武士道を貫いたフランス士官、ジュール・ブリュネ。(1838〜1911)
日本の開国以来、外交面でも通商面でも主導権を握ったイギリスは次第に倒幕勢力に力を注ぐ
ようになって来た。幕府にとっての頼みの綱はフランスであった。
フランスにとってもイギリスに大きく水を空けられた外交を挽回するため幕府に大いに力を貸す
ことになった。遅まきながら幕府は使節団を派遣してフランスの指導のもとに製鉄所、造船所を
建設し、さらに洋式軍隊を創設しようとしたのである。
慶応3年、フランスから18名の軍事伝習使節団が来日した。いづれも選りすぐりのエリート
教官ばかりでありその副団長が29歳のジュール・ブリュネである。
ブリュネは24歳の時、メキシコ戦役における軍功に対してレジオン・ドヌール勲章を与えられ
ている相当のエリートだ。ブリュネは軍事技術だけでなく画技にも優秀な能力があった。(当時
は写真が現代ほど発達していないのでデッサンや絵を描く能力も要求された。)
しかし、幕府が軍制を立て直すには既に遅すぎたと言わざるを得ない。使節団が伝習を開始して
一年足らずの慶応4年1月、鳥羽・伏見において幕府軍は薩長軍に敗れてしまったのだ。
ロッシュ大使は本国に召還され、使節団も日本から退去するよう命令が下った。
ところが、ドラマが起こった。使節団長として権限を与えられたブリュネは本国からの命令に
従わず、奥羽列藩とともに徹底抗戦をしようと北へ向かう榎本武揚一行に加わったのである。
ブリュネはナポレオン三世に辞表を送った。「私はフランス軍仕官としての私の将来を危険に
さらしております。私は幕府軍とともに戦う決心をしました。日本人がヨーロッパ人に対して
かくも大きな信頼をよせたことはかつて無かったことでしょう。彼らの信頼に応えることは、
ひいては陛下にお仕えすることにつながると私は信じたのであります。心ならずも軍規に違反
した私をお許し下さいますように・・・・」
ブリュネは幕府軍の教え子たちの信頼を裏切りたくなかった。たとえ本国から罰せられ命を
落とすようなことがあろうと、よしとしたのである。
しかし、奥羽列藩同盟も会津が落城し崩壊した。榎本軍は函館に上陸して徹底抗戦を試みたが
明治2年5月、ついに降伏を余儀なくされた。
ブリュネはフランスに連れ戻されることになった。フランス国民はブリュネのナポレオン三世
への辞表を知り、その心情に心を打たれ裁判にかけるようなことはしなかった。
ブリュネは教官として幕臣たちを指導する中で、かつて経験のない「武士道」にふれた。ブリュネは「武士道」に感動したのだ。人生、意気に感ず。「沢山咸」の卦。咸は感と同意、同音。感激、感動である。感動しての行動は時に理論や理屈、損得を超える。命を賭けることもある。
映画「ラスト・サムライ」でトム・クルーズが演じたオールグレン大尉はブリュネがモデルと言われる。
ブリュネは軍人としては最高位の陸軍参謀総長にまでなり、明治44年74歳の生涯を閉じた。
日本の武士道に触れたことは彼の生涯を貫いた精神的バックボーンであり誇りであった。
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