From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

古代ローマについて

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古代ローマ時代に関する歴史や文化、生活、etc...について投稿を行います。
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昨日に続き、古代ローマ時代のインフラについてお話します。


古代ローマ時代の海港都市であったオスティア遺跡では、都市内の各住民に生活水を満遍なく供給する為の設備は、大抵が「貯水タンク」であったわけですが、ナポリ近郊の遺跡ポンペイでは、こうした設備は以下のような屋根のない「共同水道」の場合がほとんどでした。
(*少なくとも、僕がポンペイの遺跡中をくまなく探し回った限りでは、以下のような「共同水道」の形態しか見つけることができませんでした。)

イメージ 1


上の画像の「共同水道」は「ウェスウィウス通り」と「フォルトゥーナ通り」が直交する箇所に設置されていました。

先程も少し述べましたが、僕はポンペイの遺跡中(*立ち入り禁止区は除く。)を歩き回りながら、こうした「共同水道」跡を見つける度に、ポンペイの遺跡地図に印(●)を付けていったのですが、その結果、基本的には各区画(*直交する道路によって囲まれた区域)毎に1つないし2つ程、設置されていたことが分かりました。
従って、当時のポンペイでは、どの区域に住む住民も、ほんの数十秒で「共同水道」へアクセスし、生活水を確保することができていた、と言うことになります。

こうした各区域ごとに「共同水道」を設置していた、と言う事実は、ポンペイにおいては、オスティアと同様に、都市内の全ての住民に対して安定的に生活水を供給しようとする地方行政のインフラ整備に対する非常に高い意識が存在していたことを明示的に示しているのです。
また、こうした「共同水道」は地下から水を引き上げているのですが、その水は、例えば「ウェスウィウス門」付近のCastellum aquae(*分水場)を中継地として、市外より運ばれてきた水を、公道沿いの地下に鉛製の水道管を張り巡らせて、そこから各区域の「共同水道」を通じて各住民に水を供給していました。

イメージ 2


因みに、上の画像の公道の左脇にある分断された管が見えますが、この管は、当時、地下に埋め込まれていた水道管がむき出しになったものです。


ところで、ポンペイにおける「共同水道」は、各々の区域毎で興味深い彫刻装飾が施されており、例えば、「牛」や「豊穣の女神」の面を象ったものもあります。
近現代で言えば「オシッコ小僧」にあたるポンペイ流の茶目っ気なのでしょうが、もしかすると、若干は、生活に不可欠な水を毎日送り届けてくれることに対する古代流の「自然や神々への感謝」(*当時においては、自然は、何らかの「人格神」となる場合が多かった。)の意が込められていたのかもしれません。
特に、「牛」は当時においては、「神聖なる神々への捧げ物」と言う厳粛な儀式の生贄として用いられていたことからも推測できそうです...

イメージ 3


尚、上の画像は、先程の「共同水道」の画像を拡大したものですが、ここでは「皮袋に寄りかかったシレノス神」がモチーフとして描かれています。
この「シレノス神」は、神話上では、ディオニュソス神に葡萄の栽培を教えたと言うこともあり、ディオニュソス神を「葡萄の栽培の神」(*ポンペイでは良質のブドウ酒が有名であり、その為にポンペイの人々にとって、ブドウ栽培は重要な収入源の一つであった。)として崇めるポンペイの人々にとっては、やはり重要な存在であったのでしょう...

また、「シレノス神」の皮袋に水栓が付けられていますが、この水栓自体はおそらくは現代に改めて取り付けられたものであるものの、当時にも既に水栓が存在していたのは事実のようです。


最後に紹介する画像は、紀元後79年のウェスウィウス火山の噴火によって、ポンペイと共に崩壊してしまったヘルクラネウム(*現エルコラーノ)遺跡に残る鉛製の「水道管」跡です。

イメージ 4


この水道管は、元々はヘルクラネウムの裕福な民家の道路沿いの壁面に埋め込まれていたのがむき出しになったものですが、この水道管跡の存在から、当時の都市において、少なくとも裕福な者は、自らの家に直接、水道管を引いて水を確保・使用していたことが理解できます。


