From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

ペトロニウスの鉄筆

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ペトロニウスの鉄筆が、今日も軽やかに動き出す。
すると、トリマルキオが何やら語り始める...

(注:ここでは、「トリマルキオの邸宅」とは違った観点から、そして、多少、小難しいお話をして行きたいと思います。「コラム」、「メモリア(記憶)」、etc...)
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今日はフェルマーの日らしい。

さっき、グーグルのトップページの絵柄がフェルマーの最終定理
「 x^n + y^n = z^n 」は「nが2より大きいばあいは整数解をもたない」
を意味する、
 x^n + y^n ≠ z^n [ n>2 ]
をもじったものになっていたので、ああそうか、と思わず、フェルマーについてザッピングしてみた。

元々は古代ギリシアの数学者(哲学者)ピタゴラスの定理の一つ
x^2 + y^2 = z^2
を基に、1637年頃にフェルマーが予想?した定理らしく、
フェルマーがこの定理を発見して以降、多くの数学者が証明もしくは反証しようとして
結局、3世紀もの間、誰にも証明できなかったという。
(※最終的に解決したのは、1995年、数学者アンドリュー・ワイルズ。)

こうした件を知るだけでも、数の神秘や、
その神秘に魅了され、生涯をかけて証明しようと躍起になる人々の情熱に
改めて驚かされる思いがする。

一見すると、フェルマーの最終定理を証明したところで、
何ら世の中に益するようには思えないかもしれない。
ただ、数学は古代より哲学と同じ次元で語られることが多かったことを考えると、
「人間らしさ」の追究、つまり人文主義(humanitas)の根幹を成す
精神活動の顕れということになるだろうか。

人間が数の神秘に魅惑され続けてきたことで、
回り巡って現代社会の礎である様々な技術が発展してきたことも事実。
ただ、そうした有用性を抜きにしても、
純粋に数の神秘を探求し続けようとする姿勢が人々から喪われないことに希望を持ちたい。


あの愛しさ、あの激しさで
走り抜けた 遠い日よ…

(*徳永英明 「黄昏を止めて」より)

例えば、10代の頃に読んだ本を数年後、数十年後になって読み返してみた時、
あの頃と同じ感情・想いで読み進めることができるだろうか?
同じ件に共感を覚え、あるいは反発し、
再びあの頃に絶対だと思っていた価値観を冒険心を再燃させることは可能だろうか?

ある人曰く、青春と呼ばれるものは、
「喪われた“時”を憧憬のうちに思い返す営みに過ぎない」というものであるとすれば、
僕が辻仁成の『ニュートンの林檎』を今、再びこうして読み返す作業は、
「喪われた時」の欠片を海岸沿いの砂浜に書きなぞる作業に過ぎないのかもしれない。
やがては波間にさらわれ、まるでそんな“時”は存在しなかったのだと無言で諭されるまま
日常に戻っていく。

『ニュートンの林檎』−10代の頃に出会った男女二人の永遠の友情と恋慕の物語。
あっという間に駆け抜けた10代・20代。
二人は何度も出会いと別れを繰り返し、時には何年も会うことはないまま、
別々の世界でそれぞれの人生を送る。
けれども、まるでニュートンの林檎が地球の引力に引き寄せられるように
二人の間を誰よりも強い引力によって引き寄せあう。

そんな二人の周りを様々な人々が駆け抜け、
陰謀・憎しみ・嫉妬・悲しみ・裏切り・希望・友情・憧憬が混在し、
一種のカオス的世界を創り上げていく。
舞台も、東京から北海道、イタリアのベネツィア、九州と次々と変わっていき、
空間的な広がりの中で登場人物達の荒々しい「生への渇望」が描かれていく…

学生の頃、10代終わりの頃、僕が初めて『ニュートンの林檎』を読んだ時、
その壮大な世界観に圧倒され、大いに冒険心を刺激されたのを覚えている。

最近になって、古本屋で『ニュートンの林檎』を再び探し当て、
今、こうして読み返しいるのも、僕自身のあの頃感じていた想いを
もう一度、触れてみたくなったから。
けれども、残念ながらあの頃の想いそのままで読み進めることができない自分がいる。
何処か醒めた目であの頃を眼差す自分がいて、
読み進める間、懐かしさはあっても、言葉の一つ一つに虜になっていた自分はもういない。

あの頃の僕自身の感情も波間に掻き消されてしまったのだろうか?
それを、成長と呼んでもよいのだろうか?
そうだとすると、その成長過程で僕は何を得て、何を失ってしまったのだろうか?
そして、得たものと失ったものと、どちらがより大きな比重を占めているのだろうか?

