維新の三傑と言われた西郷吉之助(隆盛)は2度の島流しに遭っている。
1度目は僧月照と入水事件を起した西郷を薩摩藩が幕府を気遣って、
死んだことにしてその身を奄美大島へかくまった。言わば左遷である。
3年余りに及んだが、そこで2度目の妻となる愛加那との間に1男1女をもうける。
藩主の後見人として実権を握った島津久光は公武合体を唱えて中央に進出し、
存在を示したかったが、京都にも江戸にも人脈が乏しかった。
そこで、大久保一蔵(利通)の奨めで人脈豊かな西郷を召還することにする。
しかし、西郷は前藩主、島津斉彬に心酔していたので久光には心服しない。
そういう態度では久光が気に入る筈は無い。久光はは先に京都に向かわせた西郷が
自分の命を聞かなかったことに逆上して徳之島へ、さらに気が済まなかったので
沖永良島の牢へ入れる。ここで死ねとばかりの処罰である。
雨風も吹き付ける牢で大男の西郷が衰弱して骨と皮の様にやせ細ったという。
見かねた島役人の土持正照が自宅に座敷牢を作り移してくれたので命を拾った。
そんな逆境の中で西郷は一心に読書し気を養った。
佐藤一斎の「言志四録」、大塩平八郎の「洗心洞剳記」、漢語訳の「聖書」等を真剣に学んだ。
蘭学や西洋の技術を学んだ勝海舟等との違いは、西郷は心の学問だけをしていることである。
政治家というよりは哲学的教祖である。「敬天愛人」はこの体験から生まれたのである。
その後、動乱激しく西郷待望は時代の要請となり、新時代へ向けての大活躍が始まるのである。
易学的に考えると、「乾為天」の九四に「或は躍り、淵に在り、咎なし」とある。リーダーになる前の君子は活躍する時もあり、雌伏する時もあるということですが、「淵に在る」時に何をするかが大問題である。志あるものは、この時とばかりに真剣に勉強し気を養うものです。
孟子の「受任者」には、こんな言葉があります。
「天が大任をその人に下す時は、先ず大きな試練を与えて、何処まで耐えられるかを試す。
それはその人に不足した力を増し加え、大任に耐えられるようにするためである。」
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