From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

古代ローマについて

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古代ローマ時代に関する歴史や文化、生活、etc...について投稿を行います。
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久しぶりに動画をUP!したので、ROMA-KEN.comからのお知らせです。
(*まだ、HP上には掲載しておりませんが...)


 今回、UP!した動画はローマの「フォーリ・インペリアーリ通り」脇にあり、フォロ・ロマーノからも直ぐ近くにある古代ローマ遺跡である「トラヤヌス広場」と「トラヤヌス市場」に関するものです。


 「トラヤヌス広場」については、「トラヤヌス記念柱」に関してラングドン教授(*『ダヴィンチ・コード』の主人公ね!)ばりの奇抜な発想を有するゼミの後輩君(*彼のことを「ラングドン青年」と呼ぼう!)に書かせたいと思っているので、今回は詳細な説明は省きますが、広場内部に、「ギリシア・ラテン語図書館」、「神殿」、「市場」、そして、「記念柱」を兼ね備えた、「政治」、「経済」、「宗教」、「文芸」の壮大な規模を誇る「一大総合センター」であると言えるでしょう。


 以下がその「広場」全体の復元図と動画です。


イメージ 1

「トラヤヌス広場」の外観の復元図


「トラヤヌス広場」の全貌

五賢帝時代のトラヤヌス帝代に設計された「トラヤヌス広場」は、「トラヤヌス記念柱」、「ギリシア・ラテン語図書館」、3、4層構造の「市場」からなり、政治・経済・文芸の中心地として機能していた。

by トリマルキオ(kannri_roma_ken)


 この動画は、「トラヤヌス市場」の4階テラスから撮影したものですが、「トラヤヌス広場」の全貌を確認することが出来、「広場」が相当の広さを誇っていたことを理解できます。実際、この「広場」は「幅185m × 奥行き310m」もの規模を誇ります。
(*隣接する「カエサル広場」や「アウグストゥス広場」の約3倍!)


 続いて、「トラヤヌス市場」の外観の復元図と内部の動画です!


イメージ 2

「トラヤヌス市場」の外観の復元図


「トラヤヌス市場」の内部の様子

「トラヤヌス広場」の一部に組み込まれていた「市場」は、3,4階建ての階層構造となっており、そこに様々な商店が軒を連ね、現代の総合デパートのような体裁をしていた。まさに、当代の「一大商業マーケット」として機能していたのである。

by トリマルキオ(kannri_roma_ken)


 この内部通路を歩く方向に従って左手に見える各室が、かつては、各々、倉庫であったり、店舗であったりしました。この市場は、大体、3,4階建てとなっており、全部で百数室ほどあったと記憶しています。まさに、現代の「大手百貨店」並みの規模を誇っているとも言えるでしょう!
(*尚、動画の最後に遠目にチラッと映っていた「白っぽい円柱」が、トラヤヌス記念柱である。)


 ついでなので、「トラヤヌス記念柱」に関するページ・リンクを以下に貼り付けておきます。

 ↓ ↓ ↓



 また、「トラヤヌス記念柱」に描かれているレリーフの一部は、古代ローマ時代における「軍医制度」の研究者にもしばしば注目されています。

 ↓ ↓ ↓

「古代ローマ時代の「軍医」1」(in このブログ)
(*掲載画像の箇所だけでもご覧頂けますと幸いです!)



 まあ、詳細は、我等がラングドン青年!に紹介してもらうとして、取り敢えずは動画UP! の「お知らせ」でした。



by トリマルキオ & ROMA-KEN


(尚、復元図及び動画は、ブログ管理者が現地で撮影したものである。)



参考文献
・青柳正規『皇帝たちの都ローマ』中公新書、1992年。


追伸

でも、ラングドン青年!、なかなか口説き落とせないんだよな...
(*結局、僕が書く羽目に陥るかも...)
たまには、こう言う小話もいいだろう!

eb 少しお疲れ気味のトリマルキオ!