多分、僕は数年後、あるいは数十年後に再び、
この『ニュートンの林檎』を読み返すだろう。
その時、僕の気持ちがどう変化しているのか、
その時には、小説をどのように受け止めることができるのか、
再び試してみようと思う。



…お前の前に、純情な、恐れを知らぬ魂が姿を現す。

(by 在りし日のトリマルキオ 「不死鳥」より)
京都...

君の面影を残して
雨雲に包まれた古都の薫り
幾重にも連なる瓦屋根に隠れた小路

君の声を宿して...

先日、同僚から京都のお土産を頂いた。
「今出川」という懐かしい印字がされたそのお菓子の包みが
僕の中の記憶を呼び覚ましてしまったようだ…


【京都−ゆきてかへらぬ…】

 僕は学部生の頃に一年間ほど京都にいたことがある。その時の思い出はそれなりにある。懐かしいもの、心躍るもの、そして、無論、思い出すと今でも鼻先がツンとするような甘酸っぱいものも...

 ところで、京都にいる時、どうしても行きたい場所があった。それが京都市左京区にある銀閣寺へも通じている「哲学の道」である。ご存知の方も多いと思うが、この道は日本の近代哲学史の草分け的人物である、故・西田幾多郎氏(京大・教授)が、日々、散歩をしながら思索に耽っていたと言う有名な道である。

 そうは言うものの、その当時、なかなか忙しく?て、あるいは横着であったために、「行きたい!」、「行こう!」と思いつつ、つい先延ばしのまま、京都での生活も残り2,3ヶ月と言う所となっていた。しかし、やはり、それでは何のために京都にいたのか分からない。やはり、是が非でも行かねば!と意を決して、ついに銀閣寺を訪れるついでに「哲学の道」を少しだけ散策することにした。多分、雪混じりの雨降る冷たい1月初旬の某日のことだったと思う...

 京都は、流石、観光地だけあって、また、初詣がてら京内の神社や寺に参る人々も多く、何処かしこも人々の雑踏でごったがえし、正直、「哲学の道」を歩いている時も、西田氏が耽ったような思索に耽る雰囲気などではなかった。その日は、生憎とそれほど時間があったわけでもなく、雑踏が止むまで待つこともできず、結局、そのまま帰ることとなった。それ以来、現在に至るまで、京都を訪れることはあっても、「哲学の道」を歩く機会には恵まれてはいない...

 ところで、西田氏が書いた書物は今、2冊ほど手元にある。何れも学部生の頃に購入したものだが、特に1年生の頃に購入した『続思索と体験』を読んで、京都に憧れを抱いたようなものである。だから、この書物は、僕の京都行きと現地での生活を支えるものであったし、それだけに思い出の深い書物ともなっている。

 この『続思索と体験』の中に、特に僕が気に入っている言葉がある。それが、以下に引用する「或教授の退職の辞」の中で記された数行である。

…回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。
 その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。
 黒板に一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。…

西田幾多郎 「或教授の退職の辞」(*『続思索と体験』)より。

 今よりも、まだまだ感受性が強く?、行動よりも言葉に強く惹かれやすかった当時の僕は、特に、

黒板に一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。
と言う一行に、正直、心酔にも似た憧憬を抱いたものであった...

