From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

古代ローマについて

[ リスト | 詳細 ]

古代ローマ時代に関する歴史や文化、生活、etc...について投稿を行います。
記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

古代ローマ時代においては、医療技術及び知識は、外科・内科ともに相応の程度で発展し、多くの医療従事者が「医師」として都市において、あるいは、「軍医」として軍団駐屯地で活躍していました。

古代ローマ時代の「軍医」に関しては、以前の投稿、


の所で、多少述べましたが、今回は、「医師」一般について「医療器具」と共に紹介してゆきたいと思います。


古代ローマ時代において、「医師」(medicus)に対する社会的評価は、実は、彼らの都市市民に対する医療における貢献度に比べ、決して高いものとは言えませんでした。
古代ギリシア世界において、「医師」(iatros)が、「自由人の行うべき職業」であり、それだけに高い社会的評価が与えられるべきと考えられたのに対し、古代ローマ社会における「医師」(medicus)は、「自由人にふさわしくない職業」と見做され、基本的には、奴隷もしくは被解放自由人の為すべき職業とされました。
このように奴隷や被解放自由人の行うべき職業と考えられていた以上、当然のことながら、古代ローマ社会における「医師」に対する社会的評価は低いものとなっていました。

こうした古代ローマ社会における「医師」を巡る社会環境が形成されてきた背景には、当時の「職業観」が深刻な影響を及ぼしていたのだと考えられます。
このうち、代表的なのは、キケローですが、彼は『義務論』の中で、要約すると、

「高度な知識を必要とするか、あるいは少なからず社会に有益な職業である医師や建築家や自由学芸の教師は、それらがふさわしい人々には適しており、小売商や職工のような卑しい仕事よりは好ましいが、農業ほど自由人にふさわしい仕事はない」

出典: Cic. Off. 1.150ff  cf. 小林雅夫「ローマ世界のねじれ現象 ─教師と医師の実態をめぐって─」『地中海研究紀要』第1号(2003年)p.41.

と言うようなことを述べ、「医師」が決して自由人にふさわしい職業とは考えることはできないと主張しています。


実際、古代ローマ時代における「医師」の身分に関する分析を碑文や墓碑銘より分析すると、多くの場合が、「奴隷」(servus)もしくは、「被解放自由人」(libertus)によって占められていることが判明しています。
無論、古代ローマ時代に製作された碑文のうち、現代までに残されているのは、ほんの数パーセントにも満たないわけであり、その点は十分に考慮しなければならないわけですが、当時の文筆家によって伝えられる「医師」を巡る社会環境を考慮すると、こうした分析結果には一定の評価を与えても良いと思われます。


以上で概観してきたように、古代ローマ社会における「医師」は決して社会的地位が高いものとは言えなかったものの、現実に多くの「医師」が都市内で活躍していたことも事実です。
また、こうした「医師」には「男性医師」(medicus)は無論のこと、決して少なくない数の「女性医師」(medica)が医療の現場で活躍し、女性の社会進出の大きな手助けともなっていました。

興味深いことに、こうした「女性医師」(medica)は、「男性医師」(medicus)の場合とは異なり、寧ろ、社会的地位や身分が割合高い子女の出自である場合も多く、彼女達は、結婚前のみでなく結婚後も、あるいは結婚した後にこそ、「医療の現場」で華々しく活躍するケースが多かったとも考えられています。


しかし、こうした「女性医師」が、何故、古代ローマ社会で必要とされていたのでしょうか?
正直な所、明確な解答を得ることは非常に困難なのですが、おそらくは、

1)特に女性患者のケースに言えることだが、医療行為の際に、しばしば自分達よりも身分の低い「男性医師」に自らの裸体を晒すことに対する「恥じらい」が存在しており、そうした女性患者に対する配慮から。

2)こうした「女性医師」の活躍の場が、しばしば「産婦人科」に集中していたと思われ、「子を産む」体を持つ同じ女性として、女性患者が「出産」の際に、より大きな安心感を得ることができ、「出産」に集中することができる。

などの理由を想定することができます。


イメージ 1

「出産」の光景と立ち会う「女性医師」


上記の画像は、「ナポリ考古学博物館」所蔵の古代ローマ時代のレリーフですが、「出産」の場面を描いたものです。
中央右の女性が、今まさに「出産」に臨む婦女であり、中央左の人物が、おそらくは「出産」介助をしようとする「女性医師」(*もしくは「助産婦」。)ではないかと思われます。