 古代ローマ時代の伝記家スエトニウスによると、かのカエサルは日常的に暗号を用いていたと言う。それが、以下の記述である。


…私信の中でカエサルは他人に分からぬように伝える必要のあるものは、一種の暗号で書いた。つまり、字母の配列順をずらして、いかなる単語も意味が通じないようにした。このような暗号文を解読し意味をとらえるには、字母Aを四番目のDと読み替え、Bの代りにEと、以下同様に読み替えていくとよい。…

(*Suet. Caesar, 56 ; 訳、国原吉之助。)
注)原文では、ここまで詳しくはかかれていない。


 現在では、この暗号方式のことを「カエサル暗号」と呼んでいるが、文字を「ずらす」ことから「シフト暗号」とも呼ばれている。暗号方式としては、極めて稚拙な部類だと思われ、実際には簡単に見破られていたのではないかとも思われるが、既に「アルゴリズム」(*この場合、端的に「シフト」のこと。)と「キー」(*この場合、「3」!)と言う二つの要素を併せ持っていた為に、コンピュータ工学的(*特に「暗号化技術」において。)にも注目されていたりもする。


 ところで、この「カエサル暗号」の「平文」と「暗号文」を対照したものが以下の表となる。尚、以下の表は記事投稿者が作成したものである。

イメージ 1

注)カエサルの時代は「古典ラ語」の時代であり、23文字のアルファベット!

「暗号化の仕方」

A → D
B → E

と言うように、「3」ずつ右に「ずらす」。ただし、「平文」Xの所で、Aとなる。

例)PAVSA

P → S
A → D
V → Z
S → X
A → D

従って、「暗号化」された文は、「SDZXDとなる。
尚、「暗号文」を「平文」に戻す場合は、「3」ずつ左に「ずらす」。


 このように、「カエサル暗号」は極めてシンプルなものであるが、カエサルがこの暗号方式を考案した背景には、万が一、政敵の元に「私信」が渡っても、直ぐにはその内容を見破られないようにしていた為と思われる。逆に言えば、それだけカエサルが用心深かったと言うことでもあり、また、常に政敵の存在を意識しておかねばならなかった、と言うことであろう。
(*特にカエサルが「ガリア戦争」でローマを長期間に渡って不在の際に、ローマにいる部下への指示と彼等からの報告を受ける際には、この「カエサル暗号」は大いに活躍していたのかもしれない。史料としては残ってはいないが...)


 
ZDOH !
初めにお断りさせて頂きますが、今回の投稿は極めてデリケートな問題を含んでおります。記事投稿者は、あくまで歴史学的な問題として、以下の問題を取り上げるのであり、決して、一切の「差別意識」を含んではいないことを予めご了承下さい。

記事投稿者より。


イメージ 1

「出産」の光景:出産介助をする「女性医師」もしくは「助産婦」


 先ほどの「紹介コーナー」での記事の投稿で若干触れたが、今、古代ローマ時代における「嬰児殺害」と「助産婦」の関与について調べている。
(*と言っても、本格的なものではないが...)


 小林雅夫氏が、「古代ローマの女医・助産婦」(『早大文研紀要』(第四冊分)第41輯(1995年)、43-55頁。)の中で、述べていることだが、

…決定的な証拠が残っているわけではないが、助産婦は出産介助に活躍したばかりでなく、嬰児殺害・嬰児遺棄にも深く関与した可能性があるのではないか?出産直後に発生しやすい嬰児殺害・嬰児遺棄に関与する点では、密室に似た産室に出入することができた助産婦たちは大きな役割を果たすことが可能であっただろう。そして、ローマ時代の出産の際に、産室への出入りを監視する複数の立会人がいたことは、嬰児の運命が人為的に変わる状況がしばしば発生したことと関係があるだろう。誕生直後の嬰児を殺害したり、取り替えたりすることに、助産婦が関与しなかった保証はないだろう。

(*前掲論文、51-52頁。)

 と言うことである。


 このご指摘の中で、幾つか気になる点があったのだが、

1)そもそも「監視する複数の立会人」とは何者で、何を目的としたものか? 
2)助産婦が嬰児殺害に関与した根拠はどうやって見つけ出せば良いのか?

