From ROMA-KEN(古代ローマ史探求)

…歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。(Samuel Ullman, 'Youth'(「青春」より。)

古代ローマの碑文

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古代ローマ時代の碑文や墓碑について紹介するコーナーです。
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P10「ある6人委員と一族」(* Un sèviro ed i suoi)


A.0.9.11028
 高さが変わってしまい、折れてしまったが、再び組み合わせられた石碑。ただ、左部分(146 x 74)が欠けてしまっている。Musso(*大理石の種類:若干、ねずみ色掛かった色をしている。:ブログ管理者、注。)の大理石製。19世紀にBigli通りと交わったManzoni通りで発見された。
 紀元後1世紀の碑文。
(* CIL V,8923.)

【碑文テキスト】

Q(uintus)
Modius Pelorus
(sex)vir sibi et
Luciliae C(ai) f(iliae) Pollae
uxori
C(aio) Lucilio Sabino
[-] Cassio Nigellioni
amico
[..]niali Firmo Licoridi
Pupae Cossuroni
libertis


(*ブログ管理者、注:第一行目のQのみ他の文字より大きく、目立っている!)

【碑文(訳)】

クィントゥス /
モディウス・ペロルス /
6人委員が、自分の為に、そして /
ルキリア・ガイウスの娘・ポッラ /
妻の為に /
ガイウス・ルキリウス・サビヌスの為に /
[-] カッシウス・ニゲッリオ /
友人の為に /
[. .]ニアリ、フィルムス、リコリス、 /
プパ、コッスロ、 /
被解放自由人達(*上記5名全てを示す。)の為に(この石碑を設置した。) /


【解説(訳)】

 クィントゥス・モディウス・ペロルスは、自分の墓碑の中で、多くの他の名称や親族(妻やおそらくは彼女の親族の一人)、そして親族でない者、つまりamicus(*友人:ローマ世界においては幾分か法的に重要である名称。)の範疇にある者の名を挙げている。;また、数多くの被解放自由人男女が、個人名のみで示されているが、彼らは全てgens Modia(Modius一門)に属する者たちである。
 ファーストネームのイニシャルである大きな文字Qは、ここでは、特に際立った様相を呈している。:一段高く孤立している為、この文字は装飾的な要素となり、(刻まれた)形や位置故に、しばしば石碑に彫り込まれている、メデューサのシンボリックな頭部と言う暗示的な要素となっている。

(解説:A・サルトーリ、訳:ブログ管理者。)
 古代ローマ時代の碑文は断片で見つかることが多い。そうした断片を、独自の知識と経験によって、現代人に解読可能なものとして「再生」していくのは碑文学者の専門領域である。
 そうした、我々にとっては「スーパーマン!」のような碑文学者の一人にイタリアのミラノ大学教授のアントニオ・サルトーリ氏がいる。サルトーリ氏と日本の古代ローマ史学界との結び付きは相応に深いものがあり、現在、日本における古代ローマ史学界で活躍している研究者の中にも、日本国内(サルトーリ氏の来日時にて。)もしくはミラノ大学へ留学し、一度は、サルトーリ氏の碑文学の講義を受けた者や師事した者も少なからず存在している。

 そのサルトーリ氏の「碑文学」に関するテキストを利用して、ブログ管理者が所属する大学院のゼミでも「碑文学」の授業を恩師より受けたのだが、その事例を今回、紹介してみよう!
 尚、テキストに用いられている「碑文に関する写真」は著作権の関係で公表できないので、文字テキストのみになる点、ご了承頂けると幸いである。
(*「碑文訳」はサルトーリ氏のイタリア語訳を参照した。また、【解説】は、サルトーリの解説をブログ管理者が邦訳化したものである。)



P7「一族と共にある名士」(*Un notabile con totti i suoi)


A.0.9.11022
 botticino製(大理石の種類:Bresia県のBotticinoで取れる。)で、おそらくは祭壇から切り離され、19世紀までS. Maria di Fulcorina教会で再利用されていた額面(現在は84 x 46 x 12 cm)。
 紀元後1世紀の碑文。

【碑文テキスト】

[-] Atilius Li[---?]
[-] f(ilius) Exoratus [---]
[(sex)]vir iun(ior) decur(io) [---]
sibi et
[---]ae Vrsae uxor(i) [---]
optimae
[et] Venustae L(uci) l(ibertae) et
   Ca[---]
Chresimo Campano [---]
[..]men(o) et omn(ibus) libertis
   [libertbus(que)?]
Rufinae lib(ertae)[---]