古代ローマ社会においても、「出産」は非常に重要なイベントであり、時には国家政策の中で「出産」「育児」の奨励と言った「少子化対策」が積極的に実践されることもありました。
この当時の「産婦人科」の発達やそれを下支えする「医師」、とりわけ「女性医師」の社会進出は、こうした「少子化対策」との文脈で関連付けることで理解してゆくことも可能かもしれません。


さて、以上のように古代ローマ時代の「医師」、に関して概観してきたわけですが、「医師」については別の機会で改めて紹介させて頂くとして、今回は、当時の「医師」が用いていた「医療器具」を紹介させて頂きたいと思います。
なお、以下の画像に登場する「医療器具」は、主にポンペイより出土したもので、現在は「ナポリ考古学博物館」所蔵されていますが、上の画像と併せ、僕が現地で撮影したものです。


イメージ 2

外科手術用のメスとピンナイフ

イメージ 3

外科手術用の髪抜きピンセットなどの一式

イメージ 4

外科手術用のカテーテルと消息子

上の三つ画像は、何れも、外科手術の際に用いられていた手術用キットです。


外科手術に際しては、当時から既に患者に対する相当の配慮が為されていたようであり、用途や手術部位、あるいは患者が男性か女性かに応じて、様々な形状の外科手術道具が用いられていました。
例えば、カテーテルは男性用であればS字型となっており、女性用であればストレートなものが用いられていたと考えられています。
また、当時では、脳外科も相応に発達しており、頭蓋骨を開け、脳を治療する為に、髪の毛を剃り、抜く為の道具も存在していました。


イメージ 5

歯科医療に用いた鉗子

上記の画像は、歯科医療に用いられていたと考えられる鉗子であり、主には抜歯や傷口より異物や破片を取り除くのに使われていたと考えられています。


イメージ 6

肛門用と婦人用の鉗子

この二つの鉗子は、手前が「肛門用鉗子」で、奥側が「婦人用鉗子」です。
こうした鉗子は、「医師」が患者の肛門や女性の子宮を覗き、場合によっては様々な治療や、特に後者は「特別な手術」を行うことを目的として用いられていたものだと考えられます。
なお、こうした鉗子の先端部分は丸みを帯びており、患者の痛みを和らげようとする配慮を感じることができます。


こうした「医療器具」の存在を通じてでも、古代ローマ社会の医療技術及び知識が相応には発達していたことを垣間見ることができるのではないかと思われます。
また、こうした「医療器具」のうち、「婦人用鉗子」など幾つかのものは、古代ローマ社会に内在していた「深刻な問題」をも浮彫にしつつ今に伝えているのです...


この「深刻な問題」については、例えば、

本村凌二 『薄闇のローマ世界 −嬰児遺棄と奴隷制』(東京大学出版会、1993年)

をご一読下さいますと幸いです。



以上。



参考文献
Jackson,R., The role of doctors in the city,
in Mac Mahon,A., Price,J.(eds.), Roman Working Lives and Urban Living ,Oxbow Books, 2005, pp.202-220.
青柳正規(監修) 『世界遺産:ポンペイ展 −ポンペイとポンペイに暮す人びと』 (朝日新聞社、2001年)。
小林雅夫 『古代ローマの人々 −家族・教師・医師』 (早稲田大学、2005年)。
小林雅夫「ローマ世界のねじれ現象 ─教師と医師の実態をめぐって─」『地中海研究紀要』第1号(2003年)。

第2部:ポンペイにおける「ヴィーナスの家」の紹介


(注)


をできれば、初めにお読み下さい...