今までの画像の紹介と若干の説明を通じて、古代ローマ時代の都市におけるインフラ整備に対する意識の高さとそれを支える技術力の一端が垣間見えるのではないでしょうか?
これをお読みになられた読者の方々の中で、ポンペイやオスティアなどの古代ローマ時代の遺跡を訪れる機会があれば、是非ともこうした何気ない「遺物」にも目を向けてみて下さると幸いです。

きっと、もう一つの「古代ローマ」と言う文明の魅力と奥深さを発見できるでしょう!!!


古代ローマ時代におけるインフラについては、もう何回かに分けてお伝えしてゆきたいと思います。



[参考文献: 青柳正規 『ポンペイの遺産 −2000年前のローマ人の暮らし』(小学館、1999年)]


以上。
今日は古代ローマ時代のインフラについてのお話をします。


古代ローマ帝国は、西はイングランド、東はドナウ川流域、北はゲルマン(現在のドイツ辺り)及び北アフリカ一帯を領域として支配・統治した空前の大帝国として知られています。
無論、その背景に非常に組織化され秩序だった強力な各軍団の存在があったことは確かですが、何よりも重要なのは、寧ろ、彼らローマ人の生活を支え続けた公共事業、インフラの整備を怠らなかったことです。

こうしたインフラの存在は、人々が快適な生活を送る上で必要不可欠な生活水の安定供給の為の施設にまで及んでいました。
何れ、改めて画像付きで紹介しようと思いますが、遥か遠くの水源より各都市に水を引き込むための水道橋の建設及び維持、そして、今回紹介する、そうした水道橋から引かれてきた生活水を都市内の各市民に満遍なく供給する為の「貯水タンク(Fontana)」などが古代ローマ時代におけるインフラ整備の重要性を示す例になります。


イメージ 1


上の画像は、オスティア遺跡内にある劇場及び組合所跡付近のインスラ(島を意味する。現在のアパートメントのようなもの。)に面した公道の一角に設置されていた「貯水タンク」(紀元後1世紀頃)です。

オスティアでは、古代ローマ時代の多くの都市と同様に、市外より水道橋を通じて引かれてきた水道水は、一旦、公道の地下を通り、各区域に備え付けられたこうした「貯水タンク」を通じて市民に供給すると言う配水システムを構築していました。
この「貯水タンク」は僕が知る限りでは、オスティアにおいては、少なくとも20〜25箇所存在していましたが、おそらくはもっと多かったものと思われます。

イメージ 2


この画像は、当時の「貯水タンク」の様子を再現したものですが、オスティア遺跡の紹介用看板より撮影したものです。
この再現図より分かるように、地上に引き上げられ、「貯水タンク」に溜められた生活水は、タンクの側面に空けられた2つの穴より止めどなく流れ出し、人々はタンク側面の下に添えつけられた白いプレートの上に桶や壺を置いて、必要な分だけ水を溜めていました。
尚、白いプレートの一本の溝で連結した2つ穴は地下に繋がっており、流れ出した水が再び地下を通ってゆく、と言う仕掛けになっていたようです。

イメージ 3


この画像は、「貯水タンク」の内部の様子です。正確なことは分かりませんが、タンクに空けられた2つの穴とは別にある四角に切り取られた部分からも水を汲み出すことができていたのではないかと思います。

古代ローマ時代において、各都市の行政担当者は、市民に対する公共サービスやインフラ整備に余念がなく、市民の側でも行政に対して常にこうしたサービスを享受することのできる権利を強く訴え続けてきました。
ポンペイの落書きや選挙広告が示すように、市民サービスと公職就任とは常に不可分の関係にあり、少なくとも帝政前期におけるローマ社会が、ある意味では現代にも匹敵し得る「民主的な」社会であった現実を、こうしたインフラの存在からも窺い知ることができるのではないかと思います...


