From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

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前々から、いつ紹介しようかと思っていたのだが、今回は古代ローマ時代の遺跡「ヴィンドランダ要塞」に関する超、超、チョー♪有益なサイトを紹介したいと思う。

 ↓ ↓ ↓

http://vindolanda.csad.ox.ac.uk/
・"Vindolanda Tablets Online"
(*尚、日本語によるサイトの説明もあるので、併せて眼を通しておきたい
 →(http://www.inview.jp/user_study/oxford/pg_0001.htm))

因みに、「ヴィンドランダ要塞」とは、

英国大ブリテン島の北部,イングランド地方の最北端,スコットランド地方との境界近くにヴィンドランダVindolandaと呼ばれる古代ローマ時代の遺跡がある。この遺跡は,紀元1世紀末から2世紀前半にかけて(85年〜120年頃)属州ブリタニアの北の境界線を固めていたローマ軍(補助軍)部隊の駐屯地の遺構

「ヴィンドランダ木簡とローマ女性の書簡/島田 誠」(より抜粋。)

であるが、この遺跡から多数の「木簡」が見つかっていることでも有名である。

実際、先に紹介したサイト名の中に"Tablets"と言う表現があるように、ここから見つかった木簡の分析だけでも、古代ローマ帝国の「軍隊生活」及びその家族達の暮らしを、まさに「生きた声」として歴史的に再構成していくことが可能となる。

このサイトの主な特徴は、やはり、数々の木簡を画像(+場合によっては詳細な説明付き!)で観ることが出来る点である。時には当時の人々の文体や書体(しばしば解読し辛い!)を現代人に分かりやすいように書き直し、説明してくれているのもありがたい。


これは、古代ローマ好きは是非とも利用したいサイトである!


尚、ヴィンドランダ要塞及び木簡について触れているページへのリンクを以下、2点挙げておく。

 ↓ ↓ ↓

http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/geppo/255.html#3
・ヴィンドランダ木簡とローマ女性の書簡
 (『地中海学会月報』255/島田 誠)

http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/geppo/277.html
・ハドリアーヌスの防壁(長城)─最果てのローマ帝国軍の要塞─
 (『地中海学会月報』277/島田 誠)


以上、紹介!
 …そうか!君も好きか...


 いつも僕が拝読しているブログ『舞姫』の中に、イタリア映画『イル・ポスティーノ』について触れた記事があったので紹介!

 ↓ ↓ ↓



それで、懐かしくなり、以前、このブログ内で書いたものの、削除した詩人ネルーダに関する記事を敢えて復刻させることにした。
(*元ネタだけは保存しておいたからね...)

 ↓ ↓ ↓



因みに、『舞姫』のブログ管理者と僕とは一切の面識はありませんので...
(*単に西洋史繋がりと言うことで興味を抱かせて頂いてしまったわけです。)


『舞姫』は独特の感性と文章表現で毎回、大いに愉しませてくれるので、
大変気に入っています!


と言うわけで、

 …君の未来に輝かしき栄光あれ!

(by 僕は挫折したよ、と呟くトリマルキオ...)



追記

例に漏れず、勝手に紹介である...
'Aqui'

Me vine aqui a contar las campanas
que viven en el mar,
que suenan en el mar,
dentro del mar.

Por eso vivo aqui.


(邦訳)

   「ここに」


僕はここにやって来た、鐘を数える為、
海に生きる鐘、
海で鳴り響く鐘、
海の中の鐘を。

これゆえ、僕はここで生きているのだ。


Pablo Neruda, in "El mar y las campanas"
訳:トリマルキオ


 詩人パブロ・ネルーダを知っている人、あるいは、何らかの形でその名を耳にした人は多いことだろう。20世紀にチリが生んだ至高の詩人である。そして、sinistra(*1)でもある。スペインの詩人ロルカなどとも親交があり、亡命生活を余儀なくされた経験も有する。その為、彼の詩には、しばしば深い苦悩が表れる一方、世界に絶望することなく、友情や愛を強く信じ続け、そして謳い続けた。その最期は、世界を信じ続けた彼にとっては、あまりにも苛酷なものとなってしまったけれども...

