オールコック、パークスに仕えた若き通訳・アーネスト・サトウ(1843〜1929)
ロンドンに優秀な少年がいた。14歳の時、冒険家ローレンス・オリファントの
「支那日本訪問見聞録」を読んで以来、東洋と日本に憧れた。
その後、さらにペリーの「日本遠征記」を読んで、日本へ行くと心に誓った。大学在学中、
通訳に応募して主席で合格。北京を経由して江戸湾に入ったのは1862年9月8日アーネスト
19歳だった。
その日の感動を日記に記した。「それはまさに日本的特徴である輝かしい日々の一日であった。
江戸湾にそって進んでいくと世界中これに勝る景色はないと思われた。」
これは波乱の青春ドラマの幕開けであった。来日6日後に生麦事件が起こる。翌年早々
イギリス公使館が長州の攘夷派により焼き討ちに遭う。さらに薩英戦争、四カ国連合艦隊
の下関砲撃と続く。
そんな渦中にありながらアーネストの猛勉強は続いた。わずか一年あまりで幕府からの書簡
を英訳するに至り、毛筆で日本文を書くほどの腕前になった。
アーネストが仕えた公使は始めはオールコック、3年目からはパークスであったが、二人とも
積極外交で知られた辣腕外交官でありアーネストにとっては緊張の糸を緩める暇は無かった。
とくにパークスは恐かった。癇癪もちであり、仕事一筋のパークスは部下には厳しい。少しの
間違いも許さなかった。「お前が間違えることは私の恥辱であるばかりではなく、大英帝国の
恥辱でもある。」ことあるごとに大声で怒鳴られた。
アーネストは通訳の枠を越えて、将軍をはじめ、幕臣、薩摩、長州、土佐の藩士達にも信頼
を得た。特に王政復古のクーデター後の勝海舟は将軍・慶喜を助命しようと毎晩のように
アーネストと密談を重ねた。
23歳の時に「ジャパンタイムズ」に発表した「英国策論」に日本の主権は将軍ではなく
天皇にあるべきだと主張した。この論は西郷隆盛はじめ、新政府軍にも影響を与え、
イギリスの対日外交路線となっていった。
若いアーネストの交渉相手は身分の高い人たちばかりである。アーネストは柔順に従った。「巽為風」の卦は人にへり下り柔順であること。「巽は小しく亨る。往くところ有るに利し。大人を見るに利し。」へり下り柔順であることは恐い相手にも幾らかは通じて話も進展する道である。尊敬出来る人物の意見には耳を傾けるべきである。
アーネストは19歳から39歳まで愛する日本に滞在した。
さらに52歳から57歳まで駐日公使として再び日本に来た。
「一外交官の見た明治維新」は英国における日本学の基礎になっている。
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