と言うことである。


 古代ローマ時代には、「嬰児遺棄」や「嬰児殺害」は、一般的に流布した現象であったようであり、とりわけ、「嬰児遺棄」は、古代ローマ社会における主要な「奴隷の供給源」であったとも見做されている。


 ところで、こうした産室の出入をチェックする「監視人」及び、出産現場での「立会人」の存在については、Digesta, 25.4.1.10の中で、若干触れられている。一部要約すると、大体、

…いよいよ妊婦の出産が迫ったとき、産室の入り口には3人ずつ対になった自由人男女が立ち、産室に出入する人々を監視することとなる。妊婦の陣痛が始まると、5名の自由人女性が室内に呼ばれ、その時、室内には、2名の助産婦を含め10人以下の自由人女性と6名以下の奴隷女性が立ち会うこととなる。無論、彼女達は、皆、妊婦でないと言うことが検査によって予めはっきり分かっている必要がある。分娩の際には、部屋は極めて暗い状態にしておかねばならない。尚、分娩によって産まれた新生児は、必要とあらば、立会人によって(身体的な欠陥がないかを)検査される必要がある。

D.25.4.1.10.

と言う内容になる。


 因みに、新生児が正常な状態であると分かれば、「直ぐに」妊婦の夫(*そして、新生児の父)が産室に呼び込まれるが、父によって「新生児が頭上高く抱き上げられた」(tollere)時、初めて、新生児は、父の正式な嫡出子として認知されることとなる。

 古代ローマ人が、「妊娠」、「出産」、「父による新生児の認知」に際して、こうまでややこしい手続きを経るのは、実はローマ法との深い結び付きが存在しているからである。つまり、「正式なローマ市民」であることと、「家父長の嫡出子」、つまり、将来的には、「家名と財産の正統なる後継者」と言う、「法的な手続き」を経て選ばれた「立会人」の下での「公的な認知」である。
 
 ところで、先ほどのDigestaの中で示された箇所では、


a)産室での立会人は、全員女性であること。
b)立会人は全て「妊娠していないこと」が条件であること。
c)産後直後の新生児は、直ぐに立会人によって、「身体的な欠陥の有無」を検査されていた。

を見出すことが出来るが、今回のテーマに即して言えば、特に、b)の「妊婦でないこと」と言う点は重要だと思われる。おそらく、立会人が妊婦であった場合、産室と言う密室の中で「嬰児」の取替えと言う「共謀」を働く恐れがあったからであろう。逆に言えば、小林氏の指摘するように、古代ローマ社会には、「嬰児の取替え」が現実に存在していた、と言うことが言い得るのである。

 また、個人的には、c)についても非常に興味を抱いた。そこで、関連する史料や文献を少し調べてみたのだが、まず、ハリカルナッススのディオニュシウスの記述の中に、(伝説上の)ロムルスが採った(とされる)施策について以下のようなものがあった。

…彼(ロムルス)は、3歳以下の子供が、身体に不具を持った者もしくは奇形児であった場合を除いて、殺害してしまうことを禁じた。彼は、こうした子供達を、親が始めに5名から成る直近の隣人に見せ、彼等が(奇形であった子供達の姿)を認めた時には、こうした子供達を捨ててしまうことは禁じなかった。…

(Dionysius Hal. II 15)

 また、12表法(第4表の1)には、以下のような規定があった(らしい)ことが、キケローの記述を通じて窺い知ることが出来る。

丁度、12表法に従って、殺されてしまう醜悪さにおいて目立つ子供(*奇形児のことを示す。)のように

(Cic. De leg. 3,8,19.) 

