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孫文(1866〜1925)
1905年の日露戦争で島国・日本が強国ロシアを破ったニュースは世界中を興奮させた。分けても列強の支配下にある民族たちの熱狂は想像に難くない。その時、ヨーロッパの華僑からの資金集めに孫文はスエズ運河にいた。孫文を日本人と思った現地のエジプト人たちが「お前の国は偉大だ!」と言って握手を求めてきた。孫文は誓った。「日本人に出来たことが我らに出来ないことはない。必ず革命をやり遂げるんだ。」
華僑とは満州人の清国が出来た時に職を追われ、外国に生活の場を求めた漢民族であり勤勉に働く商人や知識人が多かった。華僑の一族・孫文は清国山東省生まれだが兄を頼りハワイ・ホノルルの学校に学んだ。その後香港で医学を学び医師としてポルトガルの植民地マカオで開業する。しかし祖国の窮状を見るに忍びず革命家になる決心を固めた。
中国同盟会。孫文(前列右)宮崎滔天(後列中央)
27歳、ハワイで興中会を立ち上げ、日清戦争後の広州にて武装蜂起を企てるがあえなく失敗、日本に亡命する。日本人は欧米志向だったが、その中にも維新の志士たちの流れをくむ男子はいた。宮崎滔天(とうてん)や頭山満と知り合い、さらに犬養毅の知遇を得た。物心両面での支援を得て、再び革命活動に向かう。
1900年の義和団事件で清朝が敗北すると、清の威信は失墜する。日本への留学熱が高まり、数万人が留学してきた。東京でも興中会、光復会、華興会の革命団体が出来たが、1905年に宮崎滔天らの援助でこれらを糾合して孫文を中心に「中国同盟会」が結成した。蒋介石など優秀な若者が集まる。清国各地にも革命団体が結成され、武装蜂起が続いた。
柳原白蓮(1885〜1967)
余談ながら、大正の3大美人と言われ、「白蓮事件」を起こした柳原白蓮の結婚相手で東大生の宮崎龍介は滔天の長男である。滔天は事件を新聞で知り、「お前、こんなことして、いいのか〜」と驚いて言った。駆け落ちした白蓮については同情を寄せ、家族の一員として暖かく迎え入れた。しかし、借金を残して死んだ滔天は経済的には力になれなかった。
袁世凱(1859〜1916)
清朝では西太后も光緒帝も亡くなり、幼帝・宣統帝が即位していたが、宣統帝の父が摂政だった。父は光緒帝の弟であり、戊戌変法の時、光緒帝を裏切った袁世凱を許せず失脚させていた。1911年、武昌にて蜂起した革命軍は瞬く間に発展し、清朝軍と対峙するまでになる。あわては清朝政府は北洋軍の実力者・袁世凱を内閣総理大臣に任命し、革命軍に当たらせる。
一方、革命勢力側は南京を首都として臨時政府を設立、臨時大総統選挙を実施することになった。フランスにいた孫文の帰国を待ち、選挙が行われると、孫文の大総統が決まった。1912年1月1日、孫文は中華民国初代臨時大総統に就任する。
宋教仁(1882〜1913)
孫文の最大の課題は未だ巨大な存在の清朝をいかにして整理するかである。孫文は袁世凱の野心を逆手にとり、「宣統帝を無事に退位させたら自分は辞職するから貴方を大総統にする。」との声明を発表した。帝王になりたい野心家・袁世凱はその提案を受け入れ、清朝宮廷に対し優待条件を示し、皇帝退位を実現させた。約3000年続いた帝政が終焉する。
わずか一月で政権交代、袁世凱が第2代臨時大総統に就任した。袁世凱は最高権力者として首都を北京に遷都、積極的に列強とモンゴルやチベットの主権交渉を行った。しかし余りに強権的であり、翌年の国会選挙では宋教仁が党首の国民党に敗北する。ところが宋教仁は内閣組閣準備中、袁世凱により暗殺された。混乱の中、袁世凱は孫文らの反対派を鎮圧し、自らを皇帝とする中華帝国を名乗り独裁を続ける。
宗慶齢(1893〜1981)
孫文は袁世凱に追われ再び日本に亡命した。日本には支援者も多く、初代大総統として各地で講演、支援を訴えた。「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である。」と語り、日本の協力を求め続けた。しかし孫文を支援した仲間は一部で日本政府は袁世凱から利権を取り付けることばかりに熱中し孫文の声には耳を貸さなかった。
支援者の一人で事業家・梅屋庄吉(1869〜1934)は新宿の自宅にて宗慶齢との結婚式を整えてやっている。1919年、再び独立運動が盛んになると「中国国民党」を復活、コミンテルンとも手を結び悲願の統一を目指した。1924年11月、神戸で行われた講演で日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか?」と問い、帝国主義の憲兵役に励み続ける日本に警告を発し、日中の友好を訴えた。1925年3月、「革命、未だ成らず、同志須く努力すべし」と遺言し北京にて客死した。孫文の身体はガンに侵されていた。
〜〜さわやか易の見方〜〜
*** *** 上卦は地
*** *** 陰、弱、暗
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*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、新芽、志
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「地雷復」の卦。復は復活、復興。陰の気に覆われた世界に陽の気が萌し始める象である。復は冬至であり、寒い冬の頂点であり、春の萌しでもある。地中では新芽が用意されているが、未だ地上に出るには早い。あわてて芽を出そうとすれば、晩霜に遭ってしまう。あせらず、ゆっくりと大計を立てる時である。こんな時代の友は一生の友となる。
孫文の唱えた「大アジア主義」は明治の始めに、日、清、朝の「三国同盟」を唱えた西郷隆盛を彷彿とさせる。ともに日本の「脱亜入欧」「西洋一辺倒」を激しく批判した。二人とも時代に受け入れられず、志を遂げることなく横死したことが残念である。その後の日本と中国を考えて見たい。時代に乗ることも大切かも知れないが、時代に流されず、大切なものを守り抜くことも考えねばいけないだろう。
中国では今でも孫文は「中国革命の父」として尊敬されている。支援を惜しまなかった日本の友人・宮崎滔天は「井戸を掘ってくれた人」として記念日には遺族が招待される。昭和31年には孫文誕生90周年の祝典として龍介、白蓮夫妻が国賓として招待され、毛沢東、周恩来と共に臨席した。現在も中国大使館に新たに着任した大使は遺族の自宅を訪問するという。東シナ海、南シナ海問題とは別の処で、日中の交流もあるということを知っておきたい。
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袁世凱の台頭と帝制運動
袁世凱
中華民国成立後、1913年2月国会議員選挙が実施され国民党が圧勝した。
3月、議会からの圧力を警戒した袁世凱は国民党の宋教仁を暗殺した。
袁世凱は進歩党を組織し国会内での勢力拡大を図り、議会主義的な国民党の勢力削減を企てた。
国民党の急進派はこれに反発、第二革命を起こしたが鎮圧された。
1913年10月袁は正式な大総統となり、さらに11月には国民党を非合法化し、解散を命じた。1914年1月には国会を廃止、5月1日には立法府の権限を弱め大総統の権力を大幅に強化した中華民国約法を公布した。
袁は列強から多額の借款を借り受けて積極的な軍備強化・経済政策に着手した。当初列強の袁政権に対する期待は高かった。
しかしこのような外国依存の財政は、のちに列強による中国の半植民地化をますます進めることにもなった。第一次世界大戦が始まると、新規借款の望みがなくなったため、袁は財政的に行き詰まった。
2017/4/22(土) 午後 9:01 [ 日中国交正常化45年南京80年に学ぶ ]