♪〜シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた。 シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 生まれて直ぐに こわれて消えた。 かぜかぜ吹くな シャボン玉飛ばそ ♪〜
人にとって、最も悲しい出来事は愛する者との別れである。
その最たるものは、子供に先立たれることではないだろうか。
「シャボン玉」は生まれて7日目に亡くなった長女を思い、
野口雨情が儚い人の命をシャボン玉に例えて作った唄である。
雨情の生家は茨城県多賀郡磯原村にある水戸徳川藩主のご休息所「観海亭」と称され、
「磯原御殿」とも言われた名家である。村長として人望家の父の長男であった。
少年時代より文学を志し、15歳のとき、東京で衆議院議員を務める叔父の家に寄宿する。
18歳、東京専門学校(早稲田大学)に入学。坪内逍遥に学ぶも試作に専念するため一年で中退。
22歳、父が死亡、家督の相続、結婚、文学と現実の両立は難しく煩悶の日々。
詩人として中央を目指したいが中々芽が出ない。妻や親族の理解も得られない。
詩集の自費出版、新聞記者として札幌へ。石川啄木とも親交、2年間漂白したりもした。
郷里に戻り村の公職、山林管理や漁業組合の役員もしたが文学の夢は棄てられない。
33歳、妻と離婚。36歳、試作専念のため水戸へ、そこで2度目の妻つると結婚。
ようやく、西条八十の紹介で中央の詩壇に、自由詩集の「都会と田園」の刊行により、
詩人としての地位を確立した。大正8年、雨情37歳であった。
その後は、「七つの子」「赤い靴」「雨降りお月さん」「あの町この町」「兎のダンス」の童謡。
「波浮の港」「船頭小唄」等の歌謡曲も大ヒットし、時代を代表する作詞家となった。
チャンスは容易にやって来るものではない。易学ではあせらず、落ち着いて準備することを可とする。「風山漸」(ふうざんぜん)の卦。長女が落ち着いてお相手からの求婚を待つ象でもある。婚礼の儀式も順序正しく行われるならば吉である。
雨情ほど経済的にも人脈にも恵まれた立場は中々ない。
それでも、芸術の世界では簡単に夢が叶ったりはしない。
人生の苦労を人一倍舐めた者にこそ芸術の花は咲くのだろう。
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