 ディオニュシウスの言う5名の幼児(嬰児)身体検査人の起源が、実際には何処まで遡ることが出来るのかは定かではないが、もしかすると、監視人もしくは立会人の起源は、元々はこうした複数名から成る嬰児の身体検査人のことだったのかも知れない。
(*全く確証は持てないが...)


 また、文献の中で興味深い記述を見つけた。

…発育不全の子どもは、考慮に入れていない。父親が子どもを承認するまえに、産婆たちが抹殺してしまっていたからである…

(ルセール, p.489.) 

 ただ、上記の内容がどの史料を元に記述されたのかは定かではなく、後を追うことは難しいのだが、少なくとも奇形児や身体虚弱児に対するローマ人の(公の)考え方は明確かつ非常に厳しいものと思われる。
(*それにしても、産婆(助産婦)が新生児を勝手に殺してしまう、と言うのは色々な面から見ても、やはり気になりなる。そもそも如何なる法的権利(根拠)が、如何にして彼女達に与えられていたのだろうか?)


 何れにせよ、上記の問題は非常にデリケートな問題であり、古代ローマ社会における「ローマ市民とは何か?」、「人間とは何か?」と言う非常に深い法的・社会的・場合によっては、哲学的な問題とも密接に結び付いているのである。同時に、こうした問題は、古代ローマ社会の「暗部」、本村凌二氏の表現を借りれば、「薄闇」の世界でもあるが、一方で、「嬰児殺害」や「嬰児遺棄」の問題は現代社会とも直結するテーマでもあり、その意味でも、やはり、我々が眼差してゆかねばならない問題でもあろう...



(*掲載した画像は、ブログ管理者が、「ナポリ考古学博物館」で撮影したものである。)

参考文献
・Rawson,B., 'Adult-Child Relationships in Roman Society',
  Rawson,B.(ed.), Marriage, Divorce, and Children in Ancient Rome, Oxford, 1991, pp.7-30.
・アンリ・ルセール 「身体の政治学」(P・シュミット=パンテル 編 『女の歴史I −古代2』 藤原書店 2001年 pp.469-540.)
・小林雅夫「古代ローマの女医・助産婦」(『早大文研紀要』(第四冊分)第41輯(1995年)、43-55頁。
・島田誠 『古代ローマの市民社会』 山川出版社 1997年。



後記

 古代ローマ時代の助産婦が「嬰児殺害」に関与したと言う明白な証拠については、まだ史料及び文献を追跡調査中である。何れ、より深いことが分かれば、そうせざるを得なかった「社会背景」の考察と共に、改めて記事にしてみたい。


(*その前に、なかなか暇がないのだが...)
古代ローマ時代の遺跡ポンペイにおけるCastellum aquae(*分水場)の紹介です。


何度か紹介してきたように、古代ローマ時代における諸都市の行政は、常に「インフラ整備」に気を遣い、「市民サービス」に余念がありませんでした。
特に、都市内で快適に生活してゆく上では、無くてはならない「生活水の確保と供給」は、最も腐心したインフラ事業の一つとも言えるでしょう。


イメージ 1

ポンペイ近郊の邸宅より出土した「横臥式食堂」のフレスコ画

イメージ 2

ポンペイ近郊に流れる「サルノ川の化身」

実際、ポンペイ近郊の貴族の邸宅より出土した「横臥式食堂」の壁面には、ポンペイの人々に日常生活や農耕の際に、多くの恵みをもたらしていた「サルノ川」を擬人化した「サルノ川の化身」が描かれていました。
当時の人々の水の必要性を強く窺わせる図像でもあり、こうした自然の恵みに対する「感謝」や「敬意」の表れとも、あるいは、わざわざ食堂の壁面装飾に描く辺りは、古代ローマ流の茶目っ気とも言えるでしょう。