 この詩人については、イタリア映画でフィクショナルな題材(*2)として取り上げられたこともあるので、もし、まだ観たことのない方がいれば、一度、ご覧になるのも良いかもしれない。


イメージ 1

『イル・ポスティーノ』のDVDジャケ


 この映画は、ナポリにも近いプローチダ島と言う小さく長閑な島であり、カプリ島やイスキア島とともに、風光明媚な島として知られる場所を舞台に撮影された物語である。プローチダ島の丘からの眺めや浜辺の美しさ、と言った景観美を愉しむことができると共に、南伊が恒常的に抱える貧困と、その中でも逞しくヴィータを生き続ける人々と、亡命詩人との暖かく、そしてラストへと向かう甘酸っぱく、少し物悲しい交流と人間模様を描いたストーリー性、更に、主人公役だった俳優の撮影後間もなくの病死、と言う何とも言いがたいエピソードも相俟って、多くの人を感動させてくれる映画とも言えるだろう。


 話を本題に戻す。


 ネルーダの詩は、決して世界に絶望することなく、友情や愛、そして、生きることを強く訴えた力強く、また勇気付けられるものも多い。詩人の軽妙な「メタファー」もあって、その詩は、美しく、そして、それ故、読み手の心を揺り動かさないではいられない不思議な「力」がある。

 ところで、詩が、真に人の心を揺り動かすのは、「怒り」を歌う時である、と言う表現を文学評論家の加藤周一氏が用いていたのを思い出す。フランスの抵抗詩人達、ルイ・アラゴンやポール・エリュアールが、単なるシュールレアリストとしてではなく、真の意味で、フランス国民の希望の星、絶望の中の一筋の光となり、レジスタンス活動の賛歌となり得たのは、彼等の詩に、「怒れるフランス人」を見出し得たからだと...(*3)
 その意味で言えば、おそらくネルーダの詩にも、チリ国民を、そして、世界をも(*4)揺り動かす「怒り」が存在していたとも言えるのかもしれない。
 とは言え、詩とは「メタファー(*隠喩)」の世界でもある。そして、メタファーは受け手の時々の情況によって、如何様にも再解釈され得るものであるし、しばしば詩人もそう願う(*必ずしも、ではないが...)。

 ネルーダの詩には、mar(*「海」)と、campanas(*「鐘」)と言う「メタファー」がしばしば現われてくる。無論、この2つの用語は、「メタファー」であると同時に、実在そのものでもあろうが。
 詩人が、「鐘」と言ったり、「鐘の音」と言う時、それは、「悲しみ」のことであり、「喜び」のことである。あるいは、「人」であり、その人の「人生」のことである場合もあるだろう。

 だから、

鐘を数える為、僕はここにやって来た。

と言う時、それは、「僕は人々の悲しみを知る為に、今、生きている。」と解釈することもできるかもしれない。あるいは、その鐘は、「僕は今、こんなに幸福を味わっているんだ。」と言うことを意味することもあるかもしれない。

 詩人が、「海」と言う時、それは、「世界」のことを意味するかもしれない。そして、それは、人間が住む「大地」との「対立項」で捉えられた、もう一つの「世界」を意味しているのかもしれない。もし、「大地」が、戦乱や圧制の恐怖で満ち満ちているのであれば、詩人にとって、「海」は、そうしたこの世の苦しみを一切拒否する「自由な世界」を意味するかもしれない。あるいは、「海」は万人を拒むことなく「ただ」受け入れるものでもあり(*5)、また、正反対に、人知の及び得ない、全てを拒む「超然とした世界」そのものを意味することもあるかもしれない。

 何れにせよ、詩は、詩人のものであると同時に、読み手のものでもある。詩によって生命を吹き込まれた「メタファー」は、読み手一人ひとりのその時々の情況によって、何度もこだまを返すだろう。その時、「メタファー」は、文字通り、「言葉」そのものとなる。つまり、読み手一人ひとりの日々の生活になくてはならない「生きる糧」とも「生きる希望」ともなるのだろう...


