From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

古代ローマについて

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古代ローマ関係の動画をYou TubeにUP!しておいたので、お知らせ。
今回は、南イタリアの港町ポッツォーリに残存する古代ローマ時代の遺跡・剣闘士闘技場跡の地下の様子。
(※参考:ポッツォーリ:古代ローマ時代の剣闘士闘技場跡 in this Blog !)

ポッツォーリ:古代ローマ時代の剣闘士闘技場跡2(地下の様子)

古代ローマ時代に栄えた港町プテオリ(※現ポッツォーリ)にある「剣闘士闘技場跡」­の地下の様子。
アーチ状の入り口内の各部屋には剣闘士闘技やその他様々な見世物として供される動物の一時的な収監所となっていた。
また、通路沿いアーチ状の各部屋への入り口の両端に等間隔に出っ張りがあるが、おそらく動物を地下からアレーナへ移動させる際に利用したエレベータの構造の一部ではないかと思われる。

ポッツォリの円形闘技場は、地上・地下共にかなり良質な状態で保存されている為、古代ローマ時代の円形闘技場の様子を観察するには非常に適した遺跡である。

by トリマルキオ(kannriromaken)


【参考画像】

イメージ 1

 剣闘士闘技場地下への入り口


イメージ 2

 剣闘士闘技場地下の様子1

イメージ 3

 剣闘士闘技場地下の様子2

イメージ 4

 剣闘士闘技場地下のエレベータ構造

イメージ 5

 剣闘士闘技場地下の様子3


古代ローマ関係の動画をYou TubeにUP!しておいたので、お知らせ。
今回は、南イタリアの港町ポッツォーリに残存する古代ローマ時代の遺跡・剣闘士闘技場跡。
動画が若干暗めなのが残念ですが…


ポッツォーリ:古代ローマ時代の剣闘士闘技場跡

南イタリアのフレグレイ平原に存在する古代ローマ時代に栄えた港町プテオリ(※現ポッツォーリ)に二つの重要な遺跡がある。一つは現在の港をすぐ見下ろす位置にある古代の「市場跡」(※紀元前2世紀頃)で、もう一つがより内部に位置する「剣闘士闘技場跡」である。
この剣闘士闘技場は、楕円形の長径74.78m:短径42mと、現在残存している闘技場の中でも世界3番目と相当の規模を誇る。
この円形闘技場は、紀元後1世紀フラウィウス朝期ティトゥス帝代のものと考えられているが、同じ時期にローマではコロッセウムが建設される等、剣闘士闘技が「パンとサーカス」における興行としてシステマティックなものとなり、ローマ市民がますます見世物に熱狂していく時代であった。

動画では、通り口を通ってアレーナへ入っていくが、この通り道こそかつて剣闘士達が観衆の面前で闘い血を流す為にアレーナへ向かう為の通り道であった。またアレーナ内に入ると床面の中央に大きく開いた穴や、左右に等間隔の正方形型の穴を見ることができるが、闘技中、アレーナの地下よりこの穴を通じて、様々な猛獣が滑車で揚げられ剣闘士との闘いや猛獣同士の闘いへと駆り立てられた。ただ、1世紀の牧歌詩人カルプルニウス・シクルスによると、こうした穴はただ猛獣を剣闘士闘技へ供する為に用いただけでなく、マジックショーの仕掛けとして、あるいは中央の穴等は、森を模造する為に人工的に木々を植える為にも利用されていた。

古代ローマ時代における剣闘士闘技の存在意義を当時の時代背景・政治文化と重ねて合わせて考えることで、より正確に実態を把握していけるのではないか…

by トリマルキオ(kannriromaken)


【参考画像】


イメージ 1

 剣闘士の入場口より臨む観客席とアレーナ

徐々に近づく観衆の熱狂的な喚声を聴きながらアレーナへと入場する
剣闘士の気持ちはどんなものであったろう。


イメージ 2

 アレーナの光景

アレーナ前方に見える四方形の穴より、滑車を利用して地下より猛獣をアレーナ内への引き上げていた。


【編集後記】
ポッツォーリを訪れた際、丁度、イタリアの小学校の遠足時期だったようで、
幾人かの子に人懐っこく話しかけられたのを記憶している。
カルチョとTVゲームが大好きなイタリアっ子は先生の説明もろくに聞かずに、
仕切りに「ソニーのプレステ持ってるか?モリモト知ってるか?」と尋ねてきました。
(※最後には、引率の先生に怒られすごすご去っていきましたが…)