少し話が逸れましたが、こうした「生活水の供給」は、ポンペイにおいては、大抵の都市市民が、ほんの数十秒でアクセスできる「公共水道」が一般的でしたが、詳しくは、同ブログ内の


をご覧下さい。


今日は、ポンペイ市外から水を引き込み、貯水した上で、こうした「公共水道」や、裕福な貴族の邸宅の水道、あるいは、「公共浴場」へ配水する為の分流設備であったCastellum aquae(*分水場)(*以下、「分水場」とする。)について見てゆくことにします。


イメージ 3

「ウェスウィウス門」に隣接した「分水場」


上記の画像は、ポンペイ遺跡の「ウェスウィウス門」に隣接して設置された「分水場」の遺構です。
この付近は、北から南に向かって傾斜のあったポンペイにおいて、最も高所に位置する区域であり、「分水場」がここに設置されたのも、こうした傾斜を利用して、街の至る所へよりスムーズに配水する為で、非常に合理的な計算に基づいたものでした。

なお、この「分水場」の水は、アヴェリーノ山東側の丘陵地のセリーノからナポリ、プテオリ方面に向けて走っていた水道橋の支流を通じて配水されていたと考えられています。


イメージ 4

「分水場」内部の構造


水道橋の支流よりポンペイへと到達した水は、まず、「分水場」内部の青銅製の格子網と沈殿槽によってろ過され、生活水として利用しやすいように浄水されていました。


イメージ 5

ポンペイへと達した水の「分水場」内部への引き込み口

イメージ 6

「分水場」内部への引き込み口に描かれたフレスコ画


「分水場」内部への引き込み口の上側には、壁面フレスコ画が描かれており、計4名の人物が描かれていますが、これらも水に纏わる何らかの「化身」なのかもしれません。


イメージ 7

「分水場」より市内へ配水する為の3つの分水口


「分水場」内部の「ろ過システム」を通じて浄水された生活水は、いよいよ、3つの分流管を通じて、ポンペイ市内の3方向に各々分水されていくこととなります。
上記の画像は、その為に「分水場」よりポンペイ市内へ向けて開けられた3つの分水口です。


ところで、古代ローマ時代の「百科全書的知識人」ウィトルウィウスは、こうした3つの分流管は、各々、「公共水道」用「公共浴場及びその他の公共施設」用、そして、「個人邸宅」用の3つの用途に分けられている、と主張していました。
しかし、こうした分水システムを取ると、公道沿いの至る所に埋め込まれ張り巡らされた配水管網が非常に複雑に曲がりくねり入り組んでゆくことになるため、こうした3つ分流管は、実際には、3方向の区域に向けて、配水していく為の主導管であったと考えるのがより合理的かつ現実的だと思われます。

ただ、ウィトルウィウスの証言より、我々は、ポンペイ以外の古代ローマ時代の各都市においても、こうした「分水場」が、一般的には、3つの分流管を通じて配水されるシステムであったことを理解できるのではないかと思います。


3つの分水管を通じて各地域に分けられた生活水は、先程述べたとおり、傾斜を利用しつつ市内へと配水されていくわけですが、途中で、水圧の調整の為に規則的に配置された水道塔の頂部へと一度、引き上げられた後に、更に幾つもの支流管に分かれ、各々の施設や邸宅へと引き込まれてゆきました。
(*残念ながら、この「水道塔」については、写し漏れていたので紹介することはできませんが、スタビア通りとアボンダンザ通りの交差点にある「公共水道」に隣接された水道塔の遺構があるので、興味のある方は、ポンペイに行った際に、探してみて下さい...)


