From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

ペトロニウスの鉄筆

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ペトロニウスの鉄筆が、今日も軽やかに動き出す。
すると、トリマルキオが何やら語り始める...

(注:ここでは、「トリマルキオの邸宅」とは違った観点から、そして、多少、小難しいお話をして行きたいと思います。「コラム」、「メモリア(記憶)」、etc...)
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…未来を知る方法は二つある。

by P.F.ドラッカー


 何時ぞやの週刊『ダイヤモンド』を読んでいると、上記のような言葉があった。故ドラッカー氏は続けてこう説いたと言う...

一つは、自分で創ることである。


もう一つは、すでに起こったことの帰結を見ることである。そして行動に結びつけることである。


 特に一点目の「未来」に対するドラッカーの捉え方は、曲がりなりにも歴史学を勉強してきた(つもりになっている?)僕には、大変、興味を引くものであった。歴史学は、過去にあった歴史現象を史料を通じて再構成する、と言う言い方も一応はできそうだが、それは、決して未来を予測する学問ではない。つまり、過去にあったこと(事実?)は、あくまで過去の出来事に過ぎず、一見すると、如何に現在に似通った出来事が起っているとしても、過去の歴史的帰結を元に現在が向かいつつある未来の帰結を予測し得るものとはならない。
 その意味で言えば、歴史学を学んできた者にとって、過去に目を向けてきた者にとって、「未来を知る」と言う表現は、時に嘘っぱちに聞こえてくる。「どんな歴史も決して繰り返されることはなかったし、表面上、どんなに似通っていても、結局、その原因も、過程も、帰結も、実際には、個々の事象ごとで違うじゃないか!」と言う具合に...
 けれども、「未来を知る」こととは「自分でその未来を創ること」である、と説かれた時、不思議と素直に納得!と言うか、何故か新鮮に感じられた。今まで、過去に眼を向け、過去に起った事象を解明しようとしてきた一介の学生が、これから社会に出て、「未来」を志向していかねばならない立場に立たされようとする時、その「未来」とどう向き合っていけばよいのかについて、重要なヒントを与えられたような気にもなる。

 「過去への眼差し」から「未来への志向」へ、「創ってきたものを傍観する立場」から「これから創るものを評価される立場」への意識改革の必要性を問われたようにも思われる。そして、歴史を学ぶことの意義を自分の中で再定義しなおす必要があるのだともつくづく感じさせられた。



追記

 それでも、「古代ローマ」と言う異世界とそこに生きた人々を自分なりに学び、解釈してきたことは、決して無意味なことではないと思っている。僕にとって、「古代ローマ」は、「過去」と言うよりも、「異文化」や「異なる社会」、もっと言えば、「異なる人格」(*「他者」)なのだと思う...
…あそこの雨には恋の匂いがあるのかもしれない。(注:1)


 …都内では、昨夜から雨が降り次いでいる。


 雨と言うのは、通勤や通学中に降られるとたまったものではない。傘も差さねばならないし、自転車通いなら、レイン・コートも羽織らねばならない。日常生活の営みの中では、雨と言うのは、しばしば憂鬱で忌々しいものに感じられるのが道理なのだろう...

 けれども、雨と言うのは、不思議な余情を誘うものでもある。特に今日のように、静かに降り次ぐ雨ならば...事実、雨は、しばしば多くの作曲家や詩人の心を揺さぶってきた。静かに染み込む「心の痛み」とも、「優しい慰め」ともなってきた...


 フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌは、雨を自分の心の涙に例えた...


Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville ;
Quelle est cette langueur
Qui penetre mon coeur ?


O burit doux de la pluie
Par terre et sur les toits !
Pour un coeur qui s'ennuie
O le chant de la pluie !


(邦訳)

街に雨が降るように
僕の心には涙が降る。
心のうちに染み入る
この虚しさは何だ?


地にも屋根の上にも
降り次ぐ静かなる音よ!
静まらぬ心にとっての、
おお、雨の歌よ!


出典:Paul Verlaine, "Il pleure dans mon couer",Romances sans parole (1874)
(訳:ブログ管理者 参照訳者:渋沢孝輔(注:2))


 この詩は、後年、フォーレとドビュッシーにより作曲され、シャンソンとなったと言う。

  ↓ ↓ ↓

"Il pleure dans mon coeur"
(*You Tube)


 雨はやはり、悲しい。雨はしばしば悲しみの情景を、謂れもなく不意に湧き上がらせることもある。雨降る街の雑踏の中、否応なしに、「孤独な自分」を見出すこともある。窓にあたってはしぶしぶ弾き返される雨音を聴いていると、本当に泣いているのは、空ではなく、自分自身なのではないか、と思わされることもある...