【碑文(訳)】

[-] アティリウス・リ[---?] / 
[-](の)息子・エクソラトゥス [---] / 
自由人による6人委員(*sexvir iunior [1] )にして都市参事会員 [---]が / 
自分の為に、そして / 
[---]ア・ウルサ 妻 [---] / 
最良なる者の為に / 
(そして)ウェヌスタ・ルキウスの被解放自由人の為に、そして /
カ[---] の為に /
クレシムス・カムパヌス [---(被解放自由人?)の為に、そして] /
[. .]メヌスに、そして、全ての被解放自由人(男子)及び /
[被解放自由人(女)?]の為に /
ルフィナ・被解放自由人の為に [---](石碑を設置した。)


(邦訳者注:[1]尚、sexvir seniorとなる場合は、「被解放自由人からなる6人委員」であることを示す。

【解説(訳)】

 おそらくは…Atilius Exoratus…息子なる、ある主要な人物についての碑文であるが、Liと言う文字の解読が不確かなままとなっている。:ただ、(Liの)置かれている位置や欠落部分があまりに短すぎることを考えると、別の氏族名である可能性はないだろうし、また、石碑からEと言う文字を見出すことが出来ない為、Lem(onia)と言う選挙区の部族単位を示したものであると言う可能性もないだろう。
 彼(Atilius)は自分の一族全員の為に墓碑を用意したが、その中では、親族の名前及び非常に親密な関係にある被解放自由人の名前を示す一方、他の集団に所属する者達をも含んでいる。彼は都市の名士であった。始めに権力の中枢を支える6人委員となり、その後、公的生活を管理する特権的な集団である都市参事会員の中に受け入れられていった。従って、彼が確かな財力基盤を有し、彼の資質に関する都市参事会のメンバーによる厳しい調査を通過していったことは間違いないであろう。

(解説:A・サルトーリ、訳:ブログ管理者。)


【コメント】(ブログ管理者による。)

 「碑文」を用いて「歴史」を構築していく際、碑文学者と歴史学者との間には絶妙な信頼関係が必要である。碑文学者が、「碑文」に「生命」を吹き込むのだとすれば、歴史学者はその「生命」ある「碑文」の「声」に耳を傾ける必要がある。
 A.0.9.11022の碑文に対するサルトーリ氏による【解説】を見ても分かるように、碑文学者は、「碑文製作の解釈」、「碑文表現の解釈」を行っている。−これは、歴史学者にとって、重要な情報となる。一方、歴史学者は、その「碑文」「歴史的意味の解読」を行う必要がある。碑文学者が碑文の「内容」を解読するのであれば、歴史学者はその「碑文」の「意味」を究明するのだとも言える。


追記

 アントニオ・サルトーリ氏の日本語で読むことの出来る論文として、一点挙げておく。

・アントニオ・サルトーリ、小林雅夫(共同執筆)「ローマの医師と碑文:実態とその表現」
  (『早大文研紀要(第4分冊)』45、2000年、33−44頁。)

 特に、39−44頁がサルトーリ氏の論文となっているが、古代ローマ時代の「医師」に関する「碑文」を碑文学者が如何なる視点で解読しているのかが端的に示されていて興味深い。
 古代ローマ時代における碑文や墓碑銘、あるいはそれらに伴うレリーフなどが我々の興味を引くのは、そこにドラマが存在しているからでもある。かつて、笑い、泣き、怒り、悩み、あるいは、祈り、名誉を求め、そして、愛し合い...要するに、古代ローマ人も我々と同じように、かつてを「生きた」のである。言わば、「生の証」としてのドラマを、我々は今に残る記念碑や墓碑を通じて「観る」ことができる。
 例えば、剣闘士は何を考えて生きていたのだろうか?彼らは、「生と死」が常に隣りあわせとなっている世界を生き、戦い続けた。その剣闘士をローマ人はどのように考えていたのだろうか?剣闘士は、infamia(恥辱)の対象とされ、俳優や売春婦、犯罪者などとともに法的にも「社会の周縁部」へと押し出されていた。剣闘士に関する研究をしている某氏が語ってくれたところでは、このinfamiaとは、「ローマ市民」から「逸脱」する人々を「切る」概念、すなわち、「正常からの逸脱者」を「社会的に排除」する為の概念だと言う。けれども、その同じローマ市民が、こうしたinfamiaとされた剣闘士や俳優のパフォーマンスに熱狂し拍手喝采したのである。
 「恥辱」と「名声」。こうした矛盾した評価の中に晒されていた剣闘士の心理的葛藤、そして「排除」しつつも「熱狂」するローマ市民の矛盾した意識に関して、我々には容易に理解し得ないものであるが、それを読み解く鍵となるのが、おそらく、他ならぬ彼等自身が残した「生の証」としての碑文であろう。


