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ドヴォルザーク。1841〜1904
駅伝のように繋いできたこのシリーズの最終ランナーです。最終ランナーに相応しく温かく健全な大輪の花です。小学校の下校時間になると聞こえてきた「家路」。その懐かしいメロディは彼の交響曲第9番「新世界より」の第2楽章にある。
ドヴォルザークの生まれ育った故郷は現在のチェコ共和国の首都プラハから北へ30キロほど離れた小さな村ネラホヴェスです。ボヘミヤ地方独特の豊かな田園地帯が広がる牧歌的な農村です。宿屋兼肉屋の9人兄弟の長男として生まれました。父は祭りとなると決まってヴァイオリンを弾く村の人気者だったそうで、トランペットを吹く叔父さんもいたというので明るく陽気な一族だったようです。貧乏人の子沢山ですから経済的には決して恵まれた家庭とは言えません。
村の少年聖歌隊員として歌やオルガンに親しみ、父が所属するアマチュア小楽団でヴァイオリンを弾いたりして自然に音楽の素養を身に着けたようです。しかし肉屋の長男ですので小学校を出ると肉屋職人としての修行に出される。音楽の才能を惜しむリーマン先生やトランペットの叔父さんが父を説得してくれ、学業と音楽を続けることが出来た。16歳の時にプラハ・オルガン学校に入学する。2年後に卒業すると運よくオーケストラのヴィオラ奏者の職を得る。ピアノの家庭教師もしながら生計を立て、20代の長い年月を作曲家への下積み生活を送る。
32才にしてようやくカンタータ「白山の後継者」がプラハで初演され好評を得て作曲家として認められる。音楽家として自信もついたドヴォルザークは個人レッスンをしていた金細工商人の19才の娘アンナと結婚した。実は姉のヨゼフィーナに恋をしたのだがあえなく失恋してしまい、気を落としていた彼に優しくしてくれたのが妹のアンナだった。子宝に恵まれたのだが次々と幼くして3人の子供が亡くなる。36才の時、作曲した「悲しみの聖母」は聖母マリアの悲しみと亡き我が子への思いを重ね合わせた名曲である。(その後に授かった子宝は6人、元気に育った。)
運が向いてきたのはそれからで、33才から才能ある若手芸術家に与えられる「国家奨学金」の受給者になっていた。その組織委員会の審査員だったブラームスが彼の才能を高く評価してくれたのだ。37才の時、ブラームスからベルリンの楽譜出版社ジムロックを紹介され、自身の「ハンガリー舞曲」に続くスラブ風の舞曲集を作曲するよう助言された。その「スラブ舞曲集」が大ヒット、一躍ドヴォルザークは人気作曲家となり、名声と同時に手にしたことのない高額な報酬を得た。
******** 上卦は風
******** 従順、へりくだる
*** ***
******** 下卦は山
*** *** 動かない、勤勉
*** ***
「風山漸」の卦。漸(ぜん)とは徐々に前進すること。進むを表す卦として「晋」「升」「漸」の三つがあるが、そのうち「漸」は最も遅く、ゆっくりした進み方を表す。しかし着実な前進は易では尊ばれ吉とされる。理想的な結婚の道とされる。
ドヴォルザークは偉大な作曲家にしては珍しく、貴族でもエリートでもない。全くの庶民の出であることが特徴である。37歳と言えばモーツァルトが活躍を終え亡くなった歳である。その歳にして世に出たドヴォルザークは正に「漸」の人。その音楽は豊かな田園風景を思い起こさせてくれる。
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