さて、随分と前置きが長くなってしまいましたが、いよいよ、「ヴィーナスの家」を紹介してゆきます。
尚、この「ヴィーナスの家」と言う名が付けられたのは、この邸宅内の「ペリステュリウム」の壁面に、ポンペイの守護神でもあった美の化身「ヴィーナス」(*ラテン語では、venus)がフレスコ画として描かれていたからです。


イメージ 1

玄関口から見た「アトリウム」

「ヴィーナスの家」は、人びとの往来の激しい目抜き通りであった「アボンダンザ通り」沿いあった邸宅で、「円形闘技場」からも割合近くに建てられていました。

上の画像の通り、玄関口から入ると直ぐに「アトリウム」と呼ばれるパブリックな空間が姿を現します。
画像中央辺りに見える四角形の窪みは、雨水を受ける水盤であり、水量に応じて、排水口を通じて、水を排出できるような仕組みもできていました。
また、現在ではむき出しになっていますが、元々、「アトリウム」は丁度、水盤の真上に当たる中央部分を除いて、屋根で覆われており、日中の陽光は、屋根に開けられた開口部から注がれていました。


イメージ 2

別角度から写した「アトリウム」

この画像は、「アトリウム」を別角度から写したものです。
画像左側に見える空間が「ペリステュリウム」で、右側の空間が「横臥食堂」です。
「横臥食堂」と名が付けられていることから分かるように、古代ローマ時代においては、特に富裕層の食事の仕方は、長椅子に横になって毎日のように訪れる友人や客人と共に歓談をしながら、食事を取るスタイルが一般的でした。


イメージ 3

「ヴィーナスの家」の「ペリステュリウム」

さて、「アトリウム」より更に奥に入ってゆくと、「ペリステュリウム」と呼ばれる「私的な空間」がいよいよ姿を現します。
この画像からも分かるように、実際に「ペリステュリウム」が等間隔に設置された柱で囲まれています。
また、建築構造上の観点から言っても、「ペリステュリウム」「アトリウム」と比べると、天井の開口部が非常に広く、開け広げられた広間の上から注ぎ込む陽の光に満ちた緑豊かな空間が演出されていたことが容易に想像できるでしょう。


イメージ 4

「ペリステュリウム」の周りの部屋

また、「ペリステュリウム」では、「アトリウム」と同様、周りに大小様々な部屋が設けられ、一家や使用人(*奴隷)の寝室として、また、客人の宿泊部屋として、あるいは、主人の書斎や一家の守護神を祀る神棚を置いた部屋など、様々な用途の部屋が存在していました。


イメージ 5

周りの部屋の「室内」1

イメージ 6

周りの部屋の「室内」1に描かれた「神話」

イメージ 7

周りの部屋の「室内」2

イメージ 8

周りの部屋の「室内」2に描かれた「神話」

イメージ 9

壁面フレスコ画として描かれた「風景画」


以上の5点の画像は、「ペリステュリウム」の周りの部屋の室内の様子とその壁面に描かれた「神話」や「風景」のフレスコ画です。
これらの画像から窺えるように、古代ローマ時代の邸宅の各室内は非常に色彩豊かな壁面装飾で飾られていました。
壁面装飾として特にしばしば用いられたのが、赤や黄色、あるいは、心を静め、ゆっくりとした睡眠を取る為に寝室に好んで用いられた藍色や淡い青色でした。
また、こうした壁面装飾は、しばしば「神話」や「風景」などの題材がフレスコ画として飾られることもあり、現代の壁掛け絵画と同様に、室内に滞在する人びとの目を楽しませていました。

こうしたフレスコ画の中で特に注目して頂きたいのが、一番下のある邸宅を描いた「風景画」ですが、ここでは、既に遠近法が用いられていました。
つまり、古代ローマ人は、ルネサンス期以降の遠近法とは必ずしも一致しないものの、古代ローマ人流の遠近法を編み出し、こうした「風景画」に用いていたのです。


イメージ 10

「ぺリステュリウム」正面の「ヴィーナス」


いよいよ、「ヴィーナスの家」と名付けられる由縁となった壁面フレスコ画として描かれた「貝殻の中のヴィーナス」です。

実は、この壁面フレスコ画でも、遠近法が用いられており、絵画のより立体的な美しさを追求したものであり、また、色彩の豊かさと表現法の完成度の高さを通じて、特に遠目から見る時にいっそう美しく、またいっそう一目を引くようなフレスコ画となっています。

イメージ 11

「貝殻の中のヴィーナス」1


より接近した時の「貝殻の中のヴィーナス」です。
このヴィーナスは二人のキューピッドに伴われ、ヴィーナス自身、完全に肌を露出しています。
ポンペイ、ひいては古代ローマ社会の「性へのおおらかさ」を垣間見せてくれるものでもあり、また、「神話」の姿により忠実であろうとした彼らの敬虔さを垣間見ることもできるでしょう。
「神話上の神々」を本来の生身の姿で描くことは、古代ギリシア・ローマ時代においては、「完成された美の追求」でもあり、「理想的な姿」でもあったのです。

