海洋技術を指導したオランダ海軍軍人・カッテンディーケ(1816〜1866)
ペリーにより開国の時代を迎えた幕府は唯一関係の深いオランダに頼ることになる。老中
阿部正広は早速、日蘭和親条約を結ぶとともに長崎の商館長・クルチウスに相談して海軍
創建のためオランダから専門家を招き、長崎に海軍伝習所を作ることにした。
伝習生は幕臣のほか薩摩、長州、肥前、肥後など各藩からも参加した。勝海舟や榎本武揚
もいた。授業は航法、造船、砲術、船具、測量、蒸気機関、銃砲訓練などの学科と蒸気船
を駆使して操作、運転の実地訓練が行われた。
カッテンディーケが教官として蒸気船ヤーバン号(のちの咸臨丸)に乗って来日したのは
安政4年(1857)初代の教官ライケンの後任としてである。
カッテンディーケは手を焼いた。先ず、伝習生は14,5歳の若者が良いと言った筈なの
に門閥を基準に選ばれた年長者が多かったこと、次に日本人が何でもないことに数ヶ月も
審議に費やすこと。自分の藩ばかりを心配して、一丸となって国を守ろうという意識が低
いことに愕然とした。
「もしも外国の海軍艦長が1名の士官と50名の陸戦隊を率いて上陸すれば、恐らく一発
の砲弾も放つことなくして、海岸に面した町々は苦労なしに占領できるであろう」とおそ
るべき観察をしている。
実施訓練で薩摩を訪れた時、藩主・島津斉彬に会っている。斉彬の開明的考え方と鹿児島
の繁栄ぶりには驚いた。また、鹿児島には砲台、製鉄所、蒸気船が既にそろっていた。
約2ヵ月後に再訪した時、斉彬に提言したばかりの水上保塁がすでに着工されていたこと
に感嘆した。反応の遅さに辟易していた幕府の命運が尽きようとしていること、新しい勢
力が生まれつつあることを敏感に感じとった。
カッテンディーケはやる気の有る者にはトコトン教えたが、やる気のない者は無私した。
2年半の滞在ではあったが、日本海軍の誕生の礎を築いた恩人と言える。
先進国より見れば、日本は未開発国であった。蒙を開くのは「山水蒙」の卦。この中に「我より童蒙に求むるにあらず、童蒙より我に求むとは、志応ずるなり」とある。やる気のある者しか相手にしなかったカッテンディーケは名教官であった。
薩摩ではカッテンディーケは招かれた夕食後に、ヴァイオリンを弾いた。
感動して固い握手をかわした藩主・島津斉彬は二ヶ月後には急死する。
安政の大獄が始まり、いよいよ激動の時代に突入する。
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カッテンディーケ・・・初めて聞く名ですが、洞察力があった人なのですね。それにしても、航法から鉄砲訓練までと多岐にわたる講義ができて、しかもヴァイオリンまで弾けるとはすごい人物ですね。
2007/9/3(月) 午前 10:14 [ tokiwaokina ]
tokiwaokinaさん、有り難うございます。
日本人はもっとオランダ人に感謝しないといけないと思います。
当時、オランダは仏のナポレオンに占領されて居た為、本来の外交は出来ませんでした。オランダ国旗が翻っていたのは、唯一長崎だけという時もあったそうです。そんな時にも日本に対しては惜しみない協力をしてくれました。シーボルトといい、その後のオランダ軍人といい日本の近代化にはオランダ無くしては有り得なかったと思います。(猶興)
2007/9/3(月) 午後 0:34
旧帝国海軍の創成期の主要人事は鹿児島(薩摩)出身者ばかりと聞きますが、その始まりですね。
長崎の「海軍伝習所」の創設がなかったら、現在の独立国日本は存在しなかったと言っても大袈裟ではないと思います。
2007/9/4(火) 午前 6:48 [ 新聞屋の親父 ]
かせいさん、有り難うございます。
開国に対する幕府の対応は、「泥縄」そのものですが、どうにか明治になって強い海軍が出来たのは薩長(とくに薩)の力だろうと思います。幕末に経済力と軍事力があったのは薩摩くらいなものでしょう。(猶興)
2007/9/4(火) 午前 9:16
カッテンディーケという人は帰国後出世した方だと記憶しますが立派な人材だったのでしょう。斉彬との面談なんかお互いとても感動的出会いだったろうと推測します。
2008/4/14(月) 午後 5:08
SABUROさん、有り難うございます。
カッテンディーケは帰国後に出世したのですか。そこまでは知りませんでした。カッテンディーケのような助け舟があればこそ、日本も近代化が成し遂げられたのでしょう。感謝しなければいけないと思います。(猶興)
2008/4/15(火) 午前 9:54