明治維新を演出したイギリス公使・ハリー・パークス(1828〜1885)
オールコックの後任でパークスが駐日公使となったのは慶応元年(1865)、徳川幕府の
終焉が近づきつつあった時期である。パークスはオールコックが築いた主導的立場をさらに
強化して、倒幕そして新政府の樹立に大いに影響を与えた。
まず就任早々、尊皇攘夷の日本を目の当たりにしてその根源を絶つことにした。英、仏、蘭、
米の連合艦隊を出動させて朝廷と将軍を威嚇し条約勅許を得ることに成功した。
勅許を得たことは朝廷が開国を認めたことであり、攘夷の大義名分がなくなることである。
その結果、志士たちのエネルギーは攘夷から倒幕という方向に向かうことなった。翌年には
坂本龍馬の仲介により薩摩と長州は同盟を成立した。慶応2年(1866)である。
江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟の話し合いで成立したと言われてはいるが、その裏には
パークスの力が背景にあった。勝海舟はパークスの部下・アーネスト・サトウを介してパー
クスに会い「総攻撃の阻止といざという時は慶喜を英国に亡命させる」ことを密約していた。
西郷は人心一新のため、あくまで江戸城総攻撃をするつもりでいたが、直前に部隊長である
木梨精一郎をパークスのもとに遣り、総攻撃の了承を得ようとした。 するとパークスは
「慶喜を攻めることなく、江戸城を受け取れば良いではないか。どうしても強行するのであ
れば、英仏は連合して新政府を攻撃する。」と、きびしい口調で迫った。
「総攻撃はとりやめ」西郷は判断した。 慶応4年3月14日、西郷と勝の会談が行われ、
総攻撃の中止と江戸城の明け渡しが決定した。
新政府成立後、不幸にも事件が二つ起きる。一つはフランス人水兵が襲撃された「境事件」
であり、一つはパークス自身が襲撃された。フランス公使ロッシュは犯人たちを切腹させる
ことにより報復を果たしたが、パークスは陳謝する政府に対し、なんの苦情も言わず、なん
の賠償も要求しなかった。
犯人を切腹させたのでは、むしろ彼らを英雄にするだけであり、それよりも日本政府に貸し
をつくっておいた方が良いと計算した。外交官としてのパークスはロッシュより勝り、情勢
判断の的確さが日本を動かしたとも言える。
江戸城無血開城により維新実現の最大の難所を越えた。「雷水解」の卦。問題の解消を表す。天地の気の結ぼれが解けて、雷雨となり巣篭もりの蟲が這い出し、百花草木皆そのよろいを脱ぐ時である。
世界の先頭に立つ国の外交官の実力とは、かくなるものかと思い知らされる。
国力とはその国民一人一人にエネルギーが伝わるものなのだろうか。
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追伸・パークスが総攻撃を阻止した本当の理由はイギリスの国益のためである。当時既に日本は輸出入の80%をイギリスに依存しており、江戸が焦土と化すことは貿易に支障をきたすと考えたからである。パークスは明治16年まで日本にとどまり、その後、清国駐在公使として業績を残したが過労のため倒れ57歳で死去した。(猶興)
2007/9/24(月) 午後 6:57
極東への外交官がこのように優秀だった背景に、イギリス本国もさぞかし繁栄しているに違いないと思い確認しましたところ、ヴィクトリア女王に、グラッドストンにディズレーリという有名な政治家が活躍した時代でした。それにしても、無血開城の裏にパークスありとは・・・勉強になりました。
2007/9/24(月) 午後 11:55 [ tokiwaokina ]
tokiwaokinaさん、有り難うございました。
こちらこそ勉強になりました。そうですか、イギリス本国は繁栄の真っ只中にあったようですね。この時代にロンドンでは地下鉄も走っており、国の活気は相当盛んだったのでしょう。(猶興)
2007/9/25(火) 午前 10:16