 けれども、雨音は、同時に、優しい響きでもあるかもしれない。僕がそれに気付いたのは、ショパンの前奏曲第15番作品28の15、「雨だれ」を聴いた時である。

  ↓ ↓ ↓



 ピアノの旋律は、時に、雨音の響きにも似ているような気もする。窓にあたっては弾き返される雨粒の響き。時折、空が叫び声を上げるかのように大地にも屋根にも強く打ち付ける轟音!そして、再び、静かなる優しい響きへと落ち着いてゆく雨の声...



 だが、ある者にとっては、雨の記憶はやはり、優しく、そして甘酸っぱい。それは、小雨の中、無言でそっと差し出された傘の記憶。―その傘を何度か拒否をする男に対して、なおも少し気恥ずかしそうに無言で傘を差し出す女。やがて、男は観念して、それでは、と言い、女の代わりに自分で傘を持ってあげることとなる。無論のこと、女が濡れないようになるべく傘の中心を女の方に向けながら...


 その後、二人がどうなっていったのか、僕は知らない...



 何れにせよ、雨音は、今日一日の僕等の心の動きを歌っているのかもしれない。自分達ですら気付き得ないような悲しみであり喜びを...




 だから、時には、ただ静かに雨音に耳を傾けてみるのもよいだろう...



(1) 辻邦生 「巷に雨の降るごとく」(*『海峡の霧』)より。
(2) 尚、渋沢訳(*敬称略)では、「街に雨が降るように/わたしの心には涙が降る。/心のうちにしのび入る/このわびしさは何だろう。/地にも屋根の上にも軒並に/降りしきる雨の静かな音よ。/やるせない心にとっての/おお なんという雨の歌!」となる。素晴らしい訳文である。
「どっちが勝つって?」
「そりゃ愛さ。愛はいつも勝つ」

by モリー先生

M・アルボム 『モリー先生との火曜日』(NHK出版、1998年)


イメージ 1


「ミッチ、私は死にかけているんだよ」 

16年ぶりに再会した恩師、モリー・シュワルツ教授はALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていた。忍び寄る死の影。「あと4か月か5か月かな」。だが、その顔には昔と変わらぬ笑顔があった。「この病気のおかげでいちばん教えられていることとは何か、教えてやろうか?」そして、老教授の生涯最後の授業が始まった――。 

(*Amazonより抜粋。)


眠れない夜のお供に、こんな本はいかが?
きっと君たちの心を優しく、
けれどもちょっぴり切ない気持ちにさせてくれることだろう!

などと、別に宣伝する気はないのだけれども、
僕が個人的に気に入っている本の一つ。

扱っているテーマは、重たいはずなのに、
モリー教授とミッチの間の絶妙な「師弟関係」と言うより、
「友情」が、何処までも清々しい気持ちにさせてくれる。

「ところで、ミッチ」
 はい?
「そのうち、私のことを友だちと思ってくれるようになるといいな」

(本書より。)

大学研究室における、この短いやり取りで、
モリー先生と学生ミッチとの「親交」が始まった。

その後、ミッチは大学を卒業し、社会に出る。
そして、仕事に追われる日々を過ごすミッチ。
忙しい毎日だけれども、それなりに充実した日々。
けれども、何処かに大切な荷物を忘れているような気もする。

モリー先生との交流も暫く途絶えた数年後...

ひょんな偶然から、再び、モリー先生に会いに行くこととなったミッチ。
そんな「恩知らず?」なミッチをモリー先生は、
暖かく笑顔で迎える。
「待ってたよ!ミッチ」
なんて言いながら。

そして、始まったモリー先生とミッチの特別講義。
テーマは、ずばり!「人生の意味」について。


さぁ、君たちも本書を開いて、モリー先生との特別講義を始めよう!
(まぁ、お涙ちょうだいと言われれば、そうかもね...)



追記

暫くの間、段ボール箱の中に眠っていたこの本の存在を思い出したのは、
多分、恩師のことを思い返したからだろう...