今まで見てきたように、古代ローマ時代の都市が市民に対する「生活水の確保・供給」に余念が無く、その為に配水設備・システムの構築及び維持を相当に徹底していたことが垣間見えてきたのではないかと思います。


最後に、「分水場」とは関係ありませんが、初めに紹介した、ポンペイ近郊の貴族の邸宅より出土した「横臥式食堂」の壁面装飾の動画を紹介させて頂きます。
なお、この壁面装飾は、現在は、ローマの「マッシモ宮」に所蔵されています。


ポンペイ近郊の邸宅より出土した「横臥式食堂」の壁面装飾1

ポンペイ近郊の古代ローマ時代の邸宅より見つかった「横臥式食堂」の赤を基調とした壁面装飾。第IV様式のものと思われるが、中央には「サルノ川の化身」が描かれている。ポンペイ近郊において、この川の恵みが非常に重要であったことを窺わせる図像である。


以上。


参考文献
・R・リング(訳:堀賀貴) 『ポンペイの歴史と社会』 (同成社、2007年)
古代ローマ時代の軍医について、以前にレポート形式にまとめたものを紹介します。


論点

 ローマ史における軍医の問題を考える際、ローマ人にふさわしい仕事とは見做されていなかった都市社会における医師とは分けて考える必要がある。「軍隊は軍隊内で発生した問題を軍隊内で処理しなければならない組織」 であると言う前提に立てば、ローマ時代においても兵士の生命にかかわる問題も軍団内で対処する必要性が存在していた。ところで、軍団は反乱や外敵の侵入を可能な限り迅速に鎮圧もしくは撃退すべく、常に訓練の行き届いた経験豊富な兵士を抱えておく必要があった。こうした有能な人材を一定数維持しておく為には、彼等の健康管理に気を使い、戦闘での負傷に対する治療体制を整えておかなければならない。そして、この重要な役割を担っていたのが軍医であった。こうした軍団における軍医も、都市社会における医師と同様にmedicusと呼ばれていたが、軍団におけるmedicusは如何なる点において、都市におけるmedicusとの間に違いが生じていたのであろうか。

軍団におけるmedicusの表現を巡って

 軍医とは、一般社会における医師とは違い、軍隊に所属する医師(*あるいは、その能力を有するが故に軍隊内で割り当てられた特殊な任務)であり、彼等の階級も軍隊内で定められ、一般社会における法律とは別に軍隊の規律に従わなければならない存在である。従って、ローマ軍団に軍医が存在すると言うことは、軍医が軍団の中で組織化され、階級制(*例えば、miles medicus、medicus ordinariusは一種の階級に充当もしくはそのものかもしれない。)をも含む一つの制度として成立していたと言うこととなる。本来であれば、そうした軍医制度の史的解明を目指す必要があるのだが、今回は、この軍医制度については直接的な言及を避け、碑文を通じた軍団におけるmedicusの表現を巡る問題点を整理するに留めておく。(*以後、軍医と言う表現を敢えて避け、多少冗長ではあるが、「軍団におけるmedicus」と言う表現を用いる。)

 軍団におけるmedicusに関する考察を行う前に、都市社会における「医師」すなわちmedicusの社会的立場に関して簡単に触れておく。都市社会におけるmedicusを巡る碑文の一般的な特徴として、medicusとして表現される人々は、基本的には被解放自由人もしくは奴隷であり、こうした碑文に付加される情報が、しばしば大家族の一員(*例え従属的であれ)であることを示唆する場合か、medicusであったが故に、と言うよりは、寧ろ自らが生涯を通じて何らかの形で獲得した財産の一部を都市に寄付することで「栄誉」を受けたことを示す場合がほとんどである、 と言う指摘を挙げておく必要がある。また、当時の医師を巡るローマ社会における偏見(*医師は自由人の仕事としてはふさわしくはない。etc…) と言う事実を考慮してみても、medicusと言う表現それ自体は、本来、ローマ社会においては決して何ら「賞賛に値する」一種の称号(*突出した社会的地位の表示)とも名誉ともなり得なかった、と言うことを言い得るのである。