おかげで集中して遺跡見学ができませんでしたが、
これはこれで一つの思い出ということで…


古代ローマ関係の動画をYou TubeにUP!しておいたので、お知らせ。
本日の公開は、昨日紹介した海港都市オスティア遺跡より出土した
「コルムバリウム」(※鳩小屋の意味)と呼ばれる集合墓(M・サエニウス・アリストーの墓)
の様子を撮影したものです。



オスティアの集合墓(M・サエニウス・アリストーの墓)

古代ローマ時代の海港都市オスティア都市内部への入口はネクロポリス(死者の街)であった。しかし、古代ローマ時代の墓地は、人里離れたひっそりとした土地に設置されるのではなく、しばしば人々の往来の激しい都市入り口に所狭しと乱立していた為、興味深い特徴を帯びることとなる。
既に記念碑文や奉納碑文を通じた意思表明を明示する習慣のあった古代ローマ人は、彼等が「生きた証」を明示する為にこうした墓所の玄関口や一際目立つ場所に墓碑銘を設置し、自らの名や業績を観衆に訴える手段として利用した。
また、墓碑銘にはしばしば、誰が誰の為に設置し、墓所の中に誰が入ることが出来るのか、また、各々の墓所の領域はどの程度の範囲であるかを明示的に示すことで、故人と子孫の「生前の記憶」を保護し守り抜こうとした。

今回紹介する動画でも、古代ローマ人の「生きた証」を明示し「生前の記憶」を守り抜こうと躍起になっているM・サエニウス・アリストーなるオスティア市民に設置された墓所及び墓碑銘の存在に気付かされるだろう。
この墓所は紀元前後の古代ローマ社会で一般的であったコルムバリウム(※鳩小屋の意味)と呼ばれる集合墓であるが、アリストー自ら「生前の間に設置」し、「幅20ローマンフィート、奥行25ローマンフィート」のこの墓所には「自分と子孫、自分の被解放自由人のみ墓所に入る」ことが出来ると墓所の玄関口に掲げられた碑文に明示している。
玄関より墓所内に入ると、各々の骨壷を置くための壁龕(ニッチ)が設置されている様子を見ることが出来る。この壁龕の下部にはしばしば故人の墓碑銘が掛けられ墓所内を訪れる家族や友人・子孫に故人が「何と言う名前で何をしていたのか」を明示的にかつ永続的に表明していた。

古代ローマ時代における墓碑は、故人(場合によっては生前の間から)が永続的な記憶を勝ち取ろうと躍起になっている「記憶を巡る闘争の場」であったとも言える。

by トリマルキオ(kannriromaken)



【参考画像】


イメージ 1

 アリストーの集合墓の外観

手前に見える白枠内に碑文が刻まれている。


イメージ 2

 アリストーの集合墓に設置された墓碑銘

M・SAENIVS・ARISTO/
FECIT SIBI ET/
LIBERTIS LIBERTABVS/
POSTERISQVE EORVM/
IN FRONT P XX IN AGR P XXV

【訳】
マルクス・サエニウス・アリストーが自分の為、被解放自由人の為、子孫の為に設置した。
この墓所の領域は幅20(ローマン)フィート、奥行25(ローマン)フィートである。

注)1pes(ローマンフィート)=29.6cm


イメージ 3

 アリストーの集合墓の内部の様子

骨壷を置くための壁龕(ニッチ)が等間隔に並んでいる。
この壁龕が等間隔に並んでいる様子があたかも鳩小屋のように見えたことから、
集合墓は「コルムバリウム」と呼ばれることとなった。


【最後に一言】
初めてオスティア遺跡を訪れた時、最も衝撃を受けたのが、
実はこうした墓地通り(ネクロポリス)の墓碑や石棺、墓碑銘でした。
書物でしか知らなかった「永続的な記憶」を求めて止まない
古代ローマ人の並々ならない情熱に触れた瞬間でもあったのかもしれません...