イメージ 12

「貝殻の中のヴィーナス」2

上の画像は、「貝殻の中のヴィーナス」を更に拡大し、ヴィーナスの表情に迫ったものです。
このヴィーナスの表情は、非常に知性に溢れ、個人的な見解ですが、このフレスコ画からは、ポンペイの人びとの「卑猥さの露出」と言うよりも、寧ろ、ポンペイの守護神でもあるヴィーナスに対する「敬虔な姿勢」を感じ取ることができます。


この「ヴィーナスの家」には、他にもまだ注目すべきフレスコ画が多くあるのですが、文量の都合上、今回は割愛させて頂きます。

最後に、僕が現地で撮影した「ヴィーナスの家」の動画があるので、今までの説明を思い起こしつつ、まるで古代ローマ人の住民になった気分で、当時の邸宅の様子を想像しながら、ヴァーチャルな雰囲気を楽しんで頂けますと幸いです。
(*あまり鮮明ではないのですが..)
PC環境の都合上で、上手く再生できない方、申し訳なく思います。

ポンペイ遺跡内の「ヴィーナスの家」(casa delle venere)の様子
[[

「ヴィーナスの家」と呼ばれる邸宅にはヴィーナスを描いた見事なフレスコ画が存在している。この邸宅は、アトリウム(玄関直ぐ奥の広間)とペリステュリウム(アトリウムから更に奥に入った大広間)の二つの広間を持っている。
by トリマルキオ( kannri_roma_ken)



以上。

第1部:古代ローマ時代の邸宅の概論



今日は、古代ローマ時代の都市であったポンペイ遺跡より出土した邸宅「ヴィーナスの家」を紹介します。
尚、今回の投稿は文量が多い為、2部構成で紹介していきたいと思います。

第1部は、古代ローマ時代における邸宅に関するちょっとした概論です。



前回の投稿、


及び、ブログ管理者が運用するサイト内の


の所でも、少し触れていますが、古代ローマ時代の富裕層の邸宅にはしばしば、「アトリウム」と呼ばれる玄関口に接し、日々、お客を出迎え歓待するパブリックな空間と、「ペリステュリウム」と呼ばれる、喧騒に支配された都市空間や日々の忙しい社会生活の営みの中で、つかの間の「閑暇」(otium)を満喫する為に設けられたよりプライベートな空間の二つの空間が設けられていました。

こうした二つの空間の内、「ペリステュリウム」と言う空間が設けられ始めたのは、ポンペイでは紀元前2世紀中頃のことだと考えられています。

こうした「ペリステュリウム」と言う空間が設けれた背景には、ポンペイにおけるヘレニズム文化の影響で説明することもできるかも知れません。
そもそも「ペリステュリウム」とは、「列柱によって囲まれた空間」と言う意味であり、ヘレニズム世界の東方の諸都市でよく見受けられる自由市民の「体育・知育・徳育」を目的とした空間である公共施設としての「ギムナシオン」(*現在のgymnastics:「体育場」の語源。更には、ドイツのエリート養成学校「ギムナジウム」の語源ともなる。)からヒントを得て、個人の邸宅に「閑暇」を満喫する為に取り込んだものと考えられています。

しかし、何故、彼等は「アトリウム」と呼ばれる空間のみでは満足できなかったのでしょうか?
それには、以下の理由が考えられると思われます。

古代ローマ時代においては、富裕な者の邸宅内へは、原則として、あらゆる階層の人びとが玄関口を通じて自由に中に入ることが許されていました。
こうした風習は、古代ローマ社会における「パトロネージ」と呼ばれる「保護者−被保護者」関係の持つ社会的影響力と、「選挙」の問題が深く関わってきます。
つまり、しばしば社会的・政治的エリート層であった富裕な者が、自分が面倒を見る「クリエンテス」(*現在のクライアントの語源。)と呼ばれる人びとから、毎朝、日々の感謝と挨拶を受け、それに対して、彼らにちょっとした「心付け」を払う「サルタティオ」(*「挨拶」と言う意味。)と言う行事をこなす為に、「アトリウム」を用いていました。
それ以外にも、日々、陳情や保護を求める人々がこうした邸宅に殺到し、主人としても、彼らに対して、「恩顧」を与えておけば、今後の選挙活動にも大いに役立つと言うこともあって、積極的に、この「アトリウム」と言う空間を通じて、こうした人びとを接待していたのです。