 上記のように、都市社会においてmedicusと呼ばれる人達が、medicusと言うだけでは「名誉ある存在」とは見做されてはおらず、更には、ローマ人の有する職業観においてもmedicusは差別されていたことは理解できるとしても、それでは、何故、ローマ社会において「名誉ある存在」として見做されていた軍人からなる各軍団におけるmedicusはしばしば自らを碑文において敢えてそう表現したのか、あるいは彼等の家族(*具体的には妻)は、被記念者をそう表現することを躊躇わなかったのか、と言う問題が浮上する。言い換えれば、

A)一般的な市民社会とは違い、軍団においてはmedicusは特別な存在であると言う社会的認知が存在していた為なのか、

B)軍団内でmedicusと呼ばれた人々は、自らがmedicusである前に、ローマ帝国においても「名誉ある存在」として社会的に認められていた「軍人」であることの表明の一環として、軍団内での自らの役割であるmedicusと言う表現を付加することに対する自負故なのか、

と言う二つの観点から軍団におけるmedicusに関する碑文を分析してゆく必要がある。

 結論的に言えば、A)説はそれ自体では余り説得力を持たないばかりか、おそらく実証することはほぼ不可能だろう。まず、軍団のmedicusを巡る碑文を他の兵士を巡る碑文と比較したとしても、際立った特徴を見出すことが出来るわけでもなく、他の兵士とは分かってmedicusのみが何らかの特権ないし栄誉を得ていたことを示す根拠をmedicusの碑文から見出すことは適わないからである。確かに管見の限りでは、第7クラウディウス軍団に所属していた23歳で死亡したmedicusに「都市参事会顕彰」を授けられたことを示す墓碑銘 が存在しているが、その他多くのmedicusを巡る碑文との比較をする限りでは、こうした「栄誉の付与」は、彼が軍隊内でのmedicusであるが故に、と言うよりは、寧ろ、別の要因(*例えば、財政的な援助)によるものと結論付けても差し支えない。
 以上の点を踏まえると、medicusが軍隊において何ら特別な存在であることを立証し得る根拠を碑文から見出すことは適わないのである。ただ、そうは言っても、単にmilesと表現されずに、medicusと表現されることには、やはり軍団におけるmedicusの地位(*もしくは、例えば工兵のような専門的知識を有するが故に特殊な任務を帯びる兵士としての位置付け)が少なくとも軽視され得るものではなかったとも考えられるのであり、その意味では都市社会における「医師」一般の社会的地位とは違うものであったろうと言う仮定も完全に棄て切ることは出来ない。

 続いて、B)説の検討に移る。既に述べてきたように、一般的な都市社会においてはmedicusとなった人々のほとんどが、被解放自由人、奴隷もしくは外国人であったが、これはローマ人の医師観、更には職業観に基づいていたためである。ところで、軍団においても、やはりmedicusはこうした所謂、非ローマ人により構成されていたのであろうか。ここで、論文「軍団の医師とローマ人の医師観」(小林雅夫)第I表に示された軍団におけるmedicusの一覧表(史料番号1〜23)に注目すると、彼等の中には確かにギリシア系の名前を有する者が登場するものの 、それ以上にローマ市民権を保持していると見做しても差し支えないような名前を有する者、あるいは、少なくとも出自が卑しいとは言えないような名前を有するも多く登場している。そして、そもそも、基本原則として軍団に所属することが、被解放人や奴隷には許されてはいなかった、と言う現実もある。つまり、一覧表に示された軍団におけるmedicusの人名比較に関する限りにおいては、軍団内でmedicusとして従事することが、必ずしもローマ人に敬遠されていたとは考えにくい。
 では、仮に軍団においてはローマ人がmedicusになることを厭わなかったのだとすれば、相応の理由が存在していたはずである。その点に留意しつつ、軍団においてmedicusと表現された人々の碑文を見てゆくと、ほぼ例外なく(*と言うより、後世による何らかの欠落もしくは欠損でもない限り)、彼等が所属していた「軍団名」が合わせて表現されている。 こうした「軍団名」(*正規軍団であれ補助軍団であれ)が表記されるのは、兵士を巡る碑文では一般的なことであり、こうした表現から、自らの所属する「軍団」に対する強い帰属意識や自負を読み取ることが出来る。 そこで一般兵士を巡る碑文の表現と軍団におけるmedicusの碑文を比較すると、両者には多くの共通した要素、すなわち、「自分の名前、階級、所属する軍団名、生きた年数(*場合によっては、従軍期間)」 が存在していることが理解できる。以上の点を考慮すると、medicusと表現される人々は、medicusである以上に、まず以って軍団と密接な繋がりを有し、軍団内で任務を帯びて活動する者であり、その意味では、他の兵士とmedicusとは軍団内で区別されていたとは考えにくい。寧ろ、同じ一つの「軍団」に所属し、等しく軍人としての名誉を共有する存在として彼等を捉える方が適切であろう。ただ、余りにも単純にそう結論付ける前に、先に述べたように、やはりmedicusと敢えて表現されることの意味を改めて問い直してみる必要はある。

