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昨日に続き、古代ローマ時代のインフラについてお話します。 古代ローマ時代の海港都市であったオスティア遺跡では、都市内の各住民に生活水を満遍なく供給する為の設備は、大抵が「貯水タンク」であったわけですが、ナポリ近郊の遺跡ポンペイでは、こうした設備は以下のような屋根のない「共同水道」の場合がほとんどでした。 (*少なくとも、僕がポンペイの遺跡中をくまなく探し回った限りでは、以下のような「共同水道」の形態しか見つけることができませんでした。) 上の画像の「共同水道」は「ウェスウィウス通り」と「フォルトゥーナ通り」が直交する箇所に設置されていました。 先程も少し述べましたが、僕はポンペイの遺跡中(*立ち入り禁止区は除く。)を歩き回りながら、こうした「共同水道」跡を見つける度に、ポンペイの遺跡地図に印(●)を付けていったのですが、その結果、基本的には各区画(*直交する道路によって囲まれた区域)毎に1つないし2つ程、設置されていたことが分かりました。 従って、当時のポンペイでは、どの区域に住む住民も、ほんの数十秒で「共同水道」へアクセスし、生活水を確保することができていた、と言うことになります。 こうした各区域ごとに「共同水道」を設置していた、と言う事実は、ポンペイにおいては、オスティアと同様に、都市内の全ての住民に対して安定的に生活水を供給しようとする地方行政のインフラ整備に対する非常に高い意識が存在していたことを明示的に示しているのです。 また、こうした「共同水道」は地下から水を引き上げているのですが、その水は、例えば「ウェスウィウス門」付近のCastellum aquae(*分水場)を中継地として、市外より運ばれてきた水を、公道沿いの地下に鉛製の水道管を張り巡らせて、そこから各区域の「共同水道」を通じて各住民に水を供給していました。 因みに、上の画像の公道の左脇にある分断された管が見えますが、この管は、当時、地下に埋め込まれていた水道管がむき出しになったものです。 ところで、ポンペイにおける「共同水道」は、各々の区域毎で興味深い彫刻装飾が施されており、例えば、「牛」や「豊穣の女神」の面を象ったものもあります。 近現代で言えば「オシッコ小僧」にあたるポンペイ流の茶目っ気なのでしょうが、もしかすると、若干は、生活に不可欠な水を毎日送り届けてくれることに対する古代流の「自然や神々への感謝」(*当時においては、自然は、何らかの「人格神」となる場合が多かった。)の意が込められていたのかもしれません。 特に、「牛」は当時においては、「神聖なる神々への捧げ物」と言う厳粛な儀式の生贄として用いられていたことからも推測できそうです... 尚、上の画像は、先程の「共同水道」の画像を拡大したものですが、ここでは「皮袋に寄りかかったシレノス神」がモチーフとして描かれています。 この「シレノス神」は、神話上では、ディオニュソス神に葡萄の栽培を教えたと言うこともあり、ディオニュソス神を「葡萄の栽培の神」(*ポンペイでは良質のブドウ酒が有名であり、その為にポンペイの人々にとって、ブドウ栽培は重要な収入源の一つであった。)として崇めるポンペイの人々にとっては、やはり重要な存在であったのでしょう... また、「シレノス神」の皮袋に水栓が付けられていますが、この水栓自体はおそらくは現代に改めて取り付けられたものであるものの、当時にも既に水栓が存在していたのは事実のようです。 最後に紹介する画像は、紀元後79年のウェスウィウス火山の噴火によって、ポンペイと共に崩壊してしまったヘルクラネウム(*現エルコラーノ)遺跡に残る鉛製の「水道管」跡です。 この水道管は、元々はヘルクラネウムの裕福な民家の道路沿いの壁面に埋め込まれていたのがむき出しになったものですが、この水道管跡の存在から、当時の都市において、少なくとも裕福な者は、自らの家に直接、水道管を引いて水を確保・使用していたことが理解できます。 今までの画像の紹介と若干の説明を通じて、古代ローマ時代の都市におけるインフラ整備に対する意識の高さとそれを支える技術力の一端が垣間見えるのではないでしょうか? これをお読みになられた読者の方々の中で、ポンペイやオスティアなどの古代ローマ時代の遺跡を訪れる機会があれば、是非ともこうした何気ない「遺物」にも目を向けてみて下さると幸いです。 きっと、もう一つの「古代ローマ」と言う文明の魅力と奥深さを発見できるでしょう!!! 古代ローマ時代におけるインフラについては、もう何回かに分けてお伝えしてゆきたいと思います。 [参考文献: 青柳正規 『ポンペイの遺産 −2000年前のローマ人の暮らし』(小学館、1999年)] 以上。
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