'Inicial'

Hora por hora no es el dia,
es dolor por dolor :
el tiempo no se arruga,
no se gasta :
mar, dce el mar,
sin tregua,
tierra, dice la tierra :
el hombre espera.
Y solo
su campana
alli esta entre las otras
guardando en su vacio
un silencio implacable
que se repartira cuando levante
su lengua de metal ola tras ola.

De tantas cosas que tuve,
andando de rodillas por el mundo,
aqui, desundo,
no tengo mas que el duro mediodia
del mar, y una campana.

Me dan ellos su voz para sufrir
y su advertencia para detenerme.

Esto sucede para todo el mundo :

continua el espacio.

Y vive el mar.

Existen las campanas.


(邦訳)

   「序文」



一時一時が、一日なのではない。
一日とは、悲しみに次ぐ悲しみなのだ。
時は、しわくちゃとはならず、
擦り切れたりなどしない。
海は海と言う、間断なく。
大地は、大地と言う。
人が待っている。
ただ、鐘が
そこかしこにある、
虚しさの最中、
沈黙を押し留める術はなく、
広がっていくだろう、波が、波が、
金属の言葉を生み出すなら直ぐにでも。

世界の中、跪きながらも、
多くのものを持っていた僕が、
ここでは、裸一つであり、
僕は何も持ち合わせてはいない、
海の苛酷な正午と、鐘以外には。

それらの声は僕に苦しみを与え、
それらの警告が僕に止まれ、と言う。

これは全ての者に起っていることなのだ。

その領域はますます広がってゆく。

生きているのは海だ。

息づいているのは鐘だ。


Pablo Neruda, in "El mar y las campanas"
訳:トリマルキオ(*駄訳...)


 時は、意味もなく過ぎ去ったりはしない。それは、常に、悲しみに彩られている。人はその生の中、なす術もなく、茫然自失としながら、ただ待ち侘びるのである、海から響き渡る鐘の音を!鐘は、やがて、全ての者に高らかに響き渡り始めるだろう!悲しみにあっても、なお、「生きよ!」と警告するだろう!

 詩人にとって、「海」の中で鳴り響く「鐘」は、「生」への希求、渇望に他ならない。そして、同時に、「希望」でもある。世界は悲しい。何故なら、彼の生きている時代、あまりにも多くの戦乱や圧制が、彼の周りの世界に吹き荒れていたから。だが、それでも、人は、生き続けなければならない。鐘の音を、響かせ続けなければならない!それが、「生きる」ことであり、「生きる」意味そのものだから。


 パブロ・ネルーダ!

 貴方もまた、いつまでも歌い継がれる「大いなる感動」の詩人なのだろう...


Muchas gracias, y hasta la vista !


追伸


詩集"El mar y las campanas"(*『海と鐘』)の最後の詩'Final'は、
最愛の婦人マチルデに捧げられた詩である。

「マチルデ、…僕はこんなにも美しい日々を生きてきたのだ、君が生きてきたその日々を!」


詩人の最期は、信じ続けたものが踏みにじられた、あまりにも無残な結末だったと言う。
再び、チリで独裁政権が息を吹き返し、詩人の願い続けた未来は、詩人と共に息絶えた、と言う...



*1:ちなみに、僕はそんなことはないので!無論、destraでもないが...
*2:ネルーダが一時期、イタリアに滞在していたのは事実であるが...
*3:加藤周一 エッセイ「途絶えざる歌」より。
*4:と言うのも、彼は、ノーベル文学賞を受賞してるから!
*5:by アルベール・カミュ

ラ語壱日: Cerberus(15)

canis salit.
犬が飛び跳ねる。

・canis < canis, -is; (名)m. sg. nom.: 犬
・salit < salio, ire; (動)現,3単: 飛ぶ、はねる、踊る...


【備考】
…犬!?はっは〜ん!あいつのことだな...

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