しかし、こうしたことを日々行い続ければ、いい加減、自分だけのゆっくりとした一時を送りたいと考えるのが自然の成り行きでしょう。
実際、古代ローマ時代のエリート層がしばしば「ストア哲学」に傾倒してゆき、「自分のことのみに専心せよ!」と盛んに主張するのは、実は、こうした文化的・社会的背景が存在していたのです。

そして、こうした「自分の為だけの時間を持つ」、すなわち「閑暇」を実践する為に必要とされたのが、先程から述べている「ペリステュリウム」と言う「私的空間」になります。
また、こうした「私的空間」は、古代ローマ時代のエリート層に常に希求され続けた「自然への回帰」、牧歌的な「田園生活」を擬似的に実践する為に、様々な動植物や噴水や水盤を用いて「自然」「田園」を模造する空間ともなりました。

その意味では、この「ペリステュリウム」と呼ばれる空間は、同時に「哲学的な空間」とも言えるでしょう。


さて、古代ローマ時代の邸宅の概論はこれまでにし、続いて、第2部に移りたいと思います。




に続く。


参考文献: ポンペイの「ヴィーナスの家」第1部、第2部共通。
青柳正規 『ポンペイの遺産 −2000年前のローマ人の暮らし』 (小学館、1999年)
ピエール・グリマル(訳:北野徹) 『古代ローマの日常生活』 (白水社、2005年)
R・リング(訳:堀賀貴) 『ポンペイの歴史と社会』 (同成社、2007年)
 今日は古代ローマ時代の貴族や富裕層の邸宅の壁面にフレスコ画で飾られた「庭園の風景」を紹介します。


 古代ローマ社会において、本来、「良き市民」の手本とされるのは、自分の農地を有し、自ら汗水たらしながら農業に勤しみ、得られた農作物で生活する、と言う自給自足生活を中心とした「農夫」の姿でした。

 しかし、皮肉にも、古代ローマ社会が、相次ぐ征服戦争によってその領域を拡大してゆく中で、こうした「良き市民」=「農夫」と言う伝統的な価値観を維持してゆくことが困難になって行きました。

 その大きな理由は、

1)征服戦争を通じて得られた大量の奴隷が農奴としてイタリア半島内への流入。

2)出征地が戦士であった各市民の地元から徐々に遠くなっていったこと、更には戦争が数年に及ぶ中で、自分の耕作地を耕してゆくことができなくなっていった。

などがあります。

 こうした理由が重なり、平民であった人々の土地が貴族や富裕層に買い占められ、いわゆる「大農地」が形成されてゆき、平民自身は自らの農地を失い、「ローマ市民」=「農夫」と言う伝統的な姿を維持でなくなって行きました。

 一方、貴族や富裕層にとっても、主要な政治・経済活動が、ローマ、更には地方の各都市、とりわけフォルム(*公共広場)で行われていた為、自分たちの土地に常時、張り付いていることができなくなりました。

 この過程で、いわゆる政治的エリート層が、完全に「都会人」化してしまえば問題はなかったのでしょうが、こうしたエリート層は、ローマ建国以来の伝統的な「良き市民」のイメージを常に夢想し続け、憧れ続けていたのです。

 こうした意識は、共和政期は無論のこと、おそらくは帝政期を通じても保たれ続けたのではないかと思います。
 そしてこうしたローマ的な伝統は、ローマ帝国の拡大の中で、征服された属州民の間でも受け継がれてゆき、本来はローマ人ではなかった人々までも、自らを「ローマ人」と自認する意味でもこうしたローマ的価値観を受容してきたのです。

 何れにせよ、ローマ人の伝統的な価値観である「農耕」と「田園風景」と言うイメージが重なり、古き良き「ローマ人」を自認する政治的・社会的エリート層は、都市に構えた邸宅内にも「田園風景」、「自然」を模造することで、自らのアイデンティティを保つことに必死であり、また、激しい喧騒に支配された都市の邸宅内に模造した「自然」の中で、自らのつかの間の「閑暇」otium)を満喫していたのです...