 幸いにも、当時、この数行に出会った時の感想を認めたものを保存していたので、以下に引用してみる。

 人の一生とは一行で語ることができる。たかが言葉とはその程度なのだ。たった一行でいい。かの哲学者は自分の人生を振り返りながらこう呟いたではないか。「……その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。」 (*西田幾多郎 “或教授の退職の辞”『続思索と体験』より)と……。だが、このたった二行で語り尽くした哲学者の言葉の中にいったい、如何ほどの人生の深みが滲み出ていることだろう。彼は自己の探求すべき真理へ敢然として立ち向かったのだ。それは生きる態度であり、自らに科した使命なのだ。それは身体と精神の向きの問題であって、到達した結果の問題ではない。善く生きたと言うよりは善く生きようとした、というべきなのだ。それこそ生きる気概とも言うべきものなのだ。…

by 在りし日のトリマルキオ

 僕が、京都に託す想いは無数にある。中原中也の詩集を持って、何処へなりとぶらぶらと歩いた思い出。ひたすら鴨川沿いを歩き続けた秋の夕暮れの淡いオレンジ色の光。古めかしい赤レンガの洋風建築物が立ち並ぶキャンパスの薫り。そのキャンパス内にて、平日の昼、約30分ほど、実演のオルガン演奏で礼拝曲が流れるチャペル。この昼のチャペルの館内は、あまりにも静寂と荘厳に覆われていた空間であり、歩くたびに床が悲鳴を上げるかのように軋んで館内に響き渡る為、来館者はみな忍び足でそっと一歩ずつ足を踏み出さねばならないほどであった...

 僕に、「古代ギリシア世界と言う、太陽の熱気と情熱に満ち満ちた地中海世界!」を教えてくれた或る先生、あるいは、或る近代日本思想史の先生の言葉。その先生は、キャンパスの案内ついでに、僕に、ジェスチャーを交えながら、熱気のこもった調子で、こんなことを語ってくれた。

想像してご覧なさい。明治のある時期に、まだ西洋風の建築が日本にはあまりなかった時期、それも日本古来の伝統的な木造建築物が乱立するこの京の町の中心地に、しかも目の前が、まだ桑畑一面に覆われていたこの土地に、ある日、洋風の石造建築物が整然と列をなして我々の前に姿を現す光景を……。

それが文明開化だ!それが、日本が西洋へと眼差しを向け始めたと言う明確な意思表明なのだ!この伝統的な木造建築物が乱立する京の町の中心地に堂々とそび聳え立つ洋風の石造建築物……。一面の桑畑を背に明日を見る若き学徒達が学ぶ「知の中心地」。これが文明開化なのだ!

(*或る近代日本思想史の先生の言葉。)
 
 考えてみれば、「学びの場」は、日常の至るところに存在している。何も、学校に通うことが、即ち学ぶことではない筈である。無数の人生の中、無数の書物、あるいは、無数の言葉の中に、「学びの場」は常に内在しており、僕等は、自らのヴィータ(*人生)を通じて、学び続けることができる。だから、如何なる経験であれ、人生において無意味なことなどなく、如何なる経験であれ、大切にしておくべきものであろう。そして、できれば、その記憶は、何らかの形で留めておくと良いだろう。それは、日記でも良いし、詩やちょっとした小説の中に宿らせておいても良いだろう。

 大切なことは、如何なる記憶であれ、決して忘れないことである。後悔であれ、何らかの過ちであれ(*もし、あるとすれば...)、無論、些細な喜びであれ、如何なる記憶であれ、決して忘れないことである。時には、辛いかもしれない。時には、どうしようもなく恥ずかしいかもしれない。あるいは、思い出す度に、ちょっとばかし鼻先がツンとするような酸味っ気のある記憶かもしれない...

 だが、如何なる記憶であれ、忘れない限りは、いつかは、何らかの形で自分自身にとって肥やしになってくれる筈である。あるいは、いつの日か、それを伝えることで誰かの人生の肥やしになるかもしれない。いずれにせよ、記憶は、ヴィータを「フルに充実」させてくれるものとなる筈である。

 だから、僕にとって、京都での一年間もまた、大切な大切な思い出であり、同時に、自分のヴィータにとってなくてはならない経験なのだと言うことができよう...
Silent Prayer ...