イメージ 1

レリーフに描かれた剣闘士闘技


 上記の大理石製のレリーフ断片(80 x 40 x 15 cm)は、剣闘士闘技の様相を描いたものである。現在は、「ローマ国立博物館」に所蔵されているが、おそらくは紀元後3世紀後半から4世紀初め頃に、皇帝が所有する「剣闘士団」の為に製作された記念碑である。このレリーフ断片の下方に描かれている、「セクトル」(左側)と「レティアリウス」(右側)と呼ばれた二人の剣闘士は、今まさに白熱の戦いを繰り広げている最中である。けれども、このレリーフ断片が我々に伝えるドラマは、もっと生々しいものである。

イメージ 2

剣闘士と「死」

 対面する二人の剣闘士の上方には、碑文が刻まれている。

[---] us. Scolasticus. Damascenus. Θ


 この碑文を通じてレリーフに描かれた二人の剣闘士には、各々、スコラスティクスとダマスケヌスと言う名前であったことが分かる。そして、この二人の剣闘士は戦い、結果として、ダマスケヌスは戦いの最中に死んだ(*「Θ」すなわち、「死」を意味する!)。この「死」が刻まれたと言う現実は、剣闘士達の、あるいは剣闘士闘技の何を伝えたがっていたのだろうか?剣闘士に対する冷ややかな反応だろうか?あるいは、「死」を前にして戦う剣闘士の「名誉」だろうか?このレリーフ断片からだけでは、容易に推測するのは困難である。

 上記で例示したように、古代ローマ時代の碑文は、しばしばあまりにも簡潔である。けれども、その簡潔さの中には、「かつて」を生きた人々の各々のドラマが存在し、そうした幾多ものドラマの積み重なりやぶつかり合いによって歴史は編まれているのであろう。
 古代ローマ人は、「生の証」としての記念碑を彫り刻むことで、一体、何を訴えようとしていたのか?何の意味もなく、彼らは高価に過ぎる記念碑製作に打ち込みはしなかっただろう。そのドラマを読み解く作業が、「古代ローマ世界」の実態解明において、今後ますます必要不可欠となっていくのだろう。



追記

 日本における古代ローマ史学界では、長らく「剣闘士」に目を向けられることはなかった。けれども、近年、幾人かの若手の研究者が「剣闘士」研究で興味深い「仮説」を提起し始めている。未だ「成果」には程遠いかもしれないが、こうした研究者が、剣闘士自身が残した「碑文」に注目しつつ、その「意識」を解明しようとする気概は注目に値する。「21世紀の歴史学は「感性の歴史」の時代!」と時に言われることもあるが、史料からは直接に言及されにくい、こうした「感性」や「意識」を読み解く作業は、ともすれば、「因果関係」の説明が難しく、「嘘っぱち!」と揶揄されがちだが、少なくとも「古代ローマ史」の「剣闘士」や「俳優」と言ったマージナルな存在の「世界」の実態解明を行っていく上では、必要不可欠な作業ともなってくる。そして、こうしたマージナルな存在の「世界」の実態解明を行っていくことで、結果として、古代ローマ人の社会を解明してゆく契機ともなっていくのだろう。




(注:掲載画像は、ブログ管理者の撮影によるものである。)

参考文献
・Friggeri,R.(De Sena,E., transl.) ,
The Epigraphic Collection of the Museo Nazionale Romano at the Baths of Diocletian, ELECTA, 2001.
 我が国の古代ローマ史学界において、いち早く史料価値としての「碑文」、「墓碑銘」の価値に注目しつつ、碑文やそれを理解する上でバックーボーンとなる碑文学の知識を元に長年研究してこられた小林雅夫氏に言わせると、


