王政復古に賭けた公家、岩倉具視は貧困と挫折から這い上がった権謀術数の策士。
具視は秀才ではあったが下級公家出身の悲しさ、頭角を現すのは容易ではなかった。
時の太閤・鷹司政通の歌道の弟子になり、ようやく侍従になれたのは30歳。
幕府が勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結び、対立した朝廷と幕府を修復するため、
公武合体論が興り皇女和宮を将軍家茂に降嫁させる話が持ち上がった。
具視は皇権回復のため、幕府に攘夷することを条件に孝明天皇を説得して実現させた。
しかし、その降嫁は具視には裏目に出た。攘夷には進まず、公武合体派は後退する。
尊攘の急進派が進出し、具視は和宮を幕府に売り渡した奸物とされ宮廷を追放された。
京都の尊王攘夷の志士たちからは命を狙われ、転々と逃げ延びねばならなくなった。
潜伏のくらしは5年間も続く。しかし、具視はあきらめなかった。
気脈を通じた公家仲間や薩摩藩士と情報交換しチャンスを待つ。
そこに歌人・松尾多勢子がやってきた。尊攘の志士達に勤皇の母と慕われた多勢子は
具視の正体を見た。そして志士達に暗殺リストから外し味方に加えるよう助言した。
慶応2年、薩長連合、将軍家茂が死去し慶喜に。さらに公武合体論者の孝明天皇が急死した。
薩長や反幕公家勢力がにわかに活気づいた。14歳の明治天皇を擁して、倒幕の計画を練ったが
朝廷内にずば抜けた実力者が欲しかった。そんな舞台には稀代の策士、具視が相応しかった。
慶応3年、3月具視は5年ぶりに洛中の土を踏む。
復帰後の具視の活躍は目を見張るものであり、12月の王政復古の大号令となった。
明治新政府でもクーデター立役者として最高の地位を得て、元勲と仰がれるに至る。
暗殺リストに名を載せられるほど敵視されるのは「火沢睽(かたくけい)」の卦。火沢睽は家庭の不和、意見の対立、矛盾相克を表す。しかし、多くの場合相手を理解していないことが原因となる。理解し合うと実は最大の味方であることがある。
松尾多勢子は信州の田舎にいたが、和宮が降嫁するのを近くで見て尊王の志を堅めた。
その首謀者である具視を助けるとは不思議な運命の悪戯である。
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歴史のあやとでも申しましょうか・・・実に興味深く読ませていただきました。歴史の授業が、時間の制約があるにせよ、いかに薄くなってしまっているかわかります。そして、またしても歴史の影に女あり!を実感いたしました。
2007/3/31(土) 午前 10:15 [ tokiwaokina ]
tokiwaokinaさん、有難うございます。そうですね、学校の歴史の授業ももっと人間ドラマとして教えたら子供たちは乗ってくると思います。私自身も歴史がこんなに面白いとは知りませんでした。(猶興)
2007/3/31(土) 午後 4:02
人生の流転を感じます。歴史とその登場人物を、もっと学校の授業に取り入れれば児童生徒たちも、将来の目標も見つけやすくなると思います。私達の頃は、古今東西の偉人の伝記を読みましたが今の子はどうなんでしょう。それも「日の丸」「君が代」と同じで排斥しているのでしょうか?
2007/4/1(日) 午後 1:40 [ 新聞屋の親父 ]
かせいさん、有り難うございます。もっと、幕末の歴史には力を入れて貰いたいと思いますね。日本という国がもっと好きになってくれると思いますし、自信を持ってくれると思うのですが。(猶興)
2007/4/1(日) 午後 7:31