某ブログを通じて知ったことだが、
東大文学部卒業生総代の卒業式でのスピーチが文学部HPに掲載されていた。
一度、読んでみて、ふと間を置き、もう一度読み返す。
ここ最近で見聞きした中で最も心に響く言葉ではなかったか…

東日本大震災の影響で僕の母校を含め多くの大学で卒業式が取り止めになる中、
東大もまた、例年に比べ大幅に縮小する形での卒業式・修了式を何とか挙行したという。
折角の門出だから、とお祝いしてあげたいという思いがある一方、
まだまだ予断の許さないこの状況の中、気持ちよくお祝いできない気になったのも確かだろう。
震災で被害に遭われた方々のことを考えればそんな場合ではない、
とは思うものの、やはり卒業生一人ひとりの気持ちも考えてしまいたくなる。

そんな折、以下のような総代のスピーチ文を読むと、
この世は日本は、そして大学も、何よりも文学には、
まだまだ救いがある、と強く感じさせられてしまう。

…不確かさは、むしろ古典の豊かさにつながっているのではないか。だから、正解がひとつではありえないということは、私たちにとって絶望ではなく希望なのではないか。

 広大な世界のただ中で漫然と不確かさを嘆くのではなく、限られた領域においてではあっても、正面から不確かさに取り組もうとする態度を、私は文学部で学ぶことができたのではないかと感じています。

 さて、冒頭にも触れたとおり、震災がありました。一学生の私は心を痛めるばかりで本当に何もできません。あのとき就職していれば、日常の仕事を続けることで少しはお役に立つことができていたかもしれないのです。こんな時に文学の学生などやっていて良いものだろうか。これから文学部に進入学される方の中にも、あるいは私と同じような迷いが生じているかもしれません。

 しかし、あまりに楽観的な発想かもしれませんが、社会が世界の不確かさに震えているとき、不確かさから直接希望をくみ上げることができる文学部の役割は、たとえすぐに効果が期待できなくとも、今後ますます大きいと信じたいのです。

(※東大文学部卒業生総代のスピーチ文より抜粋

僕自身は学生の頃、文学もとい歴史、それも特に古代史に対し
社会における必要性や価値・意義を見出しきれないような疑念に陥っていたように思う。
当然といえば当然の悩みだったかもしれない。
同じ歴史学者にあってさえ、時に近現代史からみて中世・古代史は
不確かな史料を適当に操作するだけの茶番だと言われることがあるのだから。

けれども就職してしばらく経ってから分かってきたことは、
人間の本質とは、目先だけの有益性・利便性に囚われるようなものではなく、
日々の喜びや悲しみといった感動とか、愛する人を想うこととか、
そうやって人生を紡いできた生の証を残していくことではないか!
一見、虚学のように思える文学や歴史・哲学といった世界も
人々が古より培い伝えてきた愛知や感動、生命の物語を、
祖先がしてきたのと同じように次世代の人々に伝えていく役目を負っているのなら、
それはやはりこの世に存在し探求され続けるに値する価値を有しているように思える。

引用したスピーチ文とは違う意味で自分自身の見解を述べてみたが、
先のスピーチで強く共感できる箇所がある。
それは、「希望がある!」

けれども、希望は傍観していれば訪れるものではなく、
自分自身で一歩一歩動き出し、(楽観的に)前を向いて生きようとする強い意志が必要となる。


…わたしは「人間」のために戦うであろう。「人間」の敵にたいして。だがまた、わたし自身にたいして。

(※サン=テグジュペリ 『戦う操縦士』より)
この数日間、日常の中に非日常が同居しているというか、
いつもと同じような生活でありながら、いつもと何かが違う…
そんな感覚の中で日々を過ごしている。


【地震、その時…】
地震が起こった時、僕はたまたま勤務先のビル7Fと8Fの踊り場にいたけれど、
流石に何十年前と随分年数が経っていることもあり、
外見は荘厳で頑丈なビル内階段の内壁がボロボロ崩れ落ちてきた。
落下物を避ける為、いったんは7F廊下に入り手すりに掴まったが、
しばらくは動ける状態にもなく、ただただ手すりを握りしめるのに精一杯だった。
少し揺れがおさまりかけてきたところで、8Fの勤務場に取り合えずは戻ろうと考え、
落下物をさけるようにして階段を上がり、何とか自席まで戻ることができた。

戻りながら、もしかしたらちょっとしたパニックが起こっているかと少し懸念がよぎったが、
ほんの数日前に防災訓練を実施したことも多少は影響しているのか、
案外、皆落ち着いて自席でヘルメットをかぶって待機していたのが印象的だった。