…20世紀の古代史学界で最も影響力のあった古代史家の一人であったイタリアの歴史家モミリアーノも指摘しているように、…古代地中海世界の墓碑は、まさに西欧人の自己表現の伝統の起源を示している

by 小林雅夫氏 (とあるシンポジウムにて。)


 のだと言う。


 実際、古代ローマ時代のものとされる碑文は現在知られているだけでも約30万点近く存在しているが、この数は、年を追うごとに新たに見つかり、年報の中で報告され続けることによって、今後、塗り替えられていくことだろう。そして、この30万点はあくまでも現在知られ得る限りの数で、当時、製作されていた碑文の総数から見て僅か数%にも満たない、と多くの碑文学者は見做している。言い換えれば、それだけ多くの古代ローマ人が、碑文製作に並々ならない情熱を傾けていた!と言うことでもある。

 こうした古代ローマ時代に製作された碑文の約8割は、故人の死を記念した「墓碑銘」であり、そこには、「故人の名」のみならず、「職業」、「身分」、「年齢」、「生前果たした業績」、あるいは、「故人の追悼者」すなわち、「墓碑銘の設立者」の「名前」や「故人との関係性」、「職業」、「身分」なども刻まれ、場合によっては、何らかの「感情的な追悼」や、「詩の文句」が刻まれたりもする。従って、小林氏が正しく指摘するように、古代ローマ時代の碑文は、しばしば公開性を有した「自己表現」や「自己告白」の「場」であり、「明確な意思表明の場」であり、何よりも「生の証」の表明!とも言えるだろう。

 
 興味深いことは、こうした「自己表現」の「手段」と「場」は、古代ローマ社会にあっては、「全ての階層・身分」に開かれていた、と言うことである。つまり、例え奴隷や被解放自由人であっても、墓碑銘を刻む「意志」と「資金」さえあれば、その機会は、平等に開かれていた、と言うことになる。そして、実際に、決して少なくない数の奴隷、そして何よりも多くの被解放自由人が自らの名を「明示」的に、時には「プライド」と共に刻んだ。以下は、ある被解放自由人女性の墓碑である。


イメージ 1

商売活動に従事していた被解放自由人女性の墓碑 (58 × 177 × 29)


 この墓碑の碑銘の部分のみ拡大したのが、以下である。


イメージ 2

商売活動に従事していた被解放自由人女性の墓碑2

碑銘(CIL I^2, 3011a)

GAAVIA・C・L・PHILVMINA・EX・AVEN[TINO?] / 
DE・SVA・PEQVNIA・FECIT・SIBEI E[T] [DE...] / 
CVCVMAI・AVRVFICI・L・AVFIDIO・L・L・D[...]

訳

ガイウスの被解放自由人(女性)ガウィア・フィルミナ、アウェンティヌスの丘で商売をする者が、自らの資金で、自分の為と(・・・欠落・・・)、被解放自由人(女性)ククマ、金細工士の為、そして、ルキウス?の被解放自由人(男性)アウフィディウスの為に奉献した。


(訳:トリマルキオ)

注)訳に関しては、一部迷っている箇所があるので修正し直すかも知れない!
ただ、基本的には間違ってはいないと思われる。


 この墓碑銘の興味深い点は、ガウィアと言うとある被解放自由人女性が、アウェンティヌスの丘にて(多分、奴隷時代の元主人の保護の下で)商売活動に従事し、自ら碑銘を設置できる(de sua pecunia)程度には稼いでいたこと、更には、他の仲間(*あるいは、被解放自由人男性とは、内縁関係にあったのかもしれない...)を追悼する用意ができていたことである。
 一方で、この墓碑銘には、「年齢」が記載されておらず、また、そもそもここに刻まれた3名の何れかが既に死んでいるのか、あるいは生前のままなのか、と言った情報が欠落している。従って、この墓碑銘は、我々が墓碑に対してイメージするような単なる「死の追悼」と言うものではなく、ガウィアと言う被解放自由人女性による、「ある程度自立した女性」としての「プライド」を伴った「自己表現」とも、「生の証」を刻んだ「自己告白」とも取れるだろう。

