあの頃感じていた想いを もう一度、触れてみたくなったから。 けれども、残念ながらあの頃の想いそのままで読み進めることができない自分がいる。 何処か醒めた目であの頃を眼差す自分がいて、 読み進める間、懐かしさはあっても、言葉の一つ一つに虜になっていた自分はもういない。 あの頃の僕自身の感情も波間に掻き消されてしまったのだろうか? それを、成長と呼んでもよいのだろうか? そうだとすると、その成長過程で僕は何を得て、何を失ってしまったのだろうか? そして、得たものと失ったものと、どちらがより大きな比重を占めているのだろうか? 多分、僕は数年後、あるいは数十年後に再び、 この『ニュートンの林檎』を読み返すだろう。 その時、僕の気持ちがどう変化しているのか、 その時には、小説をどのように受け止めることができるのか、 再び試してみようと思う。 …お前の前に、純情な、恐れを知らぬ魂が姿を現す。 (by 在りし日のトリマルキオ 「不死鳥」より) |

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