その後、何度か大きな揺れが起こり、その度に通路沿いのキャビンが
鍵を掛けられているにもかかわらず、鍵をぶちやぶり勢いよく飛び出してくるもので、
通路沿いの席の人達は、下手に近づくこともできず、ただただ不安そうだった。

やがて、防災センターからアナウンスが流れ始め、
「エレベータ全機停止!」、「このまま指示を待て!」
「防災担当の社員はPDルームへ参集のこと」、etc...
と、訓練と同じ通りのことが淡々と繰り返された。

そのうちに、地震の情報が携帯や他の人の口から入り始め、
「どうやら三陸沖付近でM7.5程度の地震が起こったらしい。」
(※当初は、M7.0-7.5程度と言われていた、と記憶している。)
と聞き、阪神大震災のことが頭をよぎった。

白状すると、入ってくる情報も少なかったこともあり、
この時点では正直、かなり楽観的に考えていて、
「人口密度の違いから考えて、阪神大震災ほどの人的被害は生じないだろう。」
と心の中で勝手に嘯いていた。

断続的に続いていた大きな揺れがある程度収まり、
防災センターからも特に指示が下りなくなった為、
情報収集しにテレビのある休憩ルームに向かい、
画面の先の光景を観た時、先ほどの楽観的な雰囲気は一気に崩れ始めた。

目の前の光景は、大津波によって、なすすべもなく家屋やビニールハウス、車が
次々となぎ倒され飲み込まれていく姿。
その大津波の中から燃え広がる火の渦。
ニュースでそんな光景が繰り広げられていく姿を見ながら、
「自分は今いったい何をしているのだろう。」と奇妙で不気味な感覚に襲われた。
自分は多分、安全な?ところにいて、
東京ではないある地域で起こっている悲惨な現実をテレビのニュースを通じてただ傍観している。
大津波がこともなげに田畑や家屋を浸食していく姿が、
もう何年・何十年も前から続く自然の営みかと思われるような錯覚にも陥り、
ともすれば、何事も起こっていはいなかったのではないかとさえ誤認しそうになった。
結局、現場で起こっていることは現場に居合わせている当事者にしか
本当には実感できないのかもしれない。

そう考えていくと、ニュースを見るのにも何となく居心地が悪くなり、
休憩ルームから離れ、窓の外から通りを見下ろした。
すると、幾つかのビルや会社から退避指示が出たのか、
ヘルメットをかぶり外に出て緊急避難場所へ向かう人々の群れがどこまでも続いているのが見えた。
(※僕の勤務先では退避指示が出なかったが、それが正しいのか間違いなのかは分かりかねる。)

そうこうしているうちに揺れもいったんは収まり、
「取り合えず定時まで仕事をしてさっさと帰ろう。」ということになり、
定時まで仕事をしてさぁ帰ろうか、という頃になったところで、
再び防災センターより連絡が入り、
「現在、ほぼ全路線において運行見合わせ!」
「取り合えず、次の指示を待て」
という達しがきた。

この頃から少しヤバイかも、と思い始めていたが、
流石に今夜中には運行再開されるだろうとタカをくくっていた。
が、入ってくる情報はどれも悪いものばかりで、
「JR全線が本日の運休決定」に始まり、
どの路線・鉄道会社も「運休」、「運転見合わせ」の文字が並ぶだけだった。
夜8時半頃?から、何とか「運行再開」となった路線も運行区間は短く、
東京23区内を走るだけのものがほとんどで、いっこうに復旧の目処が立たない。
夜仕方なく、長期戦を覚悟して夕食を買いに階段で8Fから降りていき、
ようやくビルの外に出ると、地下連絡通路にも地上にも人で溢れ返っていた。
特に驚いたのがJR東京駅で、当日中の運休が決定したにもかかわらず、
あるいは、他に行く宛もない為か駅内に座り込む人や、
僕と同じように何とか当座の食料品を確保しようと構内を横切り歩き回る人々でごった返していた。
勤務先近くから東京駅にかけてのコンビニも早々に閉まっていった為、
結局、僕が手にすることができたのはチョコレートやおつまみ昆布くらいだった。

