外交競争を制したイギリス公使・ラザフォード・オールコック(1809〜1897)
日本の幕末から維新までをリードした外国を考えることも、幕末史を知る上では興味深い。
開国以前から付き合いのあった国はオランダである。しかし、これは正式の条約を結んでい
ないので鎖国状態のままである。和親条約を始めて結んだのがぺりーのアメリカでありその後、
蘭、露、英、仏と同条約を結ぶ。 その後、先頭を切って修好通商条約の調印に成功したの
はハリスのアメリカであり、各国も同じ条約を結んだ。安政5年のことである。
旧知のオランダには大変お世話に成りながらも、以後、外交については強国がリードする。
当然、アメリカが一歩先を走っていたが、翌安政6年に来日した辣腕外交官・オールコック
の登場により、イギリスが外交競争を制することになる。
当時のイギリスが他の列強を圧していたようにオールコックは強引とも言える外交姿勢をとり、
しだいにアメリカにとってかわって主導権をにぎる。 幕府一辺倒のハリスとは異なり独自の
歴史観から、日本の封建制度が崩壊するだろうと予測した。
途中、本国に召還されたので前後3年間の滞在であったが、その間は伊井大老の桜田門外の変、
米の通訳・ヒュースケンの暗殺、2度の英公使館の襲撃、イギリス人が薩摩の武士により切り
殺された生麦事件が起こった。尊皇攘夷の真っ只中での命がけの外交である。
強気のオールコックは公然と幕府を非難し、薩摩とは交戦に踏み切った。攘夷を実行した長州
には英、仏、米、蘭の四カ国連合艦隊で下関を砲撃する。
余りの積極外交が本国には理解されず、後任のパークスに公使の座を譲ることになった。
オールコックはロンドンの西にあるイーリングに医師の子として生まれた。 読書と絵を描く
ことの好きな文学少年はその後成長して外科医となり軍医を経て外交官の道を選んだ。 駐日
総領事兼外交代表として来日したのは、50歳。日本語の習得も猛烈に取り組み、着任2年で
日本語の文法書をあらわした。
激務の間には日本文明批評として「大君の都」を著した。又、画才にも恵まれ日本と日本人を
テーマに絵を残し文化的に高い貴重な資料となっている。富士山に最初に登った外国人として
も知られている。
実力のある外交官が活躍出来ることはその国の実力を意味する。「山天大畜」の卦。偉大な王者が勝れた人材を包容して安定している象である。
外交官とはこんなにも優秀なものかと感心する。
オールコックは医師でもあり、芸術家でもあり、フランス語、イタリア語も堪能。
中国と日本の歴史にも精通していたという。
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