さわやか易

いらっしゃいませ。名画を鑑賞するとき、その背景である歴史を考えてみたい。(猶興)

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1


島津斉彬、徳川斉昭とともに一橋派の中心藩主・松平慶永(春嶽)1828〜1890

将軍・徳川家慶の従兄弟でもある。徳川御三卿の田安家に生まれ、名門親藩・越前福井藩主の松平家の養子となり、11歳で藩主になる。

嘉永6(1853)ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、海防強化や攘夷を主張する。老中の阿部正弘が掲げた挙国体制論に賛同し、水戸の徳川斉昭を領袖とする島津斉彬、伊達宗城、山内容堂らととともに一橋派を結成した。

一橋派は南紀派に朝廷を巻き込んでの対立の末破れ、安政の大獄という事態を生じ、春嶽も斉昭らとともに隠居謹慎の処分を受けるに至った。その上、春嶽には奈落の底に落とされる報せを受ける。

最愛の家来・橋本左内が26歳の若さで小塚原の刑場にて斬首されたのである。

6年前、25歳の春嶽は20歳の佐内を登用した。左内は蘭学者で医師の緒方洪庵がその天才ぶりを池中の蚊龍(こうりょう)と呼んだ若者である。医学に止まらず政治、経済、国際問題まで明敏な先見性をもっていた。春嶽は佐内の能力と気質に惚れこみ、西洋文明をとりいれた兵制の改革、物産の開発、藩士教育、など藩政の改革に夢を馳せていた。

春嶽は佐内を早速江戸に送り、水戸藩の藤田東湖や薩摩藩主・島津斉彬を訪問させ、西郷吉之助らとも交遊させた。安政4年、暗礁に乗り上げていた将軍継嗣問題に決着をつけるため、春嶽は左内を朝廷に送り込んだ。ところがこの決断が裏目に出たのだ。

弟のように愛してやまない家来を失うことになろうとは。春嶽の落胆振りは如何ばかりであったろうか。31歳の藩主・春嶽はしばらくは茫然自失の日々を過ごした。

もともと春嶽は他の一橋派の藩主のような政治権力への執着心はなかった。知識人、文化人という印象である。エリート藩主としてこの激動期に生まれ合わせただけだ。

藩内にすむ歌人・橘曙覧(たちばなあけみ)との交友にその一端を見ることが出来る。曙覧の貧窮のなかに歌の道に生きる人生に感動し、その貧しい庵を訪れている。そして曙覧を歌の師と仰ぎ、生活を援けたりして交流している。曙覧が死ぬと「敷島の 道のしるべは 絶えにけり 今より何を 方便にはせん」と詠った。

激動期の中央は春嶽を遊ばせてはくれない。35歳で幕政の最高責任者である政治総裁としてカムバック。「天下とともに天下を治める。」の信念のもとに幕府を支え続けた。薩長の倒幕運動には組しなかったが、維新後には新政府の重職を勤めた。明治23年、63歳で没した。明治という元号は春嶽が名づけたといわれる。

春嶽は人材活用の名君と言われた。「地天泰」の卦。上にある君主が常に謙虚に家来の意見を聞く。すると家来は意気に感じて働く。理想的な卦である。(易者の看板にはこの「泰」が使われている。)

橘曙覧は「独楽吟」という一派を成した。「楽しみは」で始まり「とき」で締める歌である。
「たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲けるみるとき」
「たのしみは とぼしきままに 人あつめ 酒飲めものを 食えというとき」
弟子の春嶽が作った「たのしめる歌」という歌集の中から一首。
「たのしみは 思ひのままの 遊びして うたげに人の くだまかぬとき」

橋本佐内については⇒: http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/27667547.html

閉じる コメント(10)

顔アイコン

「人材活用の名君」・・・素晴らしいですね。家来が意気を感じて働くくらい、春嶽も人格者でもあったと思います。両者が奏でるハーモニー・・・理想です。橋本佐内とのハーモニーも、もう少し長く聞きたかったような気がします。

2008/7/27(日) 午後 11:03 [ tokiwaokina ]

顔アイコン

tokiwaokina さん、有り難うございます。
春嶽が新政府でも重要な位置を任されたのは、バランス感覚に勝れていたからだろうと思います。一橋派として将軍継嗣問題に執着し過ぎたことは一生の反省材料になったことでしょう。それ以後どんな混乱の中でも一方に偏ることを戒めたのでしょう。カリスマ性は有りませんが、幕末第一と言える殿様ではないでしょうか。(猶興)

2008/7/28(月) 午前 9:31 kan*u*uuk*u

顔アイコン

勉強になりました。ありがとうございます。それにしても幕府側の要人が新政府に起用されるということが何故可能だったのか。いつか新政府に殺された人自殺した人起用された人を分類してみたいと思いました。

2008/7/28(月) 午後 8:10 三郎

顔アイコン

SABUROさん、有り難う御座います。
「新政府に殺された人自殺した人起用された人の分類」は面白いかもしれませんね。春嶽の場合は幕府側でも徹底抗戦派ではなく、大久保一翁を重用しているところを見ると新時代やむなしの考えだったようです。その見識が新政府に必要とされたことと思われます。(猶興)

2008/7/29(火) 午前 10:05 kan*u*uuk*u

顔アイコン

松平春嶽のことは知りませんでした。こんな人が居たのですね。驚きです。特に「人材活用の名君」と言うところが素晴らしいです。この時代は殿様と家来の信頼で、大きな仕事をしている人が多いですね。夢があったのだろうと思います。
現在に欲しい人です。バランス感覚に優れたこの人が。

2008/7/31(木) 午後 3:26 [ pin*ey*e*t ]

顔アイコン

pinkeynextさん、有り難うございます。
島津斉彬や徳川斉昭のようなカリスマ藩主では有りませんが、名門のエリート藩主として大活躍しました。明治を迎えたときに40歳ですから若いころから第一線に出ていた藩主でもあります。家来から見たときには最も素晴らしい殿様と言えると思うですが。(猶興)

2008/7/31(木) 午後 7:10 kan*u*uuk*u

幕政のエリートですね。写真も若々しいです。
松平春嶽って実際はとても若いお殿様なのに、今年の篤姫もうそうですがいつもおじさん俳優が演じるのは何故なんでしょう??
確かに政治手腕も玄人向けで裏工作が得意だったそういう一面からの印象なんでしょうか?

2008/8/1(金) 午前 11:44 ゆーくんままま

顔アイコン

ゆうくんママさん、有り難うございます。
そう言えば若い殿様というイメージはありませんね。
しかし、幕府と新政府とで活躍した藩主は少なく政治的執着がない割には常に第一線にいます。余程、存在感があった藩主なのでしょう。(猶興)

2008/8/1(金) 午後 2:49 kan*u*uuk*u

顔アイコン

初めまして・・
松平春嶽は、福井の誇りです(^^)

2008/8/14(木) 午前 0:42 [ 花見櫓 ]

顔アイコン

花見櫓さん、有り難うございます。
福井の方でしょうか。松平春嶽は福井のみならず、日本にとっても貴重な殿様だと思います。(猶興)

2008/8/17(日) 午後 3:59 kan*u*uuk*u


.
kan*u*uuk*u
kan*u*uuk*u
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

幕末の歴史。

ファン登録

標準グループ

ブログ作成

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事