尚、ポンペイにおける市民生活については、ブログ管理者が運用するサイト内の


も参考にして頂けますと幸いです。

また、同サイト内の


のページでは、オスティア遺跡における「公衆便所」の画像も載せてありますので、興味のある方は、是非ともご覧下さい!!!


今後も、古代ローマの魅力をこうしたインフラを通じても伝えてゆくことができれば、と思います。


以上。
今日は、古代ローマ時代の「軍医」の話をします。


古代ローマ時代、特に紀元前27年の帝政期以降、ローマ帝国は強力かつ高度に組織化していたと思われる常備軍を持っていました。
この常備軍は、2世紀頃には、帝国内の推定人口5,000万に対し、30万人規模の兵士を保有し、相当な規模であったと考えても良いでしょう。

この常備軍は、正規軍団と補助軍団とに分かれ、前者がローマ市民権保持者から構成されるのに対し、後者は帝国内の属州の自由民から構成されていました。また、こうした軍団内には、戦闘の最前線で戦う兵士の他にも、後方支援を行う部隊、例えば、食糧供給部隊、伝令、工兵、そして「軍医」が存在していました。


ところで、ラテン語でmedicusと呼ばれるこの「軍医」とは何者であったのでしょうか?
実は、この「軍医」の存在は19世紀末頃から研究者の間で割合注目されていたにも拘らず、その実態解明は未だ叶っていないのが現状なのです。

まず、「軍医」と呼ばれる存在が、史料上で現われるのが、ほとんど「墓碑」でしかない、と言う問題があります。
つまり、タキトゥスやスエトニウス、カッシウス・ディオと言った古代ローマ時代の歴史叙述家は彼らのことを記すことはありませんでした。それは、同時代の他の文筆家にも言えることです。

続いて、「軍医」と便宜的に訳されているmedicusは、本来、「医者」を示す用語であり、古代ローマ時代において、都市の「医者」と軍団内の「軍医」との間に厳密な違いが存在が存在していたのか推し量るのが非常に難しいのです。
この点は、当時の「職業観」にも深く関わってくる深刻な問題でもあります。


現在、古代ローマ帝国における「軍医」「軍医制度」について分かっていることは、

1)「軍医」の本格的な登場と組織化は帝政期以降に生じたのであろう。

2)「軍医」になる為には幾つかのルートがあったと思われ、大別すると、
  (a)優秀なギリシア人医師を高額な給料と何らかの特権で軍隊に引き抜いた。
  (b)軍団内の一般兵士の中から「医療従事者」を選抜し、場数を踏ませることで「軍医」として育て上げた。

3)幾つかの軍団駐屯地跡の遺跡からおそらく「軍事病院」と思われる最新の医療設備を備えた建物跡が発掘され、「軍医制度」が相当に発展していた可能性を十分に窺い知ることができる。

4)軍団内における医療関係者は「軍医」の他にも「包帯兵」capsarius)がいたと思われ、この「包帯兵」は主に戦場の最前線で活動し、負傷した兵士に応急手当を施し、無事に後方の「軍医」の所まで送り届けていたのではないか。

と言った所です。

今回は、僕が現地で撮影した、ローマの「トラヤヌス記念柱」のレリーフに描かれた「包帯兵」ではないかと疑われる画像を以下に紹介します。


イメージ 1


画像の中央下の左側の「包帯兵」?が、右側の負傷した兵士の応急手当をしている場面を描いています。
「包帯兵」と思われるこの人物もヘルメットを被り、軍服を着用していることから、基本的には一般兵士とは変わらない姿であったことが想定されます。


古代ローマ史における「軍医」及び「軍医制度」の実態解明にはまだまだ多くの時間が必要とされるものの、一つだけ言えることがあります。
それは、ローマ軍が、「負傷した兵士を助けようとする」メンタリティを保持していた、と言うことです。

しかし、何故でしょうか?
兵士を一人前に育てるには非常に時間と経験が必要とする為、容易には経験豊かで有能な兵士を殺させたくはなかった、と言う冷徹な政治的判断に基づくのでしょうか?
あるいは、彼らが、それだけ「一人の人間の生死」に責任を持ち、あるいは、軍団特有の「戦友意識」が容易に戦友を死なせたくはなかった、と言う人道主義的な発想が彼らの中に既に芽生えていたからなのでしょうか?

