開国と和魂洋才を唱えた先覚者・佐久間象山(1811〜1864)
人材の発掘とは時代を問わず上に立つものの重要な使命である。
徳川時代の藩主もいかに優秀な逸材を発掘すべく心を砕いた。「寛政の改革」で知られる
松平定信の次男である松代藩主・真田幸貫は開明的で優秀な人物であった。
殿様である幸貫はある日、道端で近所の子供たちに講義している14歳の侍の子を見て、
その天稟を見抜いた。名も無い下級武士の子である佐久間象山である。
幸貫のバックアップもあり象山は江戸に出て、佐藤一斉に学ぶと成績抜群により一斉の言志録
の添削を任された。尚歯会という勉強会にも参加して蘭学や西洋事情のも興味を持った。
その後、韮山の代官・江川英龍の弟子入りし西洋砲術を学び、日本の行く道をはっきりと、
唱えはじめる。西洋式火器の大量生産、海軍の設置を説いた「海防八策」は日本の針路を
はっきり示したものである。
彼の主張は、「東洋の道徳、西洋の芸術」である。
つまり日本は精神的思想は儒教を中心として、西洋の先進国から技術である航海術、砲術、
医術、等を学び、富国強兵の国を作り、アジアのリーダーに成れということである。
象山のもとには、次々と弟子達が押しかけた。その中には、勝海舟と吉田松陰もいる。
海舟の惚れ込みようは並ではなく、「海舟」の名も象山の書斎名から頂戴した。象山の後妻に
自分の妹の順子を嫁がせている。坂本龍馬を塾頭にした海軍操練所も象山の発案である。
松陰は象山の教えを実行に移そうと、アメリカへ密航を企てた。密航は失敗に終わり野山獄
行きとなったが、その思想はその後松下村塾となって、幾多の精鋭を世に送ることになった。
松蔭の密航事件で象山も藩内に蟄居とされて10年。ようやく解禁となると、幕府の要請で
京都へ行くことになった。その開国論を朝廷へ説得するためである。
しかし、開国の江戸に対し、尊王攘夷の渦中である京都は、過激派集団が目を光らせていた。
象山は「人斬り」と呼ばれた肥後の河上彦斎(げんさい)に襲われた。享年54歳。
易に精通していた象山は京都へ出発する前に、自ら筮竹を執り占ったところ、「沢天夬」の上六と出た。「助けを求めても無駄。余命幾ばくもない。凶。」明らかな凶辞。弟子たちは引き止めたが、象山は「気をつけるしかない。」と言って出発したという。死を覚悟の京都入りであった。
象山を襲った河上彦斎は犯行後に斬った象山の偉大さを知った。
無知は罪と後悔した彦斎は2度と刀を抜くことは無かった。
|
江川英龍から佐久間象山へ、それから勝海舟、吉田松陰そして坂本龍馬と知識が伝えられたのですね。すごい顔ぶれです。「東洋の道徳、西洋の芸術」という言葉、いいですね。今は「東洋の道徳」が薄れて、バランスを崩している状態ですから心に響きます。
2007/11/11(日) 午後 10:17 [ tokiwaokina ]
tokiwaokinaさん、有り難うございます。
その通りですね。人材のリレーというようなものが実に見事ですよね。佐久間象山はちょうど徳川時代の儒教の流れが西洋文化の流れに合流するターニングポイントを見事に両方の良いところを捉えた考え方が出来た人物として特別な存在だと理解しています。「和魂洋才」を唱えるなどなかなかただ者では言えない台詞です。(猶興)
2007/11/12(月) 午前 10:13
この人の場合、やはりビジュアルにインパクトがありますね。とにかく、見た目からして先ず異彩を放っている...。不用心って側面から見ると、死を覚悟しての表現と受け止めればいいのま、少々傲慢な側面があったからなのか...。異能の人、もし生きながらえていたら、どの様な人生を送ったのでしょうね...。
2007/11/14(水) 午後 9:00
タイガー先生、有り難うございます。
人間的には一人よがりで傲慢な面があったそうですね。長生きをしたらむしろ佐久間象山の名前が残らなかったかも知れませんね。異彩を放った人には長生きは似合わないでしょう。(猶興)
2007/11/15(木) 午前 10:59
彼は死ぬ時、確か馬上でしたね。西洋鞍に跨がっていたかと思います。この人の落命の場所は、確か大村益次郎の暗殺現場と目と鼻の先だった様に記憶するのですが...確か、三条です。池田屋も近くにあり、殺人現場のメッカみたい(笑)...。太古からの晒し首の怨霊に引っ張られたのかも知れませんね。
2007/11/15(木) 午後 9:12
タイガー先生、たびたび有り難うございます。
今度京都へ行きましたら是非訪ねてみたいですね。象山も大村益次郎も人徳より才能の人ですね。才能に生きる人はどうも長生きはしないタイプが多いようです。しかし人生は長さではなく中味が大事。悔いのない人生でありたいものです。(猶興)
2007/11/16(金) 午前 9:29