モリー先生とミッチのような関係ではないけれども、
少なくとも、僕にとっての恩師は、
ミッチにとってのモリー先生みたいな存在なのだな、と思った。

――大切な、そして、いつまでも心に残り続ける大きな存在。


…そうですよ、先生!
時には、反発したりもしたけれども...
 不思議と人を惹き付ける文章と言うものがある。文章と言うか、その文面から否応なしに滲み出てくる、その人の個性なり哲学なり、と言ったほうが適切かもしれないが。つい先ほど、僕の部屋の中に無造作に置かれていた『史観』を、久しぶりにパラパラと捲っていると、思わず、息を飲むエッセーに出会った。それが、

・古川誠之 「普遍史と西洋中世史:ひとつの入り方」(『史観』159、2008年、126−128頁。)

である。


 古川氏のこのエッセーの趣旨は、西洋史を母国の歴史として認知しない者が、何故、西洋史を学ぶのか?」と言う、常に、我々日本人にとっての「西洋史」や「世界史」を学ぶ必要性について問い続けられているテーマである。以下、古川氏のエッセーより幾つか引用してみたい。

…高校生の私にとって、読み物というものはおもしろくあるべきものだった。その際に事実であるか、ノンフィクションであるかは重要なポイントではなかった。そして歴史の本、特に世界史教科書は、おもしろくない本の代表格だったと記憶している。…歴史が物語とするならば、世界史教科書という物語はツカミもなく、オチもない。そのため自分自身と関連づけることもできない。そのため自分自身と関連づけることもできない。それでも生きていけるのならば、人が世界史を、歴史を学ぶことに意味があるといえるのだろうか。…


古川(2008)、126頁。

 その後、古川氏は、(引用は割愛させて頂くが、)主にキリスト教神学に基づく「普遍史」と言う考え方を知り、その面白みに興味を抱いた経緯をエッセーの中で綴っている。その「普遍史」と呼ばれる「歴史観」の中には、「始まりと終りがある」と言う「プロセス」に基づいた一つの完結した「物語」としての「ツカミとオチ」が存在しており、そこに魅力を感じたのだと。

…私にとって普遍史を知ったのち、世界史とは単なる事実の羅列ではなくなった。世界史は物語への指向性をもっている。場合によっては、その物語は私自身をまったく納得させないものであるかもしれない。…それにもかかわらず、普遍史を歴史、つまり事実とみとめてそのような歴史観をもって生きた人々が存在した、その事実は私を引きつける。中世キリスト教世界の人々はどのように自分たちと歴史を結びつけていたのだろう。…


同、127頁。

 キリスト教神学に基づく「普遍史」と言う「歴史観」は現代的な視点から見れば、単なる「物語」に過ぎない。けれども、重要なのは、かつて、その「物語」を自分たちの「歴史」として認識し、そこに「自己」の生きる道筋とリンクさせてきた人々が存在していた、と言うことであろう。少なくとも西洋中世世界に生きる人々にとって、キリスト教における「普遍史」は「真実」であった。現代に生きる我々が、中世世界の人々に言及しようとするならば、そう言う「感性」を持っていたと言う現実を無視することはできないのだろう。

 古川氏は、以下の言及を通じて、エッセーを締め括っている。

…中世の人々は、私にとってはまったくの他者である。なぜ無関係の他者を学ぶのか?と思われるかもしれない。しかし私にとって、他者を学ぶことは世界を知ることである。私がいまあること、存在することは、世界つまり他者なしにはかなわない。私は他者を知ろうとする行為を通じて世界と結びついていられる。他者を知ろうとする行為こそが私という存在を作る。私は西洋中世史を追うことで、いわば私にとっての歴史と向きあっている。


同、128頁。

 多分、西洋史を学ぶ者にとって共通した見解であり認識であろうけれども、この「他者性」こそ「異文化」、「異世界」を学ぶ上で重要な視点なのだと思う。「自己」は「自己」のみでは「自己」が「何者であるか?」を知りえない。「自己」が「自己」であることを認識するためには、そこに「自己」とは異質な「他者」の存在を必要とする。「…私は誰であるのか。なぜ今を生きているのか。私はどのような未来へ向かうのか。」(*同、126頁。)歴史を学ぶこと、それも自分たちの「歴史」ではない(であろう)「西洋史」を学ぶことの意義。古川氏のエッセーは、この意義について、改めて我々に問い掛けているようにも思える。

 

追記

 『史観』は論文雑誌であるため、一般の読者の方にはなかなか手に入りにくい。その事情も考慮した上で、今回、敢えて、引用を多用させて頂いた次第である。尚、この投稿記事そのものに関する一切の責任は当ブログ管理者に帰属するものとする。
本当の優しさは、心の中にある...


 折角だから、恩師のことについて色々書いていこうと思うこの頃である。もう直ぐ退官される恩師に対して、僕らゼミ生は何が出来るだろうか?そんなことをあれこれ思案しながら、我等がプリマドンナ先輩に、

「皆で恩師に対する思いを綴った作文?のようなものを「文集」にでもまとめてはどうだろうか?」

と、提案したのは、つい先日のことである。勿論、却下されるには相違ないのだけれども、心優しきプリマドンナ先輩は、

「いい案だね♪そう出来たらきっと先生も喜んでくださるわね♪」
(*「…多分、却下でしょうけどね♪」と心の声???)