こうした問いに答えるには、やはり、古代ローマ社会に生きた人々の心性(メンタリティ)の解明なくしては果たせそうにはありませんが...




以上。


(注記)
古代ローマ時代における「医者」や「軍医」についてお知りになりたい場合は、

小林雅夫 『古代ローマの人々 −家族・教師・医師』(早稲田大学 2005年)

が簡潔にまとまれており、随分と参考になります!!!

剣闘士闘技1

今日は剣闘士闘技について少しお話します。


古代ローマ時代においては、gladiator(*剣闘士)と呼ばれる奴隷や被解放自由人、罪人、場合によっては自由人からなる人々同士が円形闘技場や公共広場に仮設された舞台上で武器を持って戦い、時にはあまりにも凄惨なものともなっていた「死のゲーム」に従事していました。

こうした剣闘士達は出自においてのみでなく、剣闘士としての熟練度においても多様でした。
つまり、剣闘士闘技を職業とするプロフェッショナルな者から、刑罰の一環として、あるいは奴隷所有者の気紛れからこうした「殺戮の舞台」に投げ込まれ、一度も武器を握ったことのないようなノンプロまで存在していたのです。

現代の我々から見れば、あまりにも残酷かつ非人道的とも思われるこうした剣闘士闘技は、古代ローマ人の間では相当に熱狂的に受け入れられていた為、我々とは異なる「精神構造」を有していたのではないかと疑わざるを得ないと思うこともあります...


古代ローマの為政者は、この「剣闘士闘技」と言う場を通じて形成される「集団的な熱狂」、「群集心理」のもたらす「利益」と「恐怖」を常に感じざるを得なかったようです。
つまり、民衆にこうした「見世物」を提供することで、彼らの政治や統治に対する不満を逸らし、あるいは、自分達への好意を獲得できる反面、彼らが「世論」を形成しつつ一致団結して歯向かって来る最大の批判勢力ともなりかねなかったのです。

こうした現象は「見世物」の政治化なのでしょうか?あるいは、非政治化もしくは文化の大衆化を示すのでしょうか?当時の政治・社会の特質と関連付けながら考えてゆくと興味深い仮説なり結論が導き出せるような気もします。


ところで、こうした剣闘士闘技では実際、どのようなことが行われていたのでしょうか?

現実には、大別すると次の3つの闘技が行われていたことが分かっています。剣闘士同士が1対1あるいは複数人で闘い合う「剣闘士闘技(munera)」、剣闘士対野獣、あるいは野獣同士が殺し合う「野獣狩り(venatio)」、そしてアレーナに水を引いて人工プールにして、その上で艦船同士が闘い合う「模擬海戦(naumachia)」です。

以下に、「剣闘士闘技(munera)」「野獣狩り(venatio)」の画像を紹介します。
この画像は、古代ローマ時代の遺跡ポンペイより出土した墓碑レリーフとして描かれていたのを撮影したものです。

イメージ 1


左側の両頬を覆った兜を被った闘士がサムニテスと呼ばれ、右側の闘士はレティアリウスのようにも見えます。

イメージ 2


このレリーフは、「野獣狩り(venatio)」の一場面ではあるものの、この場合は、寧ろ、罪人を処刑の一環として猛獣に噛み殺させている公開処刑の場面を冷ややかに、そして淡々と描いています。

これらのレリーフを見て行くだけでも、古代ローマ時代に行われていた剣闘士闘技の凄惨さを窺い知るのに十分ではないでしょうか...


剣闘士闘技や円形闘技場については、HPの


の所でも述べているので、興味のある方は、是非ともご覧下さい。


これからも時々、古代ローマ史に関して何らかの投稿をしていこうと思います。
(*あまり時間を割けないのが残念ですが...)


以上。

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