いつまで経っても帰宅の目処が立たず、時間だけが悪戯に過ぎていく。
たまに更新される「運行再開」路線情報も、23区内のみや、僕が帰る家とは反対方向のものばかり。
距離が距離だけに他の人みたいに歩いて帰るわけにも行かず、
同じように帰れない同僚と他愛もない話をしたり、黙々と本を読んだり、
時折、地震のニュースや運行情報を確認しながら、11時、12時…と時が刻まれていく。
その内、会社から帰宅難民向けに備蓄していた非常食が配られることとなり、
一人ペットボトル2本と水やお湯を入れるだけで食べられる簡易式のご飯やカンパンなどが与えられた。
僕はおこわご飯を食べたが、お湯を入れてしばらく待つだけで本当にご飯ができ、
しかも思った以上に味が美味しかったのは少し興奮した。
(※見た目が見た目だけに不評らしく食べず嫌い的に多くの人は食べようとはしていなかったが…)

その後も僕が使っている路線の運行状況が好転することはなく、
結局、日付が変更し、夜明けが訪れ明るくなり、朝9時半頃になって、
ついに自宅に帰るのをいったん諦め、どうにか運行を開始した路線を使用して
兄家族の家に一時的にご厄介になることにした。
(※土曜の朝だというのに満員でかなり難儀だったが…)
兄家族の家で姪っ子の相手をしながら更に待つこと数時間、
やっと運行が再開され始め、どうにかこうにか家に帰った時には、既に夜9時を超えていた。


【その後】
結局、月曜日は計画停電の影響で列車は終日運休となり、仕方なく自宅待機となった。
そして、今朝は何とか動くらしい、という情報をキャッチし、
始発に乗ったが、直ぐに乗客で一杯になり、朝5時台だというのに
列車に乗れない人が出るという摩訶不思議な出来事もあった。
(※地下鉄に乗り換えた途端、拍子抜けするほどすきまくって?いた為、
  如何にあの路線がその沿線に住む人々の「生命線」となっていたのか
  つくづく実感させられた。)

今朝は6時半に業務を開始し、15時半頃には退社した。
駅について家に帰る前に立ち寄ったスーパーやコンビニでまたまたびっくり!
普段は飽食の時代を象徴するかのように食料品で溢れ返っているこれら店舗から
ごっそりと食料品・生活必需品がなくなっていた。
昨日の時点でかなりなくなっており、既に怪しい予感は漂っていたのだが、
文字通り全くもぬけの殻のこの状況に何やら背筋が凍る思いがした。
先日より報道を通じて、「必要以上の物資を買占めしないように。」と
注意喚起が随分となされていたが、現実に生活する人々の心には全く響いていないようだ。

本当に恐ろしいのは、「物がなくなること自体」よりも
「物がなくなるかもしれない」という恐怖心の方である。
これについて誰かが誰かを責めることはできないと思う。
確かに、理屈では、「必要以上に買い占めるべきでない。」
「もっと被災者の方々に振り分けるべきだ。」ということは分かってはいても、
現実に襲ってくる恐怖心がそうした理屈をあっという間に押し流してしまう。
特に現状は、福島原発の相次ぐ爆発事故と稼動停止、それによる計画停電…
一見、地震の影響もさほど受けず十分に平和に見える関東圏でも
「いつ・何が起こるか分からない」という恐怖心。
表面的にはパニックが起こっていないこれら地域でも、
実際に住む住人に与えている心理的影響は計り知れないように思える。

…これが、僕が感じる東北大地震の余波と深刻な影響だ。
 こんな時期に、どう理性を保ち、本当に苦しい方々に必要なだけの支援をしていけるか。
 例え、それが計画停電への協力や食料品買い控えという間接的なものであるとしても、
 どう自制心を保ち適切な行動をすべきなのか。
 それが、今、僕ら一人ひとりに試されているのかもしれない。


【追記】
つい1ヶ月前に仙台を訪れたばかりで、
こんなことになってしまったことに本当に辛い思いがします。
幸いにも仙台に住む小父さん・小母さんは無事だったみたいで
それだけがせめてもの救いです。

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