 上記の墓碑銘を一例として挙げたように、元々、古代ローマ人の墓碑銘には、「時間」に対する観念を見出しにくい。言い換えれば、彼等にとっては、「いつ死んだか」が重要なのではなく、生前、「自分が何者であったか」が極めて重要なファクターであった、と言うことになる。つまり、彼等の墓碑銘製作には「有限な時間」を超越した「永遠性」に対する希求性が存在し、それ故、墓碑銘に「自己告白」を刻み付けることで、世界の中に「自己を永遠に生きる存在」として位置づけようとしていたのである。

 
 次の例は、ある奴隷女性の極めて慎ましい墓碑である。


イメージ 3

奴隷女性の為の慎ましい墓碑


 以下が、上記の墓碑の碑銘を拡大したものである。


イメージ 4

奴隷女性の為の慎ましい墓碑2


碑銘

ASCLA /
MINVCIA・SER

訳

ミヌキアの奴隷アスクラ(が眠る)


(訳:トリマルキオ)


 この墓碑銘は余りにも慎ましく、被記念者が奴隷であったことを考えると、当時の社会通念で言えば、「身分相応」の墓碑銘とも言えるだろう。だが、如何に慎ましいものであっても、ある奴隷女性が、明示的に「名前」を刻まれつつ、その死が記念された、と言う点は看過すべきではないだろう。そもそもこの墓碑は、一体、「誰が?」、「何の目的で?」設置したものであろうか。もしかしたら、奴隷自身が設置したのかもしれないし、女主人ミヌキアが自分に尽くしてくれた奴隷アスクラの為に設置したのかもしれない。あるいは、女主人が設置したにしても、それは、女主人自身の奴隷に対する「寛容」さを宣伝する目的で設置したのかもしれない...


 このように考えてゆくと、実は、ラテン碑文は解読自体が難しいのではなく、その製作の「動機」を解明することが難しいのである。もっと言えば、その背景にある古代ローマ社会の特質を考慮に入れながら一つ一つの碑文や記念碑設置の意味を考えて行く必要があるのである。
(*例えば、上記で紹介した墓碑の場合、当時の女性を取り巻く社会環境、特に「ジェンダー・バイアス」をも考慮しておかなければならない。しかも、彼女達の場合、身分的にも決して「良い」ものではなかったのである。それらを理解した上で上記の墓碑銘を見ていくと、例えば、とある被解放自由人女性が、「自立した女性」としての「プライド」を刻むことの持つ意義と重みがいっそう明確になるものと思われる。)


 何れにせよ我々に、今、分かっていることと言えば、古代ローマ人は墓碑や記念碑を通じて「自己表現」、「自己告白」を行っていた!と言うことである。そうした「生の証」を読み解いてゆく作業が、後世に生きる我々の勤めとも言えるだろう...


(*記事内の画像は、全て、「ローマ国立博物館」にてブログ管理者が撮影したものである。尚、撮影に際しては、事前に、当館職員の許可を取ってある。)


注)紹介した墓碑は、何れも共和政後期のものと考えられている。

参考文献
・Friggeri,R.(De Sena,E., transl.) ,
The Epigraphic Collection of the Museo Nazionale Romano at the Baths of Diocletian, ELECTA, 2001.
・Gourevitch,D., La Donna nella Roma Antca, Giunti, 2001.
・Donati,A., Epigrafia romana, il Mulino, 2002
今日は、古代ローマ時代における碑文の紹介です。


碑文と聞くと、一般的には、墓石や記念物など耐久性があり固い物質である石や青銅版の上に刻まれた銘文をイメージすることも多いかと思われます。

しかし、古代ローマ時代においては、実際には、手鏡や甕などのちょっとした生活用品の表面や、交易活動の際によく用いられる「アンフォラ」と呼ばれるブドウ酒やその他諸々の交易品を持ち運ぶ為の貯蔵壺の表面など、様々な場所に刻まれ、あるいは刻印されたもののことを言います。
あるいは、ポンペイ遺跡の壁面の至る所で見つかった「落書き」や、場合によっては、漆喰を利用して描かれた「広告ポスター」「選挙ポスター」(*ブログ内の関連記事へのリンク。)なども広義の意味で碑文と呼んでも差し支えない場合もあります。


古代ローマ時代の碑文と記念碑一般については、いずれ、別の機会で改めて紹介しようと思いますが、今回は、古代ローマ時代、特に紀元後4世紀以降に一般的になり始めた「奴隷の首輪」の紹介をします。

