…未来を知る方法は二つある。 by P.F.ドラッカー 何時ぞやの週刊『ダイヤモンド』を読んでいると、上記のような言葉があった。故ドラッカー氏は続けてこう説いたと言う... 一つは、自分で創ることである。
もう一つは、すでに起こったことの帰結を見ることである。そして行動に結びつけることである。
特に一点目の「未来」に対するドラッカーの捉え方は、曲がりなりにも歴史学を勉強してきた(つもりになっている?)僕には、大変、興味を引くものであった。歴史学は、過去にあった歴史現象を史料を通じて再構成する、と言う言い方も一応はできそうだが、それは、決して未来を予測する学問ではない。つまり、過去にあったこと(事実?)は、あくまで過去の出来事に過ぎず、一見すると、如何に現在に似通った出来事が起っているとしても、過去の歴史的帰結を元に現在が向かいつつある未来の帰結を予測し得るものとはならない。 その意味で言えば、歴史学を学んできた者にとって、過去に目を向けてきた者にとって、「未来を知る」と言う表現は、時に嘘っぱちに聞こえてくる。「どんな歴史も決して繰り返されることはなかったし、表面上、どんなに似通っていても、結局、その原因も、過程も、帰結も、実際には、個々の事象ごとで違うじゃないか!」と言う具合に... けれども、「未来を知る」こととは「自分でその未来を創ること」である、と説かれた時、不思議と素直に納得!と言うか、何故か新鮮に感じられた。今まで、過去に眼を向け、過去に起った事象を解明しようとしてきた一介の学生が、これから社会に出て、「未来」を志向していかねばならない立場に立たされようとする時、その「未来」とどう向き合っていけばよいのかについて、重要なヒントを与えられたような気にもなる。 「過去への眼差し」から「未来への志向」へ、「創ってきたものを傍観する立場」から「これから創るものを評価される立場」への意識改革の必要性を問われたようにも思われる。そして、歴史を学ぶことの意義を自分の中で再定義しなおす必要があるのだともつくづく感じさせられた。 追記 それでも、「古代ローマ」と言う異世界とそこに生きた人々を自分なりに学び、解釈してきたことは、決して無意味なことではないと思っている。僕にとって、「古代ローマ」は、「過去」と言うよりも、「異文化」や「異なる社会」、もっと言えば、「異なる人格」(*「他者」)なのだと思う...
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