 大分、前置きが長くなりましたが、今回紹介する画像は、古代ローマ時代の遺跡ポンペイより出土した「庭園の風景」のフレスコ画です。
尚、「黄金の腕輪の家」と呼ばれた小部屋に描かれていたこの壁面フレスコ画は、今はローマの「マッシモ宮」に所蔵されています。

イメージ 1

「黄金の腕輪の家」の壁面フレスコ画

イメージ 2

壁面フレスコ画の正面を拡大


 ポンペイから出土したこの壁面フレスコ画は紀元後1世紀中頃に製作されたものと考えられており、4面、360度全てにこうした「緑のガーデング」の風景が描かれていました。

様々な植物や鳥類が細かく描かれているのが見えると思います。

イメージ 3

壁面フレスコ画:ペリステュリウムの「水盤」

 上の画像は、正面に対して右側面にあたる壁面に描かれていた「水盤」です。
 この「水盤」が描かれていることから、この「庭園」は、古代ローマ時代の邸宅内に設けられていた「自然」を模造した空間である「ペリステュリウム」を敢えて壁面フレスコ画として再現したものとも言えるでしょう。


イメージ 4

壁面フレスコ画:ハト

イメージ 5

壁面フレスコ画:スズメ

イメージ 6

壁面フレスコ画:カササギ


上の3つの画像は、この「ペリステュリウム」の再現画の中に描かれていた鳥類の一部です。
上から、ハト、スズメ、カササギの拡大画像となっています。

 実際、「庭園の風景画」の中には、バラ、棕櫚、蔦などの草木や、先程、挙げたようなスズメ、ハト、カササギ、更にはツバメなど多彩な動植物が描かれているのです。


イメージ 7

壁面フレスコ画:上部の「女性を模した仮面」

 また、このフレスコ画には、おそらく悲劇用の仮面と思われる「女性の顔を模した仮面」が幾つか描かれており、非常に興味深い題材と言えるでしょう。
 こうした仮面は、古代ローマ時代の壁面装飾やモザイク画、あるいは柱や屋根瓦のレリーフとしてもしばしば用いられている題材ですが、こうした仮面のモチィーフは「魔除け」の意味が込められていたとも考えられています。


 先程、挙げた「ペリステュリウム」と言う空間についてですが、ブログ管理者が運用するサイト『ROMA-KEN.com(古代ローマ史探求)』のページ内に説明しているので、今回はそちらを引用させていただきます。

ペリステュリウムと言う空間は、完全なるプライベートの次元に属し、時には喧騒で明け暮れる街中に静かなる理想郷を実現しようとする願望で満たされた空間でもあった。その為、ペリステュリウムにはしばしば様々な植物が栽培され、開け広げられた広間の上から注ぎ込む陽の光に満ちた緑豊かな空間が演出されていた。
ここでは、花が咲き乱れ、蔓植物が円柱に螺旋状に絡み付き、小鳥達が放し飼いにされて耳を愉しませていた。時には葡萄畑が設けられ、あるいは、水槽が置かれてそれを取り囲むように苔や羊歯などが茂っていた。彼等はこのようにして街中の邸宅に田園風景を模造し、自然を愛でることを忘れなかった。あるいは、常にそれを夢想し追い求め続けていたのである。
ROMA-KEN "Pompeii -「02.日常と人々」" より。


 そして、こうした古代ローマ人の偏執狂的とも言える「自然への憧憬」は、邸宅内の各部屋の壁面フレスコ画にも描くことでも満たそうとしていたのです...


 最後に、僕が、「マッシモ宮」で撮影した(*事前に職員の許可を得ている。)「黄金の腕輪の家」の壁面フレスコ画の「動画」をご覧下さい。
 ご覧の方々の中には、お使いのパソコンの環境次第では観ることが出来ないこともあるかもしれませんが、その点は予めご了承下さい。
また、携帯電話のカメラで撮影しているので、画像はかなり不鮮明ですが、雰囲気だけでも何となく掴んで頂けますと幸いです。


ポンペイの邸宅に描かれていた「庭」を題材にしたフレスコ画

ポンペイのある邸宅から出土したこの「庭」のフレスコ画は第III様式のものである。ここには、様々な鳥類、植物が噴水等と共に描かれており、しばしば邸宅内に設けられたペリステュリウムと呼ばれる広間を幻想的かつ彩色豊かに描き出している。 By トリマルキオ(kannri_roma_ken)