なお、下記の画像は、「ローマ国立博物館」で撮影したものです。


イメージ 1

古代ローマ時代に用いられた「奴隷の首輪」


上記の画像は、「奴隷の首輪」ですが、直径12cmほどのこの首輪には、正方形型(6cm×6cm)の銘文付きの青銅製のプレートが付けられています。
また、この首輪は、紀元後4世紀から6世紀の間に製作されたものと考えられています。

こうした首輪は、古代ローマ時代においては、現代でも一般的である家畜やペット(*特に犬)としての動物にも付けられるものでもあり、この意味では、当時の奴隷に対する扱いや社会的な認識が、必ずしも人道的とは言えない面が少なからず存在していたことを示す一例とも言えるかもしれません。
(*しかし、彼等は常に非人道的な扱いしか受けていなかったわけではない、と言うことも付言しておきます...)


なお、こうした首輪が出土する例は結構珍しく、多くの場合は、その脆さゆえに、すぐに壊れてしまう場合がほとんどでした。
その意味でも、この首輪は非常に貴重な史料とも言えるでしょう。


ところで、この首輪には如何なる銘文が刻まれていたのでしょうか?


イメージ 2

「奴隷の首輪」に刻まれた銘文


画像では、いまいち不鮮明なので、下記に銘文を掲載しておきます。

碑文

FVGI TENE ME / CVM REVOCV / VERIS ME D(omino) M(eo) / ZONINO ACCIPIS / SOLIDVM


(訳)

「もし私が逃げたら、私を捕まえてください。そして、私を私の主であるゾニヌスの元へ連れ戻してください。そうすれば、君は、金貨を受け取ることができるでしょう。」


興味深いのは、この銘文が、あたかもこの首輪を付けられた奴隷が自分で語り、自分から「自分を捕まえてください!」と訴えかけている点です。
しかし、現実的に考えれば、今から逃亡しようとする奴隷が、自ら「自分を捕まえてください!」などと訴えることは無い筈です...

こうした銘文は、古代ローマ人流の茶目っ気、あるいはブラック・ジョークなのでしょうか?
それとも、古代ローマ時代の人々にしか理解できないような、慣習的とも言える表現方法なのでしょうか?
何れにせよ、我々の感覚ではにわかには理解しがたい表現だと思います...


この「奴隷の首輪」の存在は、我々にもう一つ非常に興味深い事実を提示しています。
つまり、元々、奴隷は、肌に直接、奴隷としての烙印を押されていたのですが、こうした身体を傷つける烙印の代わりに、首輪を用いることで奴隷であることの「認識票」とする習慣に変わって行ったことを示しているのです。


実際、共和政期から帝政期へと徐々に時代を下っていくにつれ、古代ローマ社会における奴隷への扱いは、より改善されて行ったのも事実です。

例えば、共和政期には、主人は奴隷の生死を自由にできる「生死の権」(*何と、実の息子や娘にも適用されていた!)を保持していましたが、帝政期に至ると、主人が無制限に奴隷を処罰し虐待することは、法律で禁止されていくようになります。
そして、仮にこうした禁令を破った場合、主人の側が処罰の対象ともなりました。

また、奴隷が重病を患った場合に、主人がその奴隷を勝手に遺棄することは禁じられ、仮に遺棄した後に、その奴隷が奇跡的に病から復活した場合には、その奴隷は自由の身となり、元の主人はその元奴隷に対する如何なる権利も有することができなくなってゆきます。


以上で見てきたように、この「碑文つきの奴隷の首輪」は、古代ローマ時代における奴隷が置かれていた様々な局面を垣間見させてくれる重要な史料なのです。

そして、古代ローマ時代においては、碑文はこの首輪の例が示すように、日常生活の様々な場面で刻まれ、至る所に存在していたのです。
こうした碑文が訴えかけるものに耳を傾けることで、古代ローマ人が生きていた社会や意識を理解してゆく一助ともなるかもしれません...


以上。


参考文献
・Friggeri,R.(De Sena,E., transl.) "The Epigraphic Collection of the Museo Nazionale Romano at the Baths of Diocletian", ELECTA, 2001.
・島田誠 『古代ローマの市民社会』(山川出版社、1997年)。



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