 上述の如く、仮説として個人的に設定してみたA)説及びB)説から浮かび上がってくるのは、軍団におけるmedicusを巡る碑文は、都市社会での決して高いものではなく、寧ろ低い社会的地位としばしば見做されがちであった「医師」とは違い、軍団においては「特殊な任務に従事する兵士」としてmedicusが相応の評価を受けていたことを示唆しているのではないか、と言うことである。と言うのも、もしmedicusが軍団においても偏見を持たれ、低い存在として見做されていたのであれば、おそらくmedicusと表現することは避けられ、例えば、単に「軍団兵」として碑銘上で表現されたであろうから。
 最後に、補足的になるが、仮に軍団におけるmedicusが「特殊な任務に従事する兵士」と言う位置付けを与えられていたとするならば、medicusに付属するmilesやordinariusは、やはりmedicus内の階級を示すものであったと考えることは十分説得的であり、従って、medicusが軍団において一つの制度として成立していたことを推定する根拠ともなり得えるかもしれない。

まとめ

 軍団におけるmedicusの碑文の分析から見出しえることは、軍団におけるmedicusはmedicusである前に、まず以って「軍団における兵士」であった、と言うことである。裏を返せば、彼等が自らをmedicusとして表現することに躊躇いを見せなかったとすれば、それは軍団においてmedicusに対して「特殊な任務に従事する兵士」と言う社会的認知があり、軍団において専門性を有する一つの特殊任務としての地位ないし役割が確立していた、と言うことを意味しているのである。おそらく、medicusは軍団において決して破格の待遇を受けていたわけでもなく、他に抜きん出た存在であったわけでもないが、一方で、必ずしも都市社会のmedicusのようなある種の偏見ないし蔑視を持って迎えられていたわけでもないのであろう。以上のことより、軍医制度の解明に際しては、medicusを単なるmedicusとしてではなく、上記の如く「medicusである兵士」と言う観点から軍団におけるmedicusを捉えつつ、彼等に付加されたmilesやordinariusと言う表現の持つ意義を解釈してゆく必要はあるだろう。


参考文献
・小林雅夫「軍団の医師とローマ人の医師観」『史観』107, 1982年
・小林雅夫「ローマ軍の軍医」『早大文研紀要』35, 1989年
・小林雅夫「古代ローマの奴隷教育:再考」『早大文研紀要』44, 1999年
・小林雅夫/アントニオ・サルトーリ「ローマの医師と碑文:実態とその表現」『早大文研紀要』45, 2000年
・Hope,V.M.,‘Constructing Identity: The Roman Funerary Monuments of Aquileia, Mainz and Nimes’, BAR 960
・MacMullen,R.,‘The Legion as a Society’, HISTORIA 33.4 , 1984

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