古代ローマ関係の動画をYou TubeにUP!しておいたので、お知らせ。
本日の公開は、ローマよりティベル川を南西に30km下った
海港都市オスティア遺跡より出土した交易人組合所跡の様子を撮影したものです。



古代ローマ時代の海港都市オスティアにおける交易組合所跡

古代ローマ時代においてオスティアが繁栄した理由は、この海港都市がローマと属州とが海を通じた交易活動・穀物供給を実践して行­く上での中継地(玄関)であったからである。
アウグストゥス帝によって確立された「ローマの平和」(pax romana)の下、属州各地からやってくる交易人組合はしばしばその足跡をオスティアに残して行く。例えば、各々の組合所に敷­き詰められたモザイクの形で...
ナルボネンシス(南仏)や北アフリカ等、地中海沿岸の属州各地から穀物や象牙を売買する為にオスティアへと寄港した交易人は、そ­れぞれの出身地の組合所で手続きを行なうなど様々な業務をこなしていた。また、こうした組合所は様々な意見交換の場でもあった。
こうした組合所は、都市の中心部に位置する円形劇場の裏手に建設された豊穣と穀物の神ケレス神殿を取り囲む形で設置されていた。

オスティアに残るモザイク画は、古代ローマ時代の繁栄を偲ぶ最良の遺物である。

by トリマルキオ(kannriromaken)


【ちょこっと紹介】
オスティア・アンティーカに残る遺物、とりわけモザイク画は
この遺跡が海港都市であったことを偲ばせる海に纏わるモティーフで満ちています。
今回紹介した動画にも、イルカや海産物、穀物や葡萄酒を入れるアンフォラ、商船といった
活発な交易活動を物語るモザイク画が多く描かれており、
何となく開放的な気分にさせてくれます。

ローマを訪れた際には、是非、オスティアにも足を運んでみて下さい。
(※マリアーナ駅よりオスティア・リド線で30分〜40分程度、料金も1-2ユーロ程度。
  遺跡入場料は4ユーロ?(詳しくは忘れた))

【参考ページ】(当HP内)
https://romaken.web.fc2.com/history/ostia/ostia-04.html
(04.交易の中継地オスティア)


【最後に一言】
オスティアは僕に卒論のテーマを与えてくれた遺跡でもあり、
ある意味では、他の遺跡以上に深い思い入れがあります。


古代ローマ関係の動画をYou TubeにUP!しておいたので、お知らせ。
本日、第2弾は南イタリアのベネヴェントに残る古代ローマ時代の劇場です。



ベネヴェントに残る古代ローマ時代の劇場

南イタリアの中小都市ベネヴェントは、古代ローマ時代にはアッピア街道沿いの中継都市として経済的に発展していた。帝政期のトラヤヌス帝代には、アッピア街道がローマから海港都市ブリンディシまで開通したことを記念し、「トラヤヌス記念門」が設置された。
この都市には、記念門と並び古代ローマ時代の重要な遺跡として劇場が発掘されている。この劇場はハドリアヌス帝代の頃に建築されたものだが、直径約90メートルと相当な規模であった。
ところで、古代ローマ時代の劇場は、大別すれば、Pulpitum(俳優が上演する舞台)、Orchestra(舞台手前の半円形状の合唱隊の待機する場所)、及びCavea(観客席)の3つの要素に分かれていた。
今回の動画では、劇場の裏から舞台(Pulpitum)に向かって歩きながら撮影している。いかにこの劇場が広く、当時の舞台が臨場感溢れるものであったかを感じ取ることができるだろう。

by トリマルキオ(kannriromaken)


【ベネヴェントのちょこっと紹介】

ベネヴェントは紀元前8世紀頃、サムニウム人により建設されて以来、
発展し続けてきた都市ですが、古代遺跡のみでなく、
中世の町並みも色濃く残しているので、
ナポリからのちょっとした周遊観光にも最適です。
町並みはもちろん、田園風景に囲まれているため長閑で、
カローレ川からの眺めも美しく、
騒然としたナポリ滞在に疲れた方は、
ベネヴェントでちょっと一休み、なんてのもよいかも!
「トロンチーノ」と呼ばれるアーモンドの入ったヌガーなどの
お土産品も充実しており、色々と楽しめると思います。
(*ナポリから列車で1時間半〜2時間程度)


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