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ガンディー(1869〜1948)
総力戦になった第一次世界大戦では植民地からの兵力動員と物資収奪は不可欠だった。とくにイギリスのためにインド人がはらった犠牲は大きく、110万人の兵士、40万人の労働者が戦線に送り込まれた。大量の食糧、原料、資材を収奪され、増税により戦費も吸い上げられた。見返りには独立が約束されていた。
ところが戦後のパリ講和会議ではアジアや北アフリカの植民地に対しては冷たい姿勢が明らかにされた。各地で裏切られた民族自決に対して大抗議運動となって爆発する。インドではイギリスが約束した自治を反故にされ、逆に弾圧を強めたことに民衆の怒りは爆発した。その時「非暴力主義」を掲げて立ち上がった指導者がガンディーである。いったいガンディーはどのようにして強大な帝国主義と戦ったのだろうか。
南アフリカ時代のガンディー(1895年)
ガンディーは18歳でロンドンに留学、24歳の時イギリス領南アフリカにて弁護士を開業する。白人優位の人種差別をいやという程体験した。ロシアのトルストイに影響を受け、「新約聖書」の教えを実践、非暴力運動思想を形成していく。インド系移民の差別に対する権利回復運動を行い、39歳の時逮捕され、投獄されたが、不正を撤廃させる。禁欲、断食、清貧、純潔を実践、強靭な精神力を養い、46歳の1915年に22年振りににインドに帰国した。
自治承認を期待して第一次世界大戦ではイギリスに協力するが、戦後イギリスは逆に弾圧を強化するローラット法(デモ、反乱を起こした者を裁判なしで投獄する法)を制定する。ガンディーは反英運動の先頭に立ち、非暴力、不服従運動を提唱、断食と祈りによってイギリスへの抵抗を呼びかけた。しかしガンディーは逮捕され、抗議に集まった民衆に対して軍が発砲、大量に虐殺するという「アムリットサル事件」が起こった。
糸車を回すガンディー
ガンディーは運動の容易ならざることを知らされるが、人生の全てを賭け、長期戦の覚悟を固めた。イギリス製品の不買運動のため綿製品はインドの伝統的手法で作ろうと自ら糸車を廻し始めた。ガンディーは度々投獄された。2年間の不服従運動のため6年間の懲役刑の判決を受けた。全国でイギリス製綿布を焼き捨てたり、役人が仕事を休み、学校を休校したりと非協力運動を進めたが、批判者もあり、何の解決にもならないと暴動を起こす民衆もあった。
後にガンディーをマハトマ(偉大な魂)と名付けた詩人・タゴールも運動の行き過ぎを危惧して批判した。1922年には警察署を襲撃して20人の警官を焼死させる事件も発生、運動は中止されたがガンディーの祈りと糸車は続いた。1920年代はロシア革命の影響もあり、社会主義、共産主義、労働運動など国内は動揺したがガンディーの反近代化、反西洋の姿勢は揺るぐことはなかった。
塩の行進
1929年になると世界恐慌がインドにも押し寄せ農村の貧困は一層深刻化する。その中でも生活必需品の塩はイギリス政府による専売であり税収だった。ガンディーは反英闘争を大衆的なものにするため塩税反対を掲げた。1930年3月、ガンディーと支持者78人は徒歩で海岸に向かって380kmの行進を始める。行進に加わる市民は徐々に増え続け数万人の大行進となる。ガンディーはイギリス政府に手紙を差し出した。「私は塩の専売制度を最も貧しい人々の観点から邪悪な法律だと考えます。独立運動は本質的にこの国で最も貧しい人々のためにあるのです。」
ガンディーが協力者へ求めた条件は「暴力で運動を止めさせようとする兵士に対しても反撃を行わず、逃げもしないという非常な勇気をもつこと。」だった。ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教の単なる信仰を超えた行者に成りきることだった。「塩の行進」は英国政府により弾圧され、ガンディーを始め6000人以上の人々が投獄された。しかし全世界に報道され、植民地国家の民衆が行動したことで植民地政策を行っている国家の関心事となった。刑務所から釈放されたガンディーはインド独立に向けてさらに信念を堅くし働き続ける。
ガンディーとネルー
世界恐慌後の世界は激動、混乱し、ドイツ、イタリア、日本などは軍国主義が台頭、1939年ついに第二次世界大戦が勃発した。イギリスにとってもインドの人的、経済的資源は不可欠のものとなり、戦争への非協力を唱えるガンディーとは対立した。ガンディーを師と仰ぐ国民会議派を率いるネルー(1889〜1964)はファシズムとの戦いを優先するためイギリスに協力する。一方、インドの独立は武力によってのみ達成されると唱える指導者の一人チャンドラ・ボース(1897〜1945)は日本と手を結んだ。
第二次世界大戦後、イギリスは戦勝国になったが国力は衰退し、植民地を支配する力はなくなった。日本軍とともにイギリス軍と戦ったインド人将官たちが反逆罪として裁判にかけられるとガンディーは「インドのために戦った彼らを救わねばならない。」と国民に呼びかけた。再び国中に独立運動は広がりついにイギリスはインドの独立を受け入れた。1947年8月、ネルーは初代首相となった。生涯をインド独立に捧げたガンディーは1948年1月、狂信的ヒンドゥー教徒の青年によって暗殺される。
〜〜さわやか易の見方〜〜
******** 上卦は風
******** 従順
*** ***
*** *** 下卦は沢
******** 悦び
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「風沢中孚」の卦。中孚(ちゅうふ)は誠心誠意、心が誠実さで満ち溢れることである。孚の字は親鳥が卵を温める形からできたもの。誠意をもって取り組むならば、ごんな困難も克服できる。誠心誠意の指導者は国民を動かし、どんな苦難な時代でも乗り越えていけるものである。
約200年間も植民地として圧政に耐えたインド人だが、現在はイギリスを嫌う人は少ないという。鉄道を張り巡らせてくれ、教育制度を作り上げてくれたからだという。確かにインドを支配していたカースト制度の極端な習慣はイギリス政府によってなくなった。しかし文化や価値観はその土地に相応しいものが永く定着するもので、何もかも西洋流が最善というものではない。
ガンディーは列強の植民地にならず明治維新を達成し、近代化した日本を尊敬していた。しかし列強の後を追いかけて帝国主義に走る日本には失望した。日本がアジア人として崇高な希望を持ち続け、アジアの模範でいて欲しかった。日本が野望を持って中国を侵略していることは誤解であって欲しいとも言っている。日本の軍国主義はアジアの人たちにはどう写っていたのだろうか。私たち日本人はもう少し深く知らねばならない。
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列強のアジア植民地における弾圧と虐殺
イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。
事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。
フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」
米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。
また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しに
2017/5/5(金) 午前 9:06 [ 国益平和マネジメント ]