「ペリステュリウム」や「邸宅内の壁面装飾」については、これからも続けて何度か紹介してゆきたいと思います。


以上。


[参考文献]
青柳正規(監修) 『世界遺産:ポンペイ展 −ポンペイとポンペイに暮す人びと』 (朝日新聞社、2001年)
ピエール・グリマル(訳:北野徹) 『古代ローマの日常生活』 (白水社、2005年)
今日は古代ローマ時代の食事情を幾つかの画像を通じて紹介してゆきます。


 古代ローマ時代においては、主食はパンとブドウ酒です。このことは、オスティア遺跡やポンペイ遺跡などから発掘された多くのパン焼きかまどや居酒屋の存在からも十分窺い知ることができます。

イメージ 1


 例えば、上の画像は、オスティア遺跡出土のモザイク床画ですが、このモザイク画は居酒屋への入り口に敷き詰められ、店の看板として用いられていました。
このモザイク画には、真ん中にクラテルと呼ばれるブドウ酒を飲む杯の図像があり、その図像を取り囲むようにして、

FORTVNATVS ( VINVM E CR ) ATERA QUOD SITIS BIBE
(訳:「フォルトゥナートゥスかく語りき。喉が渇いたらクラテルよりワインを飲め!」)

と書かれていました。

 このモザイク画からも、古代ローマ時代の都市において、日常生活の様々な場面でブドウ酒が重要な役目を果たしていたことが十分に窺えるのではないかと思います。


 さて、古代ローマ人の主食がパンとブドウ酒であったことは事実ですが、彼らは、しばしば相当な美食家でもありました。特にポンペイ一帯において、とりわけ裕福な市民は、季節折々の食材や、海産物を非常に好み、遠方からでもわざわざそうした食材を取り寄せるのに労と金を惜しみませんでした。

イメージ 2


 上の画像は、ポンペイのある邸宅から出土したモザイク画です。様々な魚やカモなどが描かれていますが、これらは、皆、ポンペイの人々が好んで食していた食材を描いているのです。
実際、別のモザイク画では、古代ローマ時代において高級魚とされたウツボや、イセエビ、クルマエビ、サザエ、タコやイカ、メバル、ボラ、チョウザメ及びカワハギなど、多彩な海産物が描かれたものもあると言われています。
 また、こうした海産物は、しばしば邸宅内に設置された巨大なプールの中で養殖されたり、あるいは、新鮮なまま食することができるようにしたり、外販目的で、放し飼いにされたりしていました。

イメージ 3


 この画像は、ポンペイ近郊にあるオプロンティと言う町のネロ帝の妃となったポッパエアの邸宅「ポッパエア荘」内に設置されていた巨大なプールもしくは生け簀ですが、61m×17m程の規模を誇り、現代のプールと比較しても相当な大きさと言えるでしょう。


イメージ 4


 また、この画像は、先程述べた「ポッパエア荘」から出土したフレスコ画ですが、籠の中に溢れんばかりに盛られた2種類のイチジクが描かれています。こうしたイチジクは当時の富裕層に大変好まれたデザートであり、彼等は自ら経営する果樹園にもしばしばこうした果物を栽培していました。

 興味深いのは、モザイク画やフレスコ画にわざわざ自分達が食したり栽培する食材を邸宅内の装飾画の題材として選んでいたと言うことです。
やはり古代ローマ人流の茶目っ気なのでしょうか?あるいは、旺盛な食欲を刺激する為にこうした題材を敢えて選んでいたのでしょうか?
 一つだけ言えることは、こうした食材を描く際にも、彼等はプロの絵描きに極めて写実的に描かせていたと言うことです。


 今回はこれまでにして、古代ローマ時代における食事情は何れ、改めて紹介したいと思います。


尚、ブログ管理者が運用するサイト内の


のページ内にも、パン屋や飲食店に関する若干の紹介を行っているので、是非ともご覧下さい!!!


以上。


[参考文献]
青柳正規 『ポンペイの遺産 −2000年前のローマ人の暮らし』 (小学館、1999年)
ピエール・グリマル(訳:北野徹) 『古代ローマの日常生活』 (白水社、2005年)

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
トリマルキオ
トリマルキオ
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事