清水の次郎長こと山本長五郎(1820〜93)は江戸城無血開城の陰の立役者であった。
幕末編「捨て身の交渉」を参照して貰いたいが、征討軍の大将・西郷隆盛と
幕府の使者・山岡鉄舟の会見が成功したので勝海舟の出番となり無血開城がなった。
鉄舟は清水まで来たが敵兵に見つかり危うく「望嶽亭」という茶店に逃げ込んだ。
その主人が用心棒として引き合わせたのが次郎長である。
賊軍に加担する者は打ち首とされたが、次郎長は鉄舟の警護を引き受け、
大政、小政らの子分と共に駿府伝馬町の西郷の宿舎まで無事送り届けたのだった。
又、その年榎本武揚がひきいる幕府の咸臨丸が難破して清水港に漂着したが、
官軍の艦隊が攻撃して幕府側の死体が清水港内に散乱する事件が起きた。
官軍を怖れて誰も手を出せずに居た時、次郎長は「仏になった者に官軍も賊軍もあるものか」
と言って子分を使い死体を集めて葬り「壮士墓」という立派な墓を建立してやった。
その義侠的行為により次郎長は地方のヤクザから一躍、街道一の親分と称される様になる。
明治になり静岡県の参事であった山岡鉄舟は次郎長を正業につかせようと、
模範囚を使役して富士の裾野を開墾させた。現在の富士市大渕次郎長町である。
その後清水で英語塾も開いたりした。次郎長50代の頃である。
しかし、次郎長はやはりヤクザであり64歳の時、博徒狩りで捕まった。
懲役7年の刑を受けが鉄舟や榎本武揚の世話により1年で仮釈放された。
次郎長は自由を愛した。常に自分が主であり、束縛を嫌った。自由を表す卦は「兌為沢」(だいたく)である。「兌は悦ぶなり。剛は中にして柔は外なり。悦びて以て貞しきに利し。」外から見ると気の向くままのようだが、内は剛強な信念が必要。楽しむには外からの危険にも巧言令色の誘惑にも油断してはいけない。
晩年は女房のおちょうに「末広亭」という旅館をやらせて自分は毎晩酒を飲んでいた。
日露戦争で「軍神」と呼ばれた広瀬武夫はよく酒の相手をしたという。
又、歌人の天田愚庵は次郎長の武勇伝を「東海遊侠伝」にまとめた。
74歳で死んだ次郎長の墓石に「侠客次郎長之墓」と揮毫したのは榎本武揚である。
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無血開城に山岡鉄舟の功績があったことを知って驚いたのですが、さらにあの清水の次郎長も関係しているとは思いませんでした。教科書には西郷隆盛と勝海舟しか名を連ねていませんが、隠れたヒーローはまだまだたくさんいるのですね。
2007/2/25(日) 午後 10:03 [ tokiwaokina ]
tokiwaokina さん、有難うございます。意外な人物が関与していたのですね。教科書に出てくる歴史はほんの表面だけということでしょう。隠れたヒーローを探すのも面白いですよね。(猶興)
2007/2/26(月) 午後 0:45
面白く読ませていただきました。ある人が、次郎長に「貴方の為に、死ねる子分が何人ぐらいいますか?」と訊いたところ、「一人もおらんよ」、と答えたと言う。そして「俺なら、子分の為に、死ねるがね」、と続けたと言う。次郎長が腹の据わった人物だったことは、間違いないようです。
2007/3/19(月) 午前 3:47
神ノ川さん、有難うございます。「子分の為に死ねる」とは何とも親分らしい言葉ですね。そんなところが後世の次郎長人気の由縁でしょうか。実際は怖いところも多々有ったのでしょうが。(猶興)
2007/3/19(月) 午前 10:41
「石松の墓」より、トラバさせてもらいました。
次郎長の紹介をしたかったのですが、上手く表現出来なかったので
TBで紹介の運びとなりました。
2007/10/9(火) 午前 6:55 [ - ]
デジカメおじさん、有り難うございます。
「森の石松」拝見致しました。私も幕末の足跡を尋ねてゆっくりと一人旅をしたいと思うことがあります。その時は次郎長さんと石松さんにもご挨拶したいものです。(猶興)
2007/10/9(火) 午前 11:42