と、フォロ・ーメールを入れてくれた。
(注:実際の文面とは変えてある。)


まぁ、そんな前置きをしつつ、以下、再び、恩師のことについて語ってみたい...


 恩師と初めてまともに対面した時、恩師はまだ元気であった。無論、今でもお元気なのは相違ないが、数度の大手術をされる前のことで、まだまだ言葉をはっきりと話すことが出来、マシンガン・トークが炸裂していた頃のことだ。江戸っ子らしい「ぺらんめぇ調」で、二人きりの研究室で、2時間近くもの間、ひたすら「…カエサルは凄いんだ!」、「…古代ローマのスパイは凄いんだ!」と嬉しそうに語っておられた。
 西史の先輩方が口を揃えて言うのは、恩師が、やたらと一つの話を繰り返す、と言うことである。古代ローマ時代の「女医」や「助産婦」に関する研究をしておられた頃は、1時間半の講義の間、教壇の前を忙しなく歩き回りながら、ひたすら、「…女医は凄いんだ!」、「…助産婦は凄いんだ!」と、何かにつけ捲くし立てていたと言う伝説も残っている。そして、これも先輩方に共通した意見だが、恩師はやたらと頭が切れると言う。流石は、高校時代、数学者を志しておられただけのことはある。若かりし頃は、「科学史」関係の論文の翻訳も随分と手掛けていたと言う。そんなわけで、大抵の場合、恩師のあまりの頭の回転の速さに生徒はついて行けなかったと言う。学部生向けの授業では、内容が濃い上に、レポート課題も結構あり、その意味でもなかなかついていくのは大変だったろう。そして、授業に臨む「姿勢」に関しては、特に厳しい方だったとも言う...

 けれども、誰もが口を揃えて言うのは、それでも恩師は「人に対する気遣いが出来る」心優しい人格者と言うことである。時折見せる厳しさの裏側には、「学生が社会や世間に負けない強さを持って欲しい!」と言う想いが篭められているのだと...
 ある西史の先輩が、ある時、止むを得ない事情で、数度、授業を欠席していた時、恩師から叱責を受けた時のことだ。恩師は、一先ず授業に臨む「姿勢」に対して注意した後、

「…君が大変なのは分かっている。けれども、私が今、ここで厳しく言うのは、それが君自身の為になるからだ。今、君自身が、己を律することが出来なければ、結局は、君自身の将来の為にはならない...」

と優しく諭してくれたと言う。

 今でも覚えているのは、恩師が授業中に、「記念碑とは一つの結論である!」と言った時に受けた衝撃である。当時、どちらかと言えば、政治史に関心を持っていた僕にとって、古代ローマ時代の記念碑がそれ自体で立派な研究対象になり得るとは考えてもみなかった。だから、この恩師の一言がなければ、碑文に関心を向けることはなかっただろう。恩師はよく口を酸っぱくして言う。

…碑文解読は難しいことではない。本当に難しいのは、碑文の裏にある時代背景や社会背景を読み取ることだ!古代ローマ人が残した碑文が我々に何を語り、伝えようとしているのか?それを読み解く責任が我々の側にある!それが、我々が碑文を用いて歴史を研究する意義なのだ...

 歴史学者にとって、「碑文学」自体は専門領域ではない。この特殊な領域は碑文学者に委ねられるべきで、寧ろ、歴史学者は、碑文学者が断片から「まるで魔法のように」(*実際には、日々の碑文研究で培われた膨大な知識と経験ゆえに。)解読し、再現した「碑文」の「声」を聞くのである。碑文学者が「碑文」に「生命」を吹き込むのだとすれば、歴史学者はその「生命」ある「碑文」の「声」に耳を傾けることで、古代ローマ人の「想い」や「意図」を汲み取ってゆくのである。恩師が言わんとすることは、あるいは、こう言うことなのだろう、と今、改めて思う...


 恩師のことを語るのは2回目だが、まだまだ語り足りない部分も多い。それほど、僕等にとって、恩師の存在は大きいものだと言うことになるのだろうけれども。また、何れ、機会を改めて、記憶を頼りに語っていけたら、と思っている。読者の方々には、あまり関係ない話で申し訳なく思うが、それでも、やはり僕は一つだけ問い掛けていきたい。

「…君達には、君達の人生に影響を与えてくれた存在はいるかい?」と...

もし、答えが、Si!ならば、この記事の言わんとすることも